マスコミの中立性5

伊勢神宮参拝の実数は別として合計数字での比較をみると、15日に紹介した新聞記事では2010年の合計883万人が1896年統計開始以来過去最高というのですから、今年末までの数ヶ月の合計を足すと大幅に増えていることは明らかです。
(必ずしも単純平均出来ないとしても、月平均約100万とすれば今後年末までに250万程度増えます)
ただ、遷宮は数日だけ行なうのではなく年単位で行事が積み重なるので次第に参詣者が増える傾向がありますから、比較するならば前回遷宮時の数字との比較こそが日本人の心の変遷を知るには意味があるでしょう。
マスコミは、遷宮に向けて盛り上がって来た直近の大きな数字を出して「そんなに増えていないよ」という意味を印象づけたいのでしょうか?
仮に2010年と比較するとしても、比較するならば1年間の集計と今年10月12日までの集計とを比較するのではなく、(残りまだ2ヶ月と19日間もあります)2010年の同時期までの数字と比較するべきです。
敢えて違った期間のしかも今回の遷宮に向けて盛り上がって来た途中の最大数字を比較記事に載せるのは、如何にも今回の伸び率を小さく見せたいような作為・意図が(うがってみれば)感じられます。
うがち過ぎの批判を恐れて誰も口出ししないことを良いことにして、この種の見出しや大きな文字と内容との違いが多く見かけられるのが、近年のマスコミの特徴です。
こうした繰り返しが近年マスコミが信用をなくしている大きな原因となっています。
名誉毀損等の裁判では「記事を良く読めば分る筈」と言うことで敗訴になっている事例が多いのですが、マスコミや週刊誌の場合見出しや囲み記事で多くの人は印象的影響を受ける実態を裁判所が理解していないようです。
裁判官は頭が良過ぎるのではないでしょうか?
裁判官の論理では,どんな誇大広告・紛らわしい広告も小さな文字まで良く読み前後比較すれば内容が分るから許されるかのような理屈になります。
日系記事で言えば最初の方で10月12日午後2時までと書いてあるので1年分ではないと分ることになりますが、最後の方で2010年の数字との比較を乗せると、比較期間の違いをうっかり見落とすことになり兼ねません。
そのうえ、比較する期間が違うじゃない?と疑問に思っている私の場合でも、後になれば、日割り計算し直した数字など忘れて1000万と8百何十万という大雑把な数字の印象だけが記憶に残ってしまう傾向があります。
この後で書きますが、伊勢市のネットで見ると月別の集計が乗っていますので(多分日経新聞は10年の数字もこれで確認したと思いますが・・)10年と比較するならば年間数字ではなく、10月までの数字と比較した記事にするのは容易だった筈です。
消費税増税決断の可否が大きな関心事になっている直前の報道で目立ったのは,内容を読むとマスコミ取材による「読み・予想・マスコミの期待」を書いているに過ぎないと解釈出来るものが多いのですが、見出しでは「決定」「決定へ」と如何にも決まったかのような報道が多く見られました。
マスコミが意見を言いたいならば意見として書くべきなのに、まず見出しで一定の方向付けをしたがる傾向があり、最近ではいろんな分野で殆ど中立の報道ではなくなっています。
庶民に限らず政治家も経済評論家も負け犬になりたくないので、大勢の赴くところにつきたい心理で行動し、流れに沿うような意見を予め言う評論家が大多数です。
(消費税に反対していた論者たちは、消費税が実施決定されてしまうと発言にイキオイがなくなりますし、何となく恥をかいたような気がするので・・多くの人は大勢の赴く方向に前もってつきたがります。)
前もって一定の方向へ決定という情報が毎日のように流れると、その影響力・・世論形成力は半端ではありません。
マスコミには中立性が要請されていることと、その法規制については11/12/04(2004年の意味です)「マスコミの中立4(サブリミナル効果)(国家警察と自治体警察・・・地方自治の本旨)憲法96」前後で連載したことがあります。
今回はその続きになります。
マスコミに中立性が要請されるのは理の当然ですが、中立概念・範囲はあやふやですのでそれなりの内部的倫理綱領があるのでしょう。

健全財政論9(中央銀行の存在意義3)

中央銀行が低金利にしたくとも、スペイン危機による国債金利相場上昇の例をみれば分るように、政府や中央銀行には国債の金利を決める能力がなく、市場が(国際収支の状況によって)金利を決めてしまう時代です。
危機状態でなくとも、普段から金が余っている国は資金需要が弱いので金利が低くなるのは当然ですし、資金不足・・国際収支赤字継続国は資金需要が高いので金利が上がるのは当然です。
市場実勢に反した金利政策は無理があることから、日銀の金利政策は天気予報のような機能(気象庁が天気を決める能力はなく兆候を報じる)しかないこともどこかで書きました。
ちなみに、国際収支赤字トレンドの資金不足国で市場実勢に反して国内だけでも低金利に出来るでしょうか?
国際収支赤字国では資金不足→資金需要が元々強いので実勢よりも低金利・量的緩和すれば、借り手・顧客には不自由しないでしょうが、貸すべき国内の資金不足(仕入れが出来ません)に陥いります。
国際収支赤字国の銀行の貸し出し資金手当のために中央銀行がドンドン紙幣発行すると、借りた企業や人は海外からそのお金で輸入を続けるのでさらに国際収支赤字が膨らみます。
(貿易収支赤字トレンド国は、消費構造が輸入に大きく頼っている状態ですから、お金があって消費が膨らめば、ほぼ同率で輸入赤字が増大します)
国際収支赤字が連続している国では赤字分だけ国際決済するべき外貨不足状態ですから、決済資金としての外貨を外資から手当するしかありません。
貿易赤字ということは、物品サービスの購入対価として同額の商品サービスを提供出来ないことですから、売れなかった不足分=差額赤字を自国通貨を売って(自国通貨を輸出して)外貨を取得して穴埋めするか、借金(自国通貨の代わりに借用書を輸出して)で外貨を取得して決済するかによって収支均衡を保っている状態です。
すなわち、赤字同額分の自国通貨流出または借金の発生・長期の場合これの累積となっています。
国際収支赤字の穴埋めのために自国貨幣を売り続けると急激に自国通貨価値が下がるので、これを緩和するために支払期を先延ばしするか決済資金の借入(借用書=国債の海外引き受けなど)に頼るので両方が膨らむことになります。
・・貸す方は、将来の為替相場下落も見込む必要があるので、これを見越した高金利でないと貸せ(国債の場合買え)ません。
赤字国の資金は国際収支赤字の度合いに比例した高金利で外貨を確保するしかないので、国内でこれを決済用資金にして貸すにはそれ以上の金利でないと採算が取れません。
以上の結果、国際競争力(国際収支)を無視して国際取引上・市場原理で決まって来る金利と切り離した国内だけの低金利政策は出来ません。
ギリシャ・スペインのように国際収支が赤字になると中央銀行が金利を下げたくとも逆に上がってしまいます。
ユーロ圏のギリシャ、スペインの場合、自国紙幣を発行出来ないのでこの関係がストレートにそれぞれの国債相場に出ているだけで自国紙幣のある国でも結果は同じです。
他方、国際収支が40年以上も黒字が続いている=金あまりの日本では、強い立場だから実勢に反して何でも出来るかと言うと、強い国でも市場相場に反した金利政策は出来ません。
仮に高金利にした場合、資金あまりの日本では借り手がないことは明らかですから、(今朝の日経朝刊に民間需要が低いので国債購入だけではなく自治体への融資が急増している実態が報道されていました)集めた資金に対する高金利利払いに(仕入れ資金・・預金金利も連動して高くなりますので)窮してしまいます。
客が少なくなった商店で、商品値上げしているようなものですから自殺行為になります。

健全財政論8(中央銀行の存在意義2)

話題を貨幣価値維持に戻します。
武士上がりの経済官僚の使命感は前回(8月13日に)書いたとおり、弓鉄砲で侵略して来る外敵から郷土の妻子・一族を守ることから、貨幣増発・悪改鋳による生活苦から領民を守ることに変わって行ったのです。
徳川政府は武士に支えられながら、武士の中の武士・言わば正義の士は、武士でありながら悪改鋳・・インフレにしたがる徳川政府=主君に対抗すべき勢力に変わって行ったことになります。
どんな政権でも対外競争の関係で有能な人材が欲しいので、外国帰りの学者等を政権内に抱え込む・・あるいは国力の底上げを図るためには一般人の外国留学を奨励するしかないのですが、有能な人材ほど政権批判能力が高くなるジレンマがある点は、専制君主制あるいは中国共産党一党支配の国でも同じです。
政権が有能な人材を抱え込みたければ、民主化・・国民のための政治にしない限り矛盾に苦しむことになります。
貨幣価値を守るために存在する中央銀行の役割に戻します。
現在の先進国では、グローバル化以降新興国からの低価格品の洪水的輸入によって恒常的デフレ状態に陥っていて、インフレを心配するどころかデフレ克服すら出来ない状態に陥っています。
(貨幣をじゃぶじゃぶ供給しても、物価は上がらず輸入品が増えるだけでせいぜい輸入に馴染まない不動産バブルが起きるくらいです)
デフレは国民にとって(ミクロでみれば)良いこと尽くめですが、他方で全体のパイが縮小・「角を矯めて牛を殺し」たのでは何にもならないので、パイを大きくする経済成長も欲しいところです。
デフレ(低価格品の輸入攻勢)に悩む先進国では積極経済政策をどのようにしたらGDP上昇効果が出るかの智恵比べですが、景気過熱・物価上昇を押さえ込むDNAに特化している中央銀行官僚にはこの方面での能力適性がありません。
日本の官僚は元々武士上がりで「勤倹」には慣れていますが、「一所懸命」の語源でも分るように、愛する郷土を死守する「城を枕に討ち死に」とか「玉砕」など現状を守ることが武士の本領であって、積極的に投資して儲ける才覚がありません。
中央銀行を「物価の番人」とは言いますが、経済政策官庁とは言いません。
前向きな政治をやるには、郷土の守りに強い武士のDNA過剰体質から、積極的才覚のある人材に官僚を入れ替えて行く必要があります。
かと言ってアメリカのようにユダヤ系人材に頼って金融方向ばかりでは困りますので、物造り兼商才のある(積極性のある海洋民族系の混じった)人材と言う欲張った方向性が必要です。
こうした人材はパラパラといるのですが、偶然に頼ると官僚世界の内部で孤立して浮き上がってしまい能力発揮が出来ないので、高級官僚の採用制度から根本的に変えて行く必要があります。
江戸時代以降学校で習う・・賞賛される3大改革はすべて、質素倹約政策ばかりで積極財政派はいつも賄賂ばかりが強調されて悪役扱いでした。
積極財政を頭から悪と決めつける全体の雰囲気・・教育からして変えて行く必要があります。
積極財政には相応の不純物も副産物として生じますが、だからと言ってマイナス面ばかり強調するのでは経済が成長して行きません。
車が危険であれば、ブレーキを付けたり免許制にすれば良いように、積極財政の副作用についても制御の工夫を怠っているだけです。
こうした視点で考えると、静的チェック能力を求められる司法官と動的考察が求められる行政官僚とでは制度目的が違うのですから、国家公務員採用試験科目が司法試験の焼き直しみたいでは、おかしいのであって試験科目からして変更して行く必要があると思われます。
厳格な科挙制(丸暗記中心)によっていた中国や李氏朝鮮では発展性がなく、江戸時代の日本の発展に大きく水を開けられたのが明治以降の格差が生じた原因です。
司法試験や国家公務員試験は科挙ほどではないにしても、科挙の流れを汲んでいてアメリカ型ケースメソッド方式とは大きく違う暗記を主体にする方式である点は否めないでしょう。
大恐慌以降の中央銀行の独立制度は、経済政策・GDP向上策と物価の番人役を兼ねていた明治までの経済官僚を積極政策をする大蔵省と番人(ブレーキ)役(中央銀行)に分離したとも言えます。
(大蔵省の外局として途中で経済企画庁が出来ましたが・・平成に入って金融行政の金融庁と財務省に分離しました)
原子力政策推進官庁と安全を監視する役所の分離と同じ発想ですから、そもそも日銀に経済活性化のための協力を求める今の政治は、元々の機能分離体制が今でも正しいとすれば間違っています。
日銀が政府の言うとおりやるならば、推進派から協力を求められて、何でも安全と(津波の心配が既に指摘されていたのに、そんな100年に1回の津波まで心配していたら何も出来ないよ・・と)お墨付きを与えていた原子力保安院のようなものになります。
ただし、一国閉鎖社会と違う現在では日銀だけで物価を安定出来ないし、日銀の金利上下や量的緩和だけでは経済をインフレにもデフレにもしようがないので、行政府の積極財政に協力する量的緩和くらいしか出来ない時代です。
・・貨幣価値を守るべき日銀制度自体不要ではないかという意見を2012/03/30「日銀の国債引き受けとインフレ3」2012/03/31「日銀の国債引き受けとインフレ4」前後、最近では2012/06/19「新興国の将来11(バブルとインフレ1)」のコラムで書きました。
経済のグローバル化が進んでいる現在では、1国だけでの金融調節による経済運営機能が低下あるいは消滅する一方で、積極施策・財政出動・・これの基盤となる量的緩和に関しては、日銀には歴史的に経験がないので政府の言いなりになるしかないとすれば、日銀の存在意義がなくなっているのではないかと言う意見をこれまで書いてきました。
国民の生活を守るには貨幣価値を守ることが重要ですが、対外的にみれば貨幣価値は国民経済の実力(国際収支)の反映であって、官僚や中央銀行が観念的な気概さえあれば守れるものではありません。
為替の変動相場制が普通になって来ると、今ではある国の貨幣価値はその国の経済力(国際収支黒字または赤字のトレンド)によって日々決まるのであって、官僚の気概や日銀の金融政策(紙幣発行量や金利)とは殆ど関係がなくなったことも明らかです。
(仮に為替介入しても効果は一時的です)
貨幣価値=為替相場は市場原理(国際収支黒字または赤字による貨幣需給)によることについては、ポンド防衛の歴史のテーマ(連載中に横へそれたままでまだ途中で完結していません)でも連載してきました。
金利を下げて紙幣量を増やすと消費が活発になる傾向があるので、(金あまりの日本では大方が預金に回るとしても少しは消費拡大になるので)輸入量が増えて貿易黒字が縮小しあるいは赤字になり易い・・その結果円が高くなる速度を緩めたり安く出来るかも知れません。
しかし、これも国産化率が高い(エコカー補助金の恩恵を受けたのは国産車が大部分だったでしょう)とその関係が低くなるなど、間接的な関係しかありません。
(ただし、エコカー補助で売れたのが国産車中心でも、内需が増えればその原材料輸入が増えるのですが、風が吹けば桶屋が儲かる式の間接的関係です)

健全財政論7(武士の生い立ち)

「国民生活をインフレから守るベシ」との経済官僚の古くからの気概(DNA)は、大恐慌によって金兌換制が廃止された以降中央銀行と言う組織に委ねられるようになりました。
ちなみにインフレは消費者である国民にとっては収入が目減りするので損であり(他方で必ず得するもの=供給側企業)、デフレはこれと反対で消費者が得する関係であることについては、5月18日その他のコラムで書いています。
経済官僚(元は武士です)にとっては、貨幣の質低下→インフレ=国民生活混乱阻止に対する強固なDNAの歴史があるので、中央銀行はインフレにはすごく敏感ですが、デフレに対しては鈍感なのは、中央銀行制度成立の歴史によるものです。
ここで少し話題がそれますが、武士が国民生活を守るのに何故敏感であるかということについて書いておきます。
武士と我が国以外の多くで採用されて来た専制君主制の兵士との違いが大きいと思われます。
2012/08/09「貨幣維持1」でちょっと書きましたが、専制君主制の兵士とは違い我が国の武士は、地元血族集団・領民保護のために戦うべく自然発生して来たものであって君主のために徴兵されたものではありません。
戦闘集団として効率的に戦うためにその時々にもっとも有利なグループリーダーを推戴しているうちに、一時的に推戴された指導者の立場が強くなって行ったに過ぎません。
古くは源氏についたり平家についたり、鎌倉末期には北条についたり足利についたり、室町期には南朝についたり北朝についたり、戦国時代には各地土豪がその時々のリーダーの元に離合集散を繰り返して次第に越後の国や甲斐の国あるいは尾張の国などの国内統一になって行ったことは周知のとおりです。
最後の離合集散が、関ヶ原だったと言えます。
関ヶ原以降は圧倒的な武力を背景に徳川氏が、中国の思想を借りて来て専制君主のような主張(忠孝を強調)して勝手に専制君主に変質しようとしていた(最後まで成功しません)に過ぎません。
いくら借り物の儒教道徳を教え込んでも、草の根から興った武士の本質を変えられませんから、地元民(先祖代々の一族の集まり)を守るためには中国からの輸入概念であるニワカ主君の命に反することが武士にとっては本来の正義であり、謀反でもなんでもありません。
これが大塩平八郎の乱の思想的背景ですし、彼が謀反を起こした極悪人ではなく、「義士」として歴史評価されている所以でしょう。
この意味では応仁の乱以降下克上の時代と頻りに学校で習いますが、学校教育は江戸時代以降のかっちりした主従関係を前提にした誤解であって、一族・・その背後にいる郷土の親類縁者を守るにはどちらについたら生き残れるかの瀬戸際の判断でそれまで従っていた有力者から別の有力者に乗り換えるのは、謀反でも何でもありません。
下克上に関するこの種の意見を02/24/04「与力 (寄り騎)6(主従とは?2)」、09/22/04「源氏でなければ武家の棟梁になれない」の不文律はあったのか?3」に書いたことがあります。

健全財政論6(中央銀行の存在意義1)

我が国で言えば、大恐慌から高度成長期ころまでは国民は生活水準向上・・量的消費に飢えている時代でしたので、お金さえあれば三種の神器・・次々と提供される家電製品等を買いたい・作れば量が売れる状態でした。
ところが、今では飽食の時代ですので給与が2倍になっても嬉しくてビールや牛乳やアイスクリームを今までの2倍消費する人は滅多にいません。
(余程貧しい人だけでしょう)
量が満たされれば消費の方向性が質に転化する・・レベルアップして行くことになります・・従来型産業が国内では飽和状態になって行くので、成長が止まり不景気だと大騒ぎになりますが、国民のレベルアップに合わせて国内産業も業種転換あるいは磨きをかけて行くしかないのに、この転換に遅れを取っている嘆きと言うべきです。
この辺の意見(消費が高級化すれば供給サイドに関与するべき国民・労働者のレベルアップの必要性・・これは遅れて発達するので当初ブランド品輸入が席巻するのは当然ですが、この適応問題は別の機会に書きます。
話題を戻しますと紙幣を仮に10倍増にしても大方の国民はその殆どを預貯金するだけでこれまでの2倍、3倍もビールを飲むことはないでしょうし、仮にこれまで思うように飲めなかった国民の何%かがビールを2〜3倍飲むだけです。
車でもテレビでもビールでもスマホでも売れるならばいくらでも増産出来るので、仮に2倍売れたとしても車やテレビ、パソコンの値段が2倍になることはありません。
昨年テレビが無茶苦茶に売れましたが、値段は上がらず販売競争激化のために実質値段が下がっているのが現状です。
日銀がいくら金利下げや紙幣の量的緩和をしても、暖衣飽食(ものの行き渡った先進国)の国民は金利が下がったくらいでは買い物出動しないし、生産力超過の現在、仮に売れ行きが伸びても在庫品の減少が進み、休止中の設備が動き出す程度で物価が上がることはないことをこれまでのコラムで何回も書いてきました。
加えて現在は1国閉鎖社会と違って、国内で供給が足りなかったり値上がりすればすかさず輸入品が押し寄せて来るので、供給不足による物価上昇があり得ない構造になっています。
我が国では長期にわたる国際収支黒字の累積で資金余剰が際立っているので、金利をいくら下げても借り手・・健全な資金需要が起きません。
赤字で資金繰りに困っている企業は少しでも下がったら有り難いでしょうが、トヨタ等世界企業は(内部留保が厚く手元資金が余剰気味です)金利の上下によって新規工場建設等を決めるパターンではなく新規投資戦略が先にあってその戦略次第で資金需要が起きる仕組みです。
個人は個人で多くの国民はお金を使い切れなくて1500兆円も個人が預貯金している状態で、飽食の金融版になっていますので借りてくれるマトモな客がいない(借りに来るのは貸したら焦げ付く人ばかり)銀行は0、何%の国債を買うしかない状態です。(商品を仕入れても売れない状態)
日銀が世界最低の金利にしても投資用に借りに来る企業の需要がなく、外国人投資家が日本の銀行で借り入れて円キャリー取引に使うくらいで、(日本の銀行は世界最低金利で仕入れられるので、国際貸し出し競争に有利となって、日本の銀行はこれで潤っています)言わば国内銀行救済・国際競争上銀行に対する補助金的効果になっている程度です。
このように今や中央銀行が貨幣政策・金利政策で経済を動かすことは不可能な時代が来ているのに、未だに政府は自分で行うべき財政政策を怠って日銀の金利調節や量的緩和に頼っていますが、言わば日銀の存在は無駄な存在であるばかりかむしろマイナスです。
(私は以前から、こう言う実態を紹介して現在社会では日銀不要になっていると書いています)
この現象はここ20年来の日本だけの現象ではなく、グローバル化以降先進国ではどこでも現れ始めて来たと言えます。
恐慌以降何十年も前から金利や量的緩和は刺激効果があることが分っているのに、今でも経済学者の集まりであるIMFでは、(バカの一つ覚えのように)アジア危機・ギリシャその他何かあると緊縮経済の実行を迫るのが常です。
確かに野放図に赤字財政を繰り返すのは困りものですが、緊縮強制一点張りでは智恵が足りない印象が拭えません。
これまた繰り返し書いていますが、学者というのは過去の経験を大学等で勉強をして修得する能力の高い人材・・秀才が多く、これに反比例して現実に進行している実態に新機軸で対応する応用能力が低いことによるのでしょう。
大恐慌あるいは不景気対策としては緊急避難的に気付薬的に麻薬使用・・紙幣大量発行も許されるというのが、実務から生まれた経験的智恵です。
実際日本では大恐慌の際にこの方式でデフレ脱却に先に成功していて、これを真似して大規模にやったのがアメリカのニューデイール政策だったと言われています。
大恐慌時に戻りますと、兌換制度が停止ないし廃止されてしまうと貨幣・紙幣の信用維持をどうするかとなって来ますが、官僚個人の「貨幣価値を守る」と言う気概に頼るのでは無理が出てきます。
そこで中央銀行の独立性等の制度的保障でこれを守って行くことになったことを、07年1月16日「不換紙幣と中央銀行の独立性1」以下のコラムや08年1月17日の「国債と非兌換紙幣の違い」で紹介しました。

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