外国文物導入と大和心2(鑑真和上とその後)

法華堂に関するhttp://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance5.htmlの解説です。

旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

2月堂の修二会に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/では以下の通りです。

古来は旧暦1月に行われる法会である。
農耕を行う日本では年の初めに順調と豊作を祈る祈年祭(としごいまつり)が重要視され、神や祖霊の力で豊年を招き災いを遠ざけようとする。養老令にも記載され、8世紀には国の重要行事とされていたが、修二会は祈年祭に対応した仏教の行事として形成され定着した行事である。

以上の通り日本列島に伝わる古来からの祈願行事を、仏教行事に取り込んだにすぎません。
仏教が土着信仰に打ち勝って土着信仰行事が減ったのではなく、仏教が逆に土着信仰行事に浸透されているのが実態です。
仏教を文字その他文化吸収目的で導入したのは明治維新で、御雇外国人を導入して西洋法や科学知識導入に精出したのと本質が同じだったでしょう。
この普及を図るために国家機関としての・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形を見ても分かります。
これを日本風にアレンジして日本の土着信仰にも合うように(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、この意味で日本の精神界の合理化に大きな影響を与えた大事件だったと思います。
合理化仕切れない人間の弱い部分・・今でも残る「叶わぬ時の神頼み」・・・「神も仏も無いものか!」とか「厄除け信仰」がなくならないのが現状です。
その救済には密教の秘法に頼る部分が必要だったのでしょう
真言宗、天台宗が日本の宗教意識の体系化の足場を築きますが、シュウアhである以上一定の競争がるのは当然として、他宗派排斥を目標にするような宗教ではなかったか乏しかったように思われます。
その結果、日蓮、浄土系民族宗教等に裾野を広げていき日本人の精神性が豊かになって行ったのでしょう。
日蓮系は日本の宗教には珍しい排他闘争的宗教でしたが、(中世に限らず戦後創価学会の「折伏が激しかったすが・・)今は創価学会もおとなしくなりました。
日本列島でいる限り、周囲と円満にやっていくのが知恵のある生き方と悟ったのでしょう。
政治の世界でも公明党が政権与党になって約15〜20年かな?すっかりおとなしくなっています。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょう・・なにかいいことがあれば取り入れたらいいし・・という程度の位置付けです。
共産党も理屈一辺倒の強面では日本時に浸透できないとわかって、「歌って踊って民青」というフレーズがが昭和40年代のソフト路線でしたが今はどうなっているか知りません。
仏教が中国に入った時点では、環境の厳しい西域を通じて入ったことから、キリストや現在のイスラムのように戒律が厳しかったでしょう。
鑑真和上が戒律を伝えるために千里の波頭を超えて日本へ渡海した故事はよく知られています。
鳩摩羅什の漢訳は西暦400年頃で鑑真和上の来日は750〜60年ころ・・聖武上皇・孝謙天皇の時です。
中国に漢訳が伝わって数百年で鑑真が来日したことになります。
当時日本では私度僧が多く、戒律制度の確立が要望されていたと言われます。
鑑真に関するウイキペデイアの記事です。
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
要するに聖武天皇は東大寺筆頭に全国に国分寺を設置するためには公認僧侶資格設定を急いでいたのです。
明治政府が帝大を作っても教授になる人材がいないとどうにもならないので御雇外国人を招請したのと同じでした、
南北朝時代の戦乱に明け暮れる中国に受け入れられたのでしょうが、その中国よりも日本の方が将来性があると見極めたのでしょうか?
ところで、日本仏教の礎を築いた弘法大師は私度僧出身だったのですから、皮肉なものです。
観音信仰が奈良〜平安時代に入って隆盛を見るのは、私度僧出身で人心に通じていたからこそ、なし得たのかもしれません。
日本に来た時の険しい仏教がようやく日本化したことによるものでしょう。
観音菩薩に限らず文殊、地蔵、月光や日光その他の菩薩も皆柔和な顔貌になって行きます。
救いを求める以上はごついより、美しくて優しい方が日本人なら誰にとってもいいでしょう。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象(御神体の多くが背後の山になっている神様より救済してくれるお方が具象化されてよかったと思われます・)とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都諸宗派というものの勉強する学科名称程度の違いでした。

法学部で言えば、民法専門や、商法専門教授という程度の違いでしょう。

融通むげ3(外国文物導入と大和心1)

本居宣長の大和心とは何かです。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

これだけでは宣長の著作をじっくり読み込んだ人にしか意味不明・・理解困難です。
美の本質は
「もののあはれ」
とも言うようですが、ここまで来れば私のような並みの日本人にもある程度理解可能です。
しかし「もののあはれ」と日本の心のあり方とはどういう関係があるのでしょうか?
文学表現としては何となく分かりそうですが、私の関心は人が守るべき法・道徳のあり方です。
そこで国学と何か?江戸時代中期頃になってなぜ興ったかの疑問から入っていきます。
思いつき的私の意見ですが、明治の欧米文化が入って反動的に日本画が興ったのと同じ視点です。
縄文時代から日本列島には太平洋諸島沿いあるいは現中国の沿海部や朝鮮半島から少しづつ渡来人が入ってもその都度包摂同化してきました・そもそも日本人とは長期間かけてアジアの多様な人種が同化融合して出来上がった民族でしょう。
縄文時代が1万数千年前から始まり、キリスト紀元後数世紀の古墳時代に至るまでの長い時間軸を経て日本列島に住む人たちの共通的基本思考・・・結局は遠い先祖の出身地が違っても1万年前後もその地に住めば、その地の気候風土にあった同じ生き方価値観が形成されていったように思われます。
文字利用が徐々に入り、続いて仏教や儒教が入ってもその都度断片的であったために(律令制が制度として入ってもなし崩し的に融解しています)時間をかけていわゆる大和心に包摂消化して取り込んできたように思われます。
東大寺2月堂行事をこの後で見るように、仏教の教理に関係なく日本列島に住む人にとって重要な行事が東大寺にとって最も重要有名行事として残っているのです。
仏教の力で日本土着信仰を廃止するのではなく、仏教が逆に日本列島人の要求を取り込むことによって生き残って来たと言えるでしょう。
蘇我versus 物部の最終決戦を宗教戦争のごとく習いましたが、蘇我氏が仏教というより大陸文化導入に積極的だったというだけのことなのに、結果からあたかも(西洋的一神教の型にはめて?)宗教戦争であったかのようにイメージづけている可能性があります。
これは一神教的宗教意識に基づき・仏教と古代信仰が両立できないものとして後付けイメージによる解説ではないでしょうか?
古代の蘇我V物部の決戦を宗教戦争的に理解する解釈が朱子学による思想統一に反発した江戸時代の国学誕生前から行われてきたのかを知りたいものです。
それまでいろんな文物が入って来てもそれに強制されることなく、禅宗であれ水墨画であれ良い面があれば吸収すれば程度の意識できたので、(武士が 禅宗に帰依したからと言ってもその前からある各宗派を禁止しません)ある宗教を入れるかどうかで国を挙げての戦争したという歴史教育がおかしいと思います。
平安時代に真言や天台宗が入っても、その前からある南都仏教宗派に強制することもありませんでした。
飛鳥〜奈良時代の仏教導入が進んだのは文字文化や絵画彫刻音楽等々の総合文化導入に効率が良いからそうしただけであって、諸外国のように統治の手段として民衆の心を掴むための宗教導入ではありませんでした。
権力者はいつも政権維持に心を砕いているので、統治利用の意図皆無ということはあり得ませんが、それを主目的にしたとは言い切れないという意味です。
政権にはそういう仏教利用の意図があったかもしれませんが、実態は国分寺全国配置は列島人全般の文化レベルアップが主目的で古代からの土着信仰を否定するものではなかったはずです。
あるいはそういう意図があったので地元に根付くことができず、各地国分寺が自然消滅したのかもれません。
政権側としては、わざわざ土着信仰を否定して各地で悶着を起こす必要性がない・・マイナスでしょうから、各地信仰 (非征服部族の氏神)を尊重してきた大和朝廷が、わざわざ外来宗教を地方に押し付ける必要がなかったでしょうから、逆に宗教性を希薄化させる宣伝・地方民も文字を学べるようにするなどの宣伝をしてきたはずです。
明治維新でキリスト教文化を導入しても、日本古来信仰・各地の鎮守様信仰否定と関係がなかったように、仏教は日本列島古代からの信仰(自然への畏敬心)と並存したからこそ各地に浸透できたのでしょう。
葬式仏教言われようと厄除けであろうと、死者の霊魂や先祖を大事にする土着信仰を取り入れるしかなかったのです。
国宝重文級の仏像展が次々とあるので、しょっちゅう東博等に見に行きますが、元はといえば、12神将に代表されるようなおっかない仏像中心だったのでしょうが、気の小さな私などは足元に踏みつけられている邪鬼の方が気になって仕方ないので柔和な大日如来など如来系に目が行きます。
こういう日本人が多いからか、日本に来ると時間の経過で修行途中であるはずの菩薩でも観音菩薩・ほとんどが女性美の極致を競うかのように秀麗な佇まいに変わっていく感じです。
教科書の挿絵でしか見たことのなかった狩野芳崖の悲母観音の実物を簡単に見られるようになったのがありがたい時代ですが、実物を見ると観音さまにヒゲが生えているのに驚きますが、菩薩とは厳しい修行に耐えられるごつい人が本来だったのでしょう。
その目で古仏像など見ると観音様にはヒゲがありますが、日本人の多くは観音様といえば母親のように何をしても許してくれる優しさの極致のイメージを抱いているのでないでしょうか?
その願望の結果、不空羂索観音とか千手観音や千眼観音とか救いの方法が無限にあるかのようなイメージの・・しかもいかに優しく美しいかを競う観音像が続々と作られてきたのです。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都(法華宗・華厳宗など)諸宗派というものの勉強する学科名称・・法律で言えば民法専門家商法専門家程度の違いでした。

融通むげ2(道とは?1)

東海道中膝栗毛で知られるように違う習慣を不便だと否定するのでなく、これを知って楽しむ余裕のある社会でした。
東西南北に長い列島でしかも山が多く高低差もある外、概ね温暖湿潤で四季(北海道を除けば)がある結果、多様な植生が可能となり、ひいてはこれを餌にする多様な生物の生息可能な点が共通項です。
日本列島(南西諸島を含め)は東西南北に長い列島ですが、この2週間ほどほぼ毎日雨模様であるように概ね温暖湿潤ですが、(奄美で梅雨明けと13日に出ていましたが・・)四季がある点が共通項です。
この結果多様な生物がすぐに生まれ出てくる・・生物の宝庫ですから、ちょっとした低い山を越えれば日照の違いや高度差あるいは湿潤の違いを反映して違った植生がある・・「生きとし生くるもの・・」を慈しむ・・山道を歩きながらも知らない植生があればなんだろう?と、気にかける好奇心・・多様性尊重の共通項があり、結果的に自然への畏敬の念が顕著です。
登山といっても西洋人のようにエベレスト征服!などという大それた目的ではなく、平地では見かけない高山植物を登山道で発見し、雲海に感激し、雲海からの日の出を拝み神の存在を感じる喜びなどが主目的です。
日本の高山の多くは霊峰扱いで崇める対象ではあっても征服の対象どころではありません。
当時私はニュースに関心を持ち始めた頃でしたが「征服!」の文字が踊っていました。
たとえば以下の紹介記事です
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120828/321054/?P=4

第28回 エベレスト初登頂の手記で腰が引ける
ヒラリーが頂上を征服してから下山中、サウス・コルのキャンプに着く前に、迎えにきた親友のジョージ・ロウに喜びの声をあげるくだりです。
「そうだよ、俺たちはついにこいつをやっつけたんだ!(Well, we knocked the blighter off!)」
『ナショナル ジオグラフィック』ではこうなっていますが、ヒラリーが実際に発した言葉は「そうだよ、ジョージ、俺たちはついにこん畜生をやっつけたんだ!(Well, George, we knocked the bastard off!)」でした。ヒラリーは著書でも素直にこう書いていて、いまではよく知られた表現です。

題名は今風に「初登頂」となっていますが、内容は当時征服と報道されていたことを表しているどころか、エベレストのことを「こん畜生」と表現しているのが現実・西洋人の意識です。
https://www.tibethouse.jp/news_release/2000/Tenzin_Norgay_Dec24_2000.htmlの題名は以下の通りです。

エベレスト初制覇した男の隠された過去

欧米人にとっては高い山は征服し、制覇すべき対象なのでしょう。
光太郎の詩に「道程」がありますが、道程とは道すがらの意味でしょうし、「僕も前に道はない」というのは、「道を自分で切り開くしかない」がそのヒントは自然にあるという決意であるでしょう。
そして「ああ、自然よ父よ!と続くのです。
日本人にとっては自然(が風水害や大地震の大元でありますが、ただ敵視するのではなく)から学ぶ姿勢が顕著です。
http://www.midnightpress.co.jp/poem/2008/06/post_45.html

道程  高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

道程に関するhttps://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E7%A8%8B-103924の解説からです。

高村光太郎(こうたろう)の第一詩集。1914年(大正3)10月、抒情詩(じょじょうし)社刊。
・・・後半部には「道程」や「五月の土壌」などがあって、転生の祈念と自然理法への賛嘆に特色がある。

日本人が考える道とは、自然に対する畏敬の念でしょう。
西洋(継承する中国や北朝鮮)では、特別なエリートがスローガン的結論をドン・ピシャリ宣言して下々は示された結論に一も二もなく従うべし」と言う価値観があり、その結果生活の隅々までスローガン的結論と矛盾しないように?はみ出したものに対しては、共産主義国家では反党分子として収容所に入れられて学習・研修が行われます。
日本では逆に結論に至る経過が重要なので集落では寄り合いで決めていくし、朝廷においても合議制が基本でした。
しかもその議論は変転常なき環境変化に合わせて考えるべきというものになりそうです。
出エジプト記に示されるように、(イスラエルの民が疑心暗鬼で種々疑問を呈するのものの結果的に)「神の啓示を受けたリーダーの示す方向へ盲目的に進めば良かったのだ」と言う欧米的価値観とは違うということでしょう。
以上今まで見てきた融通むげとか道行きでだけでは、成り行きまかせで原理原則がないのは無責任だという批判にどう答えるかです。
素人の思いつきでは手に負えないのでネット検索してみました。
日本人の心はどうあるべきか、融通無碍で大丈夫なのか?
江戸時代には哲学者や法学者という分類がありませんでしたが、国学者と言われる思想家が出て、日本人の心・・ひいては守るべき「道」を研究していたようです。

融通むげ(道)1

最高裁決定・もっと前のチャタレー事件判決を見ると、原理論的理解とは程遠い現実的な思考方式が示されています。
こういう理解の基礎になる日本人の思考の原型を語っている穂積重遠氏の思考の源流を訪ねておきましょう。
穂積という氏は古代から出ている由緒正しい?氏の記憶ですがどうでしょうか?
穂積氏に関するウイキペデイアの記事です。

穂積氏(ほづみうじ/ほつみうじ)は、「穂積」を氏(ウジ)の名とする氏族。姓(かばね)は始め穂積臣、後に穂積朝臣。
大和国山辺郡穂積邑および十市郡保津邑を本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命(ニギハヤヒ)が祖先と伝わる神別氏族。物部氏族の正統とされ[1]、熊野国造家や末羅国造家とは同祖とされる。子孫の一部は「鈴木」を称し、藤白鈴木氏として続いた

神別(しんべつ)とは、古代日本の氏族の分類の1つ。
平安時代初期に書かれた『新撰姓氏録』には、皇別・諸蕃と並んで、天津神・国津神の子孫を「神別」として記している(「天神地祇之冑、謂之神別」)。さらに神別は「天孫」・「天神」・「地祇」に分類され、天孫109・天神265・地祇30を数える。なお、こうした区分は古くからあったらしく、これは律令制以前の姓のうち、「臣」が皇別氏族に、「連」が神別氏族に集中していることから推測されている。
穂積陳重氏の系譜関係をウイキペデイアで見ると以下の通りです。
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1855年8月23日(安政2年7月11日) – 1926年(大正15年)4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人[1]。東京帝国大学法学部長[2]。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。
穂積家は宇和島藩伊達家が仙台より分家する以前からの、伊達家譜代の家臣である。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物であった。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ[3]。兄の重頴は第一国立銀行頭取。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任。妻歌子(または宇多)は、渋沢栄一の長女。孫の穂積重行は大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。
穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィンの進化論、ハーバート・スペンサーの社会進化論などについて、幅広い研究をした。
進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[6]
死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川にかかる橋の名前としてその名が残っている。

顕彰碑を建てたいという地元の申し入れに対して、踏みつけられる橋として顕彰されるのを希望するなんて立派な人(遺族)ですね!
遺族といってものちに紹介するように長男穂積重遠氏は最高裁判事等を歴任した人物です。
このように見ていくと、日本人の心は中国の儒教や仏教徒とも違うのではないか?
歌道、茶道、華道、武士道、芸の道その他各分野で日本で基本的価値を表す「道」を求めるのは個別の条文をこねくりまわす法匪(中国古典の白馬非馬論で知られる詭弁家やキリスト教関連で言われるパリサイ人とも通じる?)とは違います。
道とは何でしょうか?
剣道や相撲道と言うときの「道」とは、単なる技術・テクニックでは足りないことは確かでしょう。
嘉納治五郎は従来からの柔「術」を柔「道」と改称して現在の柔道という用語を一般化しました。
子供の頃に柔術と柔道の対決・・姿三四郎の映画が流行っていて似たような映画を繰り返し見たのですが、映画では大きなお寺の建物のような道場でしたが、たまたま道場を鉄筋ビルで新設する工事中の姿を見たことがあります。
あれが映画でよくみる講道館か!という記憶が残っています。
講道館の歴史を見ると「1958昭和33年3月25日講道館、春日町(現在地)に移転。落成式挙行」とありますからこの工事中の状況を見たのでしょう。
医術と医道の違いも同じです。
多くの人が「術」を超えた道=精神性を求めてきたのです。
千葉県弁護士会会則の冒頭に「弁護士道・・・」という単語が入っていた記憶ですが、ネットで見ようとすると公開されていないようです。
道とは何か?ですが哲学から入らず一般的な利用例で考えると、歌舞伎などで重視されている「道行き」の重要性でしょうか?
神社仏閣に詣でても長い参道をたどって行く道中がありがたい・・到達した神社建物の壮麗・豪華さなど気にしない人が多いのではないでしょうか?
この点明治なってできた橿原神宮や平安神宮は欧米の影響が強すぎたのか、壮麗すぎてしっくりしないものです。
簡素な伊勢神宮や明治神宮のあり方を見れば、日本人の心が分かるでしょう。
イギリスでダイアナ妃の結婚式場になったセントポール寺院で写真を取ろうとしても、狭い歩道にギリギリに建物が立っていて反対側道路に渡らないと建物の壁の一部くらいしかカメラに収まらないのは驚いたものです。
最近大火災のあったノートルダム寺院には、横の方に少し芝生の空き地があった記憶ですが、ほぼむき出し・立派な建物の威容・威風堂々を誇るのが目的のような印象です。
日本列島は細かい山々・すなわち山と山の間には曲がりくねった水流があり寸断されている日本列島では、「道行き」といっても多種多様で「郷に入りては鄕に従え」というように、一山越えれば方言も習慣も違うのが普通でした。
大陸の単調な道路とは違い、日本の道路は曲がりくねり高低差がある・個性があるのが原則です。

チャタレー事件最高裁判決(実態重視2)

チャタレー事件について昨日ウイキペデイアで紹介しましたが、公共の福祉論等の抽象的論争の意義を書いているばかりで、社会意識の具体的認定による画期的意義を紹介していません。
私の記憶違いか?
最高裁のデータに入ってみました。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

昭和28(あ)1713事件名 猥褻文書販売
裁判年月日昭和32年3月13日 法廷名最高裁判所大法廷判決
裁判要旨
一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」とは、その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。
二 文書が「猥褻文書」に当るかどうかの判断は、当該文書についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。
三 文書が、「猥褻文書」に当るかどうかは、一般社会において行われている良識、すなわち、社会通念に従つて判断すべきものである。
四 社会通念は、個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。
五 Aの翻訳にかかる、昭和二五年四月二日株式会社小山書店発行の「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻(ロレンス選集1・2)は、刑法第一七五条にいわゆる猥褻文書に当る。六 芸術的作品であつても猥褻性を有する場合がある。
七 猥褻性の存否は、当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、作者の主観的意図によつて影響されるものではない。

上記判旨によれば第三項に私の理解していた通り、社会通念による旨が書かれています。
社会通念によるとなれば、これが日々変化して行くことが自明ですから、画一的原理論や観念論によるのではなく社会実態の具体的認定が必須になります。
ウイキペデイアではこの重要な判旨をなぜ紹介しないか?
インテリ集団は観念論抽象的理解が好きで社会常識など無視したい・「自分が社会意識より進んでいるという自負こそが生き甲斐」ですからこういう判旨は不都合なので無視して判例の紹介自体が歪んでしまうのでしょうか。
今風に言えばフェイクニュースです。
判旨部分の原文をさらに見ておきましょう。

・・・一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。
また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、・・・

とあって意識変化を具体的に説明しながらも、チャタレー夫人の恋人の翻訳の描写がどぎつすぎるという評価に至っていることが説明されています。
裁判所が現時点でわいせつかどうかを決める権限があるというウイキペデイアの整理も正しいかもしれませんが、わいせつかどうかは当時のその社会通念による点では、今回の非嫡出子差別許容性判断と同じ枠組みであったということです。
昨日今日と非嫡出子差別違憲決定とチャタレー事件判決を見てきた通り、 日本の裁判所は古くから、韓国のように今の人権意識で戦前の行為を裁くという無茶をしていません。
日本の融通無碍げとは実態に即した、正義を探るというものでしょうか?
私流の理解・・原理主義とは実態無視の教条論であるとすれば、融通無碍とは江戸時代の大岡裁きと相通じるものがありそうです。
大岡裁き的な処理の重要性については、こののちに離婚自由に関する学者と裁判官との対談記事に出てきます。
一部先行引用しておきます。
http://www.law.tohoku.ac.jp/~parenoir/taidan.html#section3

・・・・水野・・・穂積重遠は、離婚が杓子定規に許されたり許されなかったりするのはいけない、離婚が各場合に適当に許されまたは許されないことがいい、と説明しています。この説明は、大岡裁きを思わせます。

発言者の水野氏はウイキペデイアによると以下の通りです。

水野 紀子(みずの のりこ、1955年 – )は、日本の法学者。東北大学大学院法学研究科教授。専門は民法、家族法[1]。
家族法分野でも名高い大家、加藤一郎に師事。2011年、旧帝国大学としては初めての女性学部長に就任した。

大岡裁きが実際あったかどうか創作であろうとも日本人がそれを喜ぶのは、国民の法意識(やおよろずの神々信仰)を表していると見るべきでしょう。
穂積重遠や穂積陳重の名は教科書でしか知りませんでしたが、名の残る人はそれなりに深い思索をしていたものだと改めて感服します。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。