民族評価と個体区別2

犬猫を飼ったことのない人には、他所の犬猫同士の区別はからだの大きさや色くらいしか分りませんが、自分で飼っていれば表情の違いから鳴き声や性質の違いまで分ります。
インコなどの小鳥の個体差も飼っていれば良く分ります。
飛んでいる小鳥などは雀かメジロかヒヨドリかの種類が分る程度で、同じ雀が来た場合、さっきいた雀かどうかの区別さえ付きません。
小鳥を飼うときの選択基準も、先ずは例えば、インコ同士の個体差よりは、インコかカナリアのどちらを飼うかの選択から始めるのが普通です。
私の子供の頃には「日本人は個性がない」「皆同じ顔をしている」としきりに(欧米人の受け売りをして)マスコミが宣伝していていましたが、日本人だって欧米人を始めてみたときの個性に区別など付かない・・単に外人と言う程度の区別しかありません・・。
だから欧米人には顔に個性がないと言えば、言っている方がその無知さを笑われます。
異人種の個性などちょっと見ただけで分りはしないのはお互い様です。
その程度の理解力もない欧米人が、日本人はみんな同じ顔をしていて区別が付かないと言った(マッカーサーが日本人のレベルは中学生レベルと言ったことも有名です)のを喜んでマスコミで宣伝する精神がおかしいのです。
要は日本が自信をなくすように米軍に言われた?とおりに、あるいは今から考えればバカ丸出しの文化人と言う人種が「欧米人は個性があるが・・」とまじめにマスコミに出ては自慢らしく話していた時代でした。
当然の前提のように、コメンテーターが「そうですね、本当に欧米の方は個性的ですね・・」と有名芸人の名を例としてあげるなどして相づちを打つような仕組みでした。
マスコミ人は本当のバカばかりだったのかあるいは、(アメリカから金をもらって)「日本人が如何に劣等民族である」かの宣伝に肩入れしてしていたことになります。
4〜5年前には、ラジオ深夜便を聞いていると、脈絡なく韓流が如何にすばらしいかのやり取りが普通に行なわれていました。
私が大学生のころかその前後ころだったか時期をはっきり思い出せませんが、日本人を指して?「こんなみっともないスタイル・・体型は世界中でホッテントットくらいだ」と言うセリフがマスコミで有名になったこともあります。
(体型だったかも詳しく覚えていません・・兎も角日本人はホッテントット並みと言う劣等生を強調する意見だったと思います)
この結果、日本人の多くがホッテントットと言う言葉くらいは(私も当時猿の仲間かな?くらいしか理解していませんでしたが・・)聞いたことがあると思います。
こんな風に「日本民族が世界的に見て如何に劣等である」かの宣伝スタイルが、戦後何十年もマスコミ一般に流布していました。
自国民をこんな風に自虐的宣伝するのが楽しみなマスコミって日本くらいしかないかも知れません。
多分、米軍支配下で民族の自信をなくす方向にひっきりなしに宣伝するようにいわれていた遺伝子なのでしょう。
大人になってみると、街並であれ、江戸時代からの芸術(北斎や写楽を見れば分ります)であれ、何であれ日本の方が個性的なのが多いので、おかしいなと思って見ると、欧米の方が画一的街並で庭園でも(ベルサイユ宮殿やケンジントン宮殿などの庭園を見ても分りますが単調です)何でも単調そのものです。
これもマスコミ・文化人?によれば、欧米の街並は整然としていると逆にほめ上げて、日本は雑然としていて計画性がないと言うのですが、要は欧米人には個性がないだけではないかと気が付いたのは、成人してからです。
欧米人から見たら見たことのない日本人の区別がつかないのはそのとおりですが、(中華と和食の違い同様で同じ和食同士では、中華と和食ほどの違いがないのは当然ですし、小鳥や犬同士の個体差も異種の人間から見れば大した個体差がなく見えるのは当たり前です)異人種に対しては皆どこでも同じだと言うことすら考えつかないで、日本人の個性を見分けられない=日本人に個性がないと言う欧米人レベルの低さに驚きます。
日本の文化人?が日本のために反論しないでその手先になって、欧米人の言うとおりに日本人の無個性・劣等性を見いだして、日本人は個性がないと勝手に定義付けて大喜びで発言して(自分だけ欧米人になったつもりかな?)良い気になっていた時代です。
4〜5年前まで「韓流が素晴らしい」と朝鮮族賞讃の旗を振っていた人の数十年前の人達(もしかして同じ系列の子孫かな?)と思えば分りよいでしょう。
こう言う人の発言を見れば分るように、「欧米に比べて日本人は・・」と民族別の類型的表現・・評価を彼らは日本批判のときには日頃からしているのに、同じ人が朝鮮批判になると概括的民族評価は(個体差があるのに)前近代的だと批判する論者でもあるのです。
相手が素晴らしいと言うときは概括的評価が許されて、マイナス評価だけ許さないのがヘイトスピーチ論でしょうか?
そうするとアメリカでの格差拡大や人種差別が残っている等の報道はヘイトスピーチになるのかな?
相手が弱小でないから許されるとするならば、上記ホッテントット人を侮辱するスピーチはどうなるのかな?
中国は世界の強国だと自負していますし、韓国も日本を追い越したと国内宣伝している国ですが保護すべき弱小国なのか?
中国や韓国を賞讃するのは許されるが、「リスクが高まっているから投資は慎重に・・」その他表現態様には各種バリエーションがありますが・・程度如何に関わらず批判的意見が、ヘイトスピーチになるとすれば、マスコミの基準は中韓に関しては意外に理解可能です。
要はマスコミ・文化人のヘイトスピーチ論は、相手国によっては二重三重基準を用いているように見える(共産圏の原水爆実験は良いがアメリの実験はいけないと言う基準の焼き直しです)・・・ヘイトスピーチ禁止論は、マスコミが批判したくない民族批判だけ許さない意見のような印象を与えてしまい、「身勝手過ぎる」ことから、急速にしぼんで来たように見えます。

民族評価と個体区別1

商品が複雑化して来ている現在、商品知識が希薄化している消費者とっては、企業ブランド・信用(農産物も産地証明が重視されています)が重要なように、外国人とそれほど接する機会のない一般人にとっては、民族信用の方は最も大きな意味のブランドですから民族ブランドに限って、「考慮するな」と言う方が現実無視・・無理があります。
誰かに出会ったときの識別作業の順序は、大まかに年齢何歳くらい、男女の別あるいはアジア系か西洋系、アフリカ系などの特徴が先ず認識されて、次に背格好や衣類の種類や色柄であり、次にどんな言語を話していたか、声の特徴、歩き方などを知る程度あって、その人の性質や好みや人格などは簡単に分りません。
食べたことのない料理や酒・コーヒーも皆同じで、習熟して来て初めて同種類の料理や酒・コーヒーの味の違いが・・特徴や差が分ってくるものです。
差が分れば次からどの種類のコヒーを頼むかの差別に繋がります。
コーヒーに個性がないのではなく、個性がないと言う人は違いを知らないだけです。
経験が浅いときには、1〜2回きりしかない経験をもとに、同種料理の傾向を想定して適当に選ぶしかありません。
中華料理にも和食にもうまい店もまずい店もあるでしょうが、知らない土地に行けば中華か和食かフレンチか等の種類で選ぶしかないのと同じです。
(外国人と付き合いの多い人でも、日本人同士の知り合いに比べれば、その数は知れていますし、ホンの偶然的な機会に少数(多くても数十人程度?)としか知り合うチャンスがないのが普通ですから、この程度の知識経験でアメリカ人や中国人全部の特徴を考えろと言うのは無理があります。)
多くの人は、異民族との接触回数はもの凄く少ないので、民族集団の特徴をマスコミ報道や文献や事件などで想像するしかないのですから、民族ブランドイメージ(マスメデイアの役割)が重要です。
民族集団行動によって民族集団全体が受益している場合、あるいは仮に受益していない人がいるとした場合でも、その構成員も代表的行動によって、民族評価・政治の標的・対象にされることを避けられません。
「集団構成員であるから・・」と言う理由で(集団行動に参加していないのに)標的にされるのは理不尽と言えば言えますが、標的にされないようにするには、よその国に住んでいる以上はその土地先住民族の気に入らないようなことを民族集団で派手にしない・・わざわざ地元民がイヤがることをしないように自粛するのが賢明です。
日本人は庶民でも昔から外国に行くと、自分が日本人の代表になったつもりで、(日の丸を背負っていると良く表現されています)日本の恥にならないように一生懸命に頑張る人が多かったのはこの原理を知っているからです。
日本では同一場所に永住する前提社会ですから、同時期的集団評価だけではなく子々孫々・・末代にまで汚名・・末代のまでマイナスメージを残さない・・逆から言えば名誉ある先祖を持つことが重視されてきました。
「菊と刀」で有名なように日本人は「名誉と死」を選択したときに名誉のために「死」をも厭わない民族ですが、これは自分一人の利害ならば「死んでしまっては元も子もない」のが誰でも分る原理ですが、名誉が一族末代までの利害に関わっていることから自分個人の利害を超えて名誉のために死ぬことが出来るのです。
(武士に限らず明治以降農民から徴兵された兵士でも、硫黄島アッツ島その他で玉砕するまで戦ったのは、自分個人の利害よりは背後の民族存続のためでした。)
韓国のセウオール号事件、最近の中国長江での客船沈没事故・1〜2年前のイタリアの客船座礁事故では、船長らが真っ先に逃げているのは、日本では考えられないアンモラル行為ですが、自分がいつも集団を背負って行きているかの社会背景の違いです。
これが公共概念の発達・環境重視その他で、今になって日本の重要な遺産になっています。
個人主義と言う変な思想にかぶれて、自分一人がどんなに悪どいことをしても、「自民族・一族の恥とは関係ない」と思い込んでいる民族は、日本人から見れば馬鹿の集まりみたいなものですが、それを理解出来ずに逆に個人犯罪を民族批判に結びつける方が悪いと開き直っているのがヘイトスピーチ論者です。
個々人には違いがあるのは確かですが、異民族間では個々人評価よりは集団的評価が先行するのは当たり前のことですから、民族評価や民族差別が不合理だと言っても解決になりません・・庶民には民族別認識が最初の大きな区別指標・ブランドです。
上記コーヒーの例で書いたように、区別=即ち対応に差異をつけるのための識別機能ですから、これを基準に他民族と区別するのは当然の結果であり、区別することをバカだチョンだと批判すること自体が、実態無視の意見です。

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