共謀罪と犯意2

労働分野でいろんな働き方が増えているように社会全体で非定型化が進んでいますので、犯罪認定も定型行為をするまで放置しておけなくなります。
領土侵犯が漁船や不法移民の浸透によるように・・・数十年前から社会問題化しているイジメや虐待、スローカー等も非定型化繰り返しによる新たな分野で、定型行為発生まで放置することは許されません。
中国漁船が単なる密漁か侵犯のデモンストレーション行為かあるいは、避難を装って侵犯目的で上陸したのか、本当の避難行為か・・主観的意図を重視せざるを得なくなるのが現在です。
こうなると、昭和30年代まで一定の勢いを持っていた主観派刑法学の見直し・・復調が始まるし、その智恵を再活用する必要があるかも知れません。
この後で社会防衛思想の復活傾向を書いて行きますが、これも主観派刑法学基礎思想の復調に連なるように思われます。
私が大学の授業で習った刑法の先生は主観派刑法学の先生でしたが、司法試験では客観派の団藤教授の本を基本書にして勉強したので、主観派のことは授業で聞いた以外には詳しく分っていませんが、復活すれば懐かしいことです。
共謀罪法反対論の論拠になっている「近代刑法の理念に反する」と言う意見は、このような客観派と主観派で過去に争って来た論争の違いも下地になっていて、現在主流を占めている客観派から見れば、主観派刑法学・新派の復権が危険だというのが、反対論の論拠になっているのかも知れません。
(今の実務家は、殆どが客観派刑法学の経験しかないと思うので・・共謀罪は近代刑法原理に反するという主張は客観派刑法学の理念に反するという意味かもしません。)
これでまでの司法実務では、共謀罪が出来ても主観要件だけでは認定が困難過ぎることから、昨日まで書いたように実際には共謀罪で立件出来るのは、内通者から逐一の会話録音やメール情報等が入手出来たときなどに限定されてしまう結果、「1万件に1件も立件出来ないのではないか」と言う私のような意見の論拠にもなります。
要は、現行の殺人予備罪同様にもしも証拠のきちんとあるときでも実行するまで待つしかないのではなく、万1証拠のそろったときに適用出来るように法整備して準備しておくだけ・・備えあれば憂いなしと言うことではないでしょうか?
共謀罪は法律自体に危険性があると言うよりは、運用の問題・・実務で濫用が起きないようにする、健全な司法インフラ充実の有無や、弁護側の努力等にかかっていることになります。
個人的犯罪・・ストーカー等や秋葉原事件のような事件では共謀することは滅多にないでしょうが、共謀罪の客観証拠収集にひっかかりやすいのは組織暴力団やテロ組織です。
遠距離移動が多いので、組織人は毎回顔を突き合わせて相談出来ないので、ついメールや電子機器による連絡に頼り勝ちですし、組織多数者間の共謀になるとそのうちの一人でも、精巧な録音装置をポケットに忍ばせておくとこれが証拠になります。
録音機器や連絡メール等電子的記録等にどこまで犯意と言える事柄についての計画=特定犯罪実行の共謀と言える程度の痕跡が残っているかにかかって来ます。
共謀罪制定反対論者は、具体的な犯罪計画があって、その経緯に関する(15〜16日に書いたようにうまく検挙出来る事件が万に1つしかないとしても)客観証拠があっても、計画段階であるかぎり処罰すべきではないと運動していることになります。
犯罪を犯すのは社会弱者?であるから彼らが気持ちよく犯罪計画出来るように運動しているとでも言うのでしょうか?
ストーカーは一方的思い込みも含めて広くいえば恋に敗れた人ですから、一種の弱者に違いないですが、違法行為を個人で妄想する段階を越えて第3者と計画するようになった段階=共謀するようになれば、危険性が高まり、許された一線を越えていると思われます。
個人が思いつきでイキナリ反抗に及ぶのに比べて、他人と共同して行なうようになるとその危険性はより高まります。
組織暴力団員の組織としての犯罪も、社会的弱者が徒党を組んだ結果の一態様と言えます。
全て犯罪者は基本的に社会弱者ですが、(いじめっ子も家庭内不遇その他弱者であることが多いのですが・)原因究明は犯罪を減らすために必要と言う別次元の問題であって、弱者ならば、犯罪を犯しても良いと言う論理にはなりません。
犯罪=処罰と言う社会ルールが古代からどこの国にもあるのは、社会弱者であっても1線を越えれば処罰すべきだと言う世界全体に共通する古代からの合意です。
ストーカー犯罪が頻発している外、秋葉原事件等個人的大事件もたまに起きます。
組織暴力団ではなくとも共謀・・一定数以上の計画に発展した段階では、(秋葉原事件は個人犯罪ですから、共犯者の必要な共謀法では防げません)その計画が証拠によって裏付けられる場合に限って何らかの社会防衛行為の準備が必要です。

マスコミの信用失墜11とネットの発達1

中立を標榜するマスコミの問題に戻ります。
1月12日に書いたマスコミの中立性・品位保持と1月18日「マスコミの信用失墜10(都政と原発政策)」の続きです。
大手マスコミは権威に裏付けられた報道しかしない習慣に堕している・・その結果、怪しい程度の嗅覚で迫るにはネットや週刊誌等大手マスコミ以外の媒体に頼るしかありません。
品位を問題にしない・・中立でもないネットが部分を拡大しているかも知れませんが、そのリスクを承知の上で、本来の報道機関的役割に転化して来たのです。
民主主義国家における報道の必須性は、ある程度リスクを冒しても真実報道に迫るところにあるのですが、政府や業界の作ったガイドラインに従っていれば身の安全が確保出来るでしょうが、新たな視点での切り込みが出来ません。
その時代のお行儀・品位とすれすれすれ・・権威のある裏が取れていない報道をすると、場合によっては刑事事件の被告人にもなります・・。
危険な戦場で取材し報道する報道カメラマンも命の危険を冒してやりますが,国内報道もある程度危険を冒すリスクをとらないと迫真の報道にはならないでしょう。
品位という自己規制に縛られて、安全地帯内で権威のあるところばかり取材し(警察発表をそのまま流したり,記者会見での発表ばかり)報道しているのでは、その時々の権力の不都合には迫れません。
裸の王様の故事がありますが、「俺は汚職しているが報道できるものならしてみろと言う開き直りに対して)このようにはっきりしている場合だけならば勇気さえあれば報道出来ますが、汚職その他不正行為ははっきりした証拠を見せてくれることがないのが普通ですし(不正行為を裸の王様のように堂々と公表してやる人はいないでしょう)はっきりしないことを自己のリスクで果敢に迫ることこそが報道の社会的価値です。
失敗すれば名誉毀損のリスクもあります。
戦乱地域等の現地取材は命を賭けたフリーカメラマン等に頼っていて、大手マスコミの正規社員は全く関与していないと言われていますが、正規社員はいつも安全ばかり・・自己責任をとらないことに終始していることが危険な現場取材を下請けに任していることに繋がっているのではないでしょうか?
責任逃れのために警察発表や記者クラブ等での公式記者会見に依拠した報道ばかりしているマスコミになれば、行儀はいいでしょうが、こんなことのために新聞だけ消費税免税を!言論の自由を!と言われても、国民にはピンと来ません。
週刊誌等マスメデイア以外の報道が、結果的に日本政治に大きな役割を果たして来たことは田中角栄失脚/リクルート事件その他の歴史を見れば明らかです。
逆から見れば、マスコミは行儀の悪い週刊誌報道の尻馬に乗って事件を大きくしたことはありますが、マスコミ発で大きな政治変動が起きたことは一回もないと思いますが、如何でしょうか?
昔から新興宗教や報道の価値は、品位を多少害する程度で政府に睨まれ、ときには名誉毀損等で訴えられるくらいの根拠のない憶測記事等に挑戦している中から権力者の隠している不都合を暴き出して来たから報道の自由・価値が認めれているのです。
マスコミが品位を言い出して、政府発表またはこれに類する権威のある資料しか報道しなくなった瞬間に、マスコミは体制内機関と化してしまったことになります。
例えば中国の統計がいい加減で信用出来ないというのがネット上では一般的ですが、大手マスコミはそう言うコメントが出来ず中国政府発表のとおりに如何にも世界第二の経済大国になったと中国の宣伝のとおり受け売りをしています。
きわどい記事を書いている週刊誌がしょっ中訴えられていますが、社会から見ればその内1%でも社会の暗部に迫る真実があれば存在価値があります。
全て80%の出来で,毒にも薬にもならない報道ばかりよりは、99%駄目でも1%でも光るものがあれば報道の価値があるでしょう。
発明発見の仕組みは、ともかく実験してみて失敗の方が多くても多数の失敗から大発見が生まれることに賭けて挑戦し続けることにあります。
失敗のリスクを強調して政府発表や警察発表等安全な報道ばかりでは、個人の生き方としてはミスがなくて順調に出世して行きますが、社会の発展に資することにはなりません。
政府記者会見や警察発表や確かな情報の受け売りばかりになると、失敗を恐れて新たな実験をしない・・他人の発表した新規発明の検証実験ばかりしている研究所のようなものです。
リスクをものともせずに、真実と信じる報道に徹する(身の安全ばかりに関心のあるマスメデイアではなく)きわどい報道に徹する週刊誌等・・フリーのジャーナリストの存在こそが、現在民主主義に必須の報道の使命を果たして来たと言えます。

マスコミの信用失墜9とネットの役割2

品位を問題にしない・・中立でもないネットウヨが中国等の不都合な僅かな部分を拡大しているかも知れませんが、そのリスクを承知の上でネット受信者が見るし、これこそが本来の報道機関的役割に転化して来たのです。
民主主義国家における報道の必須性は政府ににらまれても真実報道に徹するところにあるのですが、そのためにはある程度その時代のお行儀・品位とすれすれすれでも実態に迫るほどの覚悟が必要です。
品位という自己規制に縛られて安全地帯内で・・政府発表・警察発表や学会やその他権威のある決まりきったところばかり取材し報道しているのでは、確かに誤報しても責任がないので気楽ですが、その時々の権力や支配的意見しか国民に知らせられません。
これでは一種の政府公報機関化・・広報機関を民営化したようなものになります。
年末の総理靖国参拝問題で見ると、アメリカ大使館の「失望」声明報道が目立ちました。
大使館の声明そのものですから、報道しても誰からも文句を言われないでしょう。
ただ前後の文脈・・精々数行程度の文章を報道せずに、その中の「失望」という一単語のみを取り出して大げさに報道したのはやはり一方的だったと思われれます。
今や大多数の国民が英文原文を読めるのですから、数行程度の英文自体併記するくらいのサービスがあっても良い感じです。
今でも中韓との対立に関してはアメリカの意向を無視出来ませんが、逆に最近オバマ政権の外交音痴ぶり・・能力不足が取りざたされていて、政策発言に自信がなくなっているので、アメリカ政府の方が日本の強烈な拒否反応に左右される時代にもなっています。
マスコミが大きく報道するについては・・アメリカも大反対している・総理の靖国参拝は大問題だという方向性ばかりではなく、大使館声明の持つ政治的意味の掘り下げこそが必要だったのではないでしょうか?
オバマ政権は中東諸国では同盟国の信頼を裏切る・・はしごを外すような発言や行動を次々としていてパートナーとしての信頼を失いつつあるのは今や世界の常識ですが、それで良いのか・・はしごを外す国に日本まで加えるのかという国内批判に耐えられなくなりつつあります。
アメリカの場当たり政策に世界中の同盟国は、本当について行っていいのか?と不信感を抱き始めています。
同盟国に不信感をあおると世界中でアメリカの世界戦略は早晩行き行き詰まるしかありません。
いろんな交渉ごとでもアメリカの肩を持てばその見返りが何かあると言う思惑で、アメリカの味方をして発言してくれるのですが、後の見返り期待がその都度反古になるようなことが続くと、どこもアメリカの味方をしなくなります。
TPPの交渉が進まなくなっているのもアメリカの指導力・・信頼喪失が大きく影を落としています。
最も強固な関係が軍事同盟ですがこの生命線の約束さえもマトモに守らないとなれば全ての分野で大きく信用を失うでしょう。
まして中東諸国とは違い、(中国のGDP発表は当てにならないので実質)日本は世界第2位の大国ですし、アメリカは多方面で日本の補完を受ける必要がある点では、面倒な持ち出しばかりのシリア・エジプト・イラクやアフガンなどとは意味が違います。
中韓の肩を持って日本を怒らせてしまうメリットとして何を考えて余計な声明を出したのかまるで非合理な展開です。
アメリカは自分のでっち上げた東京裁判の正統性にこだわり過ぎると、アメリカ自身が日本人の怒りを呼び覚まして占領政治自体が問題化して来て日本国民の恨みを買う展開になってきました。
韓国の言う近現代の歴史認識が日本で始まりつつあります。
出来れば戦勝に乗じてやり過ぎだった占領政治や東京裁判については、掘り起こして大問題化したくない・・そっとしておきたい・避けて通るのがアメリカの客観的な立場・国益と言うべきです。
戦犯問題→原爆投下責任等を再議論してどちらが悪いんだと言い合い、占領政治を掘り起こしても、アメリカにとっては何のトクもないでしょう。
1年以上にわたる反日宣伝に行き詰まっている韓国では、矛を収めて日本とヨリを戻そうとして水面下で動き始めていました。
中国経済も行き詰まっていて再度反日暴動を起こす体力がありません。
このときに、アメリカ大使館が敢えて声明を出す・・中韓をもう一度元気づける意味は何か?ということです。

マスコミの信用失墜8とネットの役割

マスコミは第4の権力と言われていたように、洪水のように大量に一方的に発信するマスコミの影響力が巨大だったことから、彼らはこれと言った権力根拠・正統性もない・・広告収入に支えられている関係で市場原理による外は、民主的信任を全く得ていないのに権力保持者のように錯覚してしまった事によると思われます。
これを支えていたのは大衆社会・・テレビの垂れ流し報道を無批判・受動的に受け入れるマス社会でした。
これに対してネット社会では発信者が巨大資本を要しないことから多種多様な参加が可能になって寡占ではなくなり、他方で受け手は自分で考える読者・視聴者で成り立っていて、場合によっては自分で発信者に転化出来る点も大きな違いです。
マスコミが政治決定権がないのに第4の権力として政治権力を事実上行使していたのは、歴史で見れば、江戸時代の側用人や中国の歴代王朝の宦官等・・言わば権力の簒奪者と言うべき立場です。
これを可能にしていたのは、情報の寡占ないし独占(上様の本音は側用人しか分らない)だったのです。
ホンの少ししかないマスコミ業界で馴れ合って一定方向の宣伝をすると、一定方向ばかり賛美またはパッシングの報道になります。
芸能人の虚像がマスコミがこぞって作れるし、落ち目になるとパッシングが一斉に始まります。
4〜50年ほど前からマスコミで作り上げる芸能人のスター虚像が言われるようになっていましたが、政治の分野までマスコミが侵蝕していたことになります。
政府による許認可不要な私のような個人ブログがいくらでも発信出来るようになって来ると、マスコミ支配・虚像の捏造が崩れて来ます。
(ネットは手軽な分大手企業による・・同僚先輩によるチェック・フィルターがないので一方的思い込み意見も多くなりますが、そのつもりで読めば良いことですし、間違っていても多面的な意見が各方面から出て来ることによって自然淘汰されます。)
ネット意見の場合は、マスコミのように洪水的に押し付けませんので、読者が読んでも聞いても信用しないか、論理的ではないと思えば読み飛ばせば良いことですし、気に入らなければ二度と読まない選択肢もあります。
マスコミの場合垂れ流し的報道をすることと、公共電波を寡占しているので嫌なら聞かない・見ないという選択肢がありません。
フジテレビが、洪水的韓流礼賛報道に対する批判に対して「嫌なら見なければ良いだろう」と発言したと批判されていますが、事実とすればマスメデイアの場合、公共電波の寡占をしているのでそのような主張・・報道姿勢自体が、個人のネット意見と一緒くたにした不当な姿勢となります。
炊事洗濯しながらバックミュージックのようにマスコミ報道が垂れ流されている状況では、マスコミが繰り返し報道することが世間の常識のような洗脳効果が生じる危険があり、また受動的視聴者が多いことからもより一層その危険性が増します。
ただ報道前提になる資料等が出口で秘密になる・・資料の公開がない・・あるいは資料自体が中国政府発表のようにデタラメになるとマスコミに限らず誰もが前提事実の誤解が起きるので個人のネット発信も不十分または制約を受けてしまいます。
国内報道はマスコミが好きなように一定方向へ国民を誘導するために取捨選択して報道する弊害が強まっているのとは逆に、外国政府発表に関してはそのまま報道する傾向があるので、中国などはこの傾向を利用して好きなように改ざんして発表をすれば、日本のマスコミがそのまま直ぐにもアメリカを中国が追い越しそうだとか、大成功している・・大躍進中と宣伝してくれるのでうまく利用してきました。
これを今のネット社会では現地からの具体的報道でゴーストタウンを作っている・・鉄鋼の在庫の山がある・・中国の新幹線は乗ってる人が少ないとかいろいろと政府発表の誤摩化しを教えてくれる役割をしています。
マスコミは外国政府発表に対しては(品位を害する?のでまさか嘘っぽいとも書けないので)公式発表中心ですから、外国政府広報機関と化していて、他方で国内では中韓に都合の悪い政府発表は報道しない検閲機関と化している結果、米中韓の手先みたいだと言われるようになってきました。

取締役の役割5(民意に基づく政治9)

1982年の三越事件のように社長が権限濫用して目に余る場合には、次の総会まで待てないのでこれをクーデター式に解任したということならば、それ自体を誰も驚きません。
(三越事件の場合は解任手続きに社会が驚いたのではなく、老舗三越の信用破壊になる大スキャンダル・・社長愛人が数万円で仕入れたイカサマ品を、三越のブランド力で数百万円だったか?で売っていたという不当商法が暴露されたのですから、その点で世間が驚きましたが・・・三越の信用が地に墜ちました)
当時我が家にもデパートの外商がしょっ中来ていて高価品の売り込みを受けている時代でしたから、身近な事件でした。
思えば温泉の水増し事件や数年前の高級料亭船場吉兆に始まり・・最近のホテルやデパートでの食材偽装事件の走りだったかも知れません。
昔から主君があまり駄目な場合、有力家臣が談合して主君を押し込めて別の主筋を擁立して君主になってもらうことは普通に行なわれていました。
(戦国時代では、武田信玄が父親を家臣と共同して駿河の今川家に追放したのは有名ですし、安定期にはいった江戸時代でもかなり行なわれていました)
会社法(会社法成立前の商法も原理は同じでした)の解任権の規定は、これに言わば法的根拠を与えたと見るべきだです。
今回は「殿の乱心」ではなく基本方針に関する意見相違でしかないのに、イキナリ解任までしてしまったので、(実質的ルール違反として)社会に与えた衝撃が大きかったと思われます。
話を浪花節的意見から戻しますと,川崎重工業の解任事件を見ると、取締役会議は議論尽くすことが法律上要請されていたのに、まだ議論の場になっていなかった・・成長していなかったまま現在に至っていた・・欧米流合議体にはなっていなかったと見るべきです。
そして社長解任に賛成した取締役が会議を法律どおりに議論の場にするために反対論を戦わせて否決したのならば正当性がありますが、その場合否決すれば足りるので、解任動議を出す必要がありません・・。
むしろ建設的議論が全く出来ないし、することが出来ない雰囲気・・だから解任というクー・デターしか出来ないところに、日本的な要素を見ることが出来ます。
ただし、解任事件直後に同社の株式相場が上がったので、株主利益を守るための行動だったと言う言い訳にはなるでしょうが・・・。
株価上昇により実質的株主総会の選任権への背信という批判も起きませんでした。
この辺で、取締役会の機能のテーマから、2013/07/19「民意に基づく政治7(リーダーと世話役の違い3)」民主主義の実現能力に戻って行きます。
我が国のように昔から草の根から吸い上げて行く民意に基づく政治をしたことのない社会・国が、「民主主義は良いぞ!」と言う宣伝に乗せられて独裁者を倒しても、倒した方(烏合の衆)に政治経験がない場合、結局は混沌するばかりになります。
我が国のように話し合いで決めてきた長い経験がないので、自由を手に入れてもどう活かして良いか分らず,多数派はごり押ししか出来ないし、少数派は結果的に不満が鬱積して直情的行動のスパイラル的増幅→テロ(後記のとおりこれは「テロ」ではなく暗殺と言うべきだと言う意見を書きますが、今のところマスコミ宣伝のとおり表現しています)の応酬になって社会が疲弊して行くリスクが高まります。
フランスが民主主義政体を知ってから、約1世紀半の混乱を経てド・ゴールの登場で第5共和制(大革命以来5回目の政体ということです)となって以来、漸く安定するようになれたのは、この間にジャコバンの恐怖政治とテロがあったのですが、ナポレオンによる軍政の確立・・その後は街頭行動による帝政打倒など陽性に発展したので際限のない国内テロあるいは暗殺の応酬までに発展しなかった面が大きいように思われます。
フランス統治下でもアルジェリアに関しては、まさにテロと弾圧の応酬でしたから、結局フランスは文字どおり収拾がつかなくなって(カフカ・・不条理の世界)これを切り離さざるを得なくなりました。
アラブ諸国やアフガンでは、テロ(正確には暗殺)に走る気質があって、これが際限のない憎悪を生み出してしまい、半永久的対立・・分裂の繰り返しになる可能性を孕んでいます。
一見テロリズム・暗殺がイスラム教徒の本質のように誤解され勝ちですが、イスラム教とテロとは本質的関連はないでしょう。
遊牧民族では、危機管理能力に優れた指導者一人の能力に大きく依存していることから、敵対している相手の指導者さえ狙撃・刀槍の時代には刺客が暗殺さえすれば、相手の集団戦力が激減し、四散してしまうことから、暗殺・刺客が有効な戦闘手段になっていた歴史があります。
古代から農業社会で来たエジプトでは、暗殺は主流的政治手段ではありません。

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