実際に美濃部達吉の天皇機関説事件では内務省がメデイア世論に押されて告発したものの、検事調べで起訴猶予処分になって終わっていますし、京大の滝川事件でも、大学を(国家公務員の地位を)追われるかどうかだけで刑事処罰されたものではありません。
美濃部事件では野党政友会によるもので政府が対応するしかなくなったのですが、政府中枢どころか、天皇陛下でさえ美濃部説を支持していたと言う発言記録があるほどです。
天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記事からです。
昭和天皇の見解
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と本庄繁武官長に話し、真崎甚三郎教育総監にもその旨を伝えている[7]。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。
主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ — 『西園寺公と政局』
滝川事件も以下で紹介するように政府中枢がメデイアの煽る世論に仕方なしに妥協的な処分をした裏事情が出ています。
半可通の右翼青年が政治力を何故持つようになったかといえば、民主主義がなかったのではなくむしろ民意重視の古代からの我が国で民意・・世論を偏った方向へ煽るメデイアの害が大きかったのです。
日露戦争講和条約に対する不満(戦勝したのに戦利品が少ない不満)で集まった暴徒による日比谷公園焼き討ち事件が知られていますが、素人が日ロの戦力比や国際情勢の機微を知る由もないので、半可通の極論を言う一部人士の言説をあたかも正義のようにメデイアが煽ってこれに軽薄な階層(メデイアを読む当時の知識人?)が反応したに過ぎないことは歴史が証明して・・ポーツマス条約は国際的根回しの成果・・当時の国際環境下では最大の成果であったことについて争いがないでしょう。
日比谷公園焼き打ち事件に関するウイキペデイアの記事です。
ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州(中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎はロシアとの交渉決裂を恐れて8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。 この条件は、国民が考えていた条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 – ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。
当時はまだ民主主義制度が根付いていなかったので、政府は半可通知識にもとずく極論・暴動を無視していればよかったのですが、大正時代に入ってくると、メデイアによる世論形成効果(読者層が増えてきた)・・アオリ効果が多くなってきたので、半可通の知識人?やメデイアによる右翼扇動が(メデイアの一方的な報道がなければ条約交渉の推移など一般人が知る余地がありません)世論を形成し、国政を左右するようになって国家の方向性を誤らせてしまったのです。
戦前の軍国主義・いかに政府権力が怖いか・政府がいかに悪かったかを戦後メデイアや文化人が他人事(自分が被害者)のように宣伝をしていますが、右翼思想を煽って際限ない吊るし上げ政治・言論を萎縮させて行ったのはメデイアであり、半可通知識人だったのです。
ちなみに現在政府批判の急先鋒である朝日新聞は戦前には右翼の主張を煽って政府批判していた代表的メデイアであり、(上記日比谷事件でも朝日新聞の名が出ている他、後記上海新聞事件に関する論文を見れば天皇機関説事件その他で政府批判をしては、その都度軍部の力が伸長するのに貢献してきた疑いがあります。
メデイア界はこぞって軍部に媚びては次々と普通の学問まで標的にしてはまともな政治を出来なくしていったものであり、占領軍が来ると今度は占領軍軍政方向に協力し、占領軍がいなくなると中ソの宣伝機関化して戦前暗黒時代の宣伝に邁進するようになります。
日本社会の戦前戦後の違いは、メデイア界が右翼を煽るか左翼を煽る(対中韓失言報道を煽っては大臣罷免を要求するなど)かの違いであり、メデイアの誘導する民意?に基づく政治を前提にする点は同じです。
天皇機関説事件に関するウイキぺデイアの記事です。
天皇機関説事件とは1935年に起こった事件。当時の岡田内閣を倒閣させるための野党などによる攻撃に天皇機関説という憲法解釈が利用され、文民である内閣による軍事への影響力の根拠である「統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である天皇が政府の輔弱を受けて行使する」が攻撃された。
議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。
最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]。
上記によれば、政府が弾圧したと言うよりは、現在政治同様に政策論争よりは野党の揚げ足取り政府批判に端を発し・これをメデイアが大々的に報じて世論を誘導して、内閣が対応するしかなくなった事件です・権力による弾圧ではなくメデイア攻勢に権力が屈した事件です。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC-102675による解説です。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
天皇機関説
一木門下の東大教授美濃部達吉(みのべたつきち)は、日露戦争後、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたG・イェリネックの学説を導入し、国民代表機関たる議会は内閣を通して天皇の意思を拘束しうるとの説をたて、政党政治に理論的基礎を与えた。京都帝大教授佐々木惣一(そういち)もほぼ同様な説を唱え、1920年代には天皇機関説がほとんど国家公認の憲法学説となった。
【政友会】より
… 続く岡田啓介内閣も中間内閣として成立したため,政友会はこれを支持せず,入閣した3閣僚は政友会を脱党した。一方,1935年に軍部や右翼が中心となって国体明徴問題がおこると,政友会はこれに同調し,民政党などとともに国体明徴決議案を提出して鈴木総裁みずからが提案説明に立ち,政友会は立憲主義を基礎づける美濃部達吉の天皇機関説を否定するという政党にとっての自殺的行為に踏み出した。
上記の通り政党自身が政党のよって立つ憲法学説を批判して否定の論で気炎をあげる・「政敵を攻撃するためには何でもやる・・日本の将来など気にしない」と言う政党の低レベル行為が、日本の代議制民主主義の病理現象を拡大し日本を破滅の淵に追い込んでいった・まだ民主主義を使いこなせなかったように見えます。