資格の発達(外見有用性と責任)1

精神科医の精神病認定の恐ろしさから、被後見人等に偏ってしまいましたが、行為能力制度=能力制限制度全般と外見規制時代に戻します。
生まれ育った郷里で一生を終え見知らぬ人と会うことの稀な時代と違い、1日の内に早朝の満員電車に始まり見知らぬ人と遭遇し続けて何かしらの関係を大量に持つのが日常になると、チラッとも見ただけで駅員かその店の店員か救急車かなど即断できないと世の中がスムースに行きません。
初対面の人でも相手がどういうことを出来る人かすぐに分かり迷わずに対応できるためには、一定の資格制度やユニホームがあれば見知らぬ人でも一定の技術やノウハウを持っていると分かり、一定の仕事を委ねられるようになるのでスムースです。
初対面の人に名刺を先ず出すのも、その人がどこの会社の人でどういう職種かが即時に判明することによって、その人に何を頼んで良いかがわかって無駄な時間が省けます。
昨年夏ころ都内大病院の病室に見舞いのために繰り替えし通っていたところ、医師がジーンズにTシャツ姿でしたが、男性の場合作業員が立ち入って病状説明するわけがないので「あ、医師がきたんだ」とわかりましたが、話を始めて内容から判断しないと判断がつかないシステムになっているのには驚きました。
女性医師が来た場合、当初看護師さんが様子を見に来たのかとばかり思っていたら、看護師さんの説明とちょっとレベルが違う・付き添いしている身内の質問内容接し方等からもしかしたら医師かな?とこれも総合判断した次第です。
看護師の場合も昔のイメージ白衣の天使ではなくブルーの作業着式衣服で、いろんなことをするのでベッドメーキング的清拭作業する職種?の人と洋服だけでは区別がつかなくなっているのには驚きました。
たまに来る人には職種区別が分からなくとも良いというのが、大病院の主流的考え方なのでしょうか?
コンビニやスーパー、デパートやデイズニーランド、ファミレス、交通機関など今流行りの「濃厚接触」を前提にしない業態では店員・施設職員と客の違いが外見ですぐわかる方が客にはあり難いものです。
工事現場付近の誘導員もユニフォームと警棒式の赤い?棒を振り回しているので一々何してるんですか?と聞かなくとも、その指示に従って迂回歩行すると安全なのだと瞬時判断ができ、迂回路誘導がスムースに行われます。
対面相手の能力内容が初対面の人にも一定水準の能力保障をしてくれるのが資格制度やユニフォーム着用や名刺であり、〇〇銀行や弁護士等の名称を使用できる許可?制であり、(銀行の看板だけでビル内に入る用事があるかどうかも判断可能)近代社会をスムースに動かせる必須のアイテムです。
こうして交流拡大に応じて各種職業の資格制度・外見の統一が発達してきました。
江戸時代までは武士と町人では衣服や髪形や会話形式からして違う・・家に門構えが許されるか土塀か生垣かなどあらゆる方面で格式が分かる仕組みでした。
京都に行くと土塀でも門跡寺院には、線が入っているなど外観で判断できるのはそれなりに便利です。
外見判断の合理化という意味で見れば、江戸時代の士農工商の区別は身分というより職業分類であったと見るべきでしょう。
(世襲といっても当時も大名家自身の改易や家臣の家禄召し上げ等が結構あったので、大名家家老等の名門でも盤石ではありませんでしたので、本来身分と言えないと思われます)
大手銀行(大大名)でない地方銀行(10万石内外の大名)や相互銀行(3〜5万石の大名)信用金庫(戦国レベルの上流武士・多くは旗本クラス)でも銀行員(金融機関・武士)であれば一生食いはぐれがないという1世代前までの職業観と似ていたように見えます。
身分でなくとも従業員としての雇用安定程度?や格式重視制度はそれなりに意味があったというべきでしょう。
現在に戻りますと一定の規格基準に合致して初めて医師、建築士であり理髪師、調理師、代議士であるし、政党と言えるし、大手企業従業員であれば(せっかく得た地位を安易に棒に触れないので)一定の信用ができるという意味で所属が重視されます。
信用力の高さを求めればその維持のために期待外れのことができない不自由度は表裏の関係です。
外見でまず判断できる社会は省エネ・・効率の良い社会ですが、これを悪用する人がもちろん出てきます。
「看板にいつわりあり」ということですが、〇〇職員を名乗るオレオレ詐欺などもこの一種です。
商人や法人がある人に対して名目だけの外見的資格使用を許している場合、その責任を負う制度を法人制度と同時に採用しています。
法人制度の骨格を決めた基本法であった民法旧規定(公益法人3法成立と同時に削除される前の規定)は以下の通りです。
http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.html

(名称の使用制限)
第三十五条 社団法人又は財団法人でない者は、その名称中に社団法人若しくは財団法人という文字又はこれらと誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(法人の代表)
第五十三条 理事は、法人のすべての事務について、法人を代表する。ただし、定款の規定又は寄附行為の趣旨に反することはできず、また、社団法人にあっては総会の決議に従わなければならない。
(理事の代理権の制限)
第五十四条 理事の代理権に加えた制限は、善意の第三者に対抗することができない。
上記条文は、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成十八年法律第四十八号)
77条にそのまま引き継がれています。

商法

(明治三十二年法律第四十八号)
第九条
2 故意又は過失によって不実の事項を登記した者は、その事項が不実であることをもって善意の第三者に対抗することができない。

会社法(平成十七年法律第八十六号)

第七条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(表見支配人)
第十三条 会社の本店又は支店の事業の主任者であることを示す名称を付した使用人は、当該本店又は支店の事業に関し、一切の裁判外の行為をする権限を有するものとみなす。ただし、相手方が悪意であったときは、この限りでない。
(表見代表取締役)
第三百五十四条 株式会社は、代表取締役以外の取締役に社長、副社長その他株式会社を代表する権限を有するものと認められる名称を付した場合には、当該取締役がした行為について、善意の第三者に対してその責任を負う。

工事現場付近の誘導員もユニフォームと警棒式の赤い?棒を振り回しているので一々何してるんですか?と聞かなくとも、その指示に従って迂回歩行すると安全なのだと瞬時判断ができ、迂回路誘導がスムースに行われます。
対面相手の能力内容が初対面の人にも一定水準の能力保障をしてくれるのが資格制度やユニフォーム着用や名刺であり、〇〇銀行や弁護士等の名称を使用できる許可?制であり、(銀行の看板だけでビル内に入る用事があるかどうかも判断可能)近代社会をスムースに動かせる必須のアイテムです。
こうして交流拡大に応じて各種職業の資格制度・外見の統一が発達してきました。
江戸時代までは武士と町人では衣服や髪形や会話形式からして違う・・家に門構えが許されるか土塀か生垣かなどあらゆる方面で格式が分かる仕組みでした。
京都に行くと土塀でも門跡寺院には、線が入っているなど外観で判断できるのはそれなりに便利です。
そういう意味で見れば、江戸時代の身分というより(当時も大名家自身の改易や家臣の家禄召し上げ等が結構あったので家老等の名門でも盤石ではありませんでした)今で言えば大企業従業員としての雇用安定程度)?や格式重視制度はそれなりに意味があったというべきでしょう。
現在に戻りますと一定の規格基準に合致して初めて医師、建築士であり理髪師、調理師、代議士であるし、政党と言えるし、大手企業従業員であれば(せっかく得た地位を安易に棒に触れないので)一定の信用ができるという意味で所属が重視されます。
信用と不自由は表裏の関係です。
外見でまず判断できる社会は省エネ・・効率の良い社会ですが、これを悪用する人がもちろん出てきます。
「看板にいつわりあり」ということですが、〇〇職員を名乗るオレオレ詐欺などもこの一種です。
商人や法人がある人に対して名目だけの外見的資格使用を許している場合、その責任を負う制度を法人制度と同時に採用しています。
法人制度の骨格を決めた基本法であった民法旧規定(公益法人3法成立と同時に削除される前の規定)は以下の通りです。
http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.html

(名称の使用制限)
第三十五条 社団法人又は財団法人でない者は、その名称中に社団法人若しくは財団法人という文字又はこれらと誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(法人の代表)
第五十三条 理事は、法人のすべての事務について、法人を代表する。ただし、定款の規定又は寄附行為の趣旨に反することはできず、また、社団法人にあっては総会の決議に従わなければならない。
(理事の代理権の制限)
第五十四条 理事の代理権に加えた制限は、善意の第三者に対抗することができない。
上記条文は、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成十八年法律第四十八号)
77条にそのまま引き継がれています。

商法

(明治三十二年法律第四十八号)
第九条
2 故意又は過失によって不実の事項を登記した者は、その事項が不実であることをもって善意の第三者に対抗することができない。

会社法(平成十七年法律第八十六号)

第七条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(表見支配人)
第十三条 会社の本店又は支店の事業の主任者であることを示す名称を付した使用人は、当該本店又は支店の事業に関し、一切の裁判外の行為をする権限を有するものとみなす。ただし、相手方が悪意であったときは、この限りでない。
(表見代表取締役)
第三百五十四条 株式会社は、代表取締役以外の取締役に社長、副社長その他株式会社を代表する権限を有するものと認められる名称を付した場合には、当該取締役がした行為について、善意の第三者に対してその責任を負う。

行為能力制度3(定型から実質へ)

2〜30年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり後見人を必要とする家族の受け止め方や社会意識も大きく変わりました。
将来生涯単身者が増えて、認知症患者の見守りがどうなるかにもよるでしょうが、この数十年の認知症患者の大多数は、兄弟間の遺産争いの当事者ではなく、多くの場合妻が元気な場合夫であり夫死亡後の場合介護者は子であり被後見人等は母親です。
介護に困っても今は精神病院と違い介護施設が充実している上に、娘を中心とする子らは母子間で兄弟間のような争いが滅多になく、他の兄弟の目もあるので、母親を精神疾患がないのに監禁ために精神病院へ入れる必要がありません。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は従来準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には、準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)聾唖というだけで準禁治産の宣告する方式は問題がありすぎたので昭和54年に聾唖者盲人定型をなくしました。
このとき浪費者という実態不明の定義を残したのは実質認定だから良いだろうとなったのでしょうか?
54年改正前の旧条文がネットではなかなか出ませんので自宅にある昭和8年版六法全書によって、引用しておきます。
昭和8年版六法全書民法編です。

民法11条 心神耗弱者、聾者、盲者、浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ付スルコトヲ得
このように、明治以来定型が法定されていたのですが、昭和54年に浪費者を残して削除され、

民法第11条
心神耗弱者及ヒ浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ附スルコトヲ得

となり、これが平成11年

現行民法(1999年改正2000年施行)

(後見開始の審判)
第七条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。
第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

平成11年改正後障害や限定行為能力の決め方は、定型障害で能力制限するのではなく、「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分」という原則定義一本になり具体的認定が必要になりました。
明治民法制定時に行為能力不足者も権利能力の主体にするとその権利を失うリスクが高まるのでその保護の必要性があったものの、能力不足の判定能力(科学?)が追いつかないのでまず心神耗弱という原理を掲げた上で、その認定がなくともさしあたり誰も外見でわかる定型的場合を掲げたのでしょう。
それにしても表現がキツすぎました。
例えば禁治産宣告の改正前の漢文式表現では「心神喪失の常況」というのですから、禍々しいことこの上ない「おっソロシイ」表現でした。
今で言えば認知症→認知能力の欠如という意味ですから、我々高齢者は徐々に視力、聴力が落ち結果的に文書に限らずいろんな情報に穴が空くので結果的に判断も誤る・誰もが将来そうなる流れが可視化されます。
認知能力低下といえば高齢化に伴い徐々に身体機能が落ちていくのは仕方ないよね!となりますが、「心神喪失です」と言われるとまるで何の理解もできない廃人のイメージでした。

権利能力と行為能力の峻別2(未来の夢か?)

足腰が弱くてもその他の機能が一人前の人がそのために移動できず、能力を100分の1しか発揮できないのではその人だけでなく、社会にもマイナスなのでそれを補完するためにエレベーターその他バリアフリー化が進んでいます。
尿失禁ために外出に支障のある人がオムツの発達で自由に外出できるようになるのもその一つでしょう。
こうした部分故障で全体能力制限のバリアー解消に成功した最初の発明がメガネの利用でしょうか?
補聴器や義足の発達や車運転も重いハンドルさばきを軽くして、力の弱い女性が運転しやすくしたのもその一種ですし、出歩き易くするために女性用トイレ整備が進んだのもその一例でしょう。
このように違いを前提にハンデイを与えたりいろんな受け皿を用意するのは人類の知恵ですから、今はまだ外形で分かる範囲の工夫でしかないですが、将来的には例えば短気な人が実は脳内のある物質不足によることがわかり、その補給可能になって人格が温和になったり、ある物質の不足で記憶力減退していく原理がわかり不足物質の補給によって、あるいはある神経回線の伝達能力が落ちる原因を除くなどによって劇的に記憶や判断能力が上がる・数学的処理能力差も同様の原理で未来的には部品や神経伝達回路系の補修交換できる時代?がくるようになるかもしれません。
こうなってくると固有の人格と思われてきたものでさえ、部品レベル差でしかないと言う時代がくるのでしょう。
数時間以上落ち着いて本を読んだり物事の観察できない原因がわかるなど・・。
この栄養を脳のある部分に補給すると文化芸術の理解力が上がり、別の栄養素で創作能力が上がり、思いやりが深くなるなど・・・。
将来その人の本来的属性と思われてきたいろんな分野の部分の故障(病気)を直すだけでなく、気質まで変えられるようになってくると、現在眼鏡や補聴器で能力不足を補正できるように部分障害の有無で全体評価するのは間違いという時代がkrう可能性ありあります、
そう言う時代が来れば権利能力と行為能力を分離する現在の思想は、超長期的に見れば意外に合理的な先見の明のある意見かもしれません。
ただし現在のところ、人の個性・違いを前提にせず人類皆同じ・だから努力したものもしないものも同視すべきという方向に結びつける主張とすれば無責任です。
老荘思想は、そんなあんちょこなものではないのでしょうが、若い頃に読んだ印象では、一見斬新奇抜で「目から鱗」のようなイメージを受けたものですが、それは一服の清涼剤あるいは、薬味程度の意味しか持たないで思想界の主流になり得なかった所以ではないでしょうか。
色々言えばキリがないので、この辺でやめて、現在の法常識に合わせて行為能力に入っていきます。
法の下の平等という意味は、結果平等を保障するのではなく同じ能力なら、家柄身分性別等によって差をつけるのが不平等として許さないという説明が一般的です。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

民法では基本法ですので法人のように事業ごとに行為能力を細かく決めていませんが、権利の主体であっても赤ちゃんは自分でその権利を享受するために行動する能力がありません。
あるいは臨時に体力の衰えた傷病者、精神障害者などもその保護(医師介護者)が必要です。
この解決のために赤ちゃんだけでなく一定年齢まで自分で権利を守れない定型的場合を想定してその保護者が必要として行為能力制度設定をしたものと思われます。
ひとつには年齢による保護・未成年制度であり、もう一つは年齢を問わない無能力者制度(是非弁別能力欠如)です。
無能力制度は精神病にかこつけた人権侵害がありうるので、専門医の診断が要件になっています。
ただし精神医学というのは科学ということになっていますが、患者の行動や、幻覚・幻聴・幻視等の訴えの聞き取りとその解釈が中心で、客観的データが少ないのが特徴です。
認知症の検査でもこのような質問にこのように応答したという医師やテスト要因が書き込んだデータだけで、血液検査や脈拍体温や、摘出した細胞などの標本を残す他の医学部門データとまるで違います。
上司に毎日叱責されてストレスで何日も眠れないなどと医療相談すれば、その相談だけで?うつ病診断になるイメージです。
専門家は表情などよく見ていると言うのかも知れませんが、いずれにせよその医師の判断重視である点は変わらないでしょう。
強制措置入院には2名以上の医師による診断が必要とされていますが、客観データなく経験豊富な医師の意見一致なら間違いないだろうという程度の担保しかありません。
これが強制措置入院隔離病棟となると、医師の診断が絶対化して思いがけない牢獄現象になります。
客観基準がないまま専門医というだけで聖域化してくると悲惨な事件が起きます。
精神病院の人権侵害事件では、宇都宮病院事件が著名で詳細はウイキペデイアに出ていますので以下、骨子だけ紹介しますが、ようは隔離・収容しておくだけで治療らしい治療をしない前提なので入院患者や一人当たりの医師や看護師数が一般病棟より少なく済むことに目をつけてバンバンと入院患者を増やしてこれに応じて専門家と言えない一般内科医を大量採用して、終身?監獄のような(患者を暴力で制圧する)運営をしていたという事件だったようです。
行為能力制限には、このようなリスクもあるという程度で宇都宮病院事件の紹介は外見に頼るリスクのテーマの時に回します.

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