NAFTA→雇用喪失と移民増のダブルパンチ1

カナダとの往来は事実上一体化が進んでも気にならないでしょうが、メキシコへ我が物顔で進出するようになると、自国への入国だけ厳しくしたままでは無理が出てきます。
自分は自由に出入りするが、お前らの出入りは勝手にするなという強者の論理は時間経過で無理が出ます。
強いものは・・お殿様は屋敷内のどの部屋に入ろうと誰の許可も(法律上?)いりませんが、その代わり部下、目下の私的空間に入るのは遠慮するのが暗黙のルールです。
個人で言えば、親は子供部屋に無闇に踏み込まないのが親子間の暗黙のルールですが、子供の方は、成人しても親の家に自由に出入りするのが普通です。
将軍家は配下大名家の屋敷に自由に出入りできないが、配下大名は将軍家城内の隅々まで体で知ることが可能でありそれが普通です。
奥方と腰元の関係も同様であり、社長周囲の秘書や側近は社長一家のプライバシーに接する機会が多いのですが、社長の方は秘書や側近重役の私的関係に立ち入らないのも同様です。
形式ルールと実質ルールは違う・・実は逆になっているのが普通です。
子供頃に覚えた言葉ですが、
「稔るほど頭を下げる稲穂かな」
本当に偉い人は威張らないのが日本社会です。
この数十年で重視されるようになったプライバシー関係も同様で、高位者・・権力に基づくプライバシー侵害は厳しく規制されているのに対して私人間の場合には原則として当事者間での自律に委ねているのはこの違いです。
・・例えば親は子供が心配で学校の様子など知りたいことが多いのですが、一定年学年以上になってくると詮索し過ぎると嫌われる・親が子供部屋をしょっちゅうかき回していると親子関係がうまくいかないなどそんなことは家庭の自律に委ねて間に合うのです。
西洋近代法の考えで・・・日本の憲法では、令状がないと家宅捜索できないなど決めていますが、そんな憲法以前に昔から日本社会では、殿様が家来の家をむやみに訪問できない・結婚した子供らが親の家に入るのは自由ですが、親が子供の家庭をむやみに訪問するものではありません。
こんなことはフランス革命で初めて手に入れた西洋とは違い、日本社会では常識だったでしょうから、憲法制度導入の当初から当然のように条文になっています。
こんな当たり前のことまで憲法に書いておかないと分からないのかと驚いた人もいたでしょう。

大日本帝国憲法(1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行)
第25条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ
第26条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ

日本国憲法(1946年11月3日公布1947年5月3日施行)

第三十五条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。

アメリカは形式的な法の理解で実質関係は逆になる点に気付かないのかな?
このコラム最初から折に触れて書いているように、社会のあり方に関する発展度合い・文化レベルが日本に比べて欧米は何周回遅れの社会というのが私の直感的意見です。
米国は戦後一強になると・・グローバル化〜自由化すれば金と武力のある強いものの行動の自由が広がるという形式面しか理解できず、グローバル化・自由化を戦後ずっと推し進めてきたことになります。
饅頭を押し込めばあんこがはみ出る関係で、水が低きに流れるのを防ぐのはダムで塞きとめるようなものでどんな大きなダムでも、いつか満杯になると、本来の流量と同量の水を水門から継続放流するしかない・・ダムは一時の気休めに過ぎません。
古代から都会人が紀行文など残すし、旅行ガイドも都会人向けのものが多いので、都会から田舎に行く人の方が多いように見えますが、実際には田舎から都会に出る人の方が多いのです。
田舎では人口が少ないので都会から観光客がいっぱい来ているように見えますが、自然の豊かな場所は日本全国〜世界にいくらもあるので都会人はいくらでも行き先がある(分散する)のに対し、有名演劇〜相撲などのイベント〜スポーツ大会は、東京や大阪のような大都会にしか来ない・・即位の式典などその他東京にしかないものが多く、全国の人が東京などに集中します。
例えば千葉房総半島の人で東京へ行ったことがない人は滅多にいないとしても、東京の人が房総に来たことのある人は数%あるかないかでしょう。
みなさん故郷の人に置き換えてもわかる筈です。
このように数の上では経済力に劣る方からの華やかな方へ流入する方が多いのが原則です。
都心と郊外の人の日々の移動関係も同様で千葉から毎日東京に行く数と東京から千葉に向かう数は往復では同じですが、居住地発で見れば大幅な差があります。
このように経済活動の自由化に比例して低賃金地域から高賃金地域へ人の移動が多くなるのは、水が高い方から低い方に流れるような関係で、これを変える方法はありません。
私は今日日弁連委員会出席のために東京に行きますが、逆がないのです。
経済交流が増えるとこれに比例して人の移動が激しくなり法規制を変えなくとも結果的に人移動の障壁が低くなるのが普通です。
米国とメキシコの場合、法規制緩和しなくとも、大統領令という便法で不法移民の子供に対する永住権付与や国外退去処分のランク分けなど画期的枠組みなど運用緩和が進んでいました。

雇用喪失と移民増に対する米国の不満

NAFTA署名の92年当時といえば、1992年のEU発足と同時期ですから西欧が地域ブロック経済で米国に対抗するならば米国はこれに対する対抗心からもともと自分の裏庭と自負する北米地域で北米統一市場を企図した動きのように見えます。
もともとメキシコは米国にとっては、裏庭ともいうべきお膝元であり当時のメキシコ経済は近代工業製品輸出国ではなく工業製品を売りさばく市場そのものでしたから、米国はEUに対抗して米国の裏庭にあたる市場を囲い込み・支配独占を確かなものにする日本の高度成長期には意識に基づく政策だったと思われます。92年当時のメキシコの経済力を見るために当時から現在に至るGDPや貿易額推移を世界ネタ帳でGDPを見ておきます。
https://ecodb.net/country/MX/imf_gdp.html

メキシコの名目GDP(USドル)の推移

メキシコ輸出額の推移

上記両グラフによれば92年NAFTA署名〜94年発効以降を見ると、GDPや貿易量が急激に伸びています。
FTA・・貿易自由化の徹底は後発国(韓国や中国を含め)が先進国に追いつくには、後進国に有利な制度であったことがわかります。
19世紀型植民地支配は、被支配地域に工業生産を許さず先進国の輸出市場としか扱っていませんでしたが、戦後ほぼ独立してしまい植民地支配が出来なくなりました。
先進国間で戦後復興が終わり市場争奪戦が再開されると、(似たような生産ラインでの競争である以上)より安い賃金・安い地代等総合的低コスト地域に立地した方が同業者や競争国との価格競争に勝てるので、現地進出競争が始まりました。
日本の場合も中国が改革解放されると現地生産指導のコストをかけても、農産物等の価格が10〜20分の1の値段で仕入れできれば競争相手・同業者に勝てるので、中国現地に出向き日本人向き蔬菜づくりの現地指導に乗り出す競争が起きていました。
毒餃子事件で知られるように日本の食品メーカーは競って中国進出していましたし、食品は日常庶民の目につくので目立っていただけで、その他各種産業は中国から安く仕入れる競争時代が始まっていました。
米国とメキシコの関係もこれに似たようなものだったと推測できます。
米国としては市場囲い込みのつもり・EU理念に負けない市場一体化・もしかしたら北米全体をEU理念同様にアメリカ合衆国を拡大する意気込みもあったのでしょう?
その理念の事実上(EUのシェンゲン条約のように公文書ではっきりさせませんでしたが)人的移動の自由化も緩やかになる一方だった気分の実現として、米国企業が強者の論理で遠慮なく内国並みに自由自在に進出し、メキシコも中国のように進出企業に民族資本との合弁強制や知財移転要求などのイチャモンをつけずこれを受け入れていた状態を推測出来ます。

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