郡司5(事件屋2)

これまで書いているように、中国の歴史では秦の始皇帝の創始した郡縣制は中央集権・・中央からの官僚派遣制度の顕現ですし、漢以降直轄地以外に王族や功臣を封じた國は半独立行政組織あるいは朝貢国ですから、大和朝廷成立時におけるそれぞれの地域実情に合わせて國の造と縣(あがた)ヌシの漢字を割り振ったのは中国・漢字の歴史から見てある程度正しかったことになります。
律令制以降の国司は国主と違い中央派遣官であることは中国の官吏と同じですが、国司の方は地方豪族・・いくつかの集合(いくつかの郡)の上に中央からの一種の監督機関として派遣する国家使節みたいな役割に過ぎず絶大な権力を握る訳ではありません。
近代の植民地時代には、異民族統治をするのに現地政府を容認した上で、本国派遣の総督制度が行われていましたが、それと同じ発想です。
5月16日に書きましたが、国司と言っても一人のことではなく、正使と言うか筆頭の国司・・受領階級・・の外に副使に該当する掾(じょう)、目(さかん)などの同じ階級(同階級中の先輩後輩程度)に属するグループで構成されていました。
このうち掾は文字どおり副官でしょうし、目は言うまでもなく目付の役割です。
江戸時代の朝鮮通信使が一定規模の高級貴族で三使構成されて来たのと同じです。
税の徴収機能を与えても、実際の税(租庸調)の徴収実務は従来からの勢力者・前回まで書いた郡司の性質変更の前期後期を通じて郡司さんに頼っていたし、警察権は、別途押領使(主として地元豪族がなりました)と言う令外の官が出来てそちらに移りますので、国司の権力が地域に根付かずに次第に遥任の官となり、その内形骸化して行きます。
この傾向は漢の王族が僻地の国王として封じられても、次第に任地に赴任せずにその上がりだけで都で生活するようになり、一種の年金制度化して行ったのと同じです。
朝廷の方は国府創設後、国分寺制度の創設(国立大学制度が逆に地元有力者の能力を高めます)徴税権の強化など独自の仕事を増やして地方在地豪族の骨抜きに励み努力しますが、権限強化が進むと却って実務官僚・地元中堅層の力に頼ることになり、結果的に郡司・地方実力者の役割強化に繋がって行く皮肉な関係でした。
後期の郡司は国府内実力者・役人として私荘園側と渡り合ったりするかと思えば、地元利益・私荘園側の代表として国側と交渉するなど複雑な役割になって行きます。
この複雑な役割は、鎌倉時代には守護地頭制度が出来て、(この制度が出来たこと自体、武士の領地と公私荘園側との権利関係のもめ事が多かったことをあらわしています)幕府と朝廷側(貴族を含めた)領地の権利でつばぜり合いが多くなったのですが、郡司の多くが鎌倉の御家人になっていながら、同時に国府の郡司を兼ねるものが多くなっていた面でも引き継がれて行きます。
今で言えば変な事件屋みたいな存在で、双方の実務を握っていることから、彼らを通さないとうまく解決出来ないような仕組みになっていたのでしょう。
漢のように直轄領地の一部を分割して封土した場合、そこに在地領主がいませんので、赴任すればそのまま直ぐに国王として君臨出来ます。
我が国・大和朝廷の国司は、一種の朝貢国・服属した諸豪族を一定地域ごとにとりまとめて一定地域ごとで管理者を置くための現地赴任であって、他人・在地領主が支配している土地であることから、国王としての赴任ではなく国司・・國の司(つかさ)としての赴任に過ぎませんでした。
国の制度を採用したとは言え、国王がいない・・各地に何人かの在地領主=郡司その他がいるものの、これを束ねる地元に根を生やしている領主権に基づく国主・国王はいないし、国司の中央派遣制度は県知事任命と同じ発想です。
ただ中国は民族草創の始めっから中央集権体制ですから、県知事はその地域で皇帝の代理人として絶大な権力を持ち得ますが、我が国の場合古代民族草創期から各地の連合体が基本ですので、中央で任命した管理者を派遣しても中国の知事のような絶大な権限を発揮し得ません。
管理ではなく「監理」が漸くと言うところでしょう。
中国がいくつかの郡をまとめた州単位で監察のためにおいた刺使→牧の真似をして数カ国をまとめて不正監視する安察使制度を設けますが、そもそも不正をする大きな権限が国司にはないのですから、機能しなかったのは当然です。
誤って理解して関連会社へ出向した天下り社長が、権限を振るおうとすると現地で軋轢を起こすのは今でも同じです。
有力豪族連合体であった草創期の大和朝廷では、有力豪族(中央では下級中級貴族)を地方小豪族をとりまとめる監理者として各地へ転出させることによって、遠隔支配地の一体化・融合をはかろうとしたのではないでしょうか。

郡司4(事件屋1?)

荘園経営・不輸不入の権などを獲得して行く先がけ・主役になったのは朝廷経営の主役・実力者である藤原氏や院政期の院でした。
朝廷の権力強化をはからねばならない筈の摂関家や院政期の院(上皇)が荘園を禁圧する方向に動かずに積極的に自分の荘園を広げて行ったのは不思議な感じです。
荘園の不輸不入の権と国司の徴税権とは相容れない関係ですから、国司が地方勢力と徴税の実効性を巡って現地で熾烈に争っていたのですが、地元有力者がこれを有利に運ぶには中央の最高権力者に名義貸しするのが最も手っ取り早かったでしょう。
こうして初期には、中央の豪族や有力寺社がその受け皿となって全国に荘園を持つようになり、その最大勢力が藤原一門でしたが、藤原氏の外戚の桎梏から逃れて摂関家に対抗するようになった院政期の・・上皇側でも、対抗するための経済力の裏付けとしてせっせと荘園経営に乗り出していたのです。
ちなみに院の荘園として知られる八条院領についてみると、この荘園は美福門院から始まって順徳帝を経て大覚寺系統・・後醍醐天皇に引き継がれてその経済基盤になっていたことが分ります。
ついでに、平家打倒挙兵の令旨で知られる以仁王はこの院の猶子になっているし、令旨に応じて挙兵した源三位頼政はこの院付きの武士でもあったのです。
後醍醐天皇側について鎌倉幕府に反旗を翻した足利氏は、この八条院の荘園・・足利の莊の在地領主だった関係になります。
鎌倉幕府成立=貴族の荘園がなくなったかのように誤解しがちですが、鎌倉幕府崩壊の時点でもこんな状態ですから、中央の政権の中枢が鎌倉に移ったと言うだけで、荘園経営権は徐々に足下から武家に移って行きつつあったに過ぎないことが分ります。
話を戻しますと朝廷中枢による荘園獲得によって、朝廷管理地・・班田収受法は殆ど空洞化してしまっていたのです。
他方で荘園領主の管理や警備を任されていた武士層が依頼者・荘園領主に収益を納めない・・この関係の紛争が多発していたのですが、この段階では地元有力者・武士層が貴族に納めないのは道義的に外見上問題があったように見えます。
しかし実質を見れば、地元有力者としては名義を有力貴族に借りただけですから、その名義借料だけ納めれば良いと言うことで、その比率がいつももめ事の種になります。
このせめぎ合いが熾烈だったのが鎌倉時代だったと言えるでしょうが、ここで両者の間に入って活躍するのが元の郡司層でした。
古代郡司は元は国造でしたが、これが10世紀頃には没落して行き、この後で在庁官人として勃興した後期郡司は本来国司の役人でしたが、鎌倉の御家人を兼ねて両者の間に入って解決に奔走していたようです。
このせめぎ合いは徐々に武士側の方に形勢が傾いて行きますが、この一発逆転を狙ったのが建武の中興でした。
制度的には鎌倉幕府が獲得した守護地頭制と国司の権限の張り合いでした。
政権が朝廷に戻ると武士側に不利な裁定が続き(これが目的ですから当然の結果です)、朝廷に味方した武士層の不満がたまって行きます。
武士の力・多くを味方に付けた方が勝つ時代に入った以上は、幕府との戦いに勝ったからと言って貴族側と武士側の荘園経営権争いに公家の見方・・有利な裁定をしていたのでは、せっかく天皇側についた武士が離反するのは当然です。
承久の乱で「天皇親政に戻ると武士はひどい目に遭う」と言う北条政子の演説が有名ですが、正しい歴史観だったのです。
武士層の不満をうまく吸収した足利氏が天下の権を握って行くので、それ以降は貴族層の領地経営は殆ど無理になって行き、戦国時代に突入して行きます。
戦国大名の時代になって行くと貴族層は道義に訴えてもどうにもなりませんから、戦国大名領内の朝廷の公田や貴族の荘園などは収益の徴収不能・・事実上消滅していた・・紛争など起きようもなくなってしまった筈です。
こんなことの繰り返しで朝廷管理の公田や貴族層の荘園領主制は完全になくなってしまい、朝廷・・天皇家自体が徳川家から収入保障を受けないと生きて行けない逆転した関係になってしまいました。
武士は形式から見れば朝廷や貴族の荘園警備から本来始まった管理者だったのに、その管理者から今月はいくら送ってやると言われて、その仕送りで細々と生きているようなもの・・乗っ取ってしまったようなものです。
独り者の被介護者が、介護に働きに来ている人から今日はお仕置きとして、これしかして上げないからといじめを受けるようになったのと似ています。
(どちらが雇い主か分らなくなる状態です)
とは言え、実質から見れば、地元豪族が中央豪族に名義借りをしていたに過ぎないとすれば、中央貴族の没落で名義を借りる必要がなくなったとすれば、何時までも名義借り料を払う気持ちがなくなって行くのは当然です。
鎌倉幕府が出来ても、この頃はまだ武士と貴族系の荘園、朝廷の公田からの上がりの取り合いが熾烈な時代でした。
制度的には発展して行く守護地頭と国司の権限争いが続くのです。
大和朝廷は成立当初から、中央集権化をはかるために各地に残した地方豪族を何とか消滅させようとして来たのですが、叩いても叩いても下から這い上がってくる在地実力者を根絶出来ず、結果的に中央の権力が空洞化してしまった歴史だったことになります。
この生い立ち故に、明治政府(大和朝廷)は郡司に代表される在地勢力に蚕食される一方だった公地公民の版籍奉還を受けた際に、2000年来の宿敵殲滅の機会とばかりに郡制度を盲腸みたいな存在にして行き、平成の大合併推進で大方姿を消すことになっていったと深読み出来ます。
千葉県内では市原郡や君津郡が昭和の大合併で1つの市になってしまったと Apr 26, 2011で書きましたが、今では八千代郡内、千葉郡内、葛飾郡内にも町村が1つも残っていませんので、もはや郡制度は首の皮1枚足らずと言うところです。

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