マニフェスト(選挙公約)の重み3

代議制民主主義・間接民主制は、専制君主制や絶対君主制とは違い国民は代議士に白紙委任しているのではありません。
間接民主制下の我が国で「代議士は国民の信託に反して何をしても良い」とする無茶な主張・行動がどこから出て来る論理か疑問です。
・・民主主義を絶賛していて民主化のためなら多少どころか国を傾けかねない大混乱でも賞賛しているマスコミが、どのような根拠で明白なマニフェスト違反を賞賛しているのか理解不能というべきではないでしょうか。
仮に結果さえ良ければ公約違反しても良いという議論・・そう言う方向へ誘導しようとしているように見えますが・・があるとしたら、誰が結果の善悪を決めるというのでしょうか?
(結果さえ良ければ民意に反してもいいと言うなら、専制君主でも北朝鮮のような軍事政権でも何でもいいという議論になり民主制を否定することになりますが、以下は、この点を措いてもと言う議論です)
国民の声を無視してマスコミが勝手に決めたら、それが「善だ」という主張になるのでしょうか?
民主主義社会では民意で決めたことを実行するのが「善」・正義であって、マスコミや官僚が勝手に決めたことを政治家が行うことを善とする仕組みではありません。
増税が必要なことは決まり切っているというのでしょうが、決まり切ってるかどうかを誰が決めるかとなれば選挙民でしかありません。
ちなみに我が国の財政赤字と言っても・・国債の95%(最近少し減っていますが・・)は国内保有ですから、国際収支赤字になるかどうかこそは重要ですが、国際収支黒字の範囲内で国内分配上その一部団体である政府に赤字があってもその対極に黒字の債権者・団体が国内にいるので、対外的には何の問題も起きないことを繰り返し書いてきました。
次世代に債務を残すのかという議論もインチキ(同額の債権者も9割以上が国民ですから同額の債権を次世代が相続をするから差引5%の債務でしかありませんし、それ以上に国民金融資産があればプラス超過の相続)であることを書いてきました。
このように財政赤字対策としての必要性でさえ意見が分かれるうえに、赤字対策としての増税を認める立場でも円高下での景気対策として、今増税するのは景気対策の点でもマイナスになるという意見も多く賛否の議論が分かれています。
財政赤字=増税の必要性論で仮に半々に分かれて、景気対策上時期が悪いという点で半々に分かれるとしたら、最後までの賛成は2分の1の2分の1で結局国民の4分の1しかいないことになります。
だから野田政権は民意が怖くて選挙で信を問えないのでしょう。
野田政権は民意に反していることを知っていて、悪意で国民に対する反逆行為をしていることになります。
増税期待のマスコミ界では、(小沢批判の根拠がはっきりしないのですが、ともかく小沢批判で凝り固まっています)どうせ民主党がマニフェストで実現出来たことは高校授業料無償化くらいだから、「何を今更マニフェスト違反だと騒ぐのか」という論調が目立ちます。
増税の必要性に比べれば、マニフェスト違反くらいは大した問題ではないという意識を国民に植え付けるのに躍起の模様ですが、増税の必要性があるかどうかこそ民意・・選挙で決めるべき最重要事項であって、マスコミや官僚が勝手に決めるべきものではありません。
議会制民主主義が国王による増税に対する反発・・抑制の必要性から始まっている歴史・・アメリカ独立革命もボストン茶条例と言う税に対する不満から始まったことを想起しても良いでしょう。
議会制民主主義の中でもっとも重要な決定事項が税のあり方であることは、歴史上明らかです。
この最も核心的テーマである増税の可否について公約・マニフェストでは4年間は増税しませんと明言して政権を獲得した政党が、政権獲得後真逆のことをしつつあるのですが、国民に対する反逆者グループがマスコミで賞賛されている日本の状況は、民主主義の価値観を西洋と共有する先進国の状況とは到底思えません。
政治生命をかけて戦っても力(実務能力)不足で実現出来なかったのと、公約に真っ向から違反した政策実現に執念を燃やすのとでは代議制民主制度に対する意味がまるで違います。
代議士個々人の約束の場合、個人的に約束していても(地元誘致案件など)党内勢力の兼ね合いで実現出来ないことは多くありますが、政党全体の公約となれば、党員一丸となってそれの実現に注力することを有権者に約束したものです。
党外との勢力関係で実現出来なくとも仕方がないですが、党自体が公約とは真逆の方針に転換するには改めて選挙で信を問うしかないことは民主制度・・国民の信頼・付託でなり立っている以上は当然の原理です。

マニフェスト(選挙公約)の重み2

公約違反と言っても選挙時に公約したことを実現すべく努力したが反対意見が多くて実現出来ないのなら、力及ばずということで民主主義制度の存続自体の問題ではありません。
普天間基地移転先として「少なくとも県外へ」と言った鳩山代表の主張が、巨大なアメリカの壁に弾き飛ばされて実現出来なかったのは、公約違反ではなく実現出来ないことを主張したという意味の失点・・政治能力がお粗末として評価されることでしかありません。
消費税増税の問題は、当時の鳩山民主党代表の選挙演説で4年間は消費税増税しないと明言しています。
(民主党のマニフェストでは消費税増税に全く触れておらず、財源は無駄の削除で捻出するという主張でした・・その結果政権を取ると事業仕分けなどに精出したのは記憶に新しい所です。)
事業仕分けの結果財源不足を全部賄うまでは行かなかったと批判されているとしても、ともかくこれは公約に従って精一杯頑張ったこと・・自民党では出来なかったことをやっているので国民の期待に応えことにはなっているでしょう。
野田総理に変わると「消費税増税に政治生命をかける」と公言したまでは良いとしても、増税の可否について選挙で「信」を問わないまま野党と談合して多数の力で法律化することが許されるのでしょうか?
自民党は時期をはっきりしないまでも、消費税増税路線を明示していましたが、民主党は4年間増税しないと選挙で主張して政権を取っているのであって、(そのために選挙戦では増税反対→財源論が大きな争点になっていて無駄の削除論・・事業仕分けに発展したのです)野田総理はその選挙の結果政権党になった党首に過ぎません。
「政治生命をかけるべき」ハードルは消費税増税の可否を問う選挙をしても敗戦を恐れないで敢然と正義のために向かって行くことこそ、政治生命をかけるに値する行動です。
選挙で負けるのを恐れて野党との談合で増税法案を通そうとするのでは、「政治生命をかける」と大見得を切ったことにはなりません。
政治生命をかけると言う言葉のまやかしです。
正義のために生命を失う危険を顧みないで危機に立ち向かうことこそ勇者であって、卑劣な手段で結果を求めるために政治生命をかける(歴史に汚名を残すために頑張る)のは、国語辞典にはない新しい用法でしょう。
マスコミは増税実現を賞賛している方向ですが・・(おだてて突っ走らせて民主党を駄目にするほめ殺し戦法かな?)もしもこういう政党(談合に応じた自民党・公明党も含めて)の存在が許されれば、信頼によって成り立っている代議制民主主義制度は崩壊してしまいます。
党として4年間は増税しないと約束して選挙に勝った以上は、野田総理が「消費税増税実現に政治生命をかける」と言ったとしてもその正しい意味はせいぜい
「消費税増税を目指して党内世論を変えて行きたい・・そのために党内で孤立して政治生命を失っても良いという第一弾の意味であり、党内世論変更に成功したらその時点で第二段階として党として正々堂々増税を公約に掲げて新たに選挙で「信」を問いたい」
「それで敗れても政治家の本望だ」
と言うところまでが、本来の代議制民主主義下での「政治生命をかける」べき行動原理です。
ところがこれらをすっ飛ばして・・選挙での主張を一回もせずに多数を握っている国会で野党と談合の上、多数決で増税法案を可決してしまうのは、数さえ多ければ何をしてもいいという最悪な政治行動となります。
こういう卑劣な行為結果に「政治生命をかける」と言うのは「政治生命をかける」意味に対する冒涜・おこがましいにも程があるし、代議制民主主義の原理を根本から覆す卑劣な行為です。
民主主義制度が現在社会では普遍的正義とされていて、これの不十分な中国や北朝鮮を常に批判しているのがマスコミですし、争乱=多数の殺傷事件が起きても(リビヤやチュ二ジュアやエジプトなど枚挙にイトマがありません)民主化運動であれば無制限に賞賛しているのが現在マスコミ界の現状です。
民主主義社会とは結果さえ良ければ手順がどうでもいい(軍事独裁でも何でもいい)のではなく、民意に添う手順・・選挙による民意に従う行為をしているか否かに最大の価値を置く社会です。
今回の公約違反と談合行為→民主主義の根本原理に反する行為を賞賛して、他方で「手順がおかしい」と批判する勢力を陰に陽におとしめる報道ばかりしているマスコミは、どのような価値基準を持っているのでしょうか?

マニフェスト(選挙公約)の重み1

自民党は企業代弁政党である上に自民党の政策立案・運営に一体化していた官僚の実務能力不足の露呈などを総合判断の結果、前回(2009年)衆院選では「自民党に任せられない」となって民主党に政権を任せたのですが、予想通り民主党には受託能力(実務運営能力)に欠けていることがはっきりしました。
民主党の実務能力が低いことは政権交代前から分っていた のですから、数年くらいは大目に見るしかないと、総選挙前の06/11/09「政権交代2(任期制・転職社会の効用)」で書いたことがあります。
しかし、今回の消費税増税法案推進行為は実務能力の問題ではなく、民主党に対する信用失墜にとどまらず現在の政治制度・民主主義制度そのものの信用をなくしてしまう結果になることを心配しています。
日本はバブル崩壊とその事後処理だけはなく、民主主義制度破壊・新政治制度創設の分野でも世界の最先端を走っていることになるとすれば名誉なことですが・・。
経済・文化が世界最先端であれば政治の枠組みも当然最先端になるべきですから、我が国で新たな政体が創設されても不思議ではありません。
民主主義制度自体永久不変の正義ではなく、ある生活形態によって生まれたに過ぎないとすれば、グロ−バル化・コンピューター化の時代には別の政体がいいのだということになるのでしょうか?
民主主義の時代が終わったので新しい時代に向けて別の正義の形態を民主党や日本のマスコミが構想しているなら何の心配も要りません。
以下、間接民主制・・国民の思いを議員に付託する制度をこのまま続ける以外に今のところ新しい正義の方式が分っていないとした場合の意見です。
私は今のところ民主主義に変わるより良い政体の存在を知りません・・衆愚政治を避けるために制限選挙制にすべきだという意見を書いたことがありますし、この後でも書きますが、これも代議制民主主義の一方法としての意見に過ぎず代議制民主主義そのものの廃止を主張しているものではありません。
間接民主主義制度は、国民主権と言いながらも、国民個々人が直接政治をすることが出来ないので政党や個々の候補者の掲げた公約に対する信頼を基礎に政治運営を国民が代議士に「お任せ」することで成り立っています。
個々人の代議士に託すだけでは国会内の多数派工作で負けてしまうこともあるので政党政治が発達しました。
同じ託すならば発言力のある人に頼りたいし、同じ意見のグループがあればそのグループに政治を託した方が自分の意見が実現し易いということで、国民の方も無所属よりは党へ・・どうせなら実現可能な大きな党へと票が集まり易くなります。
これが議員の与党病が生まれる所以です。
選挙民は自分の意見を託すに足る人かどうかについて当初は人格識見・・あるいは有力者かどうかで選んでいましたが、その内自由主義か、社会主義か等の政党色で選択し、最近では選挙の争点が次第に具体化して来る時代になってた来たので、争点ごとに公開質問状を送付してそれを新聞やネット上で公開される時代が来ています。
選挙民の多くはこうして明らかにされたテーマごとの意見を見て自分の投票行動の基準にしています。
特に前回選挙の政権交代は、民主党には実務能力が低いことを多くの国民が知りながらも民主党への政権交代を期待したのは同党の掲げる主義主張・・公約・マニフェストに共感したことを主たる投票基準にしていたものと思われます。
従って公約あるいはマニフェストは、国民に対する次の選挙までの当選者の行動目的の約束ですから、当選後公約に正反対の行動をしても許されると言い出したら選挙・・代議制民主主義は成り立ちません。
一人二人ならルール違反として次に落選させれば済みますが、多数党あるいは全議員が談合してこのようことをする・・あるいはルール違反しなかった他の政党や議員まで全員で消費税増税は必要だったのだから、ルール違反(選挙民の意見)は問題じゃないと言い出したら、信任で成り立っている選挙制度・代議制民主主義制度を否定しているに等しくなります。

マニフェストと実行力

自民党その他の野党もこれと言った政策提言能力もなく双方ともに手詰まりになっている・・このグローバル時代に利害調整に力点を置く八方美人的政党は存在価値がないことは明らかです。
与野党共に手詰まりをごまかすために小沢問題で時間稼ぎ・・政治の停滞を正当化しようとしているのです。
自民党その他の野党も自由貿易協定や法人税の減税や年金解決が必要なことは分っているが、それをやるにはどこか増税しなくてはならない、あるいは農民票やその他どこかを切り捨てる勇気がなくて、先延ばししたい点では利害が共通しているのです。
民主党政権の停滞問題は、自民党のまねをして利害調整型で政治をしようとするところにある以上は、果敢にこうしたしがらみを切り捨てて行くしかないのですから、このためには党内一致団結して事に当たるべきです。
信長が京都を支配した時に有職故実に通じた光秀や細川を担当者にせずに下賎の出自でそうしたことに無頓着に振る舞うことが可能な秀吉を京都奉行に任命し、信長の意を受けた秀吉が慣例無視でどんどんことを進めた(他方で人なつっこさ等の個性を武器に人間的には嫌われ難い性格をうまく利用した)ので、海千山千の公卿を捩じ伏せて信長のもくろむ新たな秩序を作り出して行けたのです。
戦後長く続いた東西冷戦の構図が崩れ、グローバル経済化に切り替わった以上は、新たな政治の仕組み・・調整型から牽引・・リーダシップ型にして日本も従来型の秩序意識から切り替えねば世界の潮流について行けません。
今後と言うよりは、大分前のバブル崩壊後は内部調整能力よりは国をどこへ引っ張って行くか取捨選択型のリーダーとしての政治家が必要となっていたので、そうした政治をするためにこそ選挙に於いてはマニフェストが必要になったのです。
何を取捨選択するかをマニフェストで明示し、これを基礎に国民が政権を選んだ以上は、マニフェストを実現するリーダーの政策に反対の主張を遠慮すべきですし、政権担当者も、もう一度地元住民や利権集団との対話集会を開いて改めて耳を傾けるのでは(ヤンバダムの例)何のために選挙したのか分りません。
勿論マニフェストも絶対ではなく、やって見てうまく行かなければ軌道修正もありですが(この時期アメリカとことを構えるのは無理でしょうから潔く修正すべきです)、新しいことをやる前から反対派の意見を聞いてばかりでは何も進みません。
このように考えて行くと、激動の時代(農業社会から商業社会への転換)に突入した以上は、機敏な政策発動・・必然的に捨てるべき分野は果敢に捨てるしかない)が必要ですからリーダーが指導力を発揮しやすい大統領制の方が政治体制としては向いているのではないでしょうか。

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