発光ダイオード特許事件5(日本文化批判はどうなる?3)

中村教授に批判攻撃された日亜化学と日本文化の修復可能性に戻します。
個人的事件でも同じですが、訴訟外で相手方の悪口雑言を口外した人とは、訴訟で形式上和解しても
「二度と付き合いたくない」
というのが普通の人の行動でしょう。
4〜5年前あるいは昨年扱った労働事件も、企業側はあいつは元々グータラで・・と言いたがるのですが、弁護士としては事情聴取で得た元従業員の良い点を最大限を活かした言い方で「期待していたのに残念なことになった・・」という態度で相手に接するし、相手弁護士も「本人は会社には感謝しているが残業手当不足分だけいただけたらいいのです」・というスタンスでお互い冷静にデータチェックを進め円満和解に至る例が多いのです。
お互い当事者の不満タラタラの主張を吐き出さないのが礼儀ですし、悪口を言いたいだけ言って恨みを残しても意味のないことです。
中村教授は感情に走って(弁護士のアドバイスを振り切って?あるいは知恵をつけといて弁護士は無関係を装っているのか不明ですが)独自記者会見を開いたのでしょうか?
ところで
「ノーベル賞学者が、日本企業と研究する機会が失われてしまったのも事実だ。」
と何か日本社会が失ったものがが大きいような記事の書き方です。
彼を支持して来たメデイアの発想でノーベル賞受賞でリベンジした・・この勢いで修復を申し出ればうまくいくのではないかと言う、あくまでパワーゲーム的思考だったのでしょうか?
3名ものノーベル賞同時受賞で沸く日本に帰れば、「屈辱的和解」を飲まざる得ず米国での研究生活に没頭すると言って日本から去らざるを得なかった彼にとっては、凱旋将軍のような気分になったでしょう。
修復を求めるとは言いながら同時に研究のエネルギーは(自分を正当に評価しないことに対する)「怒り」(日亜化学と日本社会?)だと明言している点を日亜化学が重視したような解説もありました。
日本では評価されず屈辱的結果になったが、ノーベル賞受賞出来たではないかというリベンジ論で帰ってきたことになります。
しかしこの論理には飛躍があります。
同時受賞の他の2人も同じダイオードの受賞者であり赤崎氏だったかはむしろ草分け的存在ですが、彼ら二人が高額報酬を得て中村氏だけが程評価されなかったというなら日本社会は偏っていることになるのでしょうが、彼ら2人は大学に残って組織内の名誉で満足して生きているのです。
ノーベル賞を受賞したと言っても200億円もくれるわけではなく名誉が主たるご褒美である日本の対応と変わりません。
勝者の気分で日本に帰ってみると、早速中村氏は米国人であって日本人ではないというネット批判の洗礼を受けました。
誰とでも仲良くできれば仲良くしたいのは人情ですが、一定限度を超えた人とは金輪際付き合いたくない」というのも一つの見識です。
隣国とは仲良い方がいいのですが、際限ない悪態には堪忍しきれない・・対韓関係では我慢の限界・「もう近所付き合いしたくない」というのが今の国民大方の意見でしょう。
企業側・日本全体にとっては、ノーベル賞受賞者は世界にゴマンといますので誰と付き合うかを選べますので、「こういう人柄の人と共同作業するのは金輪際はごめんだ」と事実上宣言されたということでしょうか。
日亜化学との真の和解ない限り日本社会が受け入れない・他企業も近づけないということでしょうか?
大々的メデイア露出を繰り返した結果、日亜化学・ひいては日本社会を足蹴にして出て行ったイメージ?(当時の論争・どういうやりとりがあったか報道の一部しか知らないので正確には不明ですが・・)が日本社会で定着しているようです。
中村氏が、日本など相手にできないと国を飛びだし米国籍をとってしまった反日?イメージ定着してしまったものを今更払拭するのは大変でしょう。
屈辱的和解を受け入れた時に「日本司法は腐っている」(・・日本など相手にしない・・)「研究に没頭する」と見栄を切った彼がノーベル掌受賞を機に、日亜化学との修復を何故望み、門前払いされて何故「落胆」するのでしょうか?
日本という信仰集団からの離脱効果・・今になって心に沁みているということでしょうか?
この辺は日本教ともいうべき宗教心みたいなものですから、外国人には理解し難いことでしょう。
外国人でも優秀ならば日本企業は付き合うのですが・・彼に限って付き合えないというのは、日本教・集団倫理を積極的に裏切った男としてのわだかまり・・軋轢があるのでしょう。
彼が日本国籍を喪失している場合、日本国籍を再取得したいといっても、「日亜化学との関係修復していただけませんか?」と暗黙のニュアンスが伝わっているのかもしれません。
外国人の国籍取得は一定の要件をクリアーした時に大臣が許可できるだけであって法律要件クリアー=許可ではありません。
許可は政治裁量によるので、政治的な反対が多いと簡単ではありません。
韓国は感情9割みたいなところがあって、「言い過ぎる不利」に気がつかないようで、・今の韓国に対する日本人多くの感情は、ついにもう付き合いきれない・ダメだという段階になってしまったのと似ています。
韓国国民は日本の怒りの深さに焦っているようですが、(日米から離反して、北朝鮮と中国につく戦略の文政権にとってはその方が好都合でしょうが・・)詫びを入れるどころか開きなおって日本非難を拡大する一方ですので、いよいよ相手にされなくなるでしょう。
中村教授は元日本人として「さあどうする?」というところです。

発光ダイオード特許事件4(日本文化批判はどうなる?2)

日本は大人の国ですから、表向きの祝賀と日本文化・日亜の企業批判を世界で展開したことに対する恨みとは別です。
韓国のように口を極めた批判や反論をしませんが、企業の反応が日本的です。
中村氏は、報酬分配率が低すぎるという争いは、それ自体プロ法律家に委ねて淡々と合理的に主張して行けば良かったことです。
彼は自分の正当性を主張するために日本文化批判をしていたのでしょう(批判内容を知りませんのでまた聞きです)が、教育制度や日本文化批判は訴訟の勝敗に関係ないことです。
我々一般事件でも、「相手方は日頃からこんなひどい人」だと頻りに言いたがる人がいますが、(そうですかと聞いていますが)我々プロとしては事件勝敗に関係ないことが多いのでそういうことには原則として取り合い(主張し)ません。
個人攻撃やメデイア発表や政治批判と結びつけたがる人は、自分の主張や証拠に自信がないときに「大手企業従業員や国家公務員がこういうことをして良いのか!社会問題化するぞ!という一種の脅迫的効果・相手が事件になるのを嫌がって有利な交渉ができるの?を期待していることが多いものです。
原発その他政治的訴訟の場合、やたらとメデイア露出が多いのは、この一種と言えるでしょう。
訴訟で勝ってから公表するのは合理的ですが、誰でもどんな言いがかり的訴訟でも訴えていき自体自由ですから、政府やだれそれを訴えたというだけでは本来報道価値がないはずです。
まともな根拠がある訴訟かすら分からないのに、訴え提起直後のの記者会見をそのまま報道するのは、一方の主張に偏し、報道の中立性違反報道というべきでしょう。
こういう場合、訴えられた企業の多くは、「訴状を見ていないのでコメントできない」という報道が普通です・・結果的に双方意見聴取したという外形的公平を確保している装いですが、被告とされた方は言い分を全く言えない仕組みが横行しています。
訴訟では基地の場合騒音程度、原発の場合地震の影響等々詳細な科学的知見にもとずく技術論が論争テーマですから、これについていきなりマイクを向けられても相手の訴状も見ていない段階で原告の主張・論建てに具体的反論をできるわけがありません。
こういうスタイルの大々的報道が多いのは、メデイアの期待する結果を求める(場合によっては事前打ち合わせ済み?)訴訟だからでしょう。
訴状提出直後に記者会見を開いて宣伝するパターンは、勘ぐれば?原告主張自体の弱さを補強するためにメデイアを利用しようとする人や勢力が訴訟外の効力・パッシングを期待する場合が多いように思われます。
一般事件では、弁護士が人格攻撃に参加するのは恥ずかしい(結果的に道義的・品位を害する?)事だという意識が普通です。
日本文化批判大好きメデイア界が中村氏が不用意に吐露する感情に飛びつき彼を煽りに煽った結果、訴訟外の発言が国際的フィーバーになった・彼は利用されたのでしょうか。
弁護士がその記者会見に同席していないとどこかで読んだ記憶ですが、訴訟に関係ない主張に関与したくないという意見相違があったからでしょう。
16日紹介した山崎氏の記載では
「和解成立の時に「中村氏自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けだよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけている」
と言うのですから、上記発言が事実とすれば法律家でない素人としても異常です。
そもそも不満なら和解に応じなければいい・その上で判決を貰って判決内容を公開して世間の批判に晒せば良かったのに、これをしないであえて密室協議解決を受け入れてから司法制度批判するのはルール違反です。
非公開の和解で決まった以上、裁判所が勧告した背景説明・・論理を判決のように公開できません。
裁判所が弁解出来ないのをいいことに無茶な批判をしている・卑怯な争い方をする人だな!と受け取るのが常識人の受け取り方です。
弁護士の意見に従って裁判所の提示する計算式に応じたのですから、裁判所の提示した寄与率・成功率等の計算根拠等に反論できなかった・裁判所の提示を正しいと認めたからでしょう。
裁判所提案を合理的なもの・・自分らの従来主張が非合理な論理組み立てであったと認めて応諾しておきながら、こういう手前勝手な意見をメデイアで公表する人とは、まとも会話になりません。
一般的に不合理な主張や声明は報道価値がないのですから、これを大々的に公的メデイアが取り上げること自体、メデイアの見識が疑われます。
メデイアとしては、こういう非常識な主張をする人だと一般に知らしめる目的で反面教師的批判をすべく報道する場合もあります。
「韓国・中国でこういう反日批判がある」と報道するのは、中国、韓国の動きが正しいというのではなく、こういう非常識な主張をする国だと言う意味を含めて行っていることもあります。
ネットでは「A社は人民日報・新華社の日本支社だ」という批判すらありますが、中国で取材活動する限り中国批判は書けないが、その通り報道して日本国民に中国の動きを伝えるのは良いことです。
この点フリージャーナリストは、中国批判をジャンじゃんやっても、その後危険を避けるために中国へ行かないようにすれば済みますが、企業・大手メデイアは事業継続が基本ですから、明日から中国取材基地閉鎖する訳に行かない(日本にとっても現地取材基地を引き払うのは国益に反するでしょう)のでこういう報道方法になるのは合理的です。
しかし言論の自由がある国内報道ではそういう配慮不要です。
非常識意見を言う人はゴマンといますが、メデイアは個々人の非常識意見を一々報道する必要がありません。
政治家の意見ならば、馬鹿なこと言えばそれ自体を批判する公益性がありますが、個人の主観的意見はもともと公益性が低いので非常識意見は報道価値が低いものです。
にも拘わらず非常識な意見を大規模報道するのは、その編集発行者がその意見を支持しているからではないでしょうか?
発光ダイオード事件の結果は日本経済にとって重要関心事ですから報道価値がありますが、価値があるのは和解を含めた訴訟結果であって、個人コメントの価値ではありません。

発光ダイオード特許事件3(日本文化批判はどうなる?)

発光ダイオード訴訟で訴えた方は、自分一人の功績だと思い込んだわけではなく貢献度を高く見たのでしょうが、価値観的に見れば、将来名誉(現役集団参加者の水平分配だけでなく将来利益を温存し子孫段階での新たな挑戦資金にする)より現世利益という欧米型選択をしたのかもしれません。
結果的に山崎氏のいう集団成果がもっと大きいのでないかの指摘に合理性があって、1審判決から見れば雀の涙ほどの和解金で和解するしかなくなったように見えます。
発光ダイオード事件は集団と個との分配争いが争点だったように見えます。
山崎氏意見を再掲します
「中村氏が批判し罵倒してやまない日本の集団主義的研究生活よりも、アメリカの大学の個人主義的研究生活の方が、より豊かな研究成果をもたらすだろうとは、私は思わないからだ。
「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさに、中村修二氏が気付くのはそう遠い日ではあるまい。」
哲学者山崎氏とすれば文化の激突に関心があるのでしょうが、米国でも研究は一人で孤独に行うものではなく、巨大な研究組織・・チームで行なっている点は同じです。
問題は、組織内貢献度の測定方法でしょう
現代の研究開発は学者が書斎で考え抜いて鉛筆一本でできるものではなく、一定のコンセプトが決まってもそれの実験装置など巨大なコストがかかるので、米欧でも研究所と製造企業一体化した巨大組織が必須です。
研究と言えば大学が独占しているものではなく、製薬事業などでは研究開発費の負担に耐えかねて世界企業同士の合併が盛んです。
この点は16日紹介した実務家らしいhttps://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200408/jpaapatent200408_041-049.pdfの意見が妥当でしょう。
この4〜5年世界の大手自動車企業の合従連衡が進んでいるのも同じ原因です。
山崎氏の言う日本の強み?「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさ」といっても今や世界的に集団での研究開発が一般的です。
集団利用メリットとそのマイナス面を勘案するのがこれからの道でしょうから、集団であれば良いものでもありません。
日本の方が師弟関係に縛られて、縦系列に縛られた枠内研究・師の思想方向内の研究が多いのが現状です。
私の関係する法律学者もその傾向が顕著です・著名学者に関するウイキペデイア記事も「誰某に師事した」という紹介が多くを占めています・その人の基本的主張がそれでわかるからそういう紹介が主流になっているのでしょう。
医学界の白い巨塔だけではなく、ピラミッド型師弟関係に縛られている点はいろんな学界で似たり寄ったりでしょう。
昨日の日経新聞記載の履歴書には、経営学・文系でも恩師の系列を離れた共同研究の重要さを書いています。
世界中が集団・組織的成果を競うようになった現在、日本の方が集団行動の歴史経験が深いと言える程度の違い・系列集団知を超える発想を縛る傾向のマイナスの方が大きいか?・・でしょうか。
日本の過去の偉人・・日蓮等の出現は、叡山の集団知の束縛から飛び出す必要のある時に飛び出す人が多く出ていたことを現しています。
殻から飛び出すだけの、馬力や能力がないから、飛び出せない人が多いのも現実です。どちらの社会の方がいいか悪いかの単純区分け問題でないように見えますが・・。
起業しにくいから新規事業が出にくいとも言われますし、あんちょこに資金が集まるようになるとあんちょこ起業=あんちょこ倒産の多い社会になり、社会の安定を損なうでしょう。
アメリカの方が就職先を飛び出し起業するのにそれほどのエネルギーがいらない社会ということでしょうか?
集団知の必要な点はどこの社会でも同じですが、その拘束力の緩さをどうするかが時代に応じた知恵の出しどころでしょう。
山崎氏の意見は、素人の私がいうのはおこがましいですが、ちょっと言い過ぎの印象を受けます。
山崎氏の言う文化論の続きですが、もう一つの視点である日本文化訣別・企業文化批判?の後遺症がどうなるかです。
中村氏も言いすぎたように見えます。
この辺の中村氏による関係修復の動きが以下の通り出ています。
中村氏はノーベル賞受賞資金約半分を徳島大学に寄付するなど、ノーベル賞受賞による日本人全体の祝賀ムードをチャンスとして、日亜化学との復縁を目指したようです。
賞金一部を徳島学に寄付したという報道でした。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H5B_W5A200C1CR8000

中村教授が徳島大に寄付 ノーベル賞の賞金の一部
2015/2/6付

https://www.sankei.com/west/news/141126/wst1411260003-n2.html
2014.11.28 11:00

虫が良すぎる?ノーベル賞・中村氏の“復縁”申し出、“大人の対応”で拒絶した日亜化学…わだかまり示す証拠を発見
過去は忘れましょう-。ノーベル物理学賞に決まった米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授が、発明の対価をめぐり法廷闘争を繰り広げた元勤務先の日亜化学工業(徳島県)に関係修復を呼びかける一幕があった。両者の関係は歴史的な雪解けを迎えると思われたが、日亜化学側は中村氏との面談を“大人の対応”で拒否。和解から10年近く経てなお残る天才研究者と企業のしこりが浮き彫りになった。
・・・・日亜化学が発表した公式コメントは冷ややかだった。「貴重な時間を弊社へのあいさつなどに費やすことなく研究に打ち込み、物理学に大きく貢献する成果を生みだされるようにお祈りする」。
一見、やんわりと断っているように見えるが、日亜化学関係者は「社長を含め会社として中村氏と面会するつもりはない」と決意は固そうだ。
・・・今回の復縁が実現しなかったことで、ノーベル賞学者が、日本企業と研究する機会が失われてしまったのも事実だ。中村氏は11月5日、記者団の取材に対し、日亜化学が面会を拒んだことについて「非常に残念。これ以上の進展はない」と落胆した様子で語った。
関係改善への道は、これで完全に断たれた。

発光ダイオード特許事件(発明対価とは?)2

発明した時点でそれが将来どういう企業利益をもたらすかは誰にもわかっていません。事業化に成功するかどうかは経営努力や関連発明の成果によって決まるものですhttps://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200408/jpaapatent200408_041-049.pdfによれば以下の通りです。

青色発光ダイオード特許事件の一考察
最近の裁判で示されたものはいずれも発明が実施または実施許諾されたもので,この実績を拠り所にして対価の額を算出しているが,現実の企業活動の中での発明については,出願時は勿論のこと,特許の登録時においても実施されていないか,実施されていてもまだ本格的になっていないという状態にあるものがかなりの割合を占めていると考えられる。
出願時や登録時にその発明の将来の実施の状況や実績を予測することは不可能であり,関係者にとって納得でき合理的な何らかの便宜的な方法を案出して実施する必要があろう
また,前述の発明者の貢献度をどのように決定するかもなかなか困難な問題である。最近では企業内の研究開発はチームで行われることが一般的であり,また,開発成果である一つの製品についてもそこには多くの発明が含まれていることもあり,このような中でそれ (青色発光ダイオード特許事件の一考察-49-Vol.57 No.8パテント2004 ) ぞれの発明について誰が真正な発明者であるか,そして一人一人の発明者の貢献度はそれぞれどれぐらいであるかを決めなければならず,客観的に正しく決定することは困難を伴う。
さらに,その発明が実施され,具体的に製品が製造され,販売され,あるいは特許を実施許諾してライセンス収入があった場合などについては,企業内の極めて多くの部署の人の貢献によってはじめて製品の販売による利益やライセンス収入が得られるのであるが,この場合に関与した多くの組織や人の貢献度を考慮して,その特許の貢献度をどのように決定するかも現実の問題としていろいろと困難な点を含んでいる。

以上論説や批判論を見ると、研究や技術開発の実態を見事に言い当てています。
ダイヤの原石価格と宝石屋の価格は何百何千倍も違うし、農作物のようにそのまま食べられるトマトでものでも、農家の取り分は(農作物といっても種類によって当然比率が違い、豊作かどうかにもよるでしょうが、)概ね店頭価格の3割前後と言われます。
ましてタネを蒔いてから、収穫までの労力・コストもあります。
発明発見は農産品のタネに当たるもので、コメや野菜は、実れば必ず商品価値があるものですが、発明発見が将来的に有望というだけで、今すぐ商品価値があるのかわからないものです。
ソニーのトランジスタの例が有名ですが、トランジスタ自体はもっと前から発明されていたのですが、宝の持ち腐れ状態の時にソニーが商品化に成功したものです。
商品化に成功するには大量生産や流通ルートに乗るには、発展系・小型電池開発などの周辺技術開発(特許)あってこそ成り立つものです。
トランジスタの特許権者は実用化に困っていたから将来の大成功を知らず、後から考えればソニーとの格安(当時としては相場で)ライセンス契約をしたのでしょう。
ソニーが商品化成功したからといって売上利益の半分をよこせ言えないでしょう。
ただし訴訟の事実関係が16日山崎氏の引用の整理通りであったかは別問題ですが、上記「考察」にも事実関係が詳細にでていますので、関心のある方は上記に入って直接ご覧ください。
和解で終わっているので結論(和解条項)しか公表されませんが、そこに至る前提事実の積み上げ・事実の決着は法的には灰色のままです。
1審判決で認容された200億支払いが高裁で8億(元金6億の提示らしいです)に減った和解に応じたという事実から憶測するしかない状態です。
和解内容では、中村氏の訴え対象は、関連特許全部の請求をしないで1件だけの請求だったらしいのですが、和解では未請求分全部の特許を含めて合計元金6億に絞られているようです。
以上によれば元々の請求分だけなら6億よりももっと少なかったことが明らかです。
もしかして数億程度?とすれば、人生かけて日本の企業文化を世界中で批判してメデイアを騒がしたのは何だったのか?という印象です。
昨日紹介した山崎氏の表現では中村氏は「屈辱的和解」に応じざるを得なかったので、悪態の一つでもつきたいところでしょうが、日本社会でそれを言ったらおしまいです。
これを言ってしまったのが、彼のガードの弱いところでしょうか?
16日紹介した産経記事では「中村氏自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけている」と言うのです。
ここまで言えば「後がない」でしょう。
にも拘わらずノーベル賞受賞で、調子付いたのか、日亜化学に大して関係修復提案してあっ去り、拒否されてしまったことをこのあとで紹介します。
鎌倉時代の運慶展など見に行ってもそうですが、安土桃山の狩野派の絵も等伯の絵も集団製作に頼っていたもので、創作度の高い芸術でさえ工房の集団制作でなし得るものです。
歴史上の有名人だけでなく、現代活躍中の日本画家加山又造のアトリエというか工房のテレビ放映を数十年ほど前に見たことがありますが、多くの人が働いていて一種の工場のような感じでした。
絵を書いても全部が高い評価を得られるわけではなくボツになる作品もあるでしょう。現在の世界に影響を与えている主流的芸術?となっているアニメ制作も同様の集団成果でしょう。
いわゆる虫プロに始まりスタジオジブリ、今回大被害を受けた京アニ、全て集団で行なっています。
京アニメ被害事件の報道を見ると、見るからに現在の製造工場的イメージの建物です。
有名集団でも制作すれば全部が全部世界にヒットするわけではありません。企業の研究開発も成功例より失敗例の方が多いのが普通で、それらの損失コストも負担しなければなりません。
最近では認知症新薬開発についてかなり進んでいた実験を取りやめたとの報道がありました。
https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=67819

公開日時 2019/07/22 03:50
バルティス アルツハイマー型認知症治療薬として開発中のBACE1阻害薬 フェーズ2/3中止

以下は17年9月5日の週刊現代の記事です。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52749

世界中の製薬会社が次々と撤退「認知症の薬」はやっぱり作れないのか
25年間、数千億円かけても全部失敗
イーライリリーはこれまで25年以上、認知症の研究を行ってきました。投資してきた額は、30億ドル(現在のレートで約3300億円)にも及びます」

成功する前にいくつも失敗した教訓も役に立つ・・コストも負担してこそ企業・組織が成り立つものです。
成功した場合の売り上げは社長・代表者ひとりの収入ではなく、時間軸で言えば現役だけで分配すべきではありません。
過去の研究者の積み上げた功績もあり、将来失敗にめげずに挑戦すべき将来研究資金確保を含めて工房・開発参加者皆の功労に応じて分配すべきものです。

チャタレー事件最高裁判決(実態重視2)

チャタレー事件について昨日ウイキペデイアで紹介しましたが、公共の福祉論等の抽象的論争の意義を書いているばかりで、社会意識の具体的認定による画期的意義を紹介していません。
私の記憶違いか?
最高裁のデータに入ってみました。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

昭和28(あ)1713事件名 猥褻文書販売
裁判年月日昭和32年3月13日 法廷名最高裁判所大法廷判決
裁判要旨
一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」とは、その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。
二 文書が「猥褻文書」に当るかどうかの判断は、当該文書についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。
三 文書が、「猥褻文書」に当るかどうかは、一般社会において行われている良識、すなわち、社会通念に従つて判断すべきものである。
四 社会通念は、個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。
五 Aの翻訳にかかる、昭和二五年四月二日株式会社小山書店発行の「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻(ロレンス選集1・2)は、刑法第一七五条にいわゆる猥褻文書に当る。六 芸術的作品であつても猥褻性を有する場合がある。
七 猥褻性の存否は、当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、作者の主観的意図によつて影響されるものではない。

上記判旨によれば第三項に私の理解していた通り、社会通念による旨が書かれています。
社会通念によるとなれば、これが日々変化して行くことが自明ですから、画一的原理論や観念論によるのではなく社会実態の具体的認定が必須になります。
ウイキペデイアではこの重要な判旨をなぜ紹介しないか?
インテリ集団は観念論抽象的理解が好きで社会常識など無視したい・「自分が社会意識より進んでいるという自負こそが生き甲斐」ですからこういう判旨は不都合なので無視して判例の紹介自体が歪んでしまうのでしょうか。
今風に言えばフェイクニュースです。
判旨部分の原文をさらに見ておきましょう。

・・・一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。
また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、・・・

とあって意識変化を具体的に説明しながらも、チャタレー夫人の恋人の翻訳の描写がどぎつすぎるという評価に至っていることが説明されています。
裁判所が現時点でわいせつかどうかを決める権限があるというウイキペデイアの整理も正しいかもしれませんが、わいせつかどうかは当時のその社会通念による点では、今回の非嫡出子差別許容性判断と同じ枠組みであったということです。
昨日今日と非嫡出子差別違憲決定とチャタレー事件判決を見てきた通り、 日本の裁判所は古くから、韓国のように今の人権意識で戦前の行為を裁くという無茶をしていません。
日本の融通無碍げとは実態に即した、正義を探るというものでしょうか?
私流の理解・・原理主義とは実態無視の教条論であるとすれば、融通無碍とは江戸時代の大岡裁きと相通じるものがありそうです。
大岡裁き的な処理の重要性については、こののちに離婚自由に関する学者と裁判官との対談記事に出てきます。
一部先行引用しておきます。
http://www.law.tohoku.ac.jp/~parenoir/taidan.html#section3

・・・・水野・・・穂積重遠は、離婚が杓子定規に許されたり許されなかったりするのはいけない、離婚が各場合に適当に許されまたは許されないことがいい、と説明しています。この説明は、大岡裁きを思わせます。

発言者の水野氏はウイキペデイアによると以下の通りです。

水野 紀子(みずの のりこ、1955年 – )は、日本の法学者。東北大学大学院法学研究科教授。専門は民法、家族法[1]。
家族法分野でも名高い大家、加藤一郎に師事。2011年、旧帝国大学としては初めての女性学部長に就任した。

大岡裁きが実際あったかどうか創作であろうとも日本人がそれを喜ぶのは、国民の法意識(やおよろずの神々信仰)を表していると見るべきでしょう。
穂積重遠や穂積陳重の名は教科書でしか知りませんでしたが、名の残る人はそれなりに深い思索をしていたものだと改めて感服します。

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