いわゆる安保法は、自衛権を現実化するための法律か?
他国侵略目的の法案かは、安保関連法の歯止めの書き方の具体的条項次第であって、文字で書き切れない分は、(どんな法律でも全要件を書き切れないので具体化は政省令や通達〜ガイドライン、判例等で具体化していく仕組みです)法律成立後の日米交渉によってどこまで日本が協力するかによって決まっていくべきことです。
反対論者が反対するには、法案段階の「第何条の制限幅が広すぎて何処かの国を?を日本が侵略するための法律になる」だから「こういう表現にすべき」という具体的提案が必要です。
「わが党がこの条項に対する提案が否決されたことについて国民批判を求めたい」というのがまともな議論であるべきですが、内容紹介なしの「憲法違反」という抽象論ばかりで本気で納得している国民が何%いるか?です。
内容に触れないで「多くの憲法学者が反対している」とか憲法違反等(共謀罪法の時も近代法理違反という抽象論)の反対論を聞いていると、ともかく日本の自衛能力を少しでも弱めたい(共謀罪法は国内治安・・防衛能力の問題です)どこかの国の希望によって反対しているのかな?と想定してしまう人が多くなるのではないでしょうか?
「学者何名が反対している・弁護士何名が反対している」→「エリートの判断に任せろ!」式抽象的反対論は具体的内容を知った上で判断したい・・民度の高い我が国向きではありません。
いわゆる革新系は東大卒や弁護士や医師などエリートをかき集める傾向が強いことを、だいぶ前に紹介したことがあります。
例えば共産党のトップ志位氏は東大卒で、民主党政権獲得時のトップ鳩山氏も東大卒大学教授(または助教授)の経歴です。
旧社会党で有名な土井元党首は神戸大学だったかの教授でしたし、今の福島瑞穂氏も東大卒の弁護士・学習院女子学院だったかの教授経験者です。
立憲民主党首の枝野氏は東北大卒の弁護士です。
対する与党自民党の安倍総理は、成蹊大卒として学歴ですので、肩書き重視の野党からはバカ扱いされているようですが、その前は麻生氏で祖父の7光で入れたイメージの学習院大卒ですし、小泉氏は慶応卒で、福田康夫氏は早稲田卒でいずれも親の7光組の可能性があるなど、学歴重視でないことが明らかです。
党首に限らず一般的な候補者で見ても、いわゆるエリート系肩書の人が目立つのが革新系野党です。
革新系?(私の感想では超保守系集団ですが)庶民の味方を標榜しながら、自己の体質はエリート主義です。
自分はエリートだから良いが、貧乏人が可哀想でないか!という議論を好むようです。
庶民には難しいことがわかるはずがないのでトップ・エリート指導層の決めたことを中間組織に図式化・画一的理解を浸透させ彼らを前衛と名付け末端運動組織としてイデオロギーを拡散していく運動方式をいまでも踏襲しているイメージです。
彼らの運動方式は「トップの方針を図式化して教えてやるからそれを実行しろ!」という性質が濃厚で、いわゆる民主団体というイメージ主張とは真逆です。
芦部憲法論の図式理解で書きましたが、弁護士層は図式理解に得意な集団(かな?私は図式理解に不向きな不器用タイプですのでいわば少数派のよう)ですので、運動体として役立つグループでしょうが、公害でも高速道路反対等で説得に来た弁護士に物分かりの悪い疑問をぶつけると今までマトモに答えてくれた弁護士がいませんでした。
この数年の共謀罪反対や、集団自衛権反対論で言えば、具体的疑問をぶっつけると、図式的理解を前提にしていて「えっ図式を知らないのか」式のバカか?というような反応が普通です。
反対運動では国民大多数の反対を無視した法律であるという意味づけの報道やアジビラ等が目立ちました。
国民大多数の怒りをぶっつけるとか国民の平和願望無視とかいうものの、平和をどうやって守るかの意見がないのと同様に何をもって「大多数の声」を無視しているというのか不明のままでした。
総がかり運動とか1000人委員会とか威勢の良いスローガンばかり並ぶ反対運動でしたが、内容は今日どこそこで反対集会を開き何人集まった・・「平和をおもう熱い想いに感動した」とか、自分は昨日も東京まで行って集会に参加しているとか、いかに自分が運動熱心かの自慢的ネット投稿が目立ちました。
一見客観性のありそうな意見としては、メデイアの世論調査発表しかないのです。
内閣支持率激減の報道だったのに、その直後に行われた総選挙で与党が大勝したのは、事前の世論調査が国民意識とあっていなかったこと・どういう調査をしていたのか?メデイアの行う世論調査の正確性への疑問が高まったことになります。
解散・選挙機運が盛りあがると「世論が・・」国民の意思無視と先頭に立って主張していたように見えた朝日新聞が以下の主張を始めました。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014113000005.html
解散・総選挙は、集団的自衛権論議には迷惑千万だ
各党の公約・主張に強いピンぼけ感
強行採決批判などで知られている朝日が国民の民意を聞く千載一隅のチャンスと大喜びするのではなく、上記の通り一転して解散総選挙批判に矛先が向きました。
その後も朝日に限らずいろんなメデイアで「総選挙は国費の無駄遣い」を匂わすような記事・・「選挙にはこれだけのお金がかかる」などのキャンペインがされていた記憶です。
国民多数の反対無視の国会議決と宣伝していた以上、自社の世論調査が色のついた世論調査ではないならば、国民の信を直接聞くことになる総選挙をなぜ喜ばないのか不思議です。
総選挙反対キャンペインは、「憲法学者やエリートの意見があれば国民は従うべき」とか「メデイアの決めた方向が国民意思である」かのような思い上がりが、国民批判を受けて全否定されるのが怖かったのでしょうか?
朝日新聞ほどはっきり言わないまでも、多くの反対運動団体も判で押したように解散総選挙批判に転じたのは同じ気持ちだったのでしょう。
「国民の信を問え」という運動から、解散反対への変化を見ると、民主主義勢力?がこれまで「国民に信を問わないのはけしからん」とか強行採決で「民主主義は死んだ」などと批判してきたのは、なんだったのか疑問に思う人が多かったでしょう。
合理的に理解すれば「自分らの主張は国民に支持されていない」と自覚したうえの街頭デモ活動だったことになるし、・・内閣支持率低下報道して政権批判一色だったメデイアが、政権が国民の審判を仰ごうとして解散方向に動くと今度は「解散に大義がない」批判するのは、自己矛盾でしょう。