國と縣1

原発や地震で有名になっている福島県の中通りや浜通の呼称、長野県で言えば松本市を中心とする地域と信濃川流域の地域の意識差などを見ても縣制度施行から既に百年前後経ってもいくつかの国が一緒になった殆どの縣で一体感はなかなか出来ない・・今でも張り合っていることが多いものです。
ただし、千葉県の場合、上総下総あるいは安房の國と行っても、間に峻険な山脈がある訳でもなく、いずれも元は房、総(ふさ)の國でそれほど気候風土の違いがないく、はりあう気風は全くありません。
(律令制前の国造の時代には1つの総の國となっていましたが、その後3カ国になったものです)
この状態で各県に政令指定都市が続々と出来てきましたので、行政単位としての県の存在意義が軽くなってきました。
郡単位の行政上の仕事がなくなって行き、生活空間の広がりによって「こおり」の実態がなくなってくると「郡」の漢字を「こおり」と読む人が少なくなって行き、いつの間にか消滅しそうなのと同じ運命が縣にもあります。
村をムラと読まないうちに市に合併してしまった市原市のように、縣制度に関しては日本中で誰も訓読みをしないうちに道州制になると縣の訓読みがいよいよ進まないでしょう。
従来の小集落の名称であったムラに代えて行政組織として出来た「村」でも、時間の経過で一体感が育てばこれもムラと読むようになった例が多いように、県内で生活圏として一体感をもてれば、縣を「くに」あるいは「こおり」と訓読みする人が増えたのでしょうが、殆どの人がそう思わないまま現在に来ています。
今は気候風土よりは鉄道沿線別一体感の時代で、千葉県で言えば、総武・京葉沿線と常磐沿線では日常的交流が少ないので一体感が持ちにくい状態ですし、これは首都圏のどの地域でも同じでしょう。
結果的に各鉄道の合流地域である首都圏・名古屋圏・大阪圏と言うような一体感の方が進んでいる状態です。
その結果、縣の訓読みが定着しないまま現在に至っているのですが、「縣」を古代に使われたアガタと読むのは古文や史書の世界だけであって、今の用語として復活して使う人はいないでしょう。
古代でもアガタ主は日本書記にあるもののその実態が不明なようですが、(書記に書かれている成務天皇自体実在したか否かさえ不明なのですが、)これは神話であって編纂した時の政権に都合良く時期を遡らせたものですから実際の時期は違うとしても、律令制以前に大和朝廷に服属した地域の豪族をアガタ主として支配機構に組み込んで行ったらしいことが分ります。
地方豪族の勢力範囲を縣(アガタとかコホリ)と言うとすれば、当然勢力圏に関係なく気候風土で区域を決めた国の方が大きくなります。
元々神話的部分なので国造とアガタ主の関係がはっきりしないのですが、(ものの本によっては対等だったり、国の下位に県がある筈とする後世の考えの類推でアガタ主を下位に想定するなど)その分布を見ると東国では国造が多く畿内以西ではアガタ主が多くなっているようです。
これは、早くから大和王権の支配が及んでいた(大和王権成立までには直接戦って勝敗が決していた)畿内・西国方面では地方政治の担い手を王権代理人としてのアガタ主として(直属家臣のような官僚機構類似の関係になり)、まだ充分に支配の行き渡らない東国では服属した地元豪族をそのまま国造にして行ったので、東国に国造が多くなっていると言える(私の独自推測)ようです。
中国の古代制度で言えば、直轄地と外地の服属・朝貢国の関係です。
(豊臣秀吉も天下平定最後の頃には全面征服(叩きつぶ)して行かずに、本領安堵で支配下に組み入れる方式でした・・これに従わない小田原の北条氏が抵抗して消滅したのです。)
また、徳川氏も自分の本拠地近く(現在の関東甲信越)では直属の家臣(譜代大名)中心ですが、本拠地から遠い西国・東北の大名はその殆どを本領安堵しただけの大名で占めています。
ただし、我が国の場合、直轄地と言えども基礎は小集団の連合体ですから、直轄領地内でも中国のように専制君主制で貫徹することは出来ず直臣の大小名に分割統治を委ねざるを得ない点が本質的に違います。
政権樹立時に徳川家が把握していた本来の直轄地の殆どが、服属地域と同じ大名支配形式を基本にしていて、その後も功労者(例えば大岡越前や田沼意次など)を大名に取り立てるたびに幕府が代官支配する直轄収入地は少なくなる一方でした。

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