朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)2

吉宗に外様大名の支持がなぜ集まったかについては(私の想像でしかないですが)専制支配強化の害・20日書いた通り異論が許されない窮屈な社会進行に対する国民不満を代弁する声が立場上外様大名中心に広がっていた面があるでしょう。
徳川家内部問題に過ぎない宗家相続に関する彼らの正式発言権は皆無ですから、幕閣・徳川政権内でもこれまでのエリート政治にネをあげる声が内々に広がっていたのを受けた勢力がこれに呼応したと見るべきでしょう。
20日に紹介した寛政の改革・定信の規制やりすぎに対する不満が落首で批判されたので歴史に残っているのですが、白石に対する不満も当時から起きていたが、小気味よく批判する文化が育っていなかったから不満が表面化しなかったように思われます。
もしかしたら、貨幣改鋳によって流通貨幣量減→急激なデフレになって現場を知る諸大名が困ってしまった現実もあったでしょう。
新井白石の正徳の治に関するウイキペデイアです。

正徳金銀の発行
荻原重秀は元禄期、今までの高純度の慶長金銀を回収し金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(貨幣改鋳による差益)を生じ、一時的に幕府財政を潤したが、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しく不釣合いになりインフレーションが発生していた。
・・・・白石は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。有名な正徳金銀は新井の建言で発行されたもので、これによってデフレーションが発生した[2]。
元禄金銀・宝永金銀(あわせて金2545万両、銀146万貫)と比較すると、正徳の治の間に行われた改鋳量は正徳小判・一分金合わせて約21万両である[2]。社会全体のGDPが上昇する中で、通貨供給量を減少させたことは、デフレを引き起こした[2]。

綱吉時代には、幕府の資金源であった金銀の産出量が減っていた上に宝永の噴火など天災もあって幕府財政は危機に陥った状態でした。
コメに頼り不足分を金銀産出に頼る幕府の経済構造に無理が出たのですから、企業が売れ筋商品に翳りが出れば次の売れ筋商品開発にとりかかるように、幕府財政難対策としては収益源多様化努力すべきだったと思われます。
紀元前発祥の儒学では、こういう経済学的視点がないので朱子学エリートがこの後で主導する寛政の改革や天保の改革は、すべて質素倹約や思想統制政策中心で需要喚起どころか抑制策であったでした。
こうした改革をする都度、商人等新興層の不満を強め幕藩体制の足元を掘り崩すことになっていった時代錯誤性を書いていきます。
金山銀山等を幕府に抑えられている上に、貨幣経済が早く発達した西国大名の場合、コメに頼る産業構造に早くから無理が出ていたので・忠臣蔵で知られる赤穂藩の塩のように特産品にシフトするなどの努力してそれぞれ一応の成功をしてしていました。
幕府も収入源多様化で金銀に代わる収益源を工夫すべきだったのですが、これをせずに・・幕府直轄領はもとより、領地替えの多い譜代大名も戦国大名と違い地元とつながっていないので、地域経済を守る気概が低い上に、いつ領地替えがあるか不明では長期間かけた特産品開発は無理だったのでしょう。
旗本領や譜代大名しかいない千葉県の場合、約300年間なんらの特産品も生まれていません。
せいぜい幕府権力に頼る印旛沼や椿の海の干拓事業など、旧来型コメ生産拡大策程度でした。
ただし、千葉の場合領主による政策というよりは、江戸下町の洪水防止政策のおかげで利根側の付替によって利根川本流の海への出口が銚子になったために銚子河港が東北地域物産の江戸への物資流入口となったため、銚子〜野田方面にかけて大消費地江戸への流通路として銚子のヒゲタ醤油や、野田の現在の)亀甲マン等の醤油生産基地として商品経済の流れにうまく適応できました。
伊能忠敬(地図作製の巨費をほとんど彼が私費負担しました)が佐原から出たのは、この流域経済の発展によるところが大きかったでしょう。
現在でいえば、過密な東京に新空港を作れないので空き地の多い成田に新空港が立地したおかげで、千葉県に巨大スポットができた幸運(千葉県が誘致運動に成功したのではなく逆に激しい反対運動していたのです)と同じです。
ついでに書いておききますと、銚子はもともと飯沼観音の門前町だったらしいのですが、利根川の付け替えによって、東北〜江戸への海運物流の入り口になったことによって、産業集積によって生産基地(漁港化その他)に変身成功していたように成田も不動様の門前町でしかなかったのですが、日本の高度成長に合わせて第二空港が必要になったものの過密都市東京には用地がないためにいきなり成田市郊外に空港ができたことによって、今や空港の町として知られるようになっているのは歴史の不思議さです。
白石に戻しますと、1707年の宝永の噴火等(災害救援資金)ですっかり参ってしまった江戸の活気を取り戻すために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
白石に戻しますと、綱吉の浪費による経済破綻回避のために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
貨幣が足りなくなるなんて歴史上未経験のことで、マネタリーベースがどうのという経済学もない(私が知らないだけで当時も貨幣論などの研究者もいたのでしょうが・・)時代に、萩原は独自の工夫力(「独学で考えた」とどこかで読んだ記憶です)でいにしえからの教え(貨幣水増しを禁じる倫理)に逆らい個人の責任(多分考え抜いて)で貨幣大量発行に踏み切ったのはよくやったというべきでしょう。
荻原重秀に関するウイキペデイアです。

貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という国定信用貨幣論を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨へと移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

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