12月10日に紹介したように、イギリスとOECD諸国との成長率格差が広がる一方で、為替取引自由化の部分を多くして行くと硬直的なポンド維持・為替管理が難しくなります。
この打開のために1949年9月には、1ポンド4、03ドルから1ドル2、80ドルへ約3割に及ぶポンド切り下げを行います。
大恐慌時のポンド切り下げと違い、戦後は域内諸国が多額のポンド預金を強制されていた(債権保有者になっていた)ので、49年の切り下げは指定諸国(元のスターリング諸国)にとっては(ポンドでの)外貨準備の対ドル価値が大幅減額・大損害になってしまいました。
今の日本や中国がアメリカドルで保有している外貨預金が3割切り下げられたようなものです。
その上イギリス及び指定諸国(主に英連邦諸国)全体が戦後では貿易赤字基調なので、今後もじり安になるリスクのあるポンド預金をするのはリスクが増えるので指定諸国のポンド離れ(ポンドにつきあっていると損をする意識)が始まりました。
大恐慌時のスターリング地域設定時には構成諸国トータルの国際収支は黒字であったので、この黒字分をロンドンに集積するメリットをイギリスは受けていたし、その結果ポンド相場が維持出来たことを既に紹介しました。
戦後はスターリング地域(戦後は指定地域)全体が対ドル圏に対して赤字機基調になって来たので、ロンドンで外貨交換してもドルを集積しなくなり(トータルで赤字であればロンドンで交換してもドル支払いの方が多くなって持ち出しになります)、むしろイギリス本国が参加国を援助しなければならなくなる方向になってきました。
参加国全体がじり貧になって来ると、参加国もイギリス本体も相互にこのシステムを維持するメリットがなくなってきました。
言わば親戚みんなが貧乏人の集まりになって来たので、お互いに他所の金回りの良い他人とつきあう方がメリットが大きくなって来たと言えます。
その結果、域内貿易よりは域外貿易の比重は上がる一方になってきます。
他方でポンドの両替が不自由・使い勝手が悪いとその不満から域内諸国のポンド離れをいよいよ加速するので、イギリスとしてはポンドの自由化を進めるしかない展開になってきます。
徐々に為替自由化を進めて行った結果が、西欧諸国一斉に行われた1958年の非居住者の換金自由化に繋がり、61年の居住者に対する制限撤廃になります。
ポンド両替が完全自由化された1961年にイギリスはIMF8条国(貿易収支の悪化を理由にする為替取引制限を出来ない国)に移行して漸く先進国のメンツを保てました。
ちなみに日本の8条国移行は1964年(昭和39年)で、戦前の一等国から敗戦による4等国への格下げ・(子供の頃には何かと言うと「4等国になったのだから・・」と大人の自重気味の話を聞いて育ちました)ここから漸く挽回しての再度の先進国(戦前の言葉で言えば列強諸国)入りを果たしたことになります。
(東京オリンピックもこの年ですし、新幹線開通もこの年でした)
日本の場合は十分な実力を蓄えた結果の8条国入りですので、参加したからと言って円の売り浴びせはなく・・、むしろ以後値上がり圧力のまま現在に至っています。