公約違反(無視)政党の存在意義3

今のところ代議制民主主義制度を上回る良い制度が発明されていない・・代議制民主制度でやって行くしかないとすれば、これを虚仮にするような人やグループを国民の代表に選ぶのは背理です。
こうした禁じ手を仕掛けた自民党・公明党もその道義的責任の一端を負うべきです。
自民党に関しては郵政民営化があれほど圧倒的多数で支持されたのに、これを推進した小泉氏が任期満了(国民による民営化支持を失っての退陣でもないのに)で退陣した後で民意を問い直すことなくなし崩し的にこれを後退させている前科があります。
我々弁護士でも相手の弁護士が依頼者の信頼を裏切るような行為をしようとしているのに気がつけば、それがこちらに仮に有利であるとしても、「先生それは危険じゃないですか?」と注意を促すのが弁護士の倫理です。
当該事件ではこちらに有利と思っても相手の弁護士の背進行為を野放しにすると弁護士全体の信用に関わるからです。
自民党や公明党は積極的に同業者を倫理違反・・民主制度の根幹を揺るがす背信行為に誘導し嵌め込んで行ったのですから、倫理上は同罪以上かも知れません。
谷垣氏は弁護士出身ですから、こんなことくらいは分りそうなものですが、早いうちから政治家になっていたので弁護士業務のイロハも知らないのかも知れません。
同じことは民主党の中核にいる多くの弁護士出身者にも言えます。
弁護士資格を兼有している以上は、彼らに弁護士倫理の教育を実施する必要があるのではないでしょうか?
既成政党はみんなそろって根源的な政治倫理違反で信頼出来ないとなれば、じゃあどこに・・?となりますが、実務政党は自民党以外に育っていないのが難点です。
自民党の実務能力に疑問符がついてやっと政権交代したらこの始末ですから、原発事故に対するお粗末な対策しかして来なかった東電には腹が立つが、日々の生活に電気が必要なので潰す訳に行かない・・寡占の東京電力みたいな状況です。
その上既成政党がみんなで談合して公約無視の増税路線に突っ走るようでは、政党政治自体を否定するしかありません。
原因は違うものの、政党に対する不信感が広がった閉塞状態から戦前は軍部に権力が移行して行ったのですが、今回はどうなるのでしょうか?
今後新規に結成する政党も含めて今後政治家は目的さえ正しければ(何が正しいのか誰が決めるのでしょう?・・マスコミは自分達が決めるというのでしょうか?)公約は守らなくても良いんだという社会の合意・・風潮が定着することを前提にすれば、どう言う基準で政党を選んで良いのか国民は困ってしまいます。
確かな野党と言われる共産党や社民党にしか、安心して投票出来ない時代が来るのでしょうか?
それでは国民にとって選択肢が狭過ぎます。
そのうえ、かれらも少数党であるから無責任に言いたいことを言い張っているのであって、政権を取れるようになると(権力を使い慣れていないので、民主党同様にブレーキの効かし方が分らないところがあります)どんな乱暴なことをやり出すか分りません。
社会党は政権党になったときに野党時代に反対していた長良川河口堰工事を実施したことでも味噌を付けてます。
世の中に利害が完全に一致する別組織など滅多にある訳がないのですが、公約を「一応」信じて何とかなっていたのです。
これを正面から堂々と政府・与党が破ってマスコミがこれを賞賛し、公約を守るべきだという勢力・・彼らこそ国士です・・に対しては、個利個略だ政局意識しかないと批判しています。
マスコミによる国民教育?を放置していると、国民が選挙に行かなくなってしまい、民主主義が危殆に瀕してしまいます。

公約違反(無視)政党の存在意義2

増税の必要性に関する意見は人によっていろいろだとは思いますが、重要事項・・とりわけ増税の可否は最重要事項として歴史上選挙で決めることになっているのですが、ルール違反によって自派の期待する結果を不正な方法で実現するのは、民主主義ルールの中の最大ルール違反と言うべきです。
(政治・経済に関してはどんな立派な学者の意見でも別の角度から見れば欠点があり得ますし、私もいろんな意見を書きますが、1つの意見として参考にして欲しいと書いているだけで、最後は選挙で決めるべきことであって不正な方法を使ってまで持論を通したいと思ったことはありません。)
マスコミはこの重大な手続き違反行為に全く触れようともせず、もっぱら「小沢新党には国民の反応が冷ややか」など(小沢氏の動きは政局ばかりで識見がないかのごとき報道も一杯されていますが)マスコミに関心がある「政局」ばかり報道していて、実質的に公約違反を論じないで黙認している状況です。
マスコミは政局あるいは増税の可否について中立であるべきですから、結果の妥当性の議論よりは私同様に公約違反という手続きの瑕疵について、世間に浸透する程度に少しは論じておくべき立場ではないでしょうか?
重大な手続き瑕疵である公約違反の重大性を全体の論調として全く論じないで、(少しは書いているかも知れませんが関心を持つ私の目にさえ留まらないということは、殆ど報じていないのでしょう)消費税増税結果(如何にも必要なことであるかのような報道姿勢)や政局の動向ばかり論じるマスコミの姿勢は、中立性を欠いているようにも思われます。
「国民は馬鹿だから選挙で重要事項は明示せずに騙せば良いんだ」「結果さえければ良い」という基本的立場がその底流にあるように見えますが、そんなことを言い出したら(絶対的な価値をマスコミが決めることとなり)民意に基づく民主主義・選挙制度自体が成り立ちません。
日本は、庶民のレベルは低いからリーダが良い場所へ引っ張って行けば良いというのは、啓蒙的専制君主制あるいは後進国で効率の良いとされる開発型独裁国家の正当化理論です。
これらは民度が低くて国民にはマトモな判断力がないことを前提に白紙委任する政治形態で、結果が悪ければ独裁者を引きずりおろして責任を問う政治形態です。
実際には失政か否かの判定がこれまで書いている通り難しい・・殆ど不可能なこともあって、簡単に引きずりおろせないので、長期政権になるのが普通で何十年単位で国民が苦労してしまい、最後に大争乱(ソビエト崩壊やルーマニア・・最近ではリビやエジプト)で幕を閉じるのが普通です。
現在でも頑張っているのが中国や北朝鮮というところですが、独裁政権が頑張る期間が長ければ長くなるほど国民は大きな代償・・大争乱による苦しみを経験することになるでしょう。
中国では歴代の王朝末期にいつも100年前後の争乱期が存在するのはこの好例です。
先進国では民度が高いので、独裁者に一任せずに事前にマニフェストを明らかにして具体的にやるべき政策を公約して当選すれば任期中は選挙民の意見に従って政治運営する時代になっている・・この方が独裁・専制君主政権に一任して後で結果が悪いからと引きずりおろすよりも社会のリスク・コストが少なく済みます。
私は民主的に政権交代することに長年期待していましたが、せっかく期待していた政権交代が実現したばかりですが、それと民主党の犯した公約違反責任を不問にして良いかは別問題でと考えています。
民主党は実務経験がないどころか権力を持ったこともないので、これを持った場合の自己抑制・運用方法に関する最低のルールすら知らなかったということでしょうか?
民主主義を尊重すべき党名「民主党」を名乗っているのに、民主主義の最低ルールすら知らなかったとは驚きです。
国民の信頼によって成り立つ間接民主制・政党政治のよって立つべき原点を率先して民主党が崩壊させてしまったので、その罪・政治責任は重いと言うべきでこのようなことをする党の存在そのものが政治的に許されなくなるべきです。
これだけのことをやれば責任上、自ら解党して出直すべきです。
勿論野田総理とこれの推進に関与した一党は政治生命をかけると言明したのですから、この際責任を取って政治家を辞めることになってくれれば民主主義は信頼回復できてなお存続可能です。
株屋で言えばクビを賭けて悪事をやった以上は、解雇される前に自らクビを差し出すべき行為です。
客を裏切った営業マンを度胸があると言って出世させていたのでは、証券会社に対する信頼が地に落ちてしまいます。
選挙民の意向を気にする政治家を「選挙のことばかり気にしている」とバカにしますが、選挙民を無視した政治家を賞賛するのは、客の意向を無視する営業マンを勇気があると賞賛しているのと同じでその株屋に頼む人はいなくなるでしょう。
公約を正面から破って国民に陳謝しない・責任を取らない不正義な政党や政治家の存在が一人でも許されれば、(マスコミもこれ黙認して全く問題にしないならば)今後マニフェストや選挙公約は守らなくともよいとなって代議制民主主義制度が存続出来なくなってしまいます。

組織(集団)の存在理由2

戦国時代、落城にあたって勇猛な兵士が敵の前に立ちふさがって主君を逃すようなストーリイがありますが、歴史の実態は城主が責任を取って腹を切る代わりに篭城した城兵や妻子の助命を引き換えに要求するのが我が国の主流的解決法です。
第二次世界大戦の敗北においても、(極東軍事裁判という変な仕組みですが・・・)結果的に指導者が戦争責任を負って国民が皆殺しになるのを防ぎました。
明治維新の江戸城無血開城も同じですが、背後の人民の被害を出来るだけ小さくするための知恵がいつも働きます。
私が育った頃には、上記のように我が国の実態に反して主君が先に逃げるような物語や、経営者はいつも良い思いをして労働者は搾取されるばかりだというストーリーが多かったのは、戦後盛んだった共産主義の思想や西洋の流儀をそのまま日本の歴史に応用して、経営者は無責任だという主張をしたかったからでしょう。
日本の企業経営者や中小業の親方もそうですが、自分が先頭に立って、従業員の何倍も働いているのが普通です。
西洋の貴族のように領地経営を執事に任せて、優雅に遊び暮らしている前提で日本の組織を見ると誤ります。
学者は、西洋のお勉強中心ですから、我が国の実態を余り知らないで議論している傾向があります。
私の場合、小なりといえども法律事務所を実際経営してみると、その月々の収入の増減は経営者が先に負担するので、例えばその月の固定経費が200万円必要なときに、200万円までの収入は全部給与や家賃等の支出等になってしまいますから、月末になってそれだけの収入がないと、経営する弁護士の収入はゼロ・・200万円に達するまでは、ただ働きになる仕組みです。
月の25〜6日経過した時点まで200万円しかないときにはそれまでの仕事は経営者個人にとってはただ働きになり、それ以降の収入だけが経営者の収入になる勘定ですから、最後の数日が勝負になります。
我が国では経営者が先に自分の収入をとってしまう関係ではありません。
中小企業では経営が左前になると自分の手取りを減らして、従業員の給与だけはそれでも払い続ける・それも出来なくなると金貸しから経営者個人名義で借りてでも払い続けるのが普通ですから、倒産すると大変なのです。
我が国では従業員給与が先取りになっている社会・・まずは従業員の生活を保障する社会と言うべきでしょう。
集団利益を守るために責任者(日本では指導者というよりも責任を取る人=「責任者」が正しい表現です)がいるのであって、トップの私腹を肥やすために集団があるのではありません。
海外の方が儲かるからと言って、徐々にシフトして行き、結果的に生産拠点も本社機能もすべて海外移転することになってしまう(日本人の殆どが振り切られる)のでは、何のために集団トップに選ばれたのか分らないことになるのではないでしょうか?
海外本社にトップとその取り巻きだけが移住し、その他集団員の99、99%が置き去りにされる結果になるのでは、その企業の名前は残るかも知れませんが、元の集団構成員にとっては意味がないでしょう。
今朝の日経新聞朝刊第1面「アジア消費をつかむ」の冒頭には、SNSのフェイスブックで日本第2位のサテイスファクションギャランティード(sg)が本社機能もシンガポールに移したと報じられています。
SNS98万人のファンのうち97%が海外顧客だから移転は必然との説明があります。
こういう新興企業がいくら生まれても一握りの優秀な人材が海外移住して行くことになり、国内は底辺層が残るばかりになって国が衰退してしまいます。
中央で通用する優秀な人材が出れば、当然のことながら中央に出てしまうのが普通ですから(たまに名を成してから地方に隠棲する(・・空海→高野山・道元→永平寺のように特別有名になりますが・・・)地方から人材が流出して首都に人材が集まる傾向・地方疲弊の国際版となります。
人材流出による地方疲弊の構図については、10/02/03「地方自治と人材3(憲法38)」前後のコラムで連載しました。
海外進出を賞賛するよりは、為政者としては日本に人材が集まるような工夫が必要です。
儲かるところへ率先して移動して行く発想は、遭難した船の船長と取り巻きだけが、安全な(儲かる)ところへ先に避難したようなものです。
最近話題のイタリアの豪華客船の座礁事故では、船長や従業員が我先に逃げてしまったことが我が国では大きく報道されていますが、イタリアに限らず日本以外では本来当たり前のことかも知れません。
第二次世界大戦ではマッカーサーサーが「アイシャルリターン」と言いながら将兵を残して自分が先にフィリッピンを脱出してしまいますが、我が国の感覚から言えばおかしな行動です。
我が国では部隊の長は「最後まで死守する」・・・と言うと玉砕まで頑張る非合理な歪んだイメージが造られていますが、そうではなく日露戦争の廣瀬中佐・杉野兵曹長の故事のように、部下を見殺しにしない・・自分が先に逃げないという思想です。
第二次世界大戦末のソ連参戦時に関東軍が満蒙開拓団を放置して撤退したことが、未だに非難されているのはこの思想によるものです。
原発事故では吉田所長以下の命がけの大活躍が報道されていますし、現地自治体の人々が自分は逃げないで最後まで避難を呼びかけて回っていて津波に巻き込まれた話がいくらもあります。
2度にわたる蒙古軍撃退も単に嵐が来た結果撃退されたのではなく、地元の武士団・松浦党などが背後の同胞を守るために決死の夜襲攻撃を仕掛け続けた成果によるものであることは誰も疑わないでしょう。
台風が来たのは運が良かったことから神風というものの、運は決死の努力が呼び込むものであることは人生経験で学ぶ事柄です。

組織(集団)の存在理由1

円高になった場合、見込みのあるかどうか分らない生産性向上努力に資金を投じるよりは海外生産比率を上げる方が結果が分かりよいので、外国人株主はその決断をすることに傾きます。
ところが、国民を守らねば・食わせねばならないという命題から我が国の企業は始まっていますので、利益確保ののために安易に海外移転をする企業はありません。
安易に海外移転するとその時点で国民の支持を失うし、同胞意識で成り立っている我が国の宗教的指弾を受ける気配です。
わが国の国民はキリスト教か何教かと聞かれると、無宗教と答える人が多いのですが、実は仏教でもキリスト教でもどちらでも良いと言うだけで、その上位にある「日本教」に骨の髄まで染まっている民族とも言うべきです。
これに反する宗教は、何教であろうと存続できません。
税金が安い等経済的利益優先で本拠地をシンガポールに移した村上ファンドは、その時点で国民の支持を失ったようです。
日本の企業は経営者の利益を出すためのみにあるのではなく、構成員・部落共同体・いまでは従業員を食わせることが第一の使命ですから、本来アングロサクソン・ユダヤ商法流の株式会社・・利益さえ出せればどこで商売しても良いし、儲けるためには従業員を減らせるだけ減らせば良い・・企業利益の最大化を図るために海外に出てしまっても良い・・自国民従業員の数をゼロにしてしまい国民が食えなくなっても構わないと言うシステム向きではありません。
更に言えば、構成員を養えさえすれば良いならば、構成員ごと環境の有利な国外移動しても良いことになりますが、我が国の場合、郷土愛と一体化しているところもあって、そうは簡単ではありません。
出エジプト記のユダヤ・キリスト教やイスラムあるいはフン族・ゲルマン民族の大移動は基本的に考えられない・・我が国の集団意識は、郷土愛意識と一体不離の関係にあるように思われます。
原発に汚染されてもしょっ中大津波が来るとしても、その地を離れたくない意識が強いのも特異と言えるでしょうか?
どこの国民でも一度住み着けばそこが良いので簡単に移動しないのが普通ですが、我が国の場合、稲作農業で、水田を何世代にもわたって作り上げて来た歴史が長いので他民族よりもその意識が強いだけかも知れません。
利益だけに着目する社会・・に戻します。
交通事故等の損害賠償事件をやっていて思うのですが、(得べかりし利益の賠償だから)加害者の方は事業で得るべき利益だけ賠償すれば良いという考えで主張して来ますし、裁判所や法律家もそのような考えが基本です。
しかし経営者としては、収支トントンでも自分が働いていることによって多くの従業員を養っていると思ってますので、経営者が事故で休んで従業員が路頭に迷ったのをどうしてくれるという意識です。
経営者が事故にあって8ヶ月休んでも、事故前の利益が月10万円しかなかったのなら10万円×8だけ賠償すれば良いだろうと言われると頭にきてしまいます。
利益追求を目的とする株式会社組織が本来で、それ以外は間違っているというのではなく、利益追求型の組織ばかりではなく、日本的な組織構成員を食わせるための団体組織があっても良いのですから、この日本モデルを世界に発進して行くべきかもしません。
利益追求型ではないと言うと非利益・公益型・・ボランテイアという対比ではなく、(これが欧米流組織論です)第三の道・・我が国のように組織構成員の生活を守るための組織もあっても良いでしょう。
世界的に見ても企業の外に国や自治体はそうした目的で存在しているのですから、別に目新しい概念ではありません。
学生時代に読んだ本にゲゼルシャフトとゲマインシャフトの対比があったのですが、今は英米あるいはユダヤ流儀のゲゼルシャフトの思潮が幅を利かせ過ぎです。
ゲマインシャフトの意識を復権してこれを私企業にも及ぼしたらどうかというだけです。
企業は金儲けに邁進していれば良くて、時々社会貢献・寄付をすれば良いのではなく、企業自体に構成員に対する責任があるという意識の復権が要請されます。

戸籍制度存在意義3(相続制度改正1)

例えば乱暴な話ですが、誰かに相続させたければ遺言を書いておくのを原則にして何も書いていない人は、誰にも相続させたい人がいないとみなして死亡後すべて国庫帰属にしてしまえば、相続人を捜すための戸籍制度は不要です。
現在の法定相続制廃止と同時に先祖伝来の世襲財産継続を前提とする遺留分権制度を全面廃止すべきです。
遺言する人が少ないことと遺留分権があることから、権利者確定のために戸籍登録が必要になっているのです。
急な死亡の場合、遺言を書くヒマがないと言う意見もあるでしょうが、遺言しておかなければ駄目となれば、誰でもたとえば20歳以降は年に1回は遺言を書く習慣にすれば良いし、すぐそうなるでしょう。
それでも書かない人は(遺産と言えるほどのものはないし)誰に遺産が行っても良いと言う人と見なして行けばいいことです。
昭和50年代にサラ金禍が始まった時に私は、どんどん破産申し立てをして行きましたが、その頃はまだ殆ど破産申し立てをする時代ではなく、弁護士が親族などと協議して「出来る範囲の弁済をするから残金を免除してくれ」と言う和解交渉をするのが普通でした。
弁護士仲間からも、私のやり方では借りておいて踏み倒すのを奨励するようなもので法を悪用したやり方であるとして、弁護士倫理に反するかのような言い方をされたことがあります。
これに対して私の反論は、むしろ親族が責任を持って払うようにするから、資力のないものに貸し付けたり過剰な取り立て行為の弊害が起きるのだから、親族は敢然と断れば、次から焦げ付きを恐れてサラ金の方で支払能力のない人には、貸さない・・自己責任の経営になる筈だと主張していたことがあります。
実際私のように破産申し立てする弁護士がどんどん増えて来て、(本を書く人も出ました)困ったサラ金の方で破産されても損しないように自己責任で信用調査するようになり、無理な取り立ても収まり債権管理能力がなく取り立て方法ばかり厳しい悪質サラ金は敬遠されて淘汰されて行きました。
この辺のいきさつは、04/30/02「破産 5(破産は日本の為になるか?1)」前後のコラムに書いたことがありますが、遺言制度も同じで書いておかないと国庫に帰属してしまう分れば、その内みんなこれと言った財産のない人も毎年念のために書いておく習慣になる時代が来る筈です。
遺言が二枚以上あって矛盾する内容の場合、後から書いた方が有効ですから、半年先や5年先のことが分っている必要がないのです。
やりたい相手が代われば、(母から恋人に)そのときに相手の名前だけ書き直せば足ります。
保険金受取人の変更は保険会社に手続きしなければならず不便ですが、遺言の場合年賀状Ⅰ枚書く程度の手間で自筆証書遺言を書けますので(一回だけ弁護士に書き方を習えば2回目からは同じように書けば良いので)書く気になれば簡単です。
その内に高校の授業で一回は、遺言書作成を実習する時代が来るかもしれません。
高校生や20代で自分の何十年先の死亡時の財産など今から考えられないと言う人がいるでしょうが、自分が「今死んだら誰にやりたいか」を考えて今書くことは簡単です。
その時の好きな人とあと半年で別れるかもしれないとしても、その時にまた書き直せば良いことですから、何年も先のことを深く考える必要がありません。
何よりも約束事と違い、何回でも自分の気分次第で書き直しが出来るのでその時々の気分であまり先のことを深く考えずに書けることが分れば、誰でも毎年(年賀状みたい、あるいは日記帳の一部としてに気楽に)書き替えておくのが普通になるでしょう。
失恋した悔しい思いを日記に書いたついでに、次のページに遺言書を書き直せば良いのです。
遺言書と言うと難しいことを書かねばならないかのように誤解している人が多いのですが、大した資産のない人にとっては「自分の遺産全部を誰にやる」と書けばいいので、実は簡単です。
ことを難しそうにしているのは、信託銀行などがあえて小難しく書いて素人には出来ないような印象を与えて巨額報酬をせしめようとしているからに外なりません。
如何にも難しそうに細かく書くと一見有り難そうですが、却って、書き間違えやその後の口座の変更などによって効力を失いかねず、その都度書き換えが必要になり・・その都度信託銀行などが巨額手数料を取るのですが、大づかみに書いておけば修正不要で、やる相手が代わったらそのことだけ書き換えて行けば良いことで簡単です。
私の考えで言えば、細かく書かずに自分の妻や夫あるいは恋人に「全部相続させる」と書いておけば(自転車しかない時に書いて、その後に車も持つようになっても)内容の変更ではなく恋人や友人が代わる都度相手を書き変えるだけで足ります。
気が変わる都度やる相手の名前の書き換えくらいなので誰でも自分で簡単に書けます。
お経も難しそうにして僧侶の価値を高めるやり方から南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の繰り返しで足りるとしたのと同じ発想です。
現在の法制度は遺言しないことを前提・・原則にした制度設計である・・法定相続制度であるから、国民も遺言の必要性を感じないし遺言を書くのは大変なことと教育されて馴染みもないのです。
日記を書いているついでに・・・つきあっている相手が変わる都度受受遺者・やる相手を書き直しておけば、何時突然死亡しても最新の気持ちを反映出来ます。
遺言しない限り自分の好きな人に相続させられないとすれば、子供だとか兄弟と言う身分関係だけでは相続出来ませんので、(もしかしたら貰える期待と言うのも変ですが・・)親しい身近な友人が貰える可能性があるので改正後は相互に友人や高齢者を大事にする社会になるでしょう。
高齢者介護や心のよりどころを血縁に頼りすぎる弊害をこれで是正して行ける筈です。
法定相続制を廃止すると親族かどうか血縁が近いかではなく、実際に親しいかどうかにかかって来るので、少子化・・独身や子供のいない人が増えてくる実態にあった現実的な制度設計になります。
我が国の制度・・・明治31年公布の民法も戦後改正された現行法も、先祖伝来の農地や家業(造り酒屋など)等を相続財産の主たる資産として構想して、結果として戸主が自由に相続人を指定出来ない・・戦後も家督相続制から均分相続に変わっただけでした。
これからは先祖伝来の世襲財産よりは自分一代で築いた財産しか持っていない人が普通になると、子孫に受け継いで行くべき道徳的縛りがなくなり、まして子供のいない人が増えてくると自分の気に入った人に残して行きたい・・あるいは大事なペットをきちんと見てくれるところに寄付したいなどと思う人が増えて来る筈です。
そういう人や相手のいない人は国に寄付・・放置していれば国庫帰属・・・生きて来て世話になった地域・国だけが今の法定相続人の地位(国の相続分を2割、県が3割地元市町村が5割などの比率で)を取得するのが合理的です。
そうなると市町村間で高齢者の取り合いになって身寄りのない高齢者も(資産のある人は)大事にされますよ?

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