明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。
『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。
上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。
近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。
私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。
中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「名」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。
漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799
むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について
上記が一般的な理解でしょう。