労働分配率低下論2(省力化投資と人材レベル強化策)

企業は売れ行き不振対策として値下げ競争に突入すると、将来性がないので新製品工夫しか生き残りできないのと同様に人手不足だからと(省エネ努力しないで)単なる給与引き上げ競争に入るのでは先行きの展望がありません。
これは個別企業だけの問題ではなく、国単位の国際競争での生き残りの成否でも同じです。
人手不足対策として企業が省力化に躍起になっているのは合理的ですから、外国人労働者導入を極小にするために機械化が進む・人件費率が下がるのは当然です。
オートメ化どころかAI化が進むと人間の仕事がなくなるという意見もありますが、今のところ、日本社会は、失業の増大で困っている社会ではなく、人手不足で困っている社会です。
将来に備えるために人手不足の今こそ、このチャンスを生かして省力化投資→高度設備操作に対応・適応できる人材育成に力を入れるべきです。
身近なコンビニ店員で見ていても、商品配置場所案内等の従来型能力にとどまらず、ATM操作から劇場.航空券購入その他店員の対応能力の多様性・進化には驚くばかりです。
多様な処理能力が発揮される前提として、レジその他の処理が簡便化してかかりっきりにならなくて済む合理化・.これが失業になるのではなく、コンビニのマルチ化・サービス提供余裕を与えている・実態があります。
お陰で消費者はあんちょこに高度な利便性を享受できているのです。
省力化と人材レベルアップが一体化してこそ高度なサービス社会を維持できることが分かります。
AI化が進むと、知的レベルの高い人でも職を失うかのような意見がメデイアでは一般的で不安を煽っていますが誤導です。
最低作業とされていた現場系・土木工事現場でも(下水道やガス工事を通りがかりにのぞいてみると)パソコン画面を見ながらの工事が増えているし、コンビニ店員の例を書きましたがヨドバシカメラでも同じで高度な商品知識や、高度知的レベルがないと働けない時代がすでに来ているので人材の底上げ、高度化投資が社会にとって重要です。
この点では、国民の底上げ・従来型義務教育だけではまともに働けないのが常識ですから、高校授業料無償化などの政策は時宜にかなった方向性でしょう。
弁護士業務も従来型作業の多くの部分がAIにとって代わられるとしても、その代わりにさらにマルチ的な別の能力が要請される時代が来るはずです。
その代わり昨日書いたように高度作業に適応できる個々人の所得が上がっていくのが理想的です。
20代に名門大学を出て一流企業に大卒時に就職できたとか、ある資格を若い頃に得ているというだけで終生安閑とできる時代ではなく、働き方のレベルアップが日々要請される社会になるのは、技術革新のサイクルが早くなり日進月歩である以上・・我々の世界でも法令改廃がひっきりなしです・・仕方がないでしょう。
これからは、いろんな資格は運転免許証のように一定期間経過で再テストが必要な時代が来るべきかも知れません。
もちろん企業人も例えば10年ごとに再スクリーニングが必須の時代が来るべきです。
01/19/10終身雇用と固定化4(学歴主義3)」等の連載で定年延長ではなく、およそ10年程度に短縮すべきだと書いたことがあります。
人手不足で業容縮小するしかないほど困っている社会なのに、労働分配率にこだわり省力化投資を目の敵にする?マスメデイアのイメージ論調は、どのような社会を理想としているのでしょうか?
「人手不足対策の工夫するな!ただ困っていろ!」というのでは、日本社会が困ってしまいます。
いろんな企業で人手不足のために、業態縮小(閉店時間切り上げや配達時間限定•回数減など)を余儀なくされている企業の状態が日々報道されています。
たとえば以下の通りです。https://jp.reuters.com/article/japan-labor-shortage-idJPKBN19E0JA
2017年6月23日 / 15:44 / 6ヶ月前
焦点:広がる人手不足が企業活動圧迫、潜在成長率ゼロ試算も
東京 23日 ロイター] – 人手不足で生産やサービスを制限するケースが運輸業だけでなく、製造業も含めて広がりを見せてきた。このまま労働力不足が継続すれば、2030年には日本の潜在成長率はゼロ%ないしマイナスに落ち込むとの試算もある。

上記記事ではゼロ〜マイナス成長予測を書いています。
今の好景気循環は、国際競争に勝っていて競争力が高待っている状態で注文に追いつかない・.増産できない状態がそのまま続くと想定していますが、人不足→賃上げ競争による労働者奪い合いだけで終始していると、国全体で見れば増産対応ができません。
しかも、この方式に委ねると賃上げ→製造その他のコストが高くなりすぎて結果的に競争力低下・・注文が多くて納品待ちが続くのではなく、そのうち競合国に負けて注文がへっていく動的な面を軽視しています。
ゼロどころかマイナス成長になってしまうのが原則でしょう。
多分メデイアの論旨は、だhしめえtふぁら外国人労働者を早く大量に入れろということでしょうが、人件費競争をしている限り国民一人あたり所得が上がりません。
しかもて賃金労働として引き入れるとその家族・次世代の底上げ教育が必要で却って
トータルコストが上がります。
最近少年院で外国人少年比率が上がっていると言われています。
だいぶ前から書いていますが、子供の日本語能力が低いので、子供社会に馴染めないし社会人になり損ねているし家に帰っても親は殆んど日本語が話せない(親子の意思疎通もままならない)という状態で、どうして良いか分からないママ少年院を出て行く状態が言われています。
弁護士会としては今後福祉と連携していかないとどうしょうもない状態という議論が起きています。
学校現場ではだいぶ前から、日本語の殆んど分からない子供に対する教育の仕方について問題になっていますが、外国人の安易な(数万円人件費が安いからということで)雇用は社会に対して大変な負荷をもたらす危険をメデイアは何故か報道しません。
サービスを含めた商品供給が従来比2〜3割増えても人員を同率増やすのではなく、数%増で間に合うようなシステム構築などの成否が生き残りの明暗を分けます。
こうした工夫→システム刷新実行には数年単位の時間がかかるのでその間人材不足になるのでしょう。
この場合従来100人の仕事が120人必要になっても従来どおりの100人で賄えるようになると各人の給与を何割か上げる余地が企業に生じます。
従来基準で120人分の仕事が100人でこなせるのは省力化投資の結果でから支払わずに済んだ20人分の人件費のうち省力化投資の方に多くが吸収されますが、少しは賃上げ要因になるでしょう。
それでも、売り上げ増2割に対する労働分配率が下がることになります。
省力化投資にある程度比例して国全体で言えば総人件費・.労働分配率が減って行きますが、個々の労働者の所得水準が上がり国民は幸福です。
その代わりに20人失業するのでは困りますが、好景気下で拡大基調の現在、例えば好調な物流系で100人雇用が必要な時に省力化投資で80人で済むというだけで、解雇する訳ではありません。
雇用の奪い合いが緩和されるだけのことで、今では他産業でいくらでも募集があるので、その心配がありません。
人手不足の今こそ、このように省力化投資に邁進・誘導し構造転換させていくチャンスではないでしょうか?
スーパーレジが自動化されるとレジ要員が大幅減ですが、その空いた要員を別の部署の作業に振り向けられるようになるほか、新規採用が減った分は人手不足の他の業界の応募者になっていくでしょう。
こうした循環の結果、社会全体で人手不足解消される点が、企業の省力化投資の損益分岐点・均衡点になるでしょうから失業者が溢れる心配は論理的にはありません。
上記のためには人材市場が合理化(流動化に耐えるように)されていることが重要です。

低レベル化?とメディアの信用低下

今回NHKの「クローズアップ現代」の見出しと内容の食い違いを書いていて気がつくことは、報道関係者には基本的に反政府主義者が多いのは仕方がないとしても、報道全てに言得ることですが、政治的な主張するには特に反対論者がいることからより一層綿密な裏づけ調査が必要のにこれを怠っている・人材劣化が起きているからではないかと思われます。
昨日最後に書いたように文化欄に逃げているのは、ツッコミが浅すぎても読者が減るだけですが、政治利害のある場合には読者が減る程度では収まらず、利害関係者の強烈不満を呼び起こすリスクがあるからです。
サンゴ礁のやらせ報道では、地元漁協に利害があったことから判明したものです。
その後ネットの発達によって、政治テーマでもメデイア以外のものも反論できるようになってきたので、フェイクニュースが大きな問題になってきました。
あるいは読者や視聴者レベルが上がってムードだけ煽る・根拠のない意見には飽き足らない人が増えてきたのに、メデイア側が社会のレベルアップに追いついて行けなくなっている状態かもしれません。
これがトランプ氏によって、アメリカでもフェイクニュースの批判を受けるようになった原因です。
フェイクニュースは、積極的フェイクもあれば、調査不足もあるでしょうが、もともと報道各社の色付立場が重視され事実調査を軽視する傾向があれば、結果的に調査能力も上がりませんから根は同じです。
色付け角度付け報道が改まらない弊害というか、報道には一定の角度からの関心に基づく掘り起こしが必要なのでそれはそれでいいのですが、関心に基づく事実調査の合理性欠如が問題です。
慰安婦騒動に関して事実調査不足が問題になりましたが、「破産急増」テーマは事実無根でも慰安婦ほどの大事件性がありませんし、誰も問題視せず(私は信用拡大のコラムを書いている途中で最近の破産がどうなっているかが気になったので、たまたまネット検索したら出てきた中でNHKが1番客観的報道しているかと思って覗いて見て驚いただけです)に垂れ流して終わっている印象ですが、事実調査を怠って報道している点では同じ危険性があります。
朝日新聞の慰安婦報道に関する第三者委員会の報告書を、January 9, 2015「第三者委員会の役割2(朝日新聞慰安婦報道1)」のテーマでこのコラムで引用紹介したことがありますので結論部分の一部再引用します。
「・・しかし、韓国事情に精通した記者を中心にそのような証言事実はあり得るとの先入観がまず存在し、その先入観が裏付け調査を怠ったことに影響を与えたとすれば、 テーマの重要性に鑑みると、問題である。
そして、吉田証言に関する記事は、事件事故報道ほどの速報性は要求されないこと、裏付け調査がないまま相応の紙面を割いた記事が繰り返し紙面に掲載され、執筆者も複数にわたることを考え合わせると、後年の記事になればなるほど裏付け調 査を怠ったことを指摘せざるを得ない。」
まして、14日に紹介した日弁連意見書を見ると単に「カードローンについても総量規制の対象にすべきだ」という趣旨だけのことであって破産の増加については傍論的にデータを紹介しているだけで破産増自体に懸念を示すには、時期尚早としたのか?意見を書いていません。
しかもネットで簡単検索した限りでは日経も朝日新聞や東京新聞でも「破産増」だけの表示で「急増」とは書いていない(朝日はローン急増が原因か?と書いていますが破産急増とは書いていません)のに、NHKだけが何故「破産急増」と・・刺激的テーマにしてしかも「クローズアップ」して取り上げるほど社会性があると判断したのかが疑問です。
4月12日の「クローズアップ現代」の内容を読んで見るとカードローンが増えていることが話題の中心で、どこにも破産急増の話題が見当たりません。
羊頭狗肉というか、見出しと内容があってないのです。
破産急増とは時間軸でいうものですが、1%増の基準が1年間の統計結果による以上は長期間観察の結果なのですから、1〜2週間程度かけて関連データを調査して比較判断・深堀する時間をかけられないような緊急速報性がないことも確かです。
報道時間中の進行でNHKの期待に沿う意見が出たかは別としても、(文字化したネット報道には出ていません)まだ前年より1%増えたデータしかないことが明らかですから、これだけでなぜ「「急増」というテーマにしたのかの不思議さが残ります。
日常用語としても、1%程度の増減があったくらいで「急増」「急減」という言葉を使う人は滅多にいないのではないでしょうか?
日中気温がわずか1時間で25度から26度(約4%の変化)に変わっても急上昇と言わないでしょう。
しかも、「若者もシニアも」と見出しになっていますが、内容には年齢別の変化についてどのような調査をしたかの出典の明示もなければ、何%から何%に増えたかも書いていません。
司法統計年表に年齢別の増減推移まで出ていると言う意味かも知れません。
そこで司法統計年表16年のPDFで「破産新受事件数―受理区分別―全地方裁判所
第 102 表」に入って見ましたら、年間の合計数しか出ておらず、内訳としては自然人と法人の2分類しかありません。
NHKはどこから若者やシニアの年齢別統計を入手したのか不明です。
以上によると、派手な見出しと内容がまるで違う上に・・内容のない、いい加減な報道をしているように見えますが、これでは視聴者が離れていかないのか不思議です。
私はテレビを見ていないのでNHKの総合レベルが分からないですが、NHKは報道内容を全てネットにアップしていないはずですから、ネットアップする分は精選されているとすれば、「クローズアップ現代」のレベルがNHKの報道レベルの上位を代表していると言うべきでしょう。
慰安婦騒動以来、親中韓系報道をしてきたフジテレビや朝日新聞の売り上げ減少が知られていますが、これを受けて経営者は必死になって体質改善に取り組んでいると思われますが、NHKには民間と違って市場淘汰の仕組みがないので、番組が劣化していく一方になっているのかも知れません。
私に言わせれば、「朝日新聞やNHKの政治的立場が受け入れられなくなったのは残念」という自己正当化ばかりではなく、政治理念先行で事実無視の捏造的報道しか経験がないから、こんなことになっているのではないでしょうか?
見出しテーマと内容がまるで違っていても気にしない人材レベルの低さ・いろんな角度に知恵をめぐらせての多角的事実調査能力欠如こそが、基本的原因ではないかということです。
「若者もシニアも破産急増」というテーマを決める時に、相応の幹部が関与したはずですが、どういうデータ調査が必要かの思いをめぐらせる能力もない人ばかりで運営しているのでしょうか?
もしかしたら虚偽でもでっち上げでもムードを作り上げれば勝負あり・という成功経験しかない年齢層・事実調査経験のない幹部の方が、事実調査の必要性を具申する若手をドヤして「事実調査などいらない政治色付け先行でやれ!と檄を飛ばしていたのかもしれません。

消費レベルアップ3→文化発信源の多様化2

世界に輸出出来る消費材(文化を仕込んだ表現)かは消費者の嗜好が決める・・研究者や政府官僚が決められないのですから、消費者レベルアップが重要です。
税で吸い取って政府が計画的に投資する分野・・こう言う大学を作りこう言うセンス=既存センスを教えればいいと言うものではありません。
例えば作家養成大学が世界に1つもないと思われますが、仮にあっても書き方の技術を教えることが出来るだけで書く内容を教えるのでは背理・・読む方は有名作家とそっくりの内容を読みたくありません。
その点割に楽なのは、お茶などの芸事や絵画、彫刻、料理、俳諧、デザイン学校その他は大先生に習って一応の水準まで真似出来るようになれば、一人前のお茶の先生、料理人やイラストレーターらしくなれる点では、割に楽な分野です。
客は、大先生とそっくりの料理を作ってくれれば十分満足ですから・・家元や学校制度は、一人の大先生がいてもその周辺以外の国民の多くが恩恵を受けられないのでこれを全国に行き渡らせる普及版を大量に拡散させるには便利です。
師匠のまねごとでも古くは都にある絵画はこう言うものか、仏像とはこういうもの、家が立派になって来ると座敷を引き立てるお花の活け方とはこういうもの立ち居振る舞いの型を普及させるのは良いことです。
全国どこへ行っても駅ビルには全国展開のレストランがあり、デパート支店やチエーン店が展開しているのは、この現在版です。
最近はやりの美術系巡回展もこの一態様でしょう。
日本では早くから家元制度が発達したことが庶民レベルを引き上げるのに大きな役割を果たした・・全国でこれを支える需要があったことが重要ですが・・と思われます。
全国に国分寺、国分尼寺・・戦後で言えば各県に1つの国立大学を作ったのと同じ効果があったでしょう。
御陰で日本人は末端まで行儀作法が行き届いた社会になっていて、文化受容能力の高い社会になったのでしょう。
その先のレベルを求める草の根のお宅系社会は、このような基礎底辺の広がりがあってこそ生まれるものかも知れませんので学校制度の普及は重要です。
ただ、学校制度は料理などの基礎になる一定の決まりを教えることが出来るだけで、創造自体は個人の能力にかかってきます。
今や、一定の文化が行き渡った結果、あちこちにニキビのようにお宅系文化が吹き出して来た状態・・マサに底辺層を厚くして来た成果ですが、今後その先のお宅系の型を教えるような仕組みづくりは無理があります。
これに応じた「型」を工夫することが可能としても、消費者が画一的「型」売れ筋を売りつけられても受入れなくなっている多品種時代ですから無理があります。
大量消費の代表・・アパレル業界が大変なことになっているのも、このような消費変化の結果でしょう。
全国展開のデパート・スーパーで1つの流行スタイルを数十〜百万単位で大量に売りつける商法は今後無理・・1デザイン数万人規模の顧客で足りるネット販売の時代が来るとデパート時代にその年の流行スタイル(有名デザイナー数人程度の作品)が10数種類程度で済んだのが、ネット時代には、名のない多くの作品・万単位にのぼる多様なスタイル・・ちょっとした気の利いた少量品に分散して行きます。
我が家でもここ何年か前から、唐津のある作家(まだオヤの域に達していないようですが気持ちの可愛い跡継ぎ)に注文して我が家風の陶器を順次作って頂いて、すごく満足しています。
この先一定レベルに達した消費者を満足させる製品を作れる技術者を養成する教育システムを(明治以降の学校システムが成功したのは欧米の技術修得目的だったので効果が高かったに過ぎません)巨額予算を投じて作って行くのは無理です。
今後は、上記のような小さな釜での徒弟奉公が必要な印象です。
今後は生産力競争から、消費力競争社会になるとした場合、新たな消費文化を先導し(ウオークマンに始まり最近のポケモンのような)新たな消費に必要な資材の先行生産力・・その先行者利益獲得競争すべきです。
ウオークマンのヒットに関連しますが、ソニー往年の輝かしい躍進の原動力は、盛田氏に至る創業世代が文化的に高度な素質を持っていたことが大きな要因だったと思われます。
その後一流大卒のエリートを大量に入れた第2世代経営者以降業績が冴えない・・最近復活したと言っても金融中心あるいは、買収したハリウッド映画中心に稼ぐようになっているのは寂しい限りですが、正に象徴的経過と言うべきです。
学歴エリ−トは(文化遺産継承比率が低い)中間管理職出身に偏り勝ち・・官僚が文化発信を担うには無理があることを肝に銘ずべきです。
多くの鉱工業製品・・必需品でさえも商品の最後の仕上げに遊び心がどこまで反映されているかが決め手になる時代には、政府が税を投入する大学や国立劇場・オペラ専用劇場などのインフラを用意して、方向性を教える従来型ではどうにもなりません・・。
4〜5日前の日経新聞では国立劇場の果たした役割と今後の課題・・歌舞伎・文楽などの後継者不足問題を書いていました。
私は国立劇場が出来た直後から数多く足を運んで来たので、関心があって読みましたが、学者が議論してどうなるものではない・・消費者が喜び、演し物に人気があれば、後継者が殺到?するし、そうでない限り「政府補助があるし、将来人間国宝にしてくれるぞ!」と言うだけでは次世代俳優になる応募者が集まらないでしょう。
要するに文化の消長・・存続は消費者が決めることです・・この意味では、橋下前大阪市長が消費者の支えない文楽予算を減らすと言ったか?の問題提起は意味があります。
日本の文化は世界中の文化とは違い、宮廷文化から生まれたのではなく、全て庶民発祥が特徴です。
政府主導社会ではありません。
遣唐使前後の古代と明治時代の外国の進んだ文化を受入れる時代では政府主導・・早く全国普及させるためには、国分寺制度や学校制度が有効・・これが一旦普及するととその先の工夫・・独自文化はいつも庶民から文化が起きて来た社会です。
独自性があってこそ世界の新製品需要を主導出来ます。

消費レベルアップ2→文化発信源の多様化

話変わって,企業・・産業活動としては国際的視野で見る必要があると言うと、グローバル化推進論者か?と誤解されそうですが、物事はレッテル張りで済むような簡単なものではありません。
金融資本家がのさばり過ぎている・・高額報酬を得過ぎている反感が、反グローバリズムとなっているようです。
ところで兵器に始まってクルマの開発等多くの製品では開発費が大規模化して来て1〜2ヶ国の市場だけを相手にする規模では技術革新競争に生き残れません。
インド進出で成功しているスズキでさえ、単独では今後の開発競争に資本的・人材的に無理があって、何年か前からドイツ企業と合弁したり解消したりしているのはそのせいです。
各種生産・・あるいはウーバーのような新規業態開発では、大資本投入・・人材育成が間に合わないなどのために世界企業間でのM&Aや離合集散が激しいのですが、文化面ではその反動によるのか?個性化・・少数者だけで理解しあえる趣味・文化を楽しむ社会が始まっています。
ビッグデータの必要性。世界標準を握る必要性の面から見れば「ガラパゴス化」と言う批判を受ける現象が、個々人の生き方としては、日本発の「オタク化」コソ生き甲斐と言う現象が顕著になっているのが現在です。
多分同じ人間・・ジョブス氏が禅に関心を持っていたようなこと・・先端企業でビッグデータと格闘している若者が一方でお宅系文化にはまっている・・これが現実社会です。
この後で2項対立的思考の不毛性を書く予定ですが、2項対立を煽っても仕方がありません。
大量消費・・巨大店舗消費に飽きた文化発信時代になるとみんなと違った楽しみ方に価値がある社会になって行きます。
ちょっとした穴場(マスコミ推奨の大勢と同じ楽しみ方よりは個性で楽しむ)人気の価値がある・何万人も人が来なくても良い・・逆に1日に何万人も来られると困る観光地も大事にされるべきでしょう。
生活にゆとりが出て来ると、テレビ宣伝に合わせてみんながドット出掛けてみんなと同じように楽しむ生き方は卒業して自分流に楽しみたい人が増えてきます。
大量・画一消費社会は、有名大学での優秀者が集まる研究所で開発した売れ筋商品を廻りに負けずに入手し、有名デザイナーが「今年の流行はこれ!」と支持すると何千万人がこれを買い、遊びに出掛ける時代でしたが、これが一巡すると「自分らしい」消費をしたくなるのが普通の順序です。
飲食店やホテルでは昔から大広間的なものは敬遠されるので、大きなホテルでも細かく内部をし切って小さな部屋にしています。
デパートも早くから、広々とした平場の商品は安物で、ブティックなど細かくし切っているのが高級品と言う扱いでした。
ゆとり社会・・文化レベルが上がって来て、画一的消費は敬遠されるようになると、文化の発信源が多様化してきます。
私の子供の頃には美空ひばりなどそれぞれの分野で絶対的人気のある歌手や俳優、選手・◯◯の神様がゴロゴロいましたが、昭和40年頃からこう言う大スターはいなくなりそれぞれの分野に関心のある人だけが知っている程度になりました。
今では更に細分化の繰り返しになっていて、これがいわゆる「お宅系」と言われるようになったのでしょう。
発信源・・裾野・・ジャンルが広くなって来ると、芸大でいい成績だったかどうかどころか芸大出かどうかも問題にならない時代です。
文化発信の裾野の広さ・多様性が進むと、こう言う大学を作ったらとか研究所を作ればいいと言う・政治が口を出す時代ではなくなります。
アニメの発達を見れば分りますが、税を使ってその発達に何か貢献して来たでしょうか?
せいぜい最近になって、日本文化発信に有効だから後押ししようかと言う後追いくらいしか出来ないのが政治ではないでしょうか?
世界的大芸術家一人育てるのは、文化の遅れた共産圏でも集中投資で間に合いましたが・・裾野の広い草の根の文化発信時代になると、庶民の生活水準底上げ・伝統・歴史の重みがモノを言って来ます。
土が豊か(気候風土が豊か)であると大木1本(大スター人)だけ育つのではなく多様な植物が繁茂し、育ちます。
他方で、生活利便性商品・・合理化が進めば進むほど良い分野では、競合他社より燃費性能がちょっとでも良いとその何百倍もの販売格差が出る・・グローバルスタンダードを握った方が世界を席巻出来ます。
電気自動車や自動運転が始まると、少しでも先に開発出来た方が有利です。
利便性の進歩自体は、生活利便性が増しゆとりのある生活が出来るので、反対する理由がありません。
我が家で言えばウオッシュレットの恩恵を受け、冷暖房、ネット注文でお花が届く・・都内は勿論、京都でも行きたければ新幹線で楽に行けるなど快適な生活が出来るので、家事や移動にかける時間短縮の結果ゆったりと文化を楽しめるのです。
企業では・・寸秒も無駄にしない生き方が奨励されますが、家に帰るとローテクにはまるのも1つの生き方です・・社会全体がローテクでは今のネットを駆使した利便性を享受出来ません。
個々人の生き方とグローバル化の必要な企業活動は分離して来たと言うべきでしょうか?
そして日本は文化発信国家になって行くのが良いと言うのが私の意見です。
自動運転の実現にはグローバル化が必要ですが、出来上がったものをキュートに仕上げて行くのは文化力ですから、最後は日本の文化力が国際収支に影響してくるのです。
ジーンズはアメリカ発祥であっても今では、良い物は日本でしか作れません。
その内ジャズも日本が最高になっているでしょうが、そのためには基礎文化力・・民が豊かでないと良いものが育ちません。
07/03/03「超高齢化社会の生き方5(多様な生き方を保障する社会1)」その他かなりのテーマごとに「多様な生き方の出来る社会に」と言うテーマで書いてきましたが、多様な生き方を認めるゆとり社会でこそ多様な文化発信が成り立つのです。

消費レベルアップ1→小さな政府へ5

内需拡大・消費レベルアップのためにもインフラ整備は必要ですが、(あちこちに美術館や芸術ホール等の整備も重要です・・これによる文化レベルアップは、数世代以上の長期的効果を見なければ分りません。
ただし、以下に書くアニメの発達が美術館や劇場の設置とどう言う関係があるか分りません・・識者がアタマで考えて何か投資すればある文化が生まれる訳ではない・・自然発生的なところ(民を豊にするしかない)があるのが文化です。
ふすま絵その他は豪荘な建物の発達と関係があるでしょうが、俳諧や、能狂言、文楽や浮世絵や落語江戸期に発達した書籍出版などが、政府が文化発達のために何かした結果?ではないでしょう。
少しは関係があるとしても能のようにせいぜい政府が保護した程度・・後追いが原則です。
歌舞伎や浮世絵あるいは書籍出版はどちらかと言うと禁遏の影響の方が大きかったと思います。
アニメが日本文化発信に役立つと気が付いてその後押しをするのは政治の領分でしょうが、アニメが産業として育ったのは鳥羽僧正の鳥獣戯画巻以来千年単位の伝統文化が基礎にあって、若者に生活のゆとりがあるからですし、政府による成長投資があったからではありません。
(今の若者にゆとりがある訳がないと反論されるでしょうが、若者自身非正規等で困っているとしても豊かな親世代の恩恵を受けて育っていて漫画を書いて,または友達の書いた漫画を楽しむ「ゆとり」があることは確かです)
政府が応援するどころか、数十年前には「いい青年になっても電車で漫画を読んでいる」と眉をひそめる論調が主流でした。
こうした分野の競争が主流になって来ると、仮に政府が後押ししてもその効果は1政権や2政権の間に効果が出る訳がないので、政策効果の有無を議論をすること自体間違っています。
アベノミクスの効果が出ているor出ていないと言う議論が盛んですが、こう言う議論が疑問なく行なわれていること自体で、経済学者は今でも政府の仕事は短期の成長戦略実現のためにあると思い込んでいる・・この目的実現ためには従来どおりの税収が必要であると考えているように見えます。
GDP競争に税を使う時代は終ったことを書いてきました。
先行者利益・・即物的生産力では後進国の模倣による追いつく速度の方が早いのが原則ですので,植民地支配のように被支配国生産を禁止するなど不正がない限り、先進国は早晩並ばれ、追いついた方が活力があるので先行者は没落して行きます。
先進国(デパート言えば三越が)においてはいつの時代でも新たな消費モデル・文化モデルの提示に成功してこそ、その地位を維持出来るのであって、この提示が出来ない限り追い着かれ追い越され廃墟になって行くしかない・・メソポタミアであれ、ローマであれどこであれ栄えた国が滅びるのはこの原理によります。
京のみやこが長年その地位を維持出来ていたのは「みやび」の独占による文化発進力で勝負出来ていたからです。
国民レベルが低くとも体力さえあればある程度出来る・・生産力競争を卒業して消費文化競争→この結果生まれた優れた文化製品輸出であれば、(文化は何世代と言うように)簡単には追いつけませんし、国民レベルの違いが出て来ます。
幸い日本は遣唐使の昔から相手国の文化の粋を選別して持ち帰る能力に優れていましたし、戦後敗戦で廃墟になった直後でも日本は西欧の良いものしか買わない国民性・・文化でした。
消費する国が発言力のある時代になると、輸出ばかりで内需の少ない・・買い物しない国は喜ばれません・・内需率が重要になります。
貿易黒字・将来買うことが出来るようにするのが目的ですから、純債権国になってから何十年も黒字ばかり稼ぐのは能ではありません。
毎年長者番付に載る富豪が昨年より何%増えたと言う程度の成長率の問題にこだわっているのは滑稽です。
成長率・・GDP算出方法自体この後で書くように現地生産の進展で、本来の国力を表さなくなって久しいのです。
労働者賃金も現地従業員指導のために出向すると現地子会社の支払給与になる・・どちらかと言うと高給取りの国内就労者が減り、支払給与がなくなったことになりますが、
国内にいる家族には夫の給与は従来どおり振り込んで来る・・むしろ海外出張手当?分として海外子会社からの支給が増えて余計払ってくれるのが普通です。この家族は無収入世帯になり(フィリッピン人が海外にメードになって出稼ぎしているのと同じ)海外出稼ぎ送金によって生活している分類になるのかな?
いろんな意味で従来は国内生産にカウントされいた多くの分野が皆海外生産の統計に変わっている・・企業実力としては同じことが、別会社として計算されるようになって来ると全体が不明なので、企業会計では連結決算が普通になってきました。
国の実力も連結で見ないと分らない時代になっているのに、日本国単体の売上・生産力で見て・・時代遅れのGDP競争しても意味がありません。
昭和40年代に入って都内から工場がドンドン追い出されて地方に出て行き、今では都内の工場は滅多に見かけませんが、都内の生産が減ったからと言って東京の活力がなくなったと言う人はいないでしょう。
デパートで言えば本店売上が日本一でも国内支店数が競合他社の10分の1しかなくて全体の売上では7〜8番目でしかないのでは意味がないのですが、今のGDP競争・信仰は支店売上にあたる海外売上を見ないで本店売上競争のデータで1喜一憂していることになります。
トヨタ、ホンダ、コマツ・日立などで言えば、世界全体の売上増減が主要テーマであり、国内販売だけで企業の将来性を判断する人は滅多にいないでしょう。
国内生産力が前年比何%の成長をがどうなったと言うGDP論争は、「井の中の蛙」のような議論で意味がないことが分ります。
国民に必要なことは前年比生活水準が良くなったか・その持続性が(国際収支大赤字ではその先貧困が待っていますので楽しめません)どうかでしょう。
生活水準とは結局のところ(パンを人の3杯食べられれば良いと言うのではなく)消費水準の文化度です。

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