ロシアの脅威6(多国間交渉のメリット)

日本軍が南方方面へ支配拡大していった現地でも末端兵士にいたるまで無法なことしなかった・・自分が飢えて死のうとも現地食料調達や個人的略奪を一切しなかったのは日本の支配者が民の福利優先政治を実践していたからです。
兵の末端に至るまでみんなが自律的にルールを守っていたのは、日頃から上に大事にされていたので自分が上・支配者に立てばどんな野蛮なことでもできるという夢・・そのような理不尽な被害を普段受けていないからです。
(インパール作戦の失敗・糧食の補給準備がなかったことによると言われていて・・その結果死屍累々・・その多くが餓死者です・・が現地食料調達しなかったのです)
庶民に対する過酷な支配をしている社会では、戦争に勝てば権力層は支配地を増やせるし日頃圧迫されている人民・戦士には恩賞の分配として捕虜や敗者の女性に対して日ごろ自分が受けている非人道的扱いの何倍もの非人道的行為を奨励し鬱憤晴らしに利用する仕組みになります。
ローマでは、戦争に勝てば負けた方の民族を家畜並みの境遇に落とすやり方が普通であったのは、それだけ民族内の上下支配が過酷であったことを表しています。
具体的イメージはアメリカ映画で有名なベンハーの物語でしか知りませんが、アメリカ映画ですからローマ支配のマイナスを強調するために作ったものではないでしょう。
権力さえあればどのようなひどいこともできるという価値観・・国内過酷支配のガス抜きを兼ねた領土拡張戦争の場合には、侵略した場合に人権蹂躙が激しければ激しいほどその目的を満たせます。
中国の歴史では、戦いに勝つと相手武将をトコトンいたぶるのが常態化しているのは、勝てば・権力を握ればどのような非道・残虐なこともできることを配下武将に誇示する意味もあったのでしょう。
日本では天皇制が象徴するように権力を握り権力に近づけば近づくほど「空」に近づくのを理想とする社会ですから根本が違っています。
民間企業でもトップに近づけば近づくほど腰が低くならないとやっていけません。
スポーツであれ戦争であれ、出世競争であれ勝てば勝つ程「上に立つべきものの徳」を示さねばならないのが我が社会です。
ソ連や中国の敗者に対する想像を絶する暴虐の歴史は、日頃理不尽な不利益を受けている弱者には、支配と被支配の入れ替わり願望・貧者に宝くじ願望が強いのが普通ですから、日頃から末端兵士や少数民族の鬱屈支配を前提にして、その解消策に利用していたと見るべきでしょう。
ソ連軍の満州 侵入時で言えば、戦争相手を支配下におけば暴虐行為を出来ることを餌にして下層階級や少数民族を使い捨て要員として戦争に駆り出しているのですから、当たり前の恩賞だったのでしょう。
このように見ていくと大災害や戦乱で警察力のなくなったときの略奪行為の多さやレベルによって、(立派な人権保障制度があるかどうかではなく)その国の下層階層の置かれている社会的地位・・支配層のしている政治レベルが反映されていることが分かります。
ところで、トランプ氏に限らずアメリカが基本的に多角交渉を嫌がることをトランプ氏の取引外交のテーマで書いたことがありますが、多角交渉では複雑な思考力が必要というだけではなく、強者の論理を通しにくくなるからです。
この20年ばかり多国間交渉時代に入って、アメリカがせっかく世界一強なのに強者の論理を貫徹できないことが続いたことに不満を出し始めたと見るべきでしょう。
ロシアの対馬上陸事件で解決をみたのはイギリスのお陰でしたが、江戸幕府は多角交渉の有利さを引き出そう(列強間の条件競争を引き出す)とした・・その成功例と解釈すべきです。
我が国の教育では、江戸幕府の失敗を言いたてたい明治政府の影響で不平等条約ばかりに焦点を当てていますが、その時点では早く条約(領土支配範囲の確定)を結ばないとロシアのように実力占拠のリスクに迫られていた点を重視すべきです。
今のTPP協定の賛否同様で何事も有利な面とマイナス面があるのが当然で、その一部不利な面だけ取り出して批判するのは間違いです・条約や契約は一方にだけ有利な条件はありえない・・相互関係です。
幕末に西欧列強との条約交渉中に内容に一部不満があっても当面西欧列強が押し寄せている中でもロシアの強引な実力行動を日本は独力で制御する方法もない状態でした。
対馬でさえ上陸阻止が事実上無理であったのですから、もっと遠隔地で和人のほとんどいない北海道への事実上の侵入・移住を阻止するのは不可能であったでしょう。
日本は白村江敗戦後の北九州への防人動員や中世の元寇防衛戦でもすべて外敵は九州方面からくる前提でした。
日米戦争最後の決戦も5月の沖縄防衛戦から始まっています。
九州には古代から地元武士団が集積していて地元武士団を主力として各地から応援に入る仕組みですし、幕末でも西欧列強が進出してくる正面進路には、薩摩や長州などの強力地元武士団があったなど、歴史的に西南方面での防備経験が豊富です。
しかし、北海道方面からの敵攻撃を古来から全く想定していなかったので防備は手薄どころか、北海道北辺の地理さえまともに理解出来ていない状態(これがのちの間宮林蔵らの活躍になるのです)でまるで備えのない状態でした。
地元で主力になって戦ってくれる勢力のない(当時北海道は農耕地に適さない状態でアイヌ人と言うより人ががまばらにしか住めなかったので知行として石高表示しなかったと言われ、〇〇石待遇という扱いでした。
松前藩の主たる収入はアイヌの漁猟や毛皮等の交易管理による収入だったようです。
ウィキペディアによると以下の通りです。
「江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった[1]。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。」
結果的に・・本土の武士・・農地確保に命をかける一所懸命の精神とはおもむきが違っていたのは当然です。
松前藩の業務は交易管理業務中心である結果?松前藩の武力は貧弱で・明治維新後新政権側についたために旧幕府軍・五稜郭軍の攻撃を受けて籠城した兵はわずか60名ですし、松前付近に集中しているので遠隔地の知床方面で、ロシアと戦う主力戦力には到底なりません。
知床周辺に居住するアイヌ人自身が(九州地元民と違い)戦闘的気質の弱い職業集団ですから、(だから松前藩の保護下にあったのです)戦闘要員供給源になり得ません。
幕府としては多国間交渉に持ち込まないでロシアと1対1の領土交渉ではどんどん北海道に上陸して住み着かれるのを実力阻止できないのでどうにもならない・・当時の日本は押しまくられてしまうのは目に見えていました。
そこで先行的にアメリカとの基本的取り決めを原則としてその他諸国がその例に倣う方式を選んだのは、国際情勢を冷静に睨んだ賢明な選択でした。
ちょっとした不平等な取り決めはその後次々と条約改正交渉が成立していきましたが、領土を割譲するような条約を結んでしまってから、平和な交渉で取り返すのほぼ不可能になります。
これが国際関係のゆるがない大原則ですから、税率などは後でどうにでもなるものですから、譲って良いものと譲ってはならないものとは大きな違いがありました。
その時点ごとの優先順位を決めることが肝要です。
関税や裁判権などの修正交渉は一定の期間かかるとしても、国際交易力の実力アップ次第であとででどうにも変更できる項目です、
そもそも・・・交易条件を条約で決めても貿易品は生き物で交易品の優劣がすぐに変わっていくのでこの変化に合わせて修正交渉を行うのが原則です。
その意味では領土保全の緊急性の前に交易条件や一定範囲の治外法権を譲ったことを、あたかも大失敗のように宣伝教育する明治政府系統の学者はフェアーではありません。
この数十年で見ても、毎年のようにWTO交渉〜FTA、EUとのEPA交渉、TPPその他年中行事のように関税(交易条件)交渉をしているのを見れば明らかです。

円高とデフレ(円高メリットの享受)

 逆から見れば国民個々人が頑張ったからこそ、貿易黒字を稼げた結果の円高でもあるのですから、円高の効果(メリット)を国民個々人が享受するのは当然の権利となります。
スポーツでも何でも優秀な成績をおさめて何日も勝利の美酒に酔いしれていたら次の試合で負けてしまうので、トップの座を維持するために勝利の美酒は1晩だけにして直ぐにも次ぎに向けたトレーニングに精出すのが普通です。
円高は国民の努力の賜物とは言え、給与アップの恩恵を受けて海外旅行や安楽を決め込んでいれば、その内貿易赤字→インフレになって、国民の方が今度は逆襲されます。
政府や経済界・エコノミストはインフレ待望論一色ですが、経常収支黒字を維持しながら円安=輸入物価上昇を求めるのは虫のよい矛盾した願望です。
バブル崩壊後我が国だけの超低金利政策によって、円キャリー取引による(円の流出)円安の演出が出来て、貿易・経常収支黒字の連続にも拘らず円安を維持出来ていたことがありました。
リーマンショック以降世界中が低金利競争に入って来たので、このトリックが通用しなくなり、長期の経済原理に反した円安維持の咎めが出て急激な円高になりました。
(アメリカと日本がほぼ同率の低金利になれば、金利差による為替相場形成がなくなり貿易収支・経常収支の黒字・赤字関係が為替相場にモロに反映されるしかありません。)
キャリー取引のようなイレギュラーなトリックを前提にしない場合、整合性のある議論としては、貿易赤字に陥らない限り円安になりません。
円安待望論者は、国内的にはインフレ・・債務の目減り期待と対外的には円高だと貿易が苦しい・・貿易黒字を維持するために訴えているのですから、貿易黒字を続けながらの円安期待ですから、矛盾した論法です。
赤字→円安→輸入物価上昇ひいてはインフレになり・・結果的に賃金の実質引き下げになり(国民は困りますが)国債など各種借金の実質返済負担が下がります。
インフレ待望論とは、5月12〜16日に掛けて書いて来た世界的な借金棒引き論の広がりと根は同じです。
我が国は世界一の純債権国であって、借金棒引きまたはインフレによる減価で損をする立場にも拘らず、殆どのマスコミや経済学者がインフレ待望・借金棒引き・・一種のモラルハザードの広がりに熱心とは驚きです。
ところで、国債発行残高がいくらになろうとも国民が保有者の殆どである限り問題がないという意見を2012/03/19/「税収2と国債1」〜2012/04/08「財政収支と国際収支3(純債権国)」〜2012/04/19「国債残高の危機水準3(個人金融資産1)あたりまで連載してきました。
政府・マスコミや経済学者はこれを理解せずに、国債残高増加=借金大国になってしまうかの如く心配しているから、棒引き論・・インフレ期待=支払負担を軽くするモラル普及を広げる方が国益になると誤解しているのでしょう。
再論しませんが、世上誤った意見が流布しているので1つだけ付け加えてておきます。
「税で負担せずに国債で政府支出をすると次世代に巨額借金を残す」とマスコミや経済学者が不安を煽っています。
(私が/2012/05/05「海外収益還流持続性1(労働収入の減少1)」以下で批判して来た世代間対立を煽る論の1つです)
あるいは1000兆円の国債残高は一人当たり何万円の負債だと騒ぎます。
しかし、国債保有者の95%が国民であるとすれば、その債券の95%を次世代が相続するので次世代に残す借金は5%に過ぎません。(子供でも分る理屈でしょう)
1億円の定期預金を有する人が負債4000万円で死亡しても次世代に負債を残すことにはなりません。
不安を煽っている論者は定期預金部分をことさら隠蔽して銀行借金だけを強調している不公正な議論です。
5%前後は国際取引決済上必要な(普通の人は貯蓄以外に全資産の5%くらいは毎月の口座引き落とし用に普通預金を持つように)ゆるみに過ぎませんから、日本も外貨準備としてその何十倍も持っているので、心配がありません。
結局、次世代への引き継ぎは、わが国が対外的に純債権国の地位を維持出来るかどうかだけが要点であって、純債権国である限り国内の帳簿の付け替え・・定期預金を残してしその範囲で借金するかどうか・・国債残高の多寡・財政赤字の程度に関係なく、次世代はプラス財産を相続することになります。
インフレ・・例えば物価(給与や収入が)が2倍になれば、借金の額面が同じですから返済負担が半分に減りますので債務者にとってはメリットが大きいのは当然です。
日本は今世界最大の債権国・・すなわち政府債務は別として国民の金融資産が最大にも拘らず、インフレ期待論は政府債務を縮小すべく「国民資産を毀損すべき」という誤った期待です。
ただし給与負担としてはインフレになると、賃金アップは後追いのために、企業負担が減ります。
総じてインフレは個人が損をして組織が得をする状態と言えるでしょうか?

危険と隣合わせ2(メリット)

生活利便設備は、利便性が求められる以上は身近に・・何時でも利用出来ることが求められますが、一般的にうるさい、汚い、臭い、危険と隣り合わせのものが多いのが難点です。
トイレも、近くに欲しいものですが、その分汚い、臭い、非衛生(御不浄という人もいました)の問題がありました。
料理は出来たてがウマいので台所設備は、食べる場所・客を接待する場所に近いに越したことがありませんが、魚を煮たり焼けば臭いがするし、煙が出て煤けて座敷が汚くなる外、魚の腹わたその他食品残りの腐敗臭があるなど大変です。
火は暖をとり料理し、照明のために必要ですが、むやみに燃やせば危ないし煙たい・・これを何とかするために換気扇や排水設備が工夫されて、コンパクト化した調理場となって利用者との距離が近づきました。
(私の一家は東京大空襲で丸焼けになって疎開先の田舎で育ったのですが、子供の頃には井戸から釣瓶で水を汲んでいて瓶(みずかめ)などに蓄えて使用するし、排水が良くなくてドブが普通で「どぶさらえ」がイヤな仕事の1つでした)
燃料も薪や石炭などが近くにあれば便利ですが、家の中が片付きません。
私の育った地域では、台所部分は居室部分から切り離しているのが普通でした。
燃え盛る火のそばにいれば暖かいが危険です。
召使いも近くにいれば便利で安全ですが、召使いでもいれば気を使う・プライバシーが守れないなど出来ればこちらに用があるトキだけ直ぐ来て欲しいものです。
親しい人と気が向けば直ぐに話したいが、しょっ中自分の声の聴こえるところに親しい人が何十人もいるのもうっとうしいものですし、相手にも都合があります。
このようにすべて便利なものは近くにおきたいけれども、出来れば遠ざけたい矛盾した関係です。
矛盾した欲望があるところにこそ、社会改革・商機・・工夫の余地が大きいのです。
矛盾の多くを解決したのが、電気の発明による電灯・電波(電話やテレビ)に始まり現在のIT機器の活用ですし、あらゆる分野でのコンパクト化でしょう。
(電池の小型化=高性能化と各部品の省エネ化が大きな役割を果たしています)
電気はクリーンエネルギーと言われますが、トータルでは化石燃料を燃やして発電するとき100%電気化出来ないことよるエネルギーロス及び送電ロスが生じるマイナスが大きいでしょう。
クリーンなのは、使う場所において煙(CO2)や熱が出ない意味では正しいでしょう。
公害防止技術の未発達の時代には、工場地帯での石炭火力発電所は大量の煤煙等が集中的に発生していました。
家庭で天ぷらを上げれば臭いし油が飛び散って大変ですが、総菜工場で一日中天ぷらを揚げて配送すれば家庭では綺麗に出来上がったものを食べられる(その分冷えます・・運送時間の短縮や保存の工夫)のと同じです。
石炭の場合黒煙が目立つ割に大した被害がありませんでしたが、石油の場合黒煙ではないので見た目では対したことがないにも拘らず、健康被害が大きくなります。
(放射能の場合、臭いもないしもっとこの関係が大きくなります)
日本では古くから炭火を利用して御殿や座敷で利用することが発達しましたが、これは石炭を燃やして電気に変換するのと化学原理は違いますが、別の場所で別のものに造り直してコンパクト化して運搬して来る考え方は同じです。
炭にすると燃え広がる危険性がなく、管理し易い上にクリーンでした。
枕草子でも「いとつきづきし・・」と表現されているように、平安時代の御所では既に炭火を利用してました。
(ここまでは高校時代に習った古文の記憶ですが、今ネットで調べてみると日本では愛媛県の洞窟から約30万年前の木炭が発見されているようです)
世界中で我が国のように燃える火を屋内で安全に使えるように炭に置き換えて日常的に利用していた国があるでしょうか?
炭火自体は古代からどこの地域でも自然発生的にその存在を知り人工的に造る方法を工夫して行った筈ですが、その後生活面でどのように拘って来たか・文化の発展にどのように寄与したかについては、枕草子に類するような外国の古い文献まで知りませんので分りません。
私が知っている一般的知識では、西洋のストーブはライオンを檻に入れるようなものでしかなく、炭のように別の燃料にしたものではありません。
木造和紙障子や襖の燃え易い構造・・弱点でもあったのですが、この弱点が却って木材を炭火へ変換させた原動力だったことになります。
クリーンエネルギー利用の発達が、わが国固有の和室・茶室等の清潔な固有文化を育てたことになります。
(薪を直に燃やす囲炉裏や西洋式のストーブでは、畳の生活は無理でしょうし、茶道が発達出来たか・・)
電気は配線だけで足りるので、炭火よりもさらに取扱が簡便でしかも場所をとりません。
(大分前からお茶室でも電気炉が幅を利かしています)
芸術家の陶器製造現場でも薪を燃やす登り窯から、管理の簡便性から石油系に移行しているところがいくらもあります。
電気は火のついた炭や料理のように物理的運搬の必要がなく、しかも送電ロスはあるものの遠くでも近くでも品質(料理は時間の経過で味が劣化しますが)は同じです。
電気は照明用として当初は画期的でしたが、その後熱源としても使われるようになり、電波を通したテレビ等の情報伝達、近年ではITの発達で、万能的に多用途化されてきました。
電機系は遠隔操作出来て身近に物を置かなくとも良いメリットとコンパク化に成功したことによって身近におけるようになったことでしょう。
(大きかった電話機がコンパクト化してポケットに入るようになりました)

危険と隣合わせ1(メリット)

生活利便性のあるものは役に立つものであればあるほど、汚かったり危険性が高いものです。
薬のない頃に砂糖水を飲ませる程度と違い今の医薬品は効き目が強い代わりに誤って処方すると危険ですし、また副作用が強いので管理して利用する必要があります。
フグはうまいけれども厳重な調理が必要ですし、車も飛行機の便利な分自転車よりも危険ですし排ガスも多く出します。
昔から必需品でも汚いものや危険なものは、危険性を前提として出来るだけ遠くに追いやって目に触れないようにする・・馬は必要であるが馬糞だらけの馬小屋は殿様の御殿から遠く離れたところに配置する・・便所も必要だが少しでも離れたところ造ってありました。
明治の始め、鉄道の駅も歩ける最大のところまで遠いところに造るものでしたし、飛行場は今でもかなり離れています。
権力中枢の裁判所やお城を基準に見ると東京も大阪(城主のいなかった大阪や甲府は裁判所が基準です)もあるいは小さな町である佐倉でも足利でもみんな歩いて15〜20分前後に駅があります。
(昔の人は歩くのが早かったので10分以内かな?)
鉱工業生産も必要ではあるが汚いし危険だから、貴顯の住居地から遠く離れた場所で営むものでした。
必要なものは身近におきたいものですが、危険や悪臭・騒音等と隣り合わせのために、如何に安全に管理して最大限近づけるかが人類の智恵の見せ所です。
石炭・石油が必要・・それならば近い方が便利ですが、首都の真ん中に「ぼた山」があり、炭坑夫が王宮の隣で生活しているところはないでしょう。
石炭石油は僻地で都会が出来た後に取れるようになったからでもありますが、それならば取れるところに消費地を持って行く・政治の中心が移って行っても良い筈です。
アメリカで言えばボストンやニューヨーク等の中枢部とシカゴ等の大工業地帯は飛行機で移動するくらい離れていますので、工業地帯に住む人と政治の中枢にいる人や企業経営者とは違った世界に住む関係でした。
病院関係も近ければ便利ですが、伝染を恐れて隔離が原則で、都市部で共存するようになったのは、まだ数十年くらいでしょうか。
(元々郊外にあったのが都市の拡大で市中心部近くなった例が多いでしょうが・・・)
我が国の場合も外国に倣って出来るだけ工業地帯をエリート向けの高級住宅街から離すように努力していましたが、一般の工業地帯で言えば、川崎から東京都心までの距離は数十キロメートルしかなく戦後出来た千葉の臨海工業地帯でも東京都心から60km前後です。
原発が一般の工業地帯よりも遠く離れているようでも、福島原発から東京まで僅か約200キロメートルしか離れていません。
これが茨城の原発(東海村の原研)になると僅か100km前後しかありません。
危険な物は遠く離しておくべきだと言う選択自体は正しいのですが、為政者・経営者が安全地帯にいる結果、危険回避に向けた切迫感が薄まることになります。
為政者・経営者が危険と隣り合わせにいないと、慈善事業的発想で労働者(及び工場近くに住む家族)が劣悪な環境で働くのは可哀想だからという上から目線での改革しか出来ません。
チェルノブイリのようにモスクワから遠く離れた場所の場合、指導部の緊迫感が緩くなりがちです。
ロシアでは石棺で覆ったまま放りっぱなしですが、我が国で一日も早い除染や、廃炉に必死なのは近距離にみんな住んでいるからです。
チェルノブイリの放射能汚染図で見ると半径600kメートルまでしか同心円は出ていませんが、その外側にあるモスクワまでの距離は、図上約700キロメートル前後もありそうです。
狭い国土の我が国では、遠く離れたところに工場地帯を造ったつもりでも諸外国とはまるで距離が違います。
上記のように高級住宅街も外国に比べればほぼ隣接地・工業地帯内と言える場所にありますので、上下挙げて公害・大気汚染や水質悪化に対する感度が良かったことが幸いして公害対策が進んだのでしょう。
川崎や千葉からですと一般工場の煤煙でも風向き次第で都心に汚れた空気がマトモに吹き寄せますので、昭和40年代から問題になった公害問題は、公害反対運動・・革新勢力だけの関心事ではなく企業経営者や政権側も(自分の妻子が被害を受けるので)放置出来なくなったのです。
ちなみに千葉川鉄公害訴訟は1975(昭和50)年に提起されたものですが、大気汚染問題は首都圏全体の関心事になっていたのです。
四日市喘息は川鉄に先立つ公害でしたが、首都圏での上記訴訟提起のインパクトは大きかったので、これ以降・政府・企業側は、工場は汚い・うるさい・臭いものという開き直り・・工場の近くに住む方が悪いというような発想を切り替えます。
公害発生は我が国特有ではなく(世界中似たようなレベルの工場が操業していましたので)イギリスのスモッグ例でも明らかなように世界中同じようにあったのですが、工業適地と住居適地が同じ地域にある我が国特有の弱点が却って新たな展開を目指すようになれた原因です。
工業用地を遠くへ持って行く発想を諦めて、工業発展と健康な生活との共存を目指すように・・脱硫技術その他公害防止技術が発達したのが幸いし、我が国は世界に冠たる公害防止・環境技術を発展させられました。
鉱工業の公害対策だけではなく、密集した都会地でのビル取り壊しが多いことから、その方面の工夫も進んでいて今では大した騒音や埃を立てずに歩行者が多く歩いている直ぐそばでも大した危険性なしに行われるようになっています。
(何百万人も毎日利用しながらの東京駅の改築計画の見事さを見て下さい)
今回の原発事故を1つの教訓として原発や大規模化学工場等と共存のための智恵を結集して行くべきでしょうし、そうした努力をしてこそ世界に誇れる技術立国へ再度進んで行けます。
危険だからやめたというだけでは、智恵がないし発展性もありません。
マゼランやコロンブスの大航海もすべて未知の危険に挑戦してこそ成功したものですし、その他新技術の開発はすべてその傾向があります。

短命化のメリット

食うのにさえ困らなければ、「毎日同じところに帰るなんて面倒だ」と言うオスは(本来・本能に従えば・・)世間に一杯いる筈です。
気候が良ければ酔った勢いでベンチに寝ても良いし、(植木等のスーダラ節の世界です)寒ければ飲んだ場所近くのカプセルホテルその他いろんな寝泊まり場所があります。
「そんな無茶な生活をしてれば長生き出来ませんよ・・」と言われても、その日その日酒を飲んで(飲酒に限らず演劇や趣味を楽しむ・バックパッカーとして世界中ウロウロしてどこか出先で人生を終わるのも同じです)その日その日が楽しければ長生きなど・・「それがなんぼものや!」という男の方が多いのではないでしょうか。
長生きして下さいというのは子供がいるから、妄想と言うか(山上憶良のように)煩悩が起きるのであって、子供も妻もいなければ何時死のうと勝手です。
長生きして年取って周りに友人もいなくなりヨボヨボになってからの一人暮らしは何となく惨めな印象ですが、若くて元気に多くの友達と遊び回っているうちにある日いきなり死んでしまう方が・・酔っぱらって道路に倒れてそのまま死んでしまったとしても、人生・・生き方としては幸せな気がする人が多いでしょう。
こう言う選択をするヒトが増えれば長生きする男が減って、医療や年金財政が楽になると思いますが・・・。
寿命が短くなれば、セシュームやストロンチームなどいくらうようよしていても(体内被曝しても)効果が出る前に死んでしまうヒトが増えるので、原子力発電に反対する必要もないし(これが自民党や財界等原発推進派の考えの基礎ではないでしょうか?)、福島に住んでいてもテンで怖くありません。
福島産の牛肉でもほうれん草でもフグでも何でもウマければ食えば良い・・「毒にあたって死ねばそれはそのトキのこと」と考えれば気楽な人生です。
蜂の世界では働き蜂ばかりで子を産むのは女王蜂一匹ですが、人間も大勢の男女の中から子を産むのは文化才能に特別に恵まれた女性だけの限定・・特許制度にしてその他は男女を問わずに働き蜂のように(彼らから税を取って)子育て費用負担をさせるだけになれば、子育てに対する一人当たり負担が極小になりコスト的には成り立ちます。
1対1のペアーで子を産まない・・1万人に一人の割合の優秀な女性しか子供を産まないと次世代の維持ないし高齢者の生活はどうなるかですが、産める女性は女王蜂のように10〜100人くらい生む時代が来るかもしれません。
(犬みたいに一度に一杯・・小さく・200gくらいの赤ちゃんを産むようになるのかな?)
子育て費用は子を産まないヒトみんなで分担すべき制度(・・特にま新しい制度ではなくミツバチの世界では昔からそうなっています)上記のようにしたい放題の気楽な生活をしている男性は早く死ぬので高齢の男性は激減しますし、女性も子を産まない女性は以下のように短命化して行くので、少数の次世代が多数の高齢者を養う事態はなさそうです。
女性は子を原則として産む性であるからこそ、自身の健康に敏感になっているだけではなく周囲にもこれを押し及ぼそうとする傾向があります。
・・この結果女性は長生きですが、女性でも特殊な選ばれた女性・・例えば1万人に一人だけ子を生み、それ以外は子を産まないとなれば、(子を産む予定のない)一般女性は健康維持に対する関心も男性並みになって来る可能性が高くなるでしょう。
そうなれば、子を産む予定のない男性並みに煙草を吸ったり夜更かししたり、無茶な生活をする女性が増えて・中性化して来て結果的に女性も短命化が進む筈です。
女王蜂のように特殊な女性以外は中性化・男性化が進む・・みんな働き蜂になって行くので社会全般の税負担者が増えますので、一人当たりの負担は軽くなります。
人類が短命化すれば、環境激変に対する適応力がこれに比例して高まりますので、人類の将来にとっては慶賀すべきことです。
(平均寿命100歳の場合300年間で僅かに3回しか回転しませんが、30歳平均寿命の場合10世代も回転します。)
平均寿命が仮に30歳になれば、今の老人ホームや介護施設や介護関係者は不要ですし、医療関係費用も今の3〜10分の1くらいで済むでしょう。
現在でも普通の人は30歳くらいまで病気らしい病気をしませんので・・・元気なうちに急死するパターンが理想的です。
これからの医学は、手足がピンピン動くかどうかのために研究を進めるべきであって、手足が動かず寝たきりでも救命にだけ努力するのはやめた方がよいでしょう。
多くの人は寝たきりでも長生きしたいのではなく元気に長生きしたいだけです。
July 10, 2011「自殺と美意識」のコラムで恥の文化崩壊を書きましたが、みっともなくて寝たきりの長寿を医学が研究しているために、百万人単位で生ける屍をさらしている状態が続いていることも恥の文化を崩壊させた原因の1つかもしれません。

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