表現しての自由市場論(愛知トリエンナーレ展)1

憲法学者・戦後思想界は表現の自由市場論を金科玉条にしていますが、自由市場の定義がはっきりしません。
商品の優劣は市場が決めるのが合理的と多くが認めるようになると何でも市場の選択に委ねるべきかのような比喩が行われるようになりました。
しかし「比喩」という言葉自体がそのまま適用できないという意味を含んだ概念です。
思想表現の世界に、本当に自由市場論が成立するか、どう言う場合に成立するか等の吟味なしに、憲法学や憲法学に連なる思想界が安易に飛びついたまま一向に検証しようとしないで、約1世紀間も安易に比喩し続けているとすれば、憲法学界・思想学会の怠慢(人材不足?)が窺われることになりそうです。
研究成果を門外漢の私が知らないだけという可能性がありますが、その論争や検証作業が一般に知られずに、何かというと「思想表現の自由市場に委ねるべき論」が横行している現状からすれば、仮に研究する(したい)人がいても学会でまともにその種研究が相手にされていないから誰からも引用紹介されないからではないでしょうか。
最近の事例では愛知トリエンナーレ展の論争が知られています。
例えば以下の主張です。

採録掲載「公的芸術支援と表現自由 憲法の観点から」志田陽子さん 武蔵野美術大学教授(憲法、芸術法)

スピーカー:志田陽子
武蔵野美術大学造形学部教授(憲法、芸術法)、博士(法学)
2020年2月13日 於:Kosha33
・・・ここでいう中立というのは、例えばある政治政党に関わっている作家だけが優遇されることがあってはならないといったような意味です。芸術作品に対して政治的中立を求めるという意味になるべきではありません。そしてその選別は一般市民よりも専門家の判断を信頼し委ねるべきだということで、審査員が必ずいるわけです。税金を使う行政の側は、専門家の判断を信頼して選別には直接関わらず距離を置くという考え方です。この考え方は主にイギリスなどでとられていると聞いています。日本でもこの方面の知識がある人は、「アームズ・レングスの原則」という言い方でこの考え方を取っています。

出展審査は芸術家グループが決めるので、その審査結果に行政は中立であるべき→行政や一般人の口出し禁止論ですが、審査員という特権階級が出品権を奪うのは構わないと言うことになりそうです。
この論は権力からの自由はあるかもしれませんが、同業者の「検閲」とは言わないでしょうが出品審査を許すので、特定思想の支配する集団が営む芸術祭展示はその方向性の主張一色になるのをどうするかです。
報道の自由も同じですが、審査委員会を通りさえすれば特定政党のプロパガンダばかりでも中立と言えるのでしょうか?
放送の場合反対意見を平等に扱うことが求められていますが、愛知トリエンナーレ展で左翼系出展機会を失っているものの救済強調ばかりで、右翼系が過激すぎるとして?公共機関での出展できていない展示がなかったという批判もされています。
以下の記述です
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190902/

浜崎洋介】芸術における「政治主義」を排す―「表現の不自由展・その後」をめぐって

・・・・・・百歩譲って、今回の企画展の「政治主義」を認めたとしましょう。しかし、それならそれで、かつて、「芸術は、政治的プロパガンダのためにこそある!」と言ってはばからなかった共産党のように、主催者側は、飽くまで自らの筋を通すべきではなったか。津田氏は、「大量の抗議や脅迫の電話によって現場の組織機能が失われ、トリエンナーレとは無関係の組織にまで同様の電話が殺到して文字どおり悲鳴があがっていました」(前掲)と言いますが、そんな脅しに一々屈しているようなら、「表現の自由」も何もあったものではない。せっかくの「芸術監督」制度なら、全責任は自分が負うとした上で 補助金カットをちらつかせながら恫喝してくる政治家や、「テロ」を仄めかす脅迫者=犯罪者に対して戦い続けるべきでした。

ここには、津田氏の覚悟のなさ、格好付けの表現の不自由展に過ぎない・・戦う覚悟のない芸術監督ってなんだ?という批判ですが、その中に共産党の過去の公式政治主張を紹介しています。
左翼系は芸術や思想界を支配する長期戦略で行なっている実態・・芸術界憲法学会思想界や報道界を支配してしまえば、学会の審査を通しさえすればどんな一方的な政治主張でも芸術発表とか思想討論会を名乗れば公的助成を受けて・・税を使って宣伝し放題という戦略を野放しにして良いかの視点がありません。
現在国際政治問題になっているユネスコや ILOやWHO国連人権委員会等が、特定国が事実上牛耳ってしまっている弊害が大きな問題に浮上していて、米国はすでにユネスコへ分担金拠出を停止しているしWHOもその対象になっています。
日本も国際捕鯨〇〇からの脱退を決めました。
日本の報道機関の多くが中韓等の事実上支配下に入っていると言う右翼系ネット批判が激しいですが、彼らの主張によれば言わば、日本の思想界学会、報道界教育界が根こそぎ左翼系の牙城になってきたような状況らしいです。
共産党の思想教育・得意の洗脳教育は、早ければ早いほど良い・子供の教育から・・と言う長期計画通りに戦後すぐに、日教組が左翼系の牙城になったのでしょうか?

民意・サイレントマジョリテイ2

ネット報道のレベルが低い、けしからんというよりメデイアが電波独占を良いことに間接的に政治を誘導してきたことをネット利用で誰もが発信力を持つようになるとこれの真似を始めた・新規参入である分洗練されていないし、匿名性があるので表現が露骨になります。
長年大手メデイアが電波独占に乗じて巧妙に世論誘導してきた地位に風穴が空いたことは確かでしょう。
大手メデイアによる世論誘導がそれほど効果をあげていない時には大手メデイアの誘導方向と民意(選挙結果)に大きな乖離が生じます。
この乖離を表現する英語がサイレントマジョリテイーという熟語です。
ウイキペデイアによるとサイレントマジョリテイと英語で言ったのは70年代のニクソン大統領が最初らしいですが、日本ではその前から岸総理が、その意味の発言をしているらしいです。
もっと遡れば、帝大7博士の煽った日露開戦論と講和反対運動でしょう。
7博士が反対しているのをメデイアが火をつけ煽ったから民衆暴動に発展したものです。
政治とメデイアのシリーズの関連でApril 10, 2018 12:00 am「7博士意見書と学問の自由1」のコラムでウイキメデイアに以下のような記事が乗っていたのを引用しました。

このとき伊藤博文が、
「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。

政治の現場を知らない・世間知らずの学者の意見など聞いてられないという意見を述べてることを紹介運用したことがありますが、マスコミが7博士意見書を大規模報道したので騒ぎを大きくしたものです。
以下の通り7博士意見書の研究論文にはマスコミと学者のタイアップした初めての?事件として以下の意見があります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/70/0/70_KJ00004554284/_pdf

「帝大七博士事件」をめぐる輿論と世論®   メディアと学者の相利共生の事例として
宮 武 実 知 子(関西大学非常勤講師)

 メディアが知識人を「利用する」にはいくつかの効果が期待されるからである, と大井浩一は指摘する。第一に,メディアの論調・主張の説得力を増すための「補 強材料」,第二に,その記事への読者の信頼性を高める「権威づけ」,第三に,読 者にアピールする「読み物」,第四に,珍しい知識人を登場させる「特ダネ」効 果であるという (31) 。確かに当時,大学教授が新聞紙上で忌憚ない時節を公開するこ と自体が「特ダネ」であったし,記事の「補強材料」になると同時に「権威づけ」 効果も十分であった。学者の側でも,ジャーナリズムの場に登場することで自説 に喝采を浴びること,輿論の代表として振る舞いつつ時局を左右できる力を実感 できることは,いろいろな意味で大いに魅力あることであったろう。大学教授と メディアは,相互利用を始めたのである。

戦後では吉田総理がサンフランシスコ講和会議に反対した東大学長南原繁に対して投げつけた?「曲学阿世」論が有名です。
この頃はまだ米軍占領下だったので、曲学阿世の論(馬鹿言うな!)で一蹴して終わりだったのでしょう。
これが60年安保になると大手メデイアの影響力が桁違いに大きくなってきます。
サイレントマジョリテイーに関するウイキペデイア記載の60年安保当時の岸総理発言録です。

声なき国民の声に我々が謙虚に耳を傾けて、日本の民主政治の将来を考えて処置すべきことが私は首相に課せられているいちばん大きな責任だと思ってます。今は「声ある声」だけです[5][6]。
— 岸信介、1960年5月28日記者会見
安保反対運動に参加していない国民が多数派であり、彼らを声なき声という詭弁で表現し、国民世論は安保反対運動支持は少数派と述べた・・・
サイレントマジョリティーである無党派層の声を判断するために後継の池田勇人首相が1960年10月24日に断行した総選挙安保解散選挙では、岸が提唱して池田が発展させた所得倍増計画などの経済政策の恩恵を受けていた世論の自民党への安泰ムードが支配し、自民党は296議席を獲得する圧勝をした。
マクロン大統領の発言[編集]
フランスのエマニュエル・マクロン大統領もフランスで影響力を誇る労働組合などからデモや抗議活動を受けているが、それ以外のフランス世論の6割以上がマクロン大統領を「方向性が明確」と支持している。マクロン大統領は「政府はサイレントマジョリティーに支持されている」と表明している[1][10]。

サイレントマジョリテイー論があるにも関わらず、大手メデイアは黙殺して表現の「自由」市場独占を武器にその意向に従わない与党を国民大多数の意見無視する政府というレッテル貼りをしてきました。

民意・サイレントマジョリテイ1

奥田氏の国会会意見陳述は、社会の基本的ルールをわきまえない未熟さに驚いた人の方が多かったのではないでしょうか?
シールズに関するウイキペデイア中の「言及」には以下の意見が紹介されています。

2016年7月16日に夕刊フジ『ニッポンの新常識』においてケント・ギルバートは、「(既存メディアから若者代表であるかのように報じられていた)SEALDsは若者の少数派勢力であることが選挙によって証明された」と述べている[91]。

注91を見ると以下の通りです.。http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160716/dms1607161000002-n1.htm

若者は「野党の嘘」や「偏向メディア」に騙されない 始まった日本人の正常化 (1/2ページ)
2016.07.16
参院選が終わった。18歳と19歳に選挙権が与えられた最初の国政選挙だった。共同通信社の出口調査によると、自民党に投票した10代の割合は40・0%と、全世代の38・2%よりも高い。他方、民進党に投票した10代は19・2%で、全世代の20・4%よりも低かった。

選挙をしてみたらシールズは国民の代表どころか、若者を代表する意見ですらなかったことがバレた状態です。
民主主義とは民意による政治であって、大手メデイアの意のままになる政治ではありません。
民主主義政治とは民意による政治ですが、民意を知るのは大手メデイアの社説や煽りによるのではなく、選挙によるべきです。
大手メデイアは、長年国民を思うママに誘導できてきた経験から自社意見→国民世論亜多数になるとの自信過剰になっていたように見えます。
大手メデイアが「これが民意だ」とする前提の意見が多かった・・まかりとおっていました。
マスメデイアや報道の過熱行き過ぎが目立ってきたことに対する反発が、サイレントマジョリテイ重視論です。
サイレントマジョリテイはどうやって読み取るか?
究極の判定は選挙結果によるしないでしょうが、政治家は民意を読み違えると地位を失う点で民意読み込むのに日々必死ですから謙虚に民意を読み込む本来のプロです。
与党指導層は民意を正しく読んでいてもその前に大手メデイアの過熱報道にひるんだ同僚や支持者離れで事実上政治生命を絶たれると取り返しがつかないのでメデイアの洪水的批判されないように政治家の妥協が起きるので、大手メデイアが、政治主導権を握って来られた面があります。
選挙期間中に選挙区で特定代議士に関する怪文書(汚職で警察の内々調べを受けているなど)が出回ってそれが違法な文書と選挙後に判明しても、落選者が当選したことにならない・・ので致命的ダメージを受けるのが知られていますが、メデイアの集中攻撃を受けると政権がぐらつき総辞職の事例が多くなります。
以下紹介する60年安保での岸総理の身の処し方は、そのような責任の取り方でした。
メデイア界は間違った報道でも総理の首を取れたという輝かしい歴史と思っているのでしょうが、いかがわしい報道でも、逆にこのような効果を持つ問題点を拡大して歴史に残したことになります。
今流行りのフェイクニュースの走りですが、数十年(小選挙区制になってなくなったのかな?)までは、選挙区ごとに怪文書と称するビラや風聞の流布が当落を決める大きな武器になる時代が続いていました。
怪文書たる所以ですが、選挙が終わって見ると実はインチキだったというものがほぼ100%ですが、インチキ文書でも選挙期間中に選挙区で出回ると誹謗中傷された方には大打撃です。
あとで事実無根と判明しても当選したことにならないので、インチキ怪文書を流し得となったものです。
16年米国大統領戦以降外国勢力の選挙介入が問題化しているのは、後でわかっても選挙結果に影響がないとなれば、双方陣営の裏の裏(発信元がバレないように外国に基地を置いた)部隊同士でフェイクニュース流布にしのぎを削ることになるのでしょう。
ネット発達前には、怪情報発信手段が選挙区という狭い地域社会内のビラや口コミしかなかった(大手マスコミは露骨な怪文書他駅情報を根拠なく報道できません)のですが、ネットは瞬時に世界を何回も駆け巡るので、いくつもの国を経由した匿名発信がやり放題になったからです。
オレオレ詐欺で誰もが知るようになっていますが、振込先銀行口座名義人を突き止めてもその辺不良が1口座数万円の小遣い欲しさに銀行口座を作って売り渡してしまう仕組みで、しかも売り先はパチンコ屋の顔見知り程度の説明で終わるので、詐欺グループに繋げられない状況が続いていますが、選挙妨害も同じで世界中の半グレ人間を間にいくつも入れると、資金源がロシアらしい程度しか迫れない・やったもの勝ちという状態になっています。
オレオレ詐欺がなくならないのは、確実な検挙こそ犯罪根絶やしの基本セオリーを達成できていないからです。
被害者教育でどうなるものでもなく、検挙能力の低さです。
平和論も無防備だと余計戦争を誘発する・・侵略すれば大損する対抗力がない限り平和は来ないというのと同じです。

専門分化とサイレンとマジョリティ2

犯罪被害者委員会には被害者のために頑張ろうと言う意見を持っている人が多く集まるのが普通ですし、消費者対策委員会、こどもの人権、女性の人権、生活保護受給支援その他各種委員会、委員会の名称自体から推測される方向性と志を同じくする人が多く集まるのが普通です。
結果的に違った意見の人は(間違って入る以外?)参加しません。
この結果、千葉県弁護士会では、消費者系、民暴系などなど、それぞれ専門的スキルが磨かれるメリットがありますが、他方で、◯◯系と言う大きな系列化による行動パターンや党派的行動力が形成されて行きます。
自民党議員が族議員化して行った結果、省益追及機関になって行き、国益を考えなくなって行ったマイナスが噴出してかなり変わりましたが、弁護士会ではこの後追い的行動をしているように見えます。
大分前に日弁連選挙で宇都宮健児氏を担ぎ出す原動力になったのは、全国的な消費者系弁護士グループでした。
多くの弁護士は、消費者保護、少年の更生を願う、男女共同参画社会の実現、公害のない社会実現、安全な社会実現等々の基本理念に賛成していても、具体的政策・・出産時の会費免除まで必要か等々、どの程度の基準まで要求すべきかなど具体化すれば、意見が分かれるのが普通です。
公害のない社会が理想ですが、企業活動の必要性との兼ね合いでどこら辺までの規制が妥当かになると意見が分かれます。
交通事故を減らしたいから、30歳以下の免許を取り上げるべきだとは誰も言わないでしょうし、モノゴトは程度問題です。
数年前だったか?執行部提案が毎年のように否決された決議案の1つに会館建設委員会の成果を問う提案がありました。
会員が大幅に増えたことで、会館を新規に大きくする必要があることは、誰も認めるのですが、具体化になるといろんな意見があります。
専門に研究して来た委員会の意見が正しいとは限らない好事例です。
一生懸命に苦労して案を作って下さった委員の皆様には申し訳(専門バカ・視野が狭かったのでは)ないですが、偶然その後に好物件の売りが出たので、別の案にすんなり決まってしまいました。
これはタマタマの偶然だったのですが、最近専門委員会の結論が会全体の意見とあわない事例が増えて来た印象・・委員会から上がって来た決議案が総会で否決されることが続いたのは、それぞれ個別事情は違いますが、傾向としてみると専門化の進展と関係があるように思えます。
出産者に対する会費減免制度は実は日弁連会費に関しては既に成立しているので、千葉県で何故成立しないかの疑問ですが、千葉県の総会は会員の大多数が参加で、ケンケンガクガクの意見交換されますが、日弁連総会になると全国から集まるので、それぞれの代表(ノンポリの個人は滅多に参加しない)ですから、形式的議論で終わってしまう傾向が強いのとの違いでしょう。
比喩的に言えば・・公害抑制しながら生産との調整・・車の危険性と利便性・などなどモノゴトには調整が必要なことが一杯です。
女性の地位向上には管理職を半々に強制しろと言うは容易いですが、イキナリ強制して社会が成り立つのかと言う社会全体の視点も必要です。
単に「危険な車撲滅」とか「公害反対」と言っていれば、解決出来るものではありません。
原発・公害反対その他いろんな反対運動では、運動推進者にすれば、兎も角「反対していれば良いのだ、産業機械の必要性は企業が主張するから」と言うスタンスになる傾向があるように見えます。
逆に権利主張の方は「最低賃金引き上げや、生活保護対象拡大社会保障など要求だけしていれば良い、相手がセーブして来るから・・」その結果落としどころで決めれば良いと言う一方的主張になり勝ちです。
労組なども同じ傾向があって、「そんなこと言ってたら会社がつぶれてしまわないかと言う心配を気にしない」で要求だけしていた結果、自滅して行きました。
これを政党レベルで実行していたのが(何でも反対の)と揶揄された旧社会党でしたし、今でも目立つのは農林系議員と言うところでしょうか。

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