天皇観は根本変化したか?5(GHQ草案)

以下新憲法制定に至るGHQとのやりとりとその前の基本方針に関する国会図書館の記録からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html

資料と解説・第3章 GHQ草案と日本政府の対応
3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

民間憲法改正案要綱に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B11946年2月3日、によれば、

46年2月3日のマッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。

とあります。
上記の通り、GHQは天皇の戦争責任を一切出さなかったし、GHQの憲法草案も天皇制を基礎にしたものでした。
天皇の権威・国民の尊崇を利用する戦略は、とりもなおさず天皇を尊崇する国民意思尊重ということでしょう。
以下交渉経過は国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

2 日本側の検討
憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

乙案とは1月6日に紹介した宮沢案でしょう。
日本政府は国務大臣が提出した政府案に対する回答をもらえると思って、2月13日にホイットニーと会談したところ全く違うGHQ案をもらってタマゲタところから始まります。
原文は2ページ目しかコピペしませんが、3ページ目には、重大すぎて即答できないと回答して会談を終えたとあります。
以下は松本国務大臣がホイットニーとの会談時のメモの一部です。
このコラムではコピーではっきり読めませんが、国会図書館の上記にアクセスすればはっきり読めますし1ページ目も3ページ目も読めます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

3-16 GHQ草案手交時の記録
これらの資料は、1946(昭和21)年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。

料名 二月十三日會見記略
年月日 [1946年2月13日]
資料番号
所蔵 東京大学法学部法制史資料室松本文書

私の読み違いかもしれませんが、前ページ末の文章は「マッカーサー元帥はかねてより、天皇の保持について深甚の考慮を巡らしつつあり」としてこの1行目の「たるが、日本政府がこの提案のごとき」につながるので、「この提案」とは日本政府案に対して司令部が当日手交した(1ページ目に「先方提案数部交付し・・」と書いています)司令部草案をいうものと解すれば、文意が通ります。
5行目の「吾人はこの提案のごとき改正案の提示を命ずるものに非ず」も6行目の「この提案」も同じGHQ草案のことでで「原則さえ守ってくれれば・・そのとおりでなくともよい」という「押し付け批判」を意識した主張も全部理解可能です。
この「根本形態に基づいた改正案を速やかに提示」されたいと要求をされたのです。
2行目終わりの「これなくして」(GHQ案によらずして政府提出案のごとき改正案では)「天皇の身体(パーソンオブジエンペラー)の保障をなすこと能わず」とまで言われたとメモに残っています。
GHQは「民意による」制度という点で背後の連合国に対する天皇の生命保障・天皇制存続の保障説得を成功させようとしていたように演出していたのです・・この一点がないと「天皇の身体を保障できない」意味を私はこのように解釈しています・・。
本当に極東委員会が天皇制廃止を要求していたと言うのではなく脅しに使ったのでしょうか?
のちに極東委員会との関連で紹介しますが、GHQに対する連合国お目付役の極東委員会が設置され実動開始前にまとめてしまおうとGHQは極東委員会を蚊帳の外にしてこの交渉を進め、外部に出た時にはすでにこの案を歓迎する日本国内世論の盛り上がりを利用して、極東委員会の介入を阻止してしまいました  ・・善意悪意を別として鮮やかな手際です。
以下紹介しますが、これが徹夜交渉までして急がせた理由だと私は想像しています。

天皇観が根本変化したか4(人間宣言と民族の心)

天皇周辺にどういう人物がいて起案したか(私には)不明ですが、仁徳天皇の「民の竈」の故事にもあるように、皇室の伝統的精神でしょうか・戦火による国民の艱難辛苦をいたわる気持ちが敗戦の詔勅にも多く書かれていますが、国民の安否を気遣う精神に貫かれた名文ですので、この機会に全文を紹介しておきます。
この詔勅を読むとこの詔勅が示した基本方針が昭和天皇以来平成天皇へと国民から敬愛されてきた全国巡行・慰霊の旅や災害に対する共感の表明などの行動規範の基礎になっていると思われますし、戦後70年の国民の精神・行動規範となってきた・・・これこそが実質的意味の憲法精神になっていたように思われます。
この詔勅は明治維新の当初に新政権の心意気として公布された「五箇条の御誓文」の引用から始まっているように、新たな戦後精神は「かくあるべし」という宣言でもあったでしょう。

(「五箇条の御誓文)は「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」

と冒頭に記し

「一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。(こいねがう」

と最後に結んでいます。
そして日本民族は天皇陛下を筆頭にして一致団結して戦後70年かけて汚名を雪ぎ現在の栄誉ある地位を築く努力をしてきました。
韓国や中国の慰安婦や南京大虐殺の主張はこの努力を無にし、事実無根のフィクションによって汚名を世界に広げようとするものであり、国内でこれに呼応して文学作品の自由・報道の自由と称して(日本を貶める国に迎合して)民族の汚名を広げようとする勢力があるのは誠に遺憾です。
同じく国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056shoshi.html

3-1 天皇「人間宣言」
1946(昭和21)年1月1日に発せられた詔書。このなかで昭和天皇は、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定した。これは、後に、天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなった。同日、マッカーサーはこの詔書に対する声明を発表し、天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと高く評価した。
詔書
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
御名 御璽
昭和二十一年一月一日
以下省略

この詔勅は五箇条の御誓文から説き起こし、「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」
「旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。」としてこの時点ですで平和主義の宣言をしています。

「蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦・・真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。」

と国民をいたわりながら鼓舞し、

「朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(よろこびと悲しみ・稲垣注)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。」
これが有名な人間宣言部分ですが、ここにも天皇の存立基盤は「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、」と国民の信頼の上にあることを天皇自身が宣言しているのです。

なぜ、政府・政府に重用されている学者が「爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ」・・意を体した憲法改正案を作れなかったのでしょうか?
終戦の詔勅の一部引用です。
国民を思い案ずる心は一貫しています。
これがマッカーサーとの会談でそのまま吐露されて彼の心を打ったのでしょう。
http://ironna.jp/article/1855

朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ)
・・・・
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対し遺憾ノ意ヲ表セサ(ざ)ルヲ得ス(ず) 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ(じ)非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ(ば)五(ご)内(ない)為(ため)ニ裂ク 且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫(しん)念(ねん)スル所ナリ 惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情(ちゆうじよう)モ朕善ク之ヲ知ル 然レト(ど)モ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪(た)ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ(び)難キヲ忍ヒ(び) 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
・・・朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱(みだ)リ 為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ(が)如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝へ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ) 任(にん)重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサ(ざ)ラムコトヲ期スヘ(べ)シ 爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ

御名 御璽
昭和二十年八月十四日

耐え難きを耐え忍び難きを耐え・・「我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。」
「朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。」
終戦と年頭の詔勅を合わせて読むと、概ね結束(心を一にして)して石油危機〜円高危機〜大震災その他難局に当たってきました。
これが鮮やかに出たのが東北大震災で発揮された「絆」でした。
戦後70年に及ぶ雌伏のときを経て、今まさに世界の尊敬を受けられる民族になり、昭和天皇陛下の御期待に応えられるようになったことを誇りに思う国民が多いでしょう。
国連等で日本民族が道義的に如何に劣っているかを訴えるための活動をしているかのように誤解を受けそうな組織もあります。
もちろん完全無欠の人や民族はないので、海外の良い点を取り入れる謙虚な姿勢は常に必要ですし、成績トップクラスでもなお努力して高みを目指すために「この点まだまだ改良の余地があると言う意見や努力も必要です。
しかし、それは国内で主張し自分で努力すればいいことです。
海外活動家の真意は誰にもわかりませんしわかる方法もありません。
絆で結ばれているはずの日本民族にも、もちろん一定の例外がいます。
規格外の人が生き易くするのも民族の発展のために必要なことですが、それと自民族を国外で中傷するのを目的に行動して良いかは別問題です。

天皇観が根本変化したか3(憲法草案要綱・民間案)

憲法草案要綱に関する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1の記事からです。

戦前からマルクス主義者の立場から自由民権運動を中心に憲法史研究を続けていた鈴木安蔵が起草し、それに対して憲法研究会で出された意見等により修正を重ねて3案まで作られたもので、全58条からなる[1]。小西豊治によれば、憲法研究会の中心人物は鈴木であり、第三次案を執筆したのも鈴木である[2]。
「要綱」は、
「日本国の統治権は、日本国民より発する」
「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」
など現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有している。
このほか、詳細については以下の通りである。
議会については、二院制を採用しており(GHQ草案は一院制)、全国1区による大選挙区制による一院と職能代表による二院とで構成するかたちをとっている。また内閣については、議会に対して責任を負う議院内閣制を採用している。
司法については、大審院院長・行政裁判所長・検事総長を公選とし、冤罪に対する刑事補償規定がある。
憲法公布後10年以内に国民投票による新憲法の制定をおこなうことが規定されており、憲法の位置づけを暫定的なものとしている。
鈴木安蔵は、発表後の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して次のように述べている。
「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である。」

国民主権の宣言の歴史と「要綱」の作成経緯
1945年11月21日、憲法研究会第三回会合が開かれる。第一次案として国民主権と立憲君主国の規定を含む案が鈴木から示される[18]。 会合において、室伏は「…天皇は…儀礼的代表としてのみ残る。…」と発言し、森戸は「天皇は…君臨すれども統治せずの原則により…国家の元首として国家を代表し…」と発言する[1
1945年11月29日、鈴木が第二次案をまとめる。天皇が元首と宣言されている[1
1945年12月11日、鈴木が第三次案を作成する。元首の規定は含まれず、天皇は国家的儀礼を司る、とされる
1945年12月16日、近衛文麿が自決する[22]。
1945年12月26日、憲法草案要綱が首相秘書官に渡され、GHQにも渡された[
1946年1月11日、ラウエルはGHQに「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」を提出する。その中で、国民主権を評価し、一方で修正する点として、憲法改正には国民投票が必要である等を挙げる[30]。
1946年2月3日、マッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。
1946年2月12日、マッカーサー草案が作成される。
1946年 春から夏、GHQと日本政府の駆け引きにおいて、GHQは、天皇が儀礼的形式的機能をもつような表現とするように要求する。
小西によれば、GHQの要求はこの草案に基づく
小西によれば、国民主権の規定は、アメリカが見逃していた、日本国憲法の核心部分である

上記は小西氏の自画自賛的でにわかに賛同できません
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

1-12 SWNCC極東小委員会「日本の統治体制の改革」 1945年10月8日
1945(昭和20)年10月8日付けで国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会がまとめた資料。これをもとに翌年1月7日付けの日本の憲法改正に関する米国政府の公式方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が作成される。本文書は、日本に統治体制を変革する十分な機会を与えるべきだが、自主的に変革し得なかった場合には、最高司令官が日本側に憲法を改正するよう示唆すべきだとしている。具体的には、日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや、日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等の9項目の原則を盛り込んだ憲法の制定が必要であるとしている。

上記のとおり占領政策の基本はもともと国民が決めればそれで良いという「民意重視」でしたので、国民主権論は憲法要綱案作成者の手柄でも何でもありません・・。
研究会草案は、在野の気楽さでアメリカの本音をその通り成案にしてお先某担ぎ出来ただけかもしれません。
戦後すべての分野で、(昨日憲法学者を紹介しましたが)アメリカの動向先取り発表がエリートへの道でした。
商工業医薬等の実務すべての分野でアメリカが進んでいて、これを実習して帰ると日本では10数年には日本の商工業・証券や金融取引その他のルールになるのですから、やむを得ないでしょう。
上記民間発表だけではなく、46年元旦には(敗戦の詔勅につぐ初めてのお言葉でしょう。)いわゆる天皇の人間宣言が出ています。
これによれば天皇自身が天皇の地位は
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、・・」
とあって、民意によることを自ら表明しているのです。
人間宣言が歴史的に重要なのでそればかり取り上げられますが、この時点で天皇自身が自分の地位は民意による点をすでに打ち出していた点を重視すべきでしょう。
ここまで天皇が踏み込んでいるのに、周辺はそこに触れられなかったのです。
この辺は、マッカーサーとこ会談で天皇自身が「自分の命でどうでもなるならば国民の困窮を救って欲しい」と述べた肝心の部分をあまりにもおそれ多いということで公式記録から削除されてしまった経緯と同じです。

ギリシャ彫刻と日本彫刻(高村光太郎の苦しみ)

日本の絵画の場合、美しい女性も皆着物を着ている・上村松園の描く女性も浮世絵の女性も源氏物語絵巻の女性、飛鳥の高松塚古墳の女性像も当時の理想的装いで描かれている・・時代・社会性を持っています。
高僧や偉人の絵画や彫刻の場合なおさらです。
ミケランジェロのダビデの像(1504年公開)に先立つ運慶の仁王様(1200年代)はほぼ裸ですが、仁王様を金剛力士像というように、ダビデ像よりも社会的宗教的役割がはっきりしています。
古代ギリシャでは時代を超越した理想の人間像を求めたと言えばそれまですが、なぜ古代ギリシャ(ミロのヴィーナスは最後のヘレニズム様式と言われているらしいですが)でそこまで突き抜けられたのかが不思議です。
日本でも真似して?(これはすごいことだと発奮したのでしょうか?)明治以降裸体彫刻や洋画では裸体画が行われていますが、今ひとつ国民意識に定着しない様子です。
今も国民・民族意識は「綺麗に装うものであって・・」その競争に明け暮れています・・頭でギリシャ彫刻を理解したくらいで変わりません。
この結果、明治維新以降彫刻家にとっては、大変な時代が来ています。
それまでのように仏師は仏像を彫っていれば良かった時代ではなくなったので、高村光太郎は、江戸時代からの仏師である父光雲に反抗して見たのでしょうが、高村光太郎展を見た記憶では、結局は十和田湖畔に智恵子像を完成した(大したものですが・・)程度で、その他は(千葉市美術館の企画展では良いものが出品されなかっただけか?)手首や小鳥の彫刻などに逃げていた(素人の乱暴な感想ですが・・)印象を受けました。
以下は光太郎の詩集「道程」です。

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る  ああ、自然よ父よ僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため  この遠い道程のため

高村光太郎の苦悩は、日本彫刻界の苦悩でもあったでしょう。
あらたな彫刻へ踏み出すのは大変だったと思いますし、素人が口幅ったいことを言っては失礼ですが、今の日本彫刻界もまだまだどうして良いか分からない状態でしょうか。
明治に入って西洋列強に期していくためには、文化でも負けられない・・従来の花鳥風月では芸術と言えないと言う運動が起こり、絵画界でも同じく「洋画」に取り組んだもののすぐにフェノロサと岡倉天心のおかげで「日本画」と言うジャンルが生まれたので、画家の多くが日本画に回帰できて精神世界では大いに助かっているように見えます。
http://artscape.jp/artword/index.php/によると以下の通りです。

日本美術院は、1898年、東京美術学校を辞職した岡倉天心(覚三)を中心に、同じく美校を辞職した橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山ら26名によって、在野の美術団体として結成された。
後に経営難となって、1906年に茨城県の五浦に日本画の研究所を移し、対外的な活動をほぼ休止した。天心はアメリカと行き来しながら、この地で海を臨む場所に六角堂を建て、大観、春草らは貧しさに耐えながら研鑽したといわれる。13年の天心の死去を機に、翌14年に大観、観山が中心となって再興日本美術院を結成した。再興院展では、洋画部(20年まで)、彫刻部(61年まで)も設けられた。

この産みの苦しみが東博で今展覧されている横山大観の「無我」でしょうし、同時に展示されていた洋画の青木繁の日本武尊でしょう。
再興美術院では、日本画部門では大観や観山・春草などの英才が多数が出たのでいち早く国民の支持を受けましたが、その他部門ではイマイチで現在に至っています。
大観の今に至る影響力の大きさは明治維新当時の日本を覆った・漱石の神経衰弱に象徴される明治日本の精神界の葛藤を救った功績です。
古代に仏教導入・律令制導入後、和風文化・政治風土との軋轢に苦しんだ時代が終わり、平安時代には空海によって和風文化に適した日本的仏教が創始され、大陸文化.政治制度を吸収した上での各種和風文化が花開いて源氏物語や大和絵が起こり彫刻界では鎌倉時代に運慶のような傑物が出たように、彫刻界でも、欧米の精神を取り込んだ和風の彫刻様式を確立してほしいものです。
ただし我が国では、彫刻はもともと塑像や木造が主流であって金属や石を削る彫刻に馴染みがない・・せいぜい路傍のお地蔵様や狛犬→忠犬ハチ公が対象になる程度です。
絵画のように自宅に飾る習慣がない(書院造が発達したのちも・・・・生活空間の置物は彫刻でなく陶磁器でした(この陶磁器も今風の生活にそぐわなくなくなっています)ことが、大衆(市場での買い手が育たない)支持を得難い大きな違いでしょうか?
お寺の代わりに大きなビルが増えても、・・ホテルやデパート等正面には生花系の華やかなオブジェが食い込んでいますが、彫刻には目が行かない様子です。
この数十年の流れを見ると公園や広場のオブジェとしての意味しか(実用性?が)ないように思うのですが?
北村西望や平櫛田中の作品(例えば鏡獅子は古典題材・「意味」に戻って傑作を残しましたが、国立劇場にあるのでしょっちゅう見られます)は大好きですが、やはり意味があってこそ良いように見えるし家庭向きではありませんし一般ビル向きでもありません。
私の好みから一般化できるとはおもえませんが、私の場合意味(由緒来歴)を重視する傾向があるように思われます。
歴史建造物や歌枕を多くの人が愛するのは、そこに「意味」を見るからです。
各地の美術館で企画展が大流行しているのもその一環ですが、もしも日本人の多くが意味を求めているとしたら、意味不明の裸像を見てもピントこないし、需要に結びつかないでしょう。
高尚な芸術であっても評論家が褒めれてくれたり、美術館お買い上げだけでいいのではなく、市場の支持がないと健全な発達ができません。
裸体彫刻の時代は西欧や地中海世界でもギリシャ〜ローマで終わって以降は「意味の時代」に入っているのであって、ルネッサンス運動で一時的に(過去の遺物が)息を吹き返しただけ・「過去は過去」・だったのかもしれません。
せっかくルーブルで名品多数を鑑賞したのですが、記憶に残るのは、花より団子・・食べ物のことです。
いつも食べ物の思い出ですが、(オルセー美術館ではレストランがあって久しぶりにまともな食事ができて感激した記憶ですが・・・)ルーブルの思い出は、食事環境が(パンくらいしかなく)粗末だったことです。
隣に居合わせた若くてごつい人の太い腕と肩口しか見えなかったので、男の人と思って気楽にちょっと話しかけて見ると、ドイツから来た女性と知って驚いた記憶です。
ドイツ人にとっては気にならない食事内容でしょうが・・・。
食事といえば、ロンドンでも食事はひどいものでしたが、若かったこともあり気になりませんでした。
逆に大英博物館では美味しいオレンジジュースを毎日飲めたのが良い思い出に残っています。
まずい固いパンが紅茶に合うのも知りました。
パリでは高級レストランを探す能力もなく、街中のレストラン(飛び入り)で半端にいろんな食事をしたので、却って不味かった記憶・レベルの低さばかりが記憶に残っている感じです。
しかし大衆向けレストランのレベルが低いのでは、文化の底が知れています。
貧窮の極みである北朝鮮でさえも、最高級レストランでは日本同様のレベルを維持できているのでしょう。
文化度とは大衆レベル・表通りだけではなく、裏道の整備レベルこそ民度の基礎です。
日本は万葉の昔から大衆が文化を支えてきた強みがあります。
大衆を家畜のように支配する律令制が上滑りで終わって、これを利用した我が国古来の民族一体関係を生かした政治が鎌倉以来始まったように、洋風そのままの彫刻〜洋画には日本の心・大衆の支持がないので無理があります。
この数年近代立憲主義の主張が盛んですが、明治以降導入した欧米の皮相な思想は150年経過で次第に日本文化思想に融合(和魂洋才の完成)されてきた結果に対する焦りでしょうか?

憲法改正3(特別多数と国民投票が必要か?1)

明治憲法は在野の憲法制定運動が奏功したかのように、自由民権運動が大きく教育されてきましたが、政府が憲法の必要性に目覚めて率先して取り組むようになったので、それに触発されて便乗意見が起きた面も否定できないでしょう。
もともと自由民権運動は、征韓論に破れて下野した板垣らによって始まったものであって、西南戦争まで連続する不平氏族の反乱を煽っていた不平勢力に過ぎません。
西南戦争でケリがついて、不平を言っても仕方がない社会になって沈静化していたのですが、昨日書いた通りいろんな法制度ができてくると、法と法の関係や上位規範の必要が出てきたところで、政府がこれに取り組むようになって内部で色んな意見が出ると早速これに飛びついた印象を受けます。
(私個人の偏った印象ですが?)
政府が先に憲法秩序の必要性を検討していて、政府内の大隈重信は早期制定論でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95によると自由民権運動は以下の通りです。

1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野した。(明治六年政変)
経緯 自由民権運動は三つの段階に分けることができる。第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白書提出から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまでが、この運動の最盛期である。 第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である
[1私擬憲法
国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと翌1881年(明治14年)までに私案を持ち寄ることを決議した。憲法を考えるグループも生まれ、1881年(明治14年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。1968年(昭和43年)に東京五日市町(現・あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
「参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、1881年(明治14年)に起こった明治十四年の政変で、参議・伊藤博文らによって罷免された。一方、政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。
注2 ただし板垣らの民撰議院設立建白書は当時それほどの先進性はなく、自らを追放に追い込んだ大久保利通ら非征韓派への批判が主体であり、政府における立法機関としての位置づけも不明確であった。むしろ板垣や江藤・後藤らが政権の中枢にあった時期に彼らが却下した宮島誠一郎の『立国憲義』などの方が先進性や体系性において優れており、現在では民撰議院設立建白書の意義をそれほど高く認めない説が有力である。稲田 2009などを参照。

上記の通り不平士族を支持基盤にしている結果でしょうが、国民悲願の不平等条約改正に対する反対運動が活動の中心であったなど、変化に対して何でも反対・国益などどうでもいいような動き・・今の革新系文化人思想家の先祖のようです。
秩父困民党事件(1884年明治17年)10月31日から11月9日)は不正士族・自由民権団が加担したので、過激になったと言われています。
(条約改正反対とは不思議ですが、これを実現するためには外圧・欧米の要求する近代化・法制度の導入→時代不適合の旧士族が困るので反対したのでしょうか?)
この3〜4年革新系がしきりに強調する近代法の法理とか、近代立憲主義とは、絶対君主制打倒によって生まれたばかりの革命政権では、いつまたちょっとした力関係の変化で「王政復古」するかも知れない過渡期にあって革命家がハリネズミのように緊張していた時代の思想です。
革命直後の「近代憲法」と違い、明治憲法の時でさえ、対外関係上君主が自発的に憲法を制定するしかない国際状況下にあって、もはや絶対王政が復活する余地がなかったし、憲法ができる前から天皇親政などできる能力がなかったので、親政の復活など誰も心配しなかったでしょう。
まして日本国憲法では、「現代民主主義国家」になって憲法の改正発議権が政府から国民の意見を代表する議会に移っているのに、国民が自分で選んだ議会の発議→決議に国民が抵抗するために国民の同意を要件にする必要があるという考え方自体非論理的です。
民主主義国家においては、国民代表の議会が憲法も決めるのが普通で、EU加入・離脱や国自体の合併のような最重要事項について議会の都合で自信がないときに国民投票をするのが合理的です。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0584.pdf

諸外国における国民投票制度の概要 国立国会図書館 ISSUE BRIEF N
UMBER 584(2007. 4.26.)
スペインでは、憲法の全面改正ないし特定の条項の改正の場合にのみ国民投票が義務的要件とされ、そうでないときは一院の10分の1の議員の要求により国民投票が行われる(憲法第167、168条)。
スウェーデンでは、基本法2の改正には、国会(一院制)における、総選挙を挟む2回の議決を要するが、第1回の議決の後に3分の1の議員の要求があれば、その総選挙と同時に国民投票が行われる(統治法典第8章第15条)
フランスはこれらとは異なり、国会議員が提出した憲法改正案は国民投票を要するが、政府が提出した場合は、大統領がこれを両院合同会議に付託すれば、国民投票は行われない(憲法第89条)。これまでの事例では、国民投票より両院合同会議による憲法改正の方が多い。
主要国のうち、アメリカ、オランダ、カナダ、ドイツ、ベルギーでは、住民投票は別として、憲法改正の場合も含め国レベルでの国民投票の制度は、憲法上は規定されていない。
フィンランドでは、国民投票についての規定はあるが(憲法第53条)、憲法改正は国会選挙を挟む2回の国会(一院制)の議決で成立しうる(同第73条)。

上記の通り、日本国憲法を事実上主導した米国自体が、憲法改正は国民代表の議会で行なっている(周知の通り修正◯条という付加方式です)ので日本国憲法に限って事実上不可能なほど厳しい要件にしたのは、まさに憲法前文の「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」半永久的従属支配下におく思想の法的表現です。
国民投票をするならば、そもそも、3分の2の国会議決の必要がないでしょう。
国民投票をするのは、重要事項なので議会だけで決めてしまうのに自信がない時・たとえば49対51の僅差の時に「国民の声を聞いてみよう」という時に限るべきではないでしょうか?
そうとすれば、圧倒的多数の場合には不要な気がします。
国会議決を厳重にして即憲法改正にするか、スペインのように10分の1の提案で足りる代わりに国民投票するかどちらかにすべきでしょう。

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