利害調整基準明確化→御成敗式目2

紫衣事件に関するウイキペデイアの引用です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度や武家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。
秀忠上洛時に朝廷に京近郊のうち1万石を寄進?したのは最下位大名の格式でいかにもバカにした態度であったという意見がありますが、有職故実にのっとった儀式挙行や和歌を読んでいる程度の仕事で良いとする一種の隠居料としてみれば、実務担当のトップ・高家筆頭の吉良家6〜7千石程度でしたから、大層な優遇のつもりだったでしょう。
紫衣事件で明らかになったことは、誰に紫衣着用を許すか?を幕府が決める・・今で言えば、誰に文化勲章を授与するか、高級官僚や大臣任命を決めるのは政府であり、その認証式や任命儀式が天皇家の職務ですから、今の天皇家の職務とほとんど変わりません。
そうすると天皇家の役人・・左右大臣〜大中小納言〇〇の頭等々(多くは諸大名の格式による形式的官名に過ぎず、天皇が禄を払う必要もありません)、儀式に参列する程度の儀式要員(高給ホテルのボーイさん程度)でしかない以上、高給を払う必要がなくなるのは当然です。
1万石の大名に要求される参勤交代(江戸屋敷の負担)もなく、幕府への兵役協力義務もなければ京市街の行政や治安維持の職責もなく、必要なコストは幕府が全部見てくれるのですから、今の皇族内定費と比較してもそれほど少なすぎるとは思えません。
現実無視の律令法ではなく、社会実態に合わせた現実的法例の最初であり、江戸時代の諸法度の嚆矢に当たる御成敗式目に戻ります。
武家のみ適用の徳川家の武家諸法度の先輩に当たるものですが、式目は鎌倉幕府の問注所で処理した事例研究の成果でもあるので、江戸時代の武家諸法度施行後の事例集積・・現在用語でいえば、判例集として整備した吉宗の「公事方御定書」(約100か条)の先䗥としての意味もあるでしょう。
御成敗式目以後の分国法や徳川家の諸法度はこの式目を基本法とした上で、部分改正法の形式とするものだったので、御成敗式目の効力は明治維新まで続くようです。
ウイキペデイア御成敗式目引用続きです。

制定当時、公家には、政治制度を明記した律令が存在していたが、武家を対象とした明確な法令がなかった。そこで、源頼朝以来の御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化した。「泰時消息文」によれば、公家法は漢文で記されており難解であるので、武士に分かりやすい文体の法律を作ったとある。そのため、鎌倉幕府が強権をもって法律を制定したというよりも、むしろ御家人の支持を得るために制定した法律という性格を持つ。また、鎌倉幕府制定の法と言っても、それが直ちに御家人に有利になるという訳ではなく、訴訟当事者が誰であっても公正に機能するものとした。それにより、非御家人である荘園領主側である公家や寺社にも御成敗式目による訴訟が受け入れられてその一部が公家法などにも取り入れられた。

公家・・荘園領主自体が、幕府の問注所を利用するようになっていたと、だいぶ前に書いた記憶ですが、その通りの紹介です。
紛争解決には実行を担保する権力が必須ですが、権力(武力)さえあればいいのではなく、「裁定の公正さ・・信用が」基本です。

利害調整基準明確化・御成敗式目1〜武家諸法度

御成敗式目に関するウイキペデイアの引用です。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
沿革[編集]
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱(1221・稲垣注)以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。

関東御成敗式目は、それまで武家内の規律を定める法令がなかったものの事実上武家支配が広がったので、これを明文化した初めてのものらしいです。
源平物語では義経が頼朝の許可なく朝廷から叙任されたことを問責されて義経の悲劇が始まるのですが、これは武家内の常識?礼儀にとどまるもので、法令化されたものではありません。
幕府成立後も朝廷法(律令法)が基本的に通用している西国と武家法が基本的に通用している東国方面に分かれる二頭政治が行われている時代が続きますが、承久の乱(1221)によって西国へも地頭派遣するようになり全国的に武家法が浸透するようになります。
全国区化していくと武家法の内容が慣習によるだけでは、(地域差もあるし)全国基準がはっきりしない・・問注所の裁決基準を明瞭化する必要に迫られた・約4〜50年経過で事例集積が進んだので明文化する準備ができたこととの両面によるでしょう。
徳川家が1615年禁中並公家諸法度と武家諸法度をを公布したのは、戦国時代を経て武家と公家の二本立ての境界不明の法制度から、徳川家の定める法度(法)が武家と公家双方規制する「法」制定を宣言した事になります。
大坂夏の陣直後の制定ですから、高齢化していた家康は急いだのでしょう。
その後、後水尾天皇が勝手に高僧に紫衣着用を許したことで秀忠と後水尾天皇の確執になったことが有名ですが、沢庵など高僧が朝廷側の論理で幕府に反論した為に処罰されるなど実力装置を備えた武家に叶わず(・この点は清盛の実力行使以来実証済みでした)結果的に朝廷が屈服します。
ちなみに紫衣事件は(1629年)家光時代ですが、秀忠存命中(1632年死亡)の事件で抗争の主役は秀忠と後水尾天皇でした。
赤恥をかいた・・後水尾天皇の退位宣言騒ぎに発展し・・和子の娘女一ノ宮に譲位・・女帝は結婚できない不文律の結果、徳川氏を外戚とする天皇出現不可能となり、他の皇族男子がその次の天皇と決まる・・藤原氏以来の伝統である実力者が外戚になり影響力を行使する方法を徳川家が断念する結果になり、以後幕末の公武合体論まで天皇家と徳川家の婚姻はなくなります。
後水尾天皇側・・貴族流策略の勝ちとも言えますが、徳川家は開き直って外祖父によって事実上次期天皇に影響を及ぼす→天皇権威尊重の必要を求めず、実力で天皇家行動を支配する関係が露骨になって幕末に至ります。
もともと徳川家の定める法(法度)が天皇家の定めより上位(法度に違反した天皇の宣旨勅許が全て無効)になるようにした以上は、徳川家が外戚になって天皇の行動に事実上の影響力を及ぼす必要を認めなくなっていたということです。
これが江戸中期の非理法権天の法理→「道理に合わなくとも実力に裏付けられた法には叶わない」・・誕生・「悪法も法なり」で良いのか!という幕末倒幕思想にもにつながるようです。
紫衣事件に関するウイキペデイアの解説です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。

利害調整能力3・問注所〜観応の擾乱

8月7日に書き始めた利害調整機関・・問注所に戻ります。
問注所に関するウイキペデイアの紹介です。

創設[編集]
元暦元年(1184年)10月20日、鎌倉に問注所が設置された。
当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた。

・・鎌倉幕府の問注所設置・・訴訟の大多数は、荘園収入の分配・公卿と地元を預かる武士団との分配争いでしたが比較的公正な裁決が多かったので貴族利用が増えた・・幕府権威が定着していったと何かで読んだ記憶です。
建武の中興が短期で瓦解し、後醍醐政権から足利政権への移行してしまったのは、後醍醐政権の裁定(論功行賞)に対する武士団の不満によるものでした。
武士の多くが足利氏の花の御所に伺候して足利氏の口利きで決めてもらった方が有利あるいは納得するようになり、朝廷に向かわなくなった・文字通り市場評価に拠ったのです。
武士団が朝廷よりも足利氏の屋敷に向かうようになると権力が事実上足利氏に集中して、幕府の機能を持ち始めると、足利家近臣で実権を握った高一族と尊氏の実弟直義との抗争が始まります。
抗争の元はと言えば高一族が急激に勢力を伸ばし過ぎた・・平家一門が約7カ国の守を抑え、あるいは殿上人の地位を占めたのが隠れた不満を引き起こしたように、足利氏一門ですらない・・側近でしかなかった高一族がいきなり各地守護になり幕府内の権力を牛耳ったことに対する(その分守護になり損ねたか取り上げられた)門閥・各地豪族の不満が尊氏の片腕と頼む弟の直義担ぎ上げ・・支持に回ったのでしょう。
君側の奸を除けという不満の旗印に直義を利用しただけのように見えます。
緒戦では御所巻きで先行した高一族の圧勝でしたが、(兄尊氏邸に逃げ込んだ三条殿=直義は頭を丸めて表向き公務引退で決着しました)すぐに全国的に高一族への反撃・旗揚げが始まり、いつのまにか直義がみやこから脱出して、岸和田城だったか(うろ覚えです)に入ります。
待ってましたとばかりに、直義派の旗揚げが燎原の火のように広がり、都落ちした高一族が血祭りにあげられて観応の擾乱第一陣がおわりました。
平治の乱における緒戦で信西入道の処刑成功と同じ展開です。
(私の憶測によれば)しかし武士団の不満は高一族が代表して怨嗟のマトになっただけのことで、根本は論功行賞や荘園支配の権限争いの裁定に対する不満ですから、第二陣が始まり、収拾のつかない「擾乱」になっていきます。
ウイキペデイアによる御所巻きの解説です。

貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)

御所巻きは年号が観応になる直前ですから、日本で言えば第二次世界大戦の前哨戦・日支事変のようなものでした。
観応の擾乱・・御所巻きに始まる高師一族と直義との抗争〜その後の尊氏(義栓)と直義の抗争も、直義がせっかく圧倒的支持を得て尊氏と高一族との抗争に勝ってもなぜか天下の権を尊氏に残したままにして有耶無耶にしてしまった(政権意欲がなかったようにも解釈されます)他、戦後処理としての論功行賞が旧弊であったことからすぐに各地豪族の人心が直義から離れていった(直義は関東御成敗式目を理想とする念が強かったとも紹介されています)ようにも見え、第二陣の足利将軍家内兄弟間抗争に発展していきます。
北条泰時によって制定された御成敗式目・および紛争裁定基準は考え抜いた立派な式目ではあったのでしょうが、もしかすると鎌倉幕府崩壊後の社会意識変化に合わなくなっていたのでしょうか?
建武元年は1334年、観応元年は1350年ですから、御成敗式目制定(1332)後約100年以上経過でその間に蒙古襲来が2回もあり、幕府体制崩壊などの大変革後ですから、荘園経営のあり方を始め社会意識はかなり変わっていた可能性があります。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。
直義が最後に支持を失っていく経緯理由についての私の意見は、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。

韓国の反日と米国策動の有無(フェイクだったのか?)2

表向き、朝日新聞得意の韓国支援・・期待感を煽るフェイク報道というイメージづけで今のところ一旦収束しています。
この評価については以下に説明が載っています。
https://shinjukuacc.com/20190801-03/一部引用

「米国が日韓を仲裁へ」 巧妙化する情報ロンダリング
配信日時:2019/08/01 11:00 (最終更新:2019/08/01 11:00) カテゴリー : マスメディア論, 時事
マイク・ポンペオ米国務長官は訪問先のタイに向かう航空機内で、記者団に対し「日韓両国が前に向かうための道筋を見つけることを提案する」と述べました。
このポンペオ氏の発言が、「米国が日韓の仲裁に乗り出した証拠」として、おもに日韓を中心とするメディアに引用され始めているのです。
ただ、報じられたポンペオ氏の発言は、「日韓は北朝鮮の非核化に向けて米国と緊密に協力する同盟国であり、両国にとって良い着地点が見つかることは、米国にとっても大事なことだ」、といった趣旨のものに過ぎませんし、以前からの発言となんら変わるものでもありません。
このため、別にポンペオ氏が「日韓貿易紛争」(?)などの個別具体的な事案について仲介すると述べたわけでもなければ、日本が韓国を「ホワイト国」から除外する措置について、延期するように圧力をかける方針を示したものとも考えられないのです。
これが「あの新聞」の手にかかれば、こんな記事に仕立て上げられてしまうようです。「ホワイト国、韓国除外なら日本も悪い」仲裁に動いた米(2019年8月1日07時00分付 朝日新聞デジタル日本語版より)
朝日新聞の記事は、次の書き出しで始まります。
「米国が、悪化する日韓関係の仲裁に腰を上げた。同盟国がにらみ合う現状は、中国やロシアを利することにつながり、米国の安全保障環境にマイナスだと判断した。韓国は米国の介入を歓迎するが、日本は韓国への譲歩に後ろ向きで、事態が好転するかは見通せない。
不確かな情報をベースに「米国が日韓関係を仲裁する」とキッパリ断言している点にも強い違和感を抱きますが、それよりも不思議なのは、なぜこの記事は「日本が韓国に譲歩すること」を前提にしているのか、という点です.

上記の通りの批判ですが、もともと「政府高官が・・」という記事は「情報源を明らかにできませんが・・」という報道形式ですから、根拠を出せない報道と自白しているような報道スタイルです。
当たればスクープでしょうが、見込みが違えばフェイク報道という批判を受けるのを覚悟の報道ということでしょう。
ただ、報道が先走って世論誘導した結果、誘導方向に世論がなる場合があるので、結果で判断するのは危険です。
朝日新聞は事実報道よりは世論誘導形成を狙う傾向が強いので、信用がなくなったということでしょう。
とはいえ、今回は情報源のポンペオ長官が否定すれば済むこと何の何らを否定しないままで、韓国がやっている慰安婦合意無視政策を改めない限り日韓首脳会談をしても意味がないという理由で、G20でも日本がずっと拒否していた経緯を無視して、日米韓外相三者会談設定まで強引に?進めていた以上は、なんとかまとめたい意欲があったと見るのが常識です。
米国は米国立会いで決めれば蒸し返しは許されないから・・と鳴り物入りで「不可逆的」条件設定して「日韓合意」を日本に強制したのですが、終わってみれば、韓国が早速合意を反故にしつある時に「俺の顔を潰してどうしてくれるのだ!」と動くべき時に・・放置していたのは無責任でした。
この怠慢をほっかむりして臆面もなくいつもの通り韓国が困ると余計な口出しをしようとして、今度こそ失敗した汚点を歴史に加えてしまったというべきでしょう。
日米韓の安保協力が重要ならば、事ここに至るまでの約3年韓何故放置していたのか?
火種の小さなうちに火消しに動けばお互い妥協し易かったのです。
こういう無茶苦茶強引な交渉能力しかないのでは、よほどの圧倒的国力差がなくなれば、米国支持国が減る一方でしょう。
ポンペオ氏のメンツは丸つぶれですし米国の看板を背負っての行動でしたから、米国威信も丸つぶれですので、衰えたりとは言えどういう揺り戻しがあるかは別問題です。

韓国の反日と米国策動の有無(フェイクだったのか?)

アメリカはいつも韓国を煽ってやるだけやらせておいて、日本が反撃に入り韓国不利になると「仲良くしろ!」という強制の繰り返しでした(少なくともそう思うようになった国民が増えてきたのは確かです)から、アメリカに対する日本の信頼はすでに地に落ちています。
韓国民にとっては(韓国では虚偽歴史を学校教育しているので)日韓合意に対して不満だったでしょうから、合意後(名目は、大統領のスキャンダルで名目でしたが)すぐにローソクデモによってパク大統領が失脚しました。
次期大統領となった文在寅大統領は、従前より反日政策を過激化しないと立場がないので?この「不可逆的合意」を事実上反故にして、日本大使館前に市民が慰安婦像を建てるのを放置して、表現の自由だから市民がたてるのは仕方ないと言い張り、日韓合意によって設立した財団を一方的に解散しました。
反日法ともいうべき、親日罪を作りあるいは積弊清算と称して日本関係の教育内容の変更などのほか徴用工訴訟を意図的に停滞させていたという理由で最高裁判事を検挙するなどして徴用工訴訟を促進させて、日本に対しては司法の独立だから政府は関知できないという狡猾な態度で日韓条約違反の主張に対して知らぬ顔です。
要するにまともな政治能力がないので、反日で国民を煽るしか能のない政治家しか出てこないのが韓国の不幸ですが、結局は国民レベルが低すぎるのでしょう。
歴史始まって以来専制支配しか国民も政府も経験がないのでまともな議論をした経験がないのに、アメリカの強制で民主化したものだから政府も国民も意見をいえば怒鳴りあうしかない・・どうして良いかわからないように見えます。
日本としてはかわいそうな国だと思って黙って見ていると増長するばかりなので、この段階でダメなものはダメ!ときっぱりけじめをつけた方が良いという人が、増えてきたように思われます。
安部政権が強硬なのではなく、韓国の無法行為は許容範囲を超えているという国民意思の高まりが政府決断を後押ししているというべきでしょう。
ホワイト国優遇取り消しの反撃?に驚いた米国が、これまで韓国のやりたい放題を黙っていたのに、日本が反撃に出るといつものように仲良くしろ!の動きを見せかけたようですが、そんな身勝手なことは常識的に許されませんし、そんなことをしたら今度こそ日本国民は怒るでしょう。
慰安婦日韓合意はアメリカが今度こそ「韓国に約束を守らせるから」ということでアメリカが、立会人になって「不可逆的合意」したものを韓国が反故にしているのに、黙っていて日本が反撃を始めたら停戦・・現状維持の要求など「何の面(つら)下げて言えるンダ!というのが日本人大方の意見でしょう。
https://www.asahi.com/articles/ASM7023HXM70UHBI003.html

米が日韓仲裁へ 日本に輸出規制第2弾の回避を要請
ワシントン=土佐茂生 2019年7月31日13時00分

要するに数年かけてやってきた反日行動を不問して現状固定しろということですから、これでは無法行為やり得の仲裁です。
我慢しないでその場で殴り返せ・・反撃するしかない・時間をおいて準備して反撃しようとすると休戦命令という無茶苦茶な仲裁案です。
反撃をして一定の失地回復したもののその後、一進一退の膠着状態・朝鮮戦争の場合、現状での休戦もあり得ますが、反撃する前の休戦斡旋の場合紛争前の状態に復元しての休戦であるべきでしょう。
朝鮮戦争で言えば、北朝鮮軍による奇襲攻撃で朝鮮半島の南端まで占領された米韓連合軍が総反撃しようというときに停戦斡旋をするようなものです。
そこで朝日新聞の報道に対して政府・官房長官は「そんな仲裁案はない」と否定して(無視して)そのままになり、ホワイト国除外政令を予定通り閣議決定しました。
https://jp.reuters.com/article/suga-usa-south-korea-idJPKCN1UQ0AF2019年7月31日 / 12:53 / 7日前

菅官房長官、日韓問題での米国仲介報道を否定

アメリカはこれに不快感を示した場合の日本の国民感情の強さを測ったのか?グーの音もない状態です。
表向き、朝日新聞得意の韓国支援・・期待感を煽るフェイク報道というイメージづけで今のところ一旦収束しています。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。