白石の朱子学原理主義→吉宗の現実主義3

放漫財政の後は緊縮政治というのは一応のセオリーですが、ギリシャやイタリアがEUからの緊縮指導に反発しているように、破綻寸前になってからの緊縮では緊急事態に対する追い打ちになる点で無理があります。
不景気で経営が苦しくなって銀行に借りる必要が生じたときに、逆に返済を迫られる・所謂「追い剥がし」に合うようなものです。
元禄直後の宝永の噴火で小田原藩は壊滅的被害を受け、領地の大半を幕府に一時返上して幕府直轄の救済事業に頼るしかないほどの大変な事態でしたが(その分幕府財政負担が増えた)、放漫財政後の物入りだったので大変な事態になりました。
財政赤字体質になれば、支出を削減するばかりではなく新規産業を起こさないと将来がないのですが、不景気で財政赤字(双子の赤字)となれば、金融緩和でカンフル注射しているうちに行政や産業界に頑張ってもらうしかありません。
これが現在の黒田日銀の金融緩和プラス紙幣大量供給・異次元緩和政策であり、この方式を米国もEUも遅れて採用しています。
萩原が今から約300年前に考え抜いて回閉会中による貨幣流通量を増やしたのはこの政策であり、この結果復興需要・・年末の噴火翌年の雨季が来て火山灰が流れ込んだことによる河川敷底上げ→洪水頻発を防ぐための酒匂川の浚渫工事などを円滑にしたのでしょう。
安倍政権後継者が前政権否定のためだけに景気腰折れなど無視して、財政赤字削減を錦の御旗にして、増税および金融引き締め(支柱に出回りすぎている日銀券回収に乗り出せば市場がどうなるかをそうているすれば分かります。
次期政権を引継いだ新井白石は財政危機回避一辺倒で成長による回復の発想がなく貨幣大量発行→奢侈が財政赤字の原因だからと緊縮政治に切り替えるのは、放映噴火後の疲弊状態を見ない現実無視の政策ではなかったでしょうか?
日本でもバブル崩壊後に引き締めを続けたから失われた20年になったという当時の金融政策批判論が根強いですが、新井白石が景気対策よりも「悪貨は良貨を駆逐する」・・奢侈=絶対悪という紀元前からの儒教倫理観の観念正義実現に邁進しすぎたのではないでしょうか?
今のように紙幣(金含有量皆無)の時代になれば、金含有率の議論は意味がない議論であると誰でもわかります。
実際その頃でも幕府中枢(朱子学)が時代遅れであっただけで、西国大名では藩札という紙幣を発行していたことは忠臣蔵、赤穂城明けわしに処理作業で藩札と幕府発行の貨幣の交換処理が出てくるのでおなじみです。
改鋳による貨幣流通量増加効果によって、元禄文化が花開いたわけではなく綱吉の浪費によるものでしたが、結果としてみんなが楽しめたし、現在の文化国家の基礎にもなっています。
日本が世界に誇る浮世絵の元祖菱川師宣が世に出たのもこのころでした。
菱川師宣に関するウイキペデイアです。

元和4年〈1618年〉 -元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)は、江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。

菱川師宣の経歴を見ると元禄以前から徐々に需要が広がっていたことがわかりますが、もしも綱吉のブレーンであったならば、苦しいからみんな質素倹約せよ!と金融引き締めをしていたら元禄文化の花が開かずに終わっていたでしょうし、歌舞伎その他文化の基礎固めの時間もなく緊縮し添えナーにゃく一辺倒・お芝居禁止等に進んでいたらのちの浮世絵の展開がどうなっていたかです。
文化は需要があってこそ花開くのですから・・新井白石の出世が遅く元禄文化を楽しんだ後に出てきたのは日本のためによかったのです。
紀元前の孔孟の倫理には経済活動拡大に応じて貨幣量を必要とする原理を知らなかった?でしょうから、貨幣の金含有量を減らすのは「良貨を駆逐する」という倫理だけで終わっていたでしょう。
古代中国からの帝王学として奢侈を戒める決まり文句にどっぷり染まった中国王朝の歴史を読むと各王朝崩壊の原因は、殷の紂王夏の桀王の酒池肉林の故事の焼き直し的表現・・奢侈に耽った描写の連続です。
名君玄宗皇帝も最後は楊貴妃に溺れたので国を誤ったという筋書きです。
白石は(秀才は過去の知恵を理解するのは得意ですが、現実を見る力が弱いものです)骨の髄まで叩き込んだ儒学教養の鬼として元禄時代の華美・奢侈を憎んだのでしょう。
帝王が奢侈に走るのと庶民が豊かな生活をするのとは意味が違う点を履き違えて?紀元前の教養に基づいて政治を実践し前職の荻原を批判していたようにみえます。
(以上は私の思いつき的の個人意見です)
「難しい学問はわかりませんが・・商売が成り立たないのは困ります」というのが、 特産品開発に成功していたか諸大名・現場の声だったでしょう。
諸大名や幕閣内の不満は専制支配強化や金融政策に対する不満だったとしても、御政道批判はリスクが大きいので、政権交代にかこつけて新井白石個人批判・コうるさすぎると言う点に集中していたことになります。
だから、妥協をゆるさない性質のような個人批判中心の記録が残っているのでしょう。
吉宗就任後の白石に対する待遇は苛烈を極めた・と言っても拝領屋敷を取り上げる程度でしかなく、退任後の歴代韓国大統領に対して満遍なく犯罪をでっち上げて処刑するような事をしていない点が日本的です。
吉宗政権成立後の将軍側近であった間部に対する処遇は、大名の地位を得ていたこともあって無役になっただけでしたが、新井白石に対する処遇は屋敷の移転まで要求されるなど厳しいものがありました。
諸大名の怨嗟が彼に集中していたことと、支持勢力との関係で白石の政策そのものを否定をする必要があったからでしょう。
間部詮房に関するウイキペデイアです(失脚の様子に関する部分引用)

詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し、失脚した。詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)2

吉宗に外様大名の支持がなぜ集まったかについては(私の想像でしかないですが)専制支配強化の害・20日書いた通り異論が許されない窮屈な社会進行に対する国民不満を代弁する声が立場上外様大名中心に広がっていた面があるでしょう。
徳川家内部問題に過ぎない宗家相続に関する彼らの正式発言権は皆無ですから、幕閣・徳川政権内でもこれまでのエリート政治にネをあげる声が内々に広がっていたのを受けた勢力がこれに呼応したと見るべきでしょう。
20日に紹介した寛政の改革・定信の規制やりすぎに対する不満が落首で批判されたので歴史に残っているのですが、白石に対する不満も当時から起きていたが、小気味よく批判する文化が育っていなかったから不満が表面化しなかったように思われます。
もしかしたら、貨幣改鋳によって流通貨幣量減→急激なデフレになって現場を知る諸大名が困ってしまった現実もあったでしょう。
新井白石の正徳の治に関するウイキペデイアです。

正徳金銀の発行
荻原重秀は元禄期、今までの高純度の慶長金銀を回収し金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(貨幣改鋳による差益)を生じ、一時的に幕府財政を潤したが、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しく不釣合いになりインフレーションが発生していた。
・・・・白石は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。有名な正徳金銀は新井の建言で発行されたもので、これによってデフレーションが発生した[2]。
元禄金銀・宝永金銀(あわせて金2545万両、銀146万貫)と比較すると、正徳の治の間に行われた改鋳量は正徳小判・一分金合わせて約21万両である[2]。社会全体のGDPが上昇する中で、通貨供給量を減少させたことは、デフレを引き起こした[2]。

綱吉時代には、幕府の資金源であった金銀の産出量が減っていた上に宝永の噴火など天災もあって幕府財政は危機に陥った状態でした。
コメに頼り不足分を金銀産出に頼る幕府の経済構造に無理が出たのですから、企業が売れ筋商品に翳りが出れば次の売れ筋商品開発にとりかかるように、幕府財政難対策としては収益源多様化努力すべきだったと思われます。
紀元前発祥の儒学では、こういう経済学的視点がないので朱子学エリートがこの後で主導する寛政の改革や天保の改革は、すべて質素倹約や思想統制政策中心で需要喚起どころか抑制策であったでした。
こうした改革をする都度、商人等新興層の不満を強め幕藩体制の足元を掘り崩すことになっていった時代錯誤性を書いていきます。
金山銀山等を幕府に抑えられている上に、貨幣経済が早く発達した西国大名の場合、コメに頼る産業構造に早くから無理が出ていたので・忠臣蔵で知られる赤穂藩の塩のように特産品にシフトするなどの努力してそれぞれ一応の成功をしてしていました。
幕府も収入源多様化で金銀に代わる収益源を工夫すべきだったのですが、これをせずに・・幕府直轄領はもとより、領地替えの多い譜代大名も戦国大名と違い地元とつながっていないので、地域経済を守る気概が低い上に、いつ領地替えがあるか不明では長期間かけた特産品開発は無理だったのでしょう。
旗本領や譜代大名しかいない千葉県の場合、約300年間なんらの特産品も生まれていません。
せいぜい幕府権力に頼る印旛沼や椿の海の干拓事業など、旧来型コメ生産拡大策程度でした。
ただし、千葉の場合領主による政策というよりは、江戸下町の洪水防止政策のおかげで利根側の付替によって利根川本流の海への出口が銚子になったために銚子河港が東北地域物産の江戸への物資流入口となったため、銚子〜野田方面にかけて大消費地江戸への流通路として銚子のヒゲタ醤油や、野田の現在の)亀甲マン等の醤油生産基地として商品経済の流れにうまく適応できました。
伊能忠敬(地図作製の巨費をほとんど彼が私費負担しました)が佐原から出たのは、この流域経済の発展によるところが大きかったでしょう。
現在でいえば、過密な東京に新空港を作れないので空き地の多い成田に新空港が立地したおかげで、千葉県に巨大スポットができた幸運(千葉県が誘致運動に成功したのではなく逆に激しい反対運動していたのです)と同じです。
ついでに書いておききますと、銚子はもともと飯沼観音の門前町だったらしいのですが、利根川の付け替えによって、東北〜江戸への海運物流の入り口になったことによって、産業集積によって生産基地(漁港化その他)に変身成功していたように成田も不動様の門前町でしかなかったのですが、日本の高度成長に合わせて第二空港が必要になったものの過密都市東京には用地がないためにいきなり成田市郊外に空港ができたことによって、今や空港の町として知られるようになっているのは歴史の不思議さです。
白石に戻しますと、1707年の宝永の噴火等(災害救援資金)ですっかり参ってしまった江戸の活気を取り戻すために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
白石に戻しますと、綱吉の浪費による経済破綻回避のために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
貨幣が足りなくなるなんて歴史上未経験のことで、マネタリーベースがどうのという経済学もない(私が知らないだけで当時も貨幣論などの研究者もいたのでしょうが・・)時代に、萩原は独自の工夫力(「独学で考えた」とどこかで読んだ記憶です)でいにしえからの教え(貨幣水増しを禁じる倫理)に逆らい個人の責任(多分考え抜いて)で貨幣大量発行に踏み切ったのはよくやったというべきでしょう。
荻原重秀に関するウイキペデイアです。

貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という国定信用貨幣論を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨へと移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

融通むげ・知恵伊豆と大和心4

松平伊豆守信綱に関するhttps://ja.wikipedia.の記述です。

行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ・・・・・信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[27]

政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)

数百年続く徳川体制確立に成功した稀代の政治家であったという評価の高い所以です。
彼の死亡後数十年そこらで、仁慈の実現として綱吉の生類哀れみの令になります。
(生き物すべて大切にせよというのは仁慈の実現には違いないですが、そこまでやると「〇〇キチガイ」の一種と評価されるのが日本社会の良識です)
欧米でPCの行き過ぎに対する反発が広がっているように、何かの主張が首尾一貫するように隅々までいき渡るように目を光らせると洋の東西を問わずに息苦しい世の中にするのはまちがっています。
ITが便利な時代が来てもアナログ的生活をする人がいても良いように、グローバル化やIT利用で成功する人や企業が多数としてもそれを強制する権利があるか・政治としてそこまでやって良いかは別問題です。
隅々まで厳しくやってはいけないと諭していた信綱は寛文2年(1662年)3月の死亡ですから、綱吉の生類憐みの令(1687年)までホンの短期間で細部まで徹底する政治・秀才政治・窮屈な社会が始まっていたことがわかります。
生類憐れみの令に関するウイキペデイアの記述です。

貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[9]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[10]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[11]。

綱吉は学問好きで知られ文治政治を推進したと言われます。
綱吉に関するウイキペデイアです

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

中国王朝的価値観一辺倒の始まりで、この価値観によれば立派な君主に位置付けられるのでしょうが、勉強好きなら良いというものではありません。
綱吉は生き物は全て生きる権利がある倫理観?これを突き詰めれば草木も食べてはいけないのか?となるように、もともと学問やルールは末端ではゆるくしないと論理に破綻を来すのが原則です。
これを戒めたのが、知恵伊豆と言われた松平伊豆守の知恵だったでしょう。
ところが綱吉は、これを強制力・処罰を伴う生類憐みの令を次々と布告したので、行き過ぎでみんな困りましたが、このように学問的論理が隅々まで行き渡ると結果的に無理が出てきます。
欧米の勝手な論理・・牛肉を食べるのは良いが、クジラは許さないという自分勝手な論理に納得している日本人が何%いるでしょうか?
大和心と言うより以前から日本人の心はこういうものです。
朱子学全盛の結果窮屈な社会がすでに始まっていた・・生類憐みの令こそが、が朱子学が末端まで浸透しすぎていた外形的徴憑だったでしょう。
自分の気に入った学問だからと湯島の聖堂を創設し(のちの)昌平坂学問所で朱子学だけを公式学問にして事実上強制するようになったのは綱吉の時代からです。
思想支配の道具として、聖武天皇が東大寺と国分寺を配置し、明治に東京帝大を作ったように、綱吉は中央に聖堂を作りのちの(全国藩校の指標となる)昌平坂学問所の基礎を作ります。
ひ弱なイメージの強い聖武天皇がその分教養・・時の流行思想である仏教に傾倒して僧侶の公認資格を求めて戒律僧鑑真の渡日を待ち望んだのと似ています。
一つの体制が続くと中央支配意思(綱吉以降朱子学)が末端に届き朱子学の価値観にあっているかどうかの基準が幅を利かすようになります。
これに反発する朱子学対民族派(国学や陽明学の勃興)の争い→民族主義者の尊皇思想と結びつき幕末の尊皇攘夷思想に発展していったように思われます。
綱吉死後、一連の生類憐れみの令はなし崩し的に消滅していきますが、その点の修正をしたのみでしたので、次は新井白石の政治・・正徳の治に見るように朱子学的純化・一辺倒の傾向がさらに増進していきます。
新井白石に関するウイキペデイアです。

白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。
様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしている。

正徳の治とは、紀元前から言い古された「悪貨は良貨を駆逐する」教えにこだわり、貨幣改鋳をおこなった前政権の勘定奉行荻原を厳しく責めたり、 東照君以来の祖法にこだわるなど時代の変化ついていけないのが秀才の宿命でしょう。
論争の鬼と言われ人望がなかったので、吉宗が就任すると早速お祓い箱になります。

外国文物導入(やまと心)3

仏教を文字その他文化吸収目的の国家機関・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形・・が主目的だったのを、本来の宗教(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、真言宗、天台宗祖の派生から、日蓮、浄土系民族宗教が発展して行くのです。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょうという程度の位置付けです。
クリスマスを祝ったのちに大晦日〜元旦の初詣(神社仏閣どこへ行こうとも)何の矛盾も感じません。
七五三では神社に行きその翌日には近所の葬儀があればお寺に行くし、結婚式は神社でもキリスト教の教会式でも良い・要は神仏(超越的霊力を持つ存在)に祝福されればいいという考えです。
生命の根源に関わるときは神であろうと仏であろうとも超越的存在に頼りたいのが日本人の心です。
私の子供たちも近所にキリスト系の幼稚園があった時にはそこへ通わせましたが、私がキリスト教徒になった気持ちは一切ありませんし、3人目の子供も当時の自宅近く(約100メートル足らず)にあった幼稚園に通いましたが、何系だったか記憶すらしていません。
幼稚園もキリスト系でもお寺でも良い・その都度自宅近くて便利なのが第一選別基準です。
一神教のキリスト教やイスラム教徒がこういう社会に根付くには、「お寺に出入りする人は教会にくるな!」とは言えないので、自然に他宗教徒も受け入れるしかない・日本にいる限りいろんな神々の存在を受け入れるしかないのではないでしょうか?
明治以降の文明開化運動による欧米文化の大量流入や敗戦以降の米国文物大量流入もその一つでしょう。
明治以降の文物流入に対する受容モデルを表すためには、和魂洋才という熟語が知られています。
和魂洋才の受容方式が古代からあったのか?です。
和魂洋才とはテクニックを取り入れるだけで精神を取り入れるものではないという主張ですからそう言わねばならない圧倒的先進技術が入ったからこそ必要な主張だったでしょう。
そんなことが可能か?生活スタイルが変われば価値意識も変わるのではないか?
キリスト教の思想を深く理解しないと欧米の行動パターンや文物の理解を真にできないというのが戦後の風潮でした。
中国が開放し「文化度が上れば自然に欧米流儀に従うはず」という期待論調もこの延長論ですが、中国は簡単に政治スタイルを変えず逆行し始めたので欧米にとっては思惑が違ってこまっている状態です。
日本で和魂洋才の主張原型が始まったのは、その必要性が高まった時期・・いわゆる国学の発生の頃からでしょうか?
朱子学が浸透しすぎて画一理解の弊害・・やおよろずの価値観を基本とする大和心には馴染まない面が際立ってきたので、反動的に大和心を掘り起こす国学の発生につながったのではないでしょうか。
このように少しずつ日本の心に合うものだけ無意識のうちに入れていたのに対し、明朝崩壊後亡命学者等が大挙流入→儒学が「体系的」に導入され徳川幕府は昌平坂学問所設立し、(大学の頭」という役職まで置いて)徐々に日本思想界を席巻→統制作用を及ぼし始めました。
大學の頭に関するhttps://dictionary.goo.ne.jp/jn/132691/meaning/m0u/からの引用です

2 江戸時代、昌平坂学問所の長官。元禄4年(1691)林信篤(鳳岡)が任命され、以後代々林家が世襲。

こうなると談論風発や八百万の神的に、多様な意見を許す思考になれた日本民族にとっては、窮屈過ぎる不満が発生します。これが国学・大和心を見直そうという運動のエネルギーになったと思われます。
局面が違いますが、文武両道とうるさかった松平定信の政治に対して「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」の狂歌で揶揄された違和感です。
教養人の政治は一面的になり過ぎてかえって国民を苦しめることが多いものです。
現在韓国の文政権が、庶民の生活水準底上げのために経済原理によらず強制的に最低賃金引き上げに踏み切りました。
一見人権尊重のようですが、このために零細企業が雇用を縮小し、廃業するようになって失業を増やして大混乱になっています。
頭でっかちな一方的な政治は、一面的な理に走り過ぎて多様な矛盾意見を包括できないからでしょう。
ちなみにエリート政治家松平定信の改革はほんの短期間・6年間で頓挫しています。
同じくエリート官僚・・水野の天保の改革はわずか2年で失脚でした。
これに対して享保の改革は2〜30年と息の長い改革・被支配層の支持を受けたので長かったのでしょう)だったのでこれが徳川政権260年を持たせた原動力です。
吉宗は、生まれつきの貴種として養育されず家臣の子供として育ってからお城に引き取られたので、世事に通じていた点が大きな違いだったのではないでしょうか。
もともと素質自体が実務向きであって、歌道などの風流なことには向いていなかったと言われますが、その分思い切った改革ができたようです。
思い切った改革が必要になった背景を見ておきます。
幕藩体制・・・家康〜秀忠〜家光の草創期を制度的にまとめたのが知恵伊豆こと松平信綱でした。
いわゆる知恵伊豆と言われ幕藩体制確立に功のある松平伊豆守信綱は物事は重箱の隅をほじくるような政治はいけない、緩やかな政治が肝要と述べていました。

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私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

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