メデイアの事実報道能力3(実質賃金低下論のマヤかし1)

これからの防災対策は、夜間帰宅難民だけではなく昼間の滞留人口を含めてどう捌くか・・ターミナル駅周辺に遊水池みたいなゆとりのある施設をどうやって準備しておくかの工夫・都市計画が必要でしょう。
病院に限らず駅などの拠点では、(発電機より今後は蓄電池の方が合理的?)緊急電源準備も必須です。
千葉駅ですら電車が一斉に1〜2時間でも止まったらどうなるかですが、幸いここ5〜6年かけて駅ビル再開発によって容量がアップしている・・・改札の内外で従来の何倍ものゆとりのある広場ができていてベンチも数多く設置されているほか、駅ビル内のショッピング街周遊でもかなりの滞留人口が収容されるようになったはずです。
私は公の施設の民間への管理委託の選定委員会委員として制度発足当初から関与していますが、東北大震災の翌年の審査では駅近くで音楽ホール等を擁する施設では、帰宅困難者に対してどのような収容努力したかの報告項目もありました。
その他ホテル等は一般的に駅近くですから、駅周辺ホテルや各種ホール等の協力を得られれば、エントランスホール等が大きければそこの解放だけでもかなり役に立ちます。
市としては災害時にこういう所との協力協定を進めるなど地道な努力が始まっています。
最近都心付近の超高層ビルでは概ね1階部分は全面的にホール仕様で公共的空間化していますので、いざという時には、企業の社会貢献の一環として(企業秘密/保安上の問題があるので)一階部分に限って滞在を受け入れる・一定量の毛布等の提供協定に応じているようになっていると思われます。
こういう意味では、京都駅と大阪駅のホテルグランビアにそれぞれ泊まったことがありますが、どちらもホテル受け付けロビーの狭さには驚いたものですが、これではイザという時の受け皿になりません。
メデイアに限らず政党も、何かあれば内容如何にかかわらず、政府批判の決まり文句・表層的批判を言ってればもてはやされるような態度ではなく、もう1〜2段の掘り下げ能力が求められている時代に入っているのではないでしょうか?
熊本地震ではみのもんた氏が、決まり文句・自衛隊批判のツイートしてすぐに大反論を受けましたが、メデイア界では従来型決まり文句の強調・思考停止状況が見られます。
情緒的・表層的報道だけで信じ込むおめでたい階層が減ってきたことが、何でも反対の社会党がダメになった原因です。
ところで、メデイアに事実をカチッと掘り下げられる人材がいるかの疑問です。
「次郎物語」の時代〜戦後の「24の瞳」(それでも小学校の女性教師が主役で新時代の到来を告げる程度)の時代までは、小学校の教師が村の指導者クラス〜憧れる対象でしたが、今もそう思っている人が何%いるでしょうか?
そのころは、なんとなくではなくきちっと文字が読めて数学もある程度分かっていればエリートだったし、海外文献(論文まで理解できなくとも英語やドイツ語の新聞程度)を読めれば国家のエリートでした。
今では、高校教師度どころか大学教師さえその分野で何かの専門かな!(企業で製品開発している人と同)程度の認識でしかなく、一般的な意味の指導者と思っている人はあまりいないでしょう。
端的に言えば、メデイア人材レベルが小中高教師(早くから「でもしか先生」と言われるようになっているのと)同様に国民のレベルアップについて行けていないので、国民の求めるレベルまでの掘り下げ能力がないまま、情報・ニュースに飛びつき浅い理解のままマイナス思考で「社の意向に合わせて」決まり文句で批判報道している状態にみえます。
本来社会の落ちこぼれ人材で小さくなっていたのが、ヤクザになるとみんな避けてくれて大きな顔をして街中を歩ける・昭和50年代のヤクザについて書いたことがあります。
新聞〜メデイア界は明治から大正までは一定の高学歴で文筆能力のある人材のつく分野でエリートでしたが、今や社会のエリートでも何でもないのにメデイア=情報に近い場所にいる→操作できる場所にいるために、社会の指導者ブルことができていた弊害・.実力とあっていない弊害が出てきたと思われます。
事実報道の重要性を軽視し、自社意見に有利な事実しか報道しないのでは、メデイアの役割放棄ですが・・メデイア界の人材では民度のレベルアップに合わせた事実分析能力がついていけないとすれば仕方がないですが・・。
事実といっても言葉・単語により記述するのですが、その単語の理解力にかかってきます。
このコラムでは、日経批判をしょっちゅうしていますが、記憶に残っているところでは、アベノミクスの始まり(13〜4年?頃)に、「好景気といっても実質賃金が逆に下がっている」「庶民には実感がない」という意見が続いたので、実質賃金の誤用でないかという批判・反論を書いたことがあります。
統計発表の都度今月も実質賃金が下がったと大規模報道が続き、「国民に好景気の実感がない→アベノミクスは失敗だ」という批判論が盛んでしたが、粗忽な私は何気なく「へ〜こんなに景気よくても賃金が下がるのかな?」程度の不思議感?で読んでいました。
しかし、あまり続くので「実質賃金」ってどうやって計算しているのかが気になって調べたら単語の「実質」と言う語感による錯覚効果を利用していることがわかったのです。
例えば人口減を煽るために?「合計特殊出生率」あるいは経済用語で「季節調整後」という専門用語がしょっちゅう出てきますが、その計算根拠を確認する暇のある人はいないでしょう。
・・「何か難しい計算をしているのだろう」とそこで一旦思考停止して、正しい数字なのだと自分をなだめて、その前提でメデイアの主張する意見を読んでいくのが普通です。
これと同じで反アベノミクス論の中で(国民消費が増えていないとは言わないものの)中国人の爆買いやインバウンド消費でデパート等が潤っているのを強調し、爆買いやインバウンド消費に乗り遅れた個人商店や地方百貨店には恩恵がないことや、地方に景気の実感がない・・等々の報道と実質賃金が今月も下がったという毎月の記事と噛み合わせれば、私のような粗忽人間あるいは純朴な人間は、難しい計算はわからないが、実質的に見れば購買力が下がっているのかな?日本人の国内消費が落ちてるのかな?という印象を受けます。
メデイアによる景気悪化のイメージ報道と私の実感が合わないので、「実質賃金って」なんだろう?と自分で考えるようになったのがこの疑問の最初です。
私の素朴な経験値・管理職になって基礎賃金がアップしたが、そのかわりゴツく稼いでいた残業手当や成績優秀な営業マンの歩合給がなくなって実質的に手取りが減るようなイメージで受け止めていたので、こういう個々人の変化ってどうやってエコノミストが調査できるのかな?という疑問から始まったのです。
あるいは、バイト時給が800円から1000円にあがると2割以上のアップですが、一方で年収2000万の人の給与は年1回しか上がらないが、どうやって平均しているのだろうか?
2000万円の人の給与が1割・・200万上がった場合、時給200円上がった人何人分と合算して平均するのかなど疑問が尽きません。
ある公共施設でアンケートをとっていて、回答者の属性・・・年齢やどこから来ているか、利用頻度など聞いて集計して%を出しているのですが、サークルなどの利用が多い(ほとんど)のに、集団利用者と個人の区別なくアンケートしているので、回答者合計で何%がどこから来ている高齢者率何%などとしていても、それが、十数人のグループの代表者や幹事役の意見を一人に数えていて、個人で来ていて個々人全員が回答(率100%近い)する場合、個人で来ていた人の比率が大きく出すぎないかの質問をしたことがありました。
集団員全員にアンケート依頼しても全員が書いてくれる団体と、代表者が書けばいい(その他は受け付けに普段から顔を出さないのが普通)グループもあるでしょう。
この辺は受け付け実務をしている人は詳しいでしょうが・・ある会議で質問してみると、事務局の方は施設運営者に聞いていないので分からないという回答でした。

メデイアの事実報道能力2(在特会)

言論の自由市場論のトリックに挑戦し始めたのが、在特会の派手な言動(やりすぎ?)がニュースに取り上げられるのを狙った方法ですし、別のグループが応援する弁護士会相手の懲戒の大量請求運動でしょう。
内容が無茶であればあるほど話題性がある・大規模な報道対象になることで、報道されない問題点を社会に拡大する戦略としては成功しているように見えます。
在特会は巨額賠償金を取られましたが、結果的に在日特権?の実態というか反感の広告効果が大きかったし、(朝鮮人学校?が長年続けてきた公園の独占的使用を中止しました)弁護士個人ではなく「弁護士会が朝鮮人学校への補助金について口出しをする」問題点も(是非は国民判断に委ねるとして)広く知られるようなりました。
朝鮮人学校への補助金の何が問題か,(補助金の内容や朝鮮人学校と一般の学校の違いも知らないし)問題があるとしてもなぜ弁護士会が意見を公表する必要があるかは多分専門の委員会で十分な議論をして決めたのだろう程度しか門外漢の私にはわかっていません。
この機会に勉強すれば良いことですが、自分のコラムを書いている勢いで関心の赴くままにテーマが移りそれに合わせて書いているだけで忙しくこのコラムに関係のない分野の研究をする暇がありません。
参考までにネット検索すると以下の記事が出ました。
https://www.sankei.com/politics/news/170427/plt1704270025-n1.html
2017.4.27 18:51更新

朝鮮学校への補助金を不交付決定 学校行事では北朝鮮指導者賛美の歌「白頭山に行こう」披露 日韓合意否定に「主旨に反する」 千葉市

千葉市が補助金を交付しない決定が、人権問題とどうつながるかまでは私には不明ですが、千葉県弁護士会がこれを問題視したのでしょうか?
メデイアは自分勝手に「市民感覚」を標榜して好きな方向へ世論を煽ってきましたが、実はメデイア自身が「市民意識」と遊離しているの知らずに?メデイア報道の尻馬にのって、(情緒映像だけで影響を受ける層を支持母体とする)なんでも反対の政治になってしまったのが、旧社会党であり、その系譜を引く革新系政党です。
いわゆるモリカケ問題も、「疑惑」と言うばかりで「何の疑惑か!」すら提示しない思わせぶり報道ばかりで2年も国会審議を停滞させているのですが、市民が納得していないのは思わせ振りな報道姿勢の方ではないでしょうか?
18日午前8時発生の大坂の大震災発生報道では、阪神淡路地震に比べて(地震規模が小さかったとはいえ)人的被害や大規模火災等の少なさ・・・・神戸震災と比較してのその後適応力の高さに驚いたものですが、翌19日の日経を見ると「都市防災の脆弱さが浮き彫り」などの批判一色には驚きました。
・・朝の通勤ラッシュ時の震災にも拘らず交通関連事故ゼロは(脱線等は皆無です)特筆すべき成果でしょうが、通勤客が歩くなどの写真を強調して脆弱さを強調していました。
交通機関や工場やエレベーターでは事故防止のために一時停止しての安全点検が必須ですから、そういうことをあげつらっても意味がないでしょう。
今後の課題として工夫すべきは当然ですが、頭っから批判姿勢で報道を始めるようなことではありません。
まずは、「大した被害がなくてよかった」と胸をなでおろしたのが国民大多数の感慨ではないでしょうか?
自治会や役所での防災関連での議論を見ていると避難場所と言っても、地元住民の自宅倒壊リスクなど誰も本気で想定していない・・住宅地内の避難経路など(みんな路地裏まで知り尽くしているし)にもあまり関心がありません。
マンション業界でも倒壊リスクの時代を卒業して、高層ビル内の揺れ幅をいかに縮小するか・・耐震構造から免震構造に移っています。
個人の関心では、耐震性のない家は論外として免震構造の家に住む他に、住宅内のタンスや本棚や花瓶などの危険をどうするかの自助努力の工夫にはいっています。
「大都市の脆弱性浮き彫り」と言ってもハードのリスクを卒業してターミナル駅等での滞留者対策など新たな課題に対する今後の課題でありいわば贅沢な悩みです。
東北大震災後は災害対策の重点がこのようなソフトに向かっていることがわかります。
公園等にトイレがあればいいのではなく、綺麗で使いやすいか、ウオッシュレット化しているかのように「より良いものか」どうかが問われる時代です。
この結果、耐震構造のないマンションや住宅は時代遅れの遺物意識が定着しているので、「耐震補強工事が終わっているか?」終わっていない結果神戸のような倒壊事故が多発していれば、「なにかあれば、まず政府批判」の報道姿勢・・これまでのセオリーどおり、震災対策不備であるかのようなイメージを真っ先に掲げる「脆弱性批判」も違和感がなかったと思われます。
ところが、蓋を開けてみると、耐震補強すらしていなかったことによる震災被害は、高槻市の小学校のブロック塀倒壊事故による児童の死亡事故1件ともう一人80歳の事故の合計2件だけで、その他の2名は自宅内の本棚等の下敷きになった80代高齢者等自宅内死亡事故だけだったようです。
以上によればビル倒壊被害対策は建築基準法令整備などでほぼ解決済みであったことがわかります。
高槻市のブロック塀倒壊事故による児童死亡事故は、前時代的事故でしかも最優先であるべき教育設備で起きたのですから、文字通り地元政治のレベルが問われます。
今後の事実関係の進展によるでしょうが、耐震補強工事などは努力目標ですがそれでも速やかに対応してきたのが普通ですが、ブロック塀の高さ制限等の既存規制法規に違反している(法規制後のブロック塀)とすれば、これを放置していた地元政府の政治責任問題です。
これこそがメデイア好みの政治批判テーマになるべきでしょう。
前時代的ハードの未整備の結果,児童死者まで出したことに対して、従来型メデイアの報道姿勢の延長であれば厳しく非難すべきですが、メデイアは一報しただけでその後は日経新聞で見る限りほぼ無視状態でネット空間で喧しいだけです。
一方で都市機能の脆弱さは政府の責任であるかのような、イメージが刷り込まれています。
今回の大阪北部震災では、老朽家屋対策その他の防災機能が(高槻市を除いて)飛躍的に進んでいたことがわかり、これを同胞としてまず慶賀すべきですが、今後はエレベーター等も即時停止しないで最寄の駅や階まで徐行運転して客を電車やエレベーターから解放するなどのソフトが必要ですし、一旦停止後の再開までの時間短縮などの工夫を期待する(この種の努力は分秒単位の短縮などの地味な努力の積み重ねになります)前向き議論が一切ありません。
ただし、私のように報道姿勢に違和感を感じた人が多かったのを感じたか、抗議の電話が行ったのか?すぐにこの種の批判的報道が下火になりました。
すでに耐震補強時代が終わっているのが普通、建物倒壊事故や電車脱線等による直接被害よりは、今後は一時停止のあり方や帰宅困難者や行路途中で行き場を失った人の受け入れ施設の整備をどう進めるかが重要です。
交通機関の事故がなくとも一定規模の地震があれば点検による運行停止が必須で、(一般企業工場再開もその後です)その間のサプライチェーンの途絶や滞留者の居場所が重要です。
過疎地のように2両編成で30分に1回の電車が3時間止まっても駅周辺滞留者人口は知れていますが、大都市では数分〜10ごとに10何両編成の電車が発着し、大量乗降客の大方は5〜10分後には別の電車ヤバスに乗り換えていなくなってしまう前提で駅施設が出来上がっています。
これが1〜2時間完全停止すると(道路事故の場合一時滞留しますが、そのうち迂回路に誘導できますが・・)駅内外に人が溢れて収拾のつかない状態になります。
帰宅困難者だけではなく今では、昼間の滞留者だって駅に立ちっぱなしというわけにいかないので、休憩拠点整備などに関心が向かっています。

メデイアの事実報道能力1

高裁が地裁判断を否定すると「市民感覚に反する」とか高裁で判断が変わると「司法の信頼を揺るがす」という論理脈絡のない批判社説に何故なるのか、逆に「市民感覚」で理解できない人が多いのではないでしょうか?
野党が何かある都度「市民の声を無視」と市民代表を僭称して街頭行動するのは、メデイアが何かというと「市民感覚がゆるさない」という思い込み意見と軌を一にしています。
市民・国民の声は、選挙による結果が最も正確であり、数%しか支持を受けていない政党が、自分たちの意見が「市民代表」というのは無理があるのと同様に、選挙の洗礼を受けないメデイアが独断で市民感覚を決める権利はありません。
主張説明責任については、1+1=2の論理を説明する義務はありませんが、1+1=3の結果であれば、その論理根拠を説明する義務があります。
郷原弁護士の意見によればのちに紹介引用する通り

「確立された科学的手法ではない鑑定であれば、鑑定の経過やデータ・資料が確実に記録されていることや、再現性が確認されていることが、鑑定の信用性を立証するために不可欠と考えられるが、本田鑑定は、データ・資料が保存されておらず、再現実験による確認もできなかった。このような鑑定に客観的な証拠価値を認めることができないのは当然である。
本田氏のDNA鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無について決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものである。」

というのですが、こうした現在科学の到達点・事実の有無について論理検証があってから「迷走」かどうかの意見の是非・「市民感覚」が決まることでしょう。
どこかで読んだ意見では本田氏の鑑定手法では、肝心のDNAが消失してしまう方法であって再現実験できないと紹介している意見を読んだ記憶です。
(きっちりした記憶はありません)
決定が出て問題点が具体的に指摘されている以上は、昨日紹介した意見はジャーナリスト上がりの作家らしいですから、作家としては願望を書くのは勝手ですが、報道機関・公器を標榜する以上はムード的無罪願望・不当決定主張ではなく、決定に書かれている本田鑑定や写真に関する主張などに対する問題点に対する逐一の内容に対して具体的批判すべきです。
訴訟というのは、負けさせる方に十分な反論や説明チャンスを与えて・これ以上説明ができないと言う意見表明を待ってから弁論終結するのが原則・・不意打ちをしない原則ですので、高裁が年単位で弁護側に再反論のチャンスを与えていたのにいつまでも出さないので、「あるのかないのか」釈明を求めていたところ最後に「鑑定記録を廃棄した」と表明したので「それでは」ということで「結審」したものと推測されます。
(本田鑑定は弁護側の鑑定ですから、きちんと鑑定したことを立証するための資料提出責任は弁護側にありますが・この資料提出指示に対して何年も返事を引き延ばしていた挙句に「廃棄してありません」いう回答をしたとすれば、(記録自体を読んでいないのでこの経緯が事実かどうか不明・事実とすれば)驚くべき経過(弁護士倫理として如何なものか?)ですが、弁護側の無責任な訴訟態度を紹介しないで4年間も「訴訟が迷走した」と裁判所の責任であるかのように報道するのは実上のフェイクというべきでしょう。
「迷走」というためには本田鑑定が現在科学の到達した争いのない・疑問の余地のない(1+1=2のような公理)鑑定手法であるのに高裁が無駄な説明を求めたので時間がかかったという前提を提示しなければなりません。
(昨日紹介した不当決定主張派の記事内には別の鑑定人が本田鑑定の手法では再現実験できないと「サジ」を投げたらしい経過も出ていますから・・「本田教授が再現実験に応じなかった」という何処かで読んだ意見とも符合します))そもそも事実経過を吟味しない「市民感覚」で裁判批判するのってメデイアのすることでしょうか?
健全な思想・市民感覚は、事実を提示されて初めて生じるものでしょうから、そのために民意重視社会では情報開示が重視されてきたのですし、情報伝達手段としてのメデイアの役割が大きくなってきたに過ぎません。
情報を先に入手する関係で一般人よりも意見形成が早いでしょうが、メデイアの役割は事実を正確に伝えることが第一です。
それなのに肝心の事実報道をしない、あるいは軽視して自社の主張を流布することを優先しているのではメデイアの存在意義を自己否定することになります。
高齢化社会を反映して、最近認知症のかなり進んだ人(被後見〜被保佐相当?)に関する相談が増えましたが、「こういう場合どうするか」という意見では、むしろ人生経験のある分、ついてきた子供世代よりも立派な意見を言いますが、1〜2週間前にあった事実を前提とする意見では、みんな忘れてしまっているのでトン珍カンな会話になります。
ですから高齢者との会話では問題になっているテーマに関する過去の事実関係をおさらいしてから始めるのが妥当です。
それをしないで「おじいちゃんは話にならない」とバカにするのはバカにしている方のレベルが低いことになります。
4〜5人の会食中に過去のやり取りが会話のテーマになった時に、過去のやり取りの場にいなかった人がいる時には、その会話に入れない人に対して「実は10日前にこういうことがあってねと・・」といなかった人に過去の経緯を説明してから会話に入るマナーと同じです。
数学その他のテストでいえば、どんな優秀な子供でも一人だけ別の問題を渡れされたらゼロ点になります。
ボケたと言われる老人でも判断力は情報次第によるということです。
我々シロウトは(法律専門家でも自分の担当していない判決等は、専門雑誌に掲載されるのは特報以外は約半年後ですからそれまでは)生の事実どころか整理された事実すら入手できないので、「メデイアやネットの情報によれば・・・」という仮定形の議論しかできませんし、まして専門外分野では視聴者の知的能力に関係なくメデイアがフィクションを事実のように吹聴すると、世論を誤った方向へ誘導出来てしまいます。
17日紹介した毎日新聞の報道でいえば、文字情報では一見客観的に書いていますが、動画に入ると延々と「不当決定」をなじる批判や激励ばかりです。
毎日新聞に限らずその他ネット報道を検索して表面に出るだけを見て流していくとほとんどのメデイアは毎日新聞的なニュース的構成・・目に入るのは「不当決定」と垂れ幕と言うか看板ばかりです。
メデイア界では偏った報道をしているのではなく、「そういう集会があった事実を動画で報道しているだけ」と言うことになるのでしょうが、文字からの情報入手に疎い(専門分野では難解な単語が多く)民衆のおおくが、いかに不当決定が行われたかのイメージ操作・・刷り込みを受ける報道の仕組みです。
じゃ「決定が正当」だという支持者の方も集会をひらけばその事実を対等に報道するというのでしょうが、政府.裁判所がそういう集会を企画できるはずがないので、結果的に一方的なイメージ操作になります。
この辺は、工場進出〜廃棄物処理場やマンション建設反対その他反対運動や法案反対集会や反政府デモばかり報道するのと同じ問題があります。
こういうのって公平な事実報道と言えるのでしょうか?
集会を行なっていることやその集会で「〇〇反対」の意見が発表されていること自体は事実としても、そういう発言ばかり洪水のように流すと、肝心の工場進出による地元メリットや推進派意見が全く報道されません。
廃棄物処理場の必要性などのメリットデメリットの公平な解説がないと、情緒に与える影響では偏るイメージです。

袴田再審事件5(メデイア対応4)

「事実」とは「迷走」という意味不明な主張ではなく、高裁決定過程に現れた訴訟での論争経過を分析紹介した上で、この経過自体についてどう評価するかは、文字通り受け手が判断すべきことです。
なんら経過事実も示さずに市民に代わって「迷走」評価を下すのは僭越すぎます。
迷走の原因が、弁護側提出証拠・本田鑑定の合理的裏付け記録の提出を弁護側が渋り続けたことに原因があるとしたら、本田鑑定の論理が記録裏付けなくとも公知の論理なのかどうかの吟味が必須です。
袴田再審事件は郷原氏の意見をちょっと見た印象から書き始めたのですが、どんどん具体的に書くようになると、誰かが都合よくまとめたかもしれない決定内容をもとにして意見を書いているのでは(私自身)不安になってきましたので、この辺で遅ればせながら「高裁決定要旨」を引用しておきます。
要約では読解力や関心の方向の違いでメデイアによる編集誤差がありうるでしょうが、最近の裁判所はニュース性のある事件では裁判所の作成した要旨を配布していますので、意見としてではなく「決定要旨」と銘打って掲載している以上は自分好みに「 要約」したものではなく高裁配布資料そのままの引用と信じるしかないので、・・客観性がある前提(信用できないと思う方は独自検索お願いします)で以下書いていきます。
一字一句修正のない正確な決定文は、判例時報等に印刷物として出てくるまで部外者は入手できません。
ちなみに、日経朝日毎日等の大手を検索してみると、決定要旨は有料会員しか入れない仕組みですので引用できません。
大手メデイアは自社の意見を報道したいが、自社意見の前提になる事実開示のハードル(これを職業にしている人は別としてネットに出ている要旨の正確性比較のためだけに有料会員になる一般読者は滅多にいない)を高くしているのでしょうか?
不当決定と主張する弁護側の方で、不当という集会を開いて報道機関に公開し、これを報道機関がこぞって大規模報道している以上は、不当とされている決定要旨と決定全文をネットや新聞等で公開すべきではないでしょうか?
弁護側で国民に決定全文を見られるとまずいから公開しない判断とすれば、「不当決定」という主張自体眉唾になります。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018061100992&g=socによる高裁決定要旨です。

確定判決で犯行時の着衣と認められた半袖シャツと袴田さんのDNA型が一致しないとする鑑定で用いられた手法は、基礎となる科学的原理の信頼性が十分ではなく、複数の専門家から科学技術として確立した手法ではなく原理に関しても疑問があるとの意見が出されていた。
それにもかかわらず、地裁決定は十分な検証ができない資料を根拠としてその証拠価値を高く評価しており、慎重さを欠いている。
また、一般的に実用化されている抽出法ではなく研究途上の段階である上、使用された試薬「レクチン」はDNA型鑑定に必要な白血球を選択する作用がなく、DNA分解酵素を含んでいることも明らかになった。
手法の科学的原理や有用性に深刻な疑問が存在しており、鑑定を信用できるとした静岡地裁決定は不合理で是認できない。
地裁決定は、半袖シャツなど確定判決で犯行時の着衣と認定された衣類5点の発見から近い時期に撮影された写真を基に、衣類や血痕の色合いと類似した衣類をみそに漬ける再現実験の結果を比較し、衣類が長期間みその中に入れられていたことをうかがわせるものではないと判断した。
しかし、写真は劣化や撮影の露光の問題、当時の技術水準などにより、衣類5点の色合いが正確に表現されたものではないことは明らかで、大まかな色合いの傾向を把握するにも不適当な資料と言わざるを得ない。衣類5点が見つかったみそタンク内のみそと実験で使われたみその色が異なっていたことからも、地裁の判断は不合理だ。
よって、鑑定結果やみそに漬ける再現実験の報告書の証拠価値は低く、袴田さんに無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たるとは言えない。
このほか、第2次再審請求審で提出された新証拠には、確定判決で認定された犯人性に合理的な疑いを生じさせるような証拠価値のあるものは存在しない。
地裁が再審開始とともに決定した刑の執行停止を職権で取り消すかどうかは、事案の重大性や有罪を言い渡された人の生活状況、心身の状況などを踏まえた身柄拘束の必要性、上訴の見込みの有無などを考慮に入れた合理的な裁量権に委ねられている。
袴田さんに対し、確定判決で死刑が言い渡されていることを踏まえても、現在の年齢や生活状況、健康状態などに照らせば再審開始決定を取り消したことにより逃走の恐れが高まるなどして、刑の執行が困難になるような危険性は乏しいと判断される。特別抗告における抗告理由の制限などを考慮しても、再審請求棄却の決定が確定する前に刑の執行停止を取り消すのが相当であるとまでは言い難い。
従って、職権を発動して直ちに死刑と拘置の執行停止を取り消すことはしない。(2018/06/11-19:55)
上記だけ読めば(要旨なので詳細は決定書自体を見る必要があります)メデイアが上記決定について合理的な批判能力がなく、(地裁段階で50年以上前の資料ではDNA 鑑定不能として他の鑑定人は鑑定辞退していた状況らしいです)非合理な感情的批判しかできない「窮地にある」ことがわかります。
「味噌漬けにして実験してみたら一目瞭然の色の差が出ているのに高裁は無視している」と感情的意見がネットに出ているので参考のために紹介します。
http://president.jp/articles/-/25430
「袴田事件」再審棄却は明らかに間違いだ
「5点の衣類」を捏造したのは誰か
高裁決定が出る前の応援主張ならば想像力で書くのも自由ですが、高裁決定批判の題名で書く以上は、決定で否定されたことを繰り返しても意味がありません。
そういう主張を十分してきたのに対して高裁で50年前の写真機やフィルムの性能と今の写真技術は違うから今の写真で比較しても無理があると否定されたのですから、「高裁の否定論拠のここがおかしい」と言ってこそ合理的批判になりますが、一切触れないで従来主張の繰り返しのようです。
最後は、
「・・・いずれにせよ、いたずらに延期せず、潔く、一刻も早く再審を認めるべきである。」
というのですが、「いずれにせよ・・・再審を認めるべき」という願望だけの批判論です。
高裁決定要旨を読めば弁護側の主張に対して丁寧に検証されていることがわかりますが、こういう事実関係をメデイアが(有料登録すれば見えるようですが・・こういうのって公開になるのでしょうか)全く伝えていません。
巷の応援団の主張の是非も含めて訴訟ではさらに掘り下げる議論が戦わされてきたことを公開記事にしないのはメデイア界が理解できないかしたくないからです。
(弁護側は一方の立場である以上何か言わねばならないので、合理的反論できない「腹いせ」に「不当決定」と感情表現しかできないのは理解可能ですが、(それでも本来感情表現は紳士のすることではありません)メデイアが一方に肩入れしない中立の立場であれば、批判する内容がなければ高裁決定の通り淡々と報道すれば足りるのであって「窮地に陥る」必要がありません。
高裁決定要旨は上記の通りで全文公開してもわずかな文字数です。
不当決定糾弾集会の模様を延々と動画編集報道する人件費等のコストに比べれば、高裁でもらった決定要旨引用するだけの瞬時の手間暇で足りて、動画作成に比べればコストはホンの0、00何%の以下のコストでしょうが、この程度のコストを惜しんで有料にする意図が不明朗です。

袴田再審事件4(メデイア対応3)

日経社説は地裁〜高裁で(同じ証拠が見る人が変わる)と正反対に変わるのでは、司法の信頼が揺らぐと主張しますが、同じ付着した血痕でも、事件直後頃には実用化されていなかったより精密なDNA 鑑定によって結論が180度変わったときにはメデイア界こぞって賞賛していたとすれば、高裁でDNA鑑定の鑑定手法が問題になり鑑定結果が否定された時だけ「同一証拠で180度度変わるのが何故「司法の信頼を揺るがす」と主張できるのか不明です。
社説では1審で無罪方向になったときには気付かなかった鑑定の正確性の疑問点が新たに問題になっていたことを故意に伏せている感じです。
犯人性否定根拠になった鑑定が科学的根拠に基づかなければ1審の鑑定を根拠にした結論が否定されるのは当たり前であって、当たり前のことを決定したら何故司法の信頼が揺らぐのか意味不明です。
再審開始決定をメデイア界がこぞって歓迎したことの「かっこ悪さ」を隠す意味があるのでしょうか?
朝日新聞が主張する根拠なき「市民感覚」同様の意識が日経でも背後で作用しているのでしょうか?
刑事制度は被害者にも人権があることを前提に人権被害を最小化するためにを加害者を処罰する制度ですが、メデイアの言う「市民感覚」とは刑事制度が被告人の人権だけに焦点を当てるようなイメージを受けます。
加害者でないのに処罰されるのも人権問題ですが、そのために厳密な手続きを経て加害行為が認定される仕組みになっているのであって、被告人の人権強調の結果、その手続きに乗せることを否定することを目的にした人権擁護活動になると本末転倒です。
地裁と高裁で判断を分けたの「おお括りに言えば付着した血痕」ですが、訴訟での最重要証拠は「鑑定書」という証拠の信用性です。
正確にいうならば、「鑑定書の評価で結論が別れた」というべきでしょうが、地裁はそこにメスを入れていなかったような印象です。
高裁決定書自体に争点整理で書いているはずですから、日経社説を起案する人物が高卒程度以上の国語力あればこの点を誤解する余地がないにも拘らず、これを端折って「同一証拠」と暗に付着物をイメージさせているのは、朝日ほど露骨ではないものの一定方向への世論誘導意図が感じられます。
ただ日経のために有利に考えると「政治意図はそれほど強くない」・この後でメデイア界の人材が各分野の掘り下げ能力アップ・国民レベルアップについて行けてないのではないかの視点で少し書きますが、特定方向へ国民を誘導する報道姿勢が国民意識とずれてきたことと事実認識(掘り下げ)能力の欠如とが相まって事実に反する表現が目立つようになった原因と思われます。
掘り下げ能力不足により事実を正確に把握できない結果、不正確な事実を報道しているのは、意図的虚偽ではないとしても、事実を正確に報道していない結果は虚偽報道と同じです。
まして日頃主張している一定方向ばかり、
(各種人権・・表現の自由があっても名誉棄損はX、通行の自由があっても交通法規違反はX、生きる権利と相手を殺しても良い権利とは違いますが.・・本件でいえば殺人犯人かどうかの事実認定が先決問題ですが、人権保障ばかり情緒的に訴えて肝心の「犯人かどうかの判断を基準を緩めろ」という意見・・バランス論を取らない)
不正確報道を繰り返していると、意図的・故意的不正確報道メデイアの疑いを持たれるようになります。
日経新聞社説を見ると引用した朝日のように「市民感覚」などで切り捨てないで事実関係を書こうとしているように見えますが、結局は「同じ証拠(には違いないですが)で・・」という大雑把な主張で本当の争点をぼかしているのは、本田鑑定が合理的鑑定経過によるかどうかという掘り下げレベルの違いで結論が違っていることを理解できていないからでしょうか?
仮に「同じ証拠」の主張が正しいとしても上級審で違う評価がありえて、覆ることがあるからこそ、上訴制度があるのですから、違う評価が出たことそのものを批判するのでは三審制の原理を無視した暴論(改正論?)ですが、他方で「無罪方向なら間違っていてもいいじゃないか!」というようなイメージ強調があるので、結果的に朝日同様の一方への肩入れ姿勢が顕著です。
今はネット社会で半年待たなくとも詳細経緯がそのままネット報道される時代になっているのに、袴田再審事件の報道を見ると朝日新聞社内(他のメデイアも)ではまだ事実無視の・・情緒や思い込みだけのアナウンスで世論を誘導してきた成功体験で生きてきた人材が幅を利かしている状態が浮き彫りです。
朝日新聞の読者がこのような事実無根の断定的意見を喜んで受け入れているから、こういう表層的記事が続いているのでしょう。
そういえば、私自身若い頃には洗脳されていた結果か知りませんが、朝日新聞を購読していましたが、昭和61年始めに転居した機会に日経新聞に切り替えました。
その頃はまだ政治意見の相違まで気がつきませんでしたが、朝日新聞の記事はどの分野でも政治であれ社会・文化評論であれ、事実を掘り下げたかっちりした記事がない・・ムード中心記事に飽き足らなくなって日経新聞に切り替えた・「日経の方が同じテーマや結論でも論旨がカッチリしていていいぞ!」と若手弁護士に話していたことを思い出しました。
今になると(日経の方がちょっとマシですが)こんな乗り換え推奨をすると、反朝日・反左翼か?と色目で見られる時代ですが、当時(1980年代)はまだ慰安婦騒動もなく牧歌的時代でした。
朝日の読者離れは、思想レベルによるだけでなく論理レベルでも30年前から客が逃げつつあったのです。
これが思想レベルで批判を受けるようになると、化学成果(小保方騒動)でいえば、結果発表だけではなく、実験経過の合理性まで説明しない(データ廃棄したのでは)と合理的成果と受け止められなくなったのと同じ問題で、「市民感覚で理解しがたい」というには「こう言う事実」に対する「市民感覚でこうだ」と言う論拠まで示さないと普通レベルの人は物足りなくなる時代です。
高裁では、鑑定経過の信用性が重要問題になっているのに、何年も資料提出を出し渋っていた挙句に、最後に、「一審判決前に廃棄した」という回答になったとすれば、(鑑定経過が争点になってから慌てて廃棄したのではないかとの疑いが濃厚と思うのが普通です。
それを明らかにするために高裁決定でわざわざ「一審段階で廃棄していたとの回答があった」と(多分)記録化したのでしょう。
ただし上記は17日に紹介引用した郷原氏の本田鑑定に対する高裁事件推移の要約主張(のちに紹介)によるもので、決定書自体を私は読んでいません。
多分決定自体にはそこまで書かないので、弁論調書とうの進行記録にでているたぐいと思われます。
本当に廃棄していたとしても一審の決定も出ない内に決定の決め手になる新証拠である鑑定資料や分析記録を廃棄してしまう鑑定人がいるだろうか?再現実験にも協力しないような鑑定に合理性があるだろうか?くらいは常識人であれば「市民感覚」でわかることです。
メデイア関係者は根拠なく視聴者をバカにしている傾向が見られますが、実は市民レベルが上がってメデイア関係者を追い越しているのに気がついていないのではないでしょうか。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC