コロナ感染に戻しますとニューヨークの場合、国際的出入の多さでは世界一で感染リスクの高さではイタリア北部以上ですが、ワスプの高齢者・富裕層の多くは高齢化するとフロリダ等気候の良いところへ移住している点がイタリアと違うでしょう。
どこの国でも高齢者施設でクラスターが発生すると、一挙に感染者数が増えるほか死亡者数も急上昇します。
ニューヨークは富裕層(がフロリダ等へ逃げているので)の高齢施設入居率が低いので人種格差が目につくようになっているのではないでしょうか。
それぞれ違った側面がありそうです。
ニューヨークの場合、今回のコロナ騒ぎで突出して感染率や死亡者が多いのは、格差社会によると言われる所以です。
https://www.cnn.co.jp/usa/35152159.html
(CNN) 新型コロナウイルスが猛威を振るう米ニューヨーク州の保健衛生当局は8日、新型肺炎の関連情報を提供するウェブサイトを更新し、犠牲者に関するデータなどを新たに盛り込んだ。
ニューヨーク市を除き州内で報告された死者の人種別の比率では、ヒスパニック系(総人口の中での割合は11%)が14%、アフリカ系(黒人、9%)が18%、白人(75%)が62%、アジア系(4%)が4%となっている。
予備段階のデータとしながらも、州内で発生した新型コロナに関する情報の90%にもとづくとしている。
中国も古代から(日本の武士層〜ホワイトカラーや正社員層が発達しないまま)「士大夫層とその他」の2極社会で1980年代の改革開放まで来ました。
2極社会を数千年単位で維持できたのは、絶え間ない異民族支配・軍事占領を原則としてきたことによります。
三皇五帝という神話上の時代から周王朝の歴史時代に入るのですが、その初代文王(姫昌)を18史略では西伯と書いているように西方の伯でした。
〇〇伯という呼称は今ではその方面の押さえ・・(主にドイツの)辺境伯という意味ですが、東方伯の名称がないのを見れば、元は文化流入口を抑える重要地域の長官・日本で言えば太宰府長官のような役割だったはずです。
周の先祖は地盤・民族ルーツが西域系だったと素人的意見ですが私は思っています。
本拠地が西域からの出口から始まるので、王朝成立時の国名を西周といい、洛陽に移ってからは東周といいます。
春秋戦国時代を経て天下統一した、秦も今の陝西省付近を根拠地とする西域系の出自のようです。
私の素人歴史観ですが、中華文明といっても古代ペルシャ文化が中央アジア・極東から見れば西域の広大な砂漠ルートを通じてようやく黄河水源域に達した高原からの下った出口・・麓というか、日本でいうと扇状地のような地に位置するところに拠点を得たグループが、中華文明発祥の地と称しているに過ぎないという意見を持っています。
要するにオリエント文明の取り入れ口が黄河上流にある拠点だったので、外来文物を(今は船で大量に運ぶのが普通になっているので舟篇がくっついていますが古代には船での舶来はなかった筈です)舶来品と日本でいう語源(これは私の語呂合わせジョークです)でしょうか?
ペルシャ〜トルコ系商人が過酷な砂漠の旅を経てようやく黄河の水源地にたどり着いて、そこを拠点にして水流に沿って商圏を広げていった・ギリシャローマ同様の地中海式の植民都市・都市国家(城塞都市)が中国社会の原型であるという意見を繰り返し書いてきました。
関東地方で言えば、信濃国から碓氷峠の先にいきなり関東平野が一望できる突端に至ったような風景です。
信州には水が豊富ですが、中央アジアは砂漠地帯ですから、黄河水源の分水嶺を越えて東方に広がる水の豊富な地域を目にしたオリエントから来た商人の喜びは、(アメリカ新大陸発見のようなものでしょうか?)想像するに余りあります。
日本では日出処・東海(日の出はありがたいですが、日没を有り難る人は例外)が憧れの対象ですが、中華経由の仏教史思想で西方浄土という意味不明のものを有り難がる信仰もこれに由来します。
水源地・瀧をイメージする龍が皇帝専用の文様になっている伝統もこれに由来するでしょう。
龍に関するウイキペデイアの解説です。
中国の竜は神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説をはじめとして、中国では皇帝のシンボルとして扱われた。
西域系支配に戻しますと、その後の漢楚の攻防で初めて現地民族系国家が成立しますが、その後魏呉蜀の三国〜魏晋南北朝〜隋を経て成立した唐もどちらかと言えば・西域系の王朝でした。
五代10国を経て成立した宋が民族系でその頃から西域系というより北方系(モンゴル・清)が侵略の主役になってきます。
モンゴルの後の明朝が民族系で次に北方系の清朝になり清朝崩壊後の現在・・中華民国〜中華人民共和国へと異民族支配が交互に行われてきた歴史です。
異民族に占領された直後には、絶大な軍事権力構造に反抗する余地がない(・・これが専制君主制の本質)ので、漢民族を主体とする現地住民はこれを表面上受け入れながら文化力の優越に頼り時間をかけて懐柔する戦略でやってきました。
漢民族というか現地複合被支配層は「上に政策あれば下に対策あり」という面従腹背精神(中国特有の汚職体質も異民族支配に対する生活の知恵に由来するでしょう)で占領軍を共同体に取り込んできた結果、・・いかに強固な軍事国家でも数百年で軟弱化してしまい最後は大動乱がおきて追い出される繰り返しでした。
これを恐れた清朝は身を律すること厳しく最後まで風紀の乱れを起こしませんでしたが、外敵(英仏列強)に圧される弱体ぶりを晒したので、被支配層(いわゆる軍閥)がこのチャンスを狙って各地で蜂起した図式でした。
数百年ごとに起きる動乱を利用してその都度民族国家が樹立されますが、現地政権は原則として柔弱政権なので一定期間で周辺軍事国家に征服占領されることの繰り返し、交互関係でやってきた社会です。
この辺は後から来た支配層がその都度上位カーストになって来たインド社会と似ていますが、インドでは占領政府の内部崩壊による民族政府樹立したことがなく(戦後独立が唯一の例外?)いつも外敵に占領されてきた・最後に来た支配民族が頂点になる重層的支配構造になっている点が違うようです。