江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道1(秀才の限界2)

Jul 24, 2019「社会変化→秀才の限界 1」以来横道にそれましたが、日本社会はしょっちゅう社会も権力構造も変わっていて適応力が問われる社会で、中国や朝鮮のように千年も2千年も同じ思想行動様式で続く社会ではありません。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び如何に精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょう。
それでも約300年毎に大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返しているのですが、その後また同じスタイルの王朝が繰り返され進歩=変化がないのは驚くばかりです。
殷の紂王の妲己、夏の桀王・末喜に始まり呉越の戦いの西施〜玄宗の楊貴妃まで美姫寵愛や奢侈(これも紂王の酒池肉林に始まりいつも同じパターン)に走ったから国が滅びた・というお定まりの批判でことを済ますからでしょう。
実際の原因は毎回そんな単純なものではない筈ですが、儒学では古代思想のママ現実当てはめをしないでことを済まそうとするからこうなるのでしょう。
江戸時代の改革の必要性と対応力の差に戻します。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょうが、(それでも約300年毎の大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返してきました)昨日まで見てきたように絶え間なく社会変化のある日本の場合古代思考の学習では解決出来るはずがありません。
各大名家は、藩政改革・貨幣経済発達とコメ生産に頼る経済システムの無理を正すために特産品奨励(=コメ以外の商品生産を工夫する改革)に励んだ西国大名系の改革が相応に成功していたのに対し、幕府はあくまで朱子学思考・・質素倹約・貨幣改鋳禁止・古代的思考の繰り返しに終始していたので幕末頃のは大きな差がついたのではないか?というのが私の関心です。
要するに産業構造を改を(リストラクチャリングして時代遅れの部門を縮小して新規需要のアリそうな分野に人材資源を回)して時代即応の商品生産拡大する視点が欠けていたか希薄であったということでしょう。
ちなみに上杉鷹山の改革成功は、定信〜水野らと違って生産拡大路線である点は西国大名と同じでしたが、旧来型農業生産向上策による成功でしたが、中部以西の西日本では貨幣経済化に対する構造変化能力(元禄時代にすでに赤穂藩では塩の生産商品化成功していたことが忠臣蔵で知られます)が求められていました。
これに気がついて構造改革に努力・成功していたかどうかで幕末にかけての経済力や人材教育レベルが違っていったのです。
徳川時代の三大改革・・・享保・寛政、天保改革に関するウイキペデイアによれば以下の通りです。

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する[1]。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては享保20年(1735年)や延享2年(1745年)とするなど複数説がある。
主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。

https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_3.html

蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。

先例に捉われない大改革によって、平賀源内のような奔放な人材が次々と出現できたし、結果的に合理化思考になれて、明治近代化に必要な人材の準備ができたのです。
吉宗の出自・・生まれつきの宮廷教育を受けなかったプラス面が出たのでしょう。
次の寛政の改革です。

寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代に松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と並称される。
定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。また、一連の改革は田沼が推進した重商主義政策とは異なる。蘭学の否定や身分制度改定も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。
改革は6年余りに及ぶが、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。
寛政異学の禁
柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していった。
処士横議の禁
在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
旧里帰農令
当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、強制力はなかった[1]

吉宗の改革は文字通り社会の変化に対応するための大掃除リニューアル・・革新的なものでしたが、定信〜水野忠邦になると社会構造の変化を否定し、新たに生まれtきた戯作その他都市文化を禁止し、人口の都市集中の動きを農村へ戻そうとするなど、社会構造変化を元に戻そうとする努力中心です。

朝廷と徳川幕府の価値観相違2

戦国時代が終わってから大名等武家は、領内支配によって独自産業育成して新たな収入を得る自由があるとしても、国法としての貿易禁止に背けないのと同様、幕府の決めた分野については勝手な官位授与等をしてはならないという「禁中並びに公家諸法度」を決めた以上は、幕府を通さないで(献金に報いて?)勝手に官位授与等をしてはならなくなったのですが、高僧への紫衣の許可制は武家に対する官位授与とは系列を異にするものでした。
その経緯もあり、それまでの習慣による(臨時収入の欲しさ?に)紫衣着用を許可した事件ですが、これは「幕府法が朝廷決定に優先する」という権力構造の問題だけではなく、価値観の変化(金で地位を買うのが許せないという武家の倫理観)を朝廷が無視した点に大きな問題があったということでしょう。
武士社会の立身出世・取り立てと降格の基準は、忠節・勲功の実績次第でした。
信賞必罰=いわば適材適所が基本社会・・能力のない者に義理人情等で軍勢を指揮する地位を与えると負けてしまう・一族滅亡のリスクを抱えギリギリの攻防を繰り返して戦国時代を生き抜いてきました。
武家の倫理観は、秀吉が草莽の身からお天下様になっていった例を見ても分かるように、賄賂や家柄によらず能力がすべての基準になるものでした。
戦国武将にとっては、昇進や格下げ処理基準に個人事情や献金等の情実が入り込むのは一族の滅亡を招きかねないリスキーな行為ですから、最も忌み嫌うべき道徳として、確固たる共通意識になっていたでしょう。
とは言え、実際には接待上手や献上品の豪華さなども重要でしたので、要は比重の置き方の問題です。
官位をありがたがる世間一般よりは、長期にわたって名誉職でしかなくなっている官位など能力の有無に関わりがない・・という朝廷の方が逆に、醒めた意識になっていたでしょう。
長期にわたって安定収入源のなくなっていた朝廷にとっては、献金によって、あるいは内裏等の造営をしてくれることによる貢献度の高さに従って官位を敍し、あるいは高僧認定(今で言えばノーベル賞受賞・・国内的には学術会議員や人間国宝〜特定技能認定?)するのは当然の論理だったのでしょう。
私が関係していた学生時代(今は知りませんが・・)の経験では、家元制度のあるお花やお茶お琴等を習っている場合では、一定段階に進み師範等の認定を受けるには(一定レベルであることが前提であっても)認定料?を払うのが普通でした。
家元制度は民間版ですが、公的機関では許されないというのが徳川政権の示した規範だったのでしょう。
今ではノーベル賞や博士号、一級技術者資格などが、献金額やコネで決まるとすれば、国民全部が承知しないでしょう。
このような現代価値観に反したという名目で韓国のパク前大統領がリコールされたばかりでしたが、このパフォーマンスは前近代的怨念政治にこだわっている韓国が前近代どころか日本で言えば、前中世的価値観を国民が許容できなくなった程度に進化していたことの国際表明だったことがわかります。
ただしパク政権打倒のローソクデモは、親北朝鮮勢力・左翼系による政変企図による煽り成功の意見もあり・・煽り/メデイア操作による扇動に簡単に乗せられる国民レベルの脆弱さ・・が背景にあるので、純粋民度アップの証左とは断定できませんが・・・。
文政権成立後慰安婦合意に対する事実上の空洞化運動やに追い打ちをかける徴用工訴訟の挑発にとどまらず、自衛隊機に対するレーダー照射事件等国内法だから何をやっても韓国政府の勝手だという韓国の態度を見ると、人間としてのレベルがどうなってるの?と首をかしげる日本人が多くなってきました。
まだまだ普通の会話が成り立つレベルではないのではないか?という疑問・・普通の付き合いをするのは無理でないか?と思う日本人が増えてきた印象です。

朝廷と徳川幕府の価値観相違2

こうしたメカニズム構築によって古代からの大豪族や中級貴族がどんどん没落(菅原道眞の左遷や伴大納言事件)していき、ついには朝廷すら収入源を失う事態になっていたのが道長の頃と言えるでしょう。
「毒を食らわば皿まで」の考えで天皇家自身が荘園確保に乗り出すと、何と言っても藤原氏自身天皇家の権威利用の地位(外戚利用)でしかないので、院政=治天の君が荘園運営するとなれば急速に八条院の荘園への寄進が増えていきます。
八条院の経済力についてはJan 24, 2019 12:00 am「社会変化=価値観・ルール変化1」に書いたことがあります。
キングメーカーであった藤原彰子が死亡すると藤原氏の勢力が急速に衰退していったことを摂関家支配の構造変化(彰子死亡)PublishJul 26, 2019に書きました。
清盛も平滋子死亡後急速に衰退して行きました。
保元平治の乱の経済背景を見ると、荘園収入を得て実力をつけた院の庁が藤原氏の経済力に頼る状態脱却を背景に保元〜平治の乱が起きて、藤原氏の経済力衰退化に成功するのですが、これの実現のため武士の実力に頼ったことから、徐々に武士勢力に荘園収入を蚕食されていき、応仁の乱を経てついに荘園制度自体が空洞化してしまった事になります。
荘園制を基礎とする収入源に頼る朝廷や公卿の政治運営自体が、荘園収入の空洞化によって先ずは仙洞御所の運営が不可能になる→院政の前提たる生前退位すらできない状態になっていた結果、院政が実上消滅していたことも知られています。
生前退位がなくなっても、今度は天皇の葬儀さえできない状態に陥っていたのが戦国末期直前でした。
応仁の乱以降、自衛武力=反撃力を持たない限り荘園運営能力がなくなっていたので、この頃には領地・荘園寄進ではなく、(義満以降の日明貿易の結果貨幣が入っていたので)銭何貫文とかいう今でいう「献金」が増えていきますが本質は同じでしょう。
戦国末期頃には、安定収入がほぼゼロになり朝廷はこの種の収入源に頼る時代が数百年?も続いていました。
この習慣による不明朗な臨時収入→官位や名誉の授与を許さないという価値観の衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
戦国時代に入って朝廷が安定収入がなくて困っていた例としてhttp://rekishi-memo.net/sengokujidai/sengokubusyou_choutei.htmlによれば以下の通りです。

後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御した際には葬儀を行う費用もままならず、御遺体を葬るのに時間が掛かるという悲劇も招いた。
そして後柏原天皇(ごかしわばら)は即位の儀式を行う為の費用が足りず、在位22年目でようやく即位の礼を上げる事が出来た。
他に正親町天皇の事例をウイキペデイアで見れば、以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイアです。
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た

生前退位・院政が長期間なかったのは、院の御所(仙洞御所)を造営し付属の役人を配置する資金すらなかったからであることを、平成天皇退位に伴う代がわり行事コストの関係でだいぶ前に紹介したことがあります。
数百年に亘る不明朗な臨時収入→献金による官位や名誉の授与を許さないという徳川政権との価値観衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
ただしその代わり秀忠は朝廷に対して寄進でなく1万石の領地を与えて?います。
摂家には5千石前後でした。
今後この程度の収入でやって行けば良い・宮中儀式等はこの収入で賄え!不明朗なお金を受け取るな!という意思表示でした。
一種の年俸制にして裏金の受領禁止したということでしょう。
ただし、紫衣事件後家光は朝廷の知行?を加増?しています。
要するに足りないなら加増するから、不明朗資金授受をするな!という強い意思表示でもあったでしょう。
官位授与は武家の棟梁を通さない限り許されないのが鎌倉幕府以来の原則ですが、幕府どころか守護大名さえ通さない直接交渉が成立するようになった点は、幕府権威の衰退を意味するのみですが、朝廷の収入源であった叙位のお礼が守護大名を通さないでもっと下位の国人層が直接行うようになった意味もあります。荘園収入を得て実力をつけた院の庁が藤原氏の経済力に頼る状態脱却を背景に保元平治の乱が起きて、藤原氏の経済力衰退化に成功するのですが、これの実現のため武士の実力に頼ったことから、徐々に蚕食されて応仁の乱を経てついに荘園制度自体が空洞化してしまった事になります。
荘園制を基礎とする収入源に頼る朝廷や公卿の政治運営自体が、荘園収入の空洞化によって先ずは仙洞御所の運営が不可能になる→院政の前提たる生前退位自体できない状態になっていた結果、院政が実上消滅していたことも知られています。
生前退位がなくなっても、今度は天皇の葬儀さえできない状態に陥っていたのが戦国末期直前でした。
応仁の乱以降、武力を持たない限り荘園運営能力がなくなっていたので、この頃には領地・荘園寄進ではなく、(義満以降の日明貿易の結果貨幣が入っていたので)銭何貫文とかいう今でいう「献金」が増えていきますが本質は同じでしょう。
戦国末期頃には、安定収入がほぼゼロになり朝廷はこの種の収入源に頼る時代が数百年?も続いていました。
この習慣による不明朗な臨時収入→官位や名誉の授与を許さないという価値観の衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
戦国時代に入って朝廷が安定収入がなくて困っていた例としてhttp://rekishi-memo.net/sengokujidai/sengokubusyou_choutei.htmlによれば以下の通りです。

後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御した際には葬儀を行う費用もままならず、御遺体を葬るのに時間が掛かるという悲劇も招いた。
そして後柏原天皇(ごかしわばら)は即位の儀式を行う為の費用が足りず、在位22年目でようやく即位の礼を上げる事が出来た。

他に正親町天皇の事例をウイキペデイアで見れば、以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイアです。

弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た

生前退位・院政が長期間なかったのは、院の御所(仙洞御所)を造営し付属の役人を配置する資金すらなかったからであることを、平成天皇退位に伴う代がわり行事コストの関係でだいぶ前に紹介したことがあります。
数百年に亘る不明朗な臨時収入→献金による官位や名誉の授与を許さないという徳川政権との価値観衝突が江戸時代初期におきた紫衣事件でした。
ただしその代わり秀忠は朝廷に対して寄進でなく1万石の領地を与えて?います。
摂家には5千石前後でした。
今後のこの程度の収入でやって行けば良い・宮中儀式等はこの収入で賄え!不明朗なお金を受け取るな!という意思表示でした。
一種の年俸制にして裏金の受領禁止したということでしょう。
ただし、紫衣事件後家光は朝廷の知行?を加増?しています。
要するに足りないなら加増するから、不明朗資金授受をするな!という強い意思表示でもあったでしょう。
官位授与は武家の棟梁を通さない限り許されないのが鎌倉幕府以来の原則ですが、幕府どころか守護大名さえ通さない直接交渉が成立するようになった点は、幕府権威の衰退を意味するのみですが、朝廷の収入源が守護大名を通さないでもっと下位の国人層が直接行うようになったという意味もあります。

朝廷と徳川幕府の価値観相違

鎌倉幕府が、守護地頭等を各地派遣するようになった・・遠慮ガチな態度から始まった幕府の権限行使が、室町時代〜応仁の乱〜戦国時代を経て荘園領主〜守護地頭〜守護代〜戦国大名支配に変わり、朝廷には国内各地の支配権を名目上も一切ないことを鮮明にした側面があります。
これには、収入を徴税によらず寄進や献金等の不明朗資金に頼ることに対する武家がわの嫌悪価値観相違も大きな原因でもあったでしょう。
ところで官位を金で買う〜寄進等で手に入れる仕組みは、戦国時代に始まったのではなく平安末には平忠盛が熊野本宮造営により、次の清盛が三十三間堂で知られる蓮華王院の造営と荘園寄進で後白河上皇を懐柔した例が知られています。
清盛に関するウイキペデイアの引用です。

保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。
・・・・継室の時子が二条天皇の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子(建春門院)の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。
院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。
二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。
後継者の六条天皇は幼少であり・・・後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。
10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが[9]、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた藤原信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

後白河・平滋子の子・憲仁親王の即位後白河の院政復活に向けた布石として蓮華王院 (三十三間堂)を寄進しておいたのでしょう。
寄進は新興勢力(中流貴族は昇進できても最高位が4位であったと言われるようにガラスの天井を飛び越える)の格上げ実現するときの常套手段だったかもしれません。
清盛もいきなり寄進したのではなく、その前から朝廷の税収減を補う為の寄進が始まっていたようです。
平安時代に入って寄進が増えた理由は朝廷の徴税収入が減ってきたからです。
平安時代に入って不ユ不入権が保障された荘園増加により朝廷の収入源がほとんどなくなった以上、財政を寄進〜寄付に頼るしかなくなったのは平安中期〜末からのことでした。
天皇退位後の仙洞御所を国費で賄えないので里内裏・皇后の実家の経済力に頼る状態・・退位後の仙洞御所を皇后の実家にするのが常態化していました。
この状態脱却のために八条院など皇室系が荘園経営に乗り出していた事を以前紹介しました。
平安初期以降の荘園囲い込み競争では、国司の介入(徴税権確保のための調査立ち入り阻止等→不輸不入権獲得→一円支配化→一円支配拡大競争・地元での争いですから、中央の裁定を待っていられない・・現場実力優先時代→武士発達につながります・・この象徴的事件が平将門の乱だったでしょう。
このためには実際に荘園や農地を耕作する地元勢力がどの中央貴族に名目寄進し保護を頼ろうか?という競争になって摂関の地位が実力による入れ替わりがなくなり、摂関家として世襲化(これに対する抵抗が菅原道眞の事件)すると、摂関家と対立する貴族に寄進しても意味がない・・勢い摂関家へ荘園寄進が集中するようになって藤原氏の永続的地盤が再生産される仕組みになって行ったものです。

政治献金と汚職の違い

芭蕉が奥の細道で紹介しているように、(行く先々で豪農が人を集めて待ってくれている)地方周りは結構収入になったのです。
子供の頃に誰の作品か忘れましたが「亂菊物語」という本を読んだことがありますのでその記憶で書いています。
大正昭和の頃でも東京の絵描きが房総半島に出ると、地元の素封家が歓待してくれるので贅沢できたような日記みたいな旅行記のようなものが千葉市立美術館の企画展に出ていました。
水彩画の大下藤二郎だったか?その道の人にとっては大した人でしょうが、無関係な素人にとっては馴染みのあるほどの大家ではないのですが、ざっとこんな風です。
都の文化を地方に伝播する職業・今の地方公演のようなものですが、旅芸人では食えないので、新興大名家のお抱えになって食いつないでいたのでしょう。
こういう受け入れ先になって地方文化の花を咲かせた初期大名では、中国筋の太守大内家が知られています。
大内家の栄華の後というべきか?山口県に家族旅行(鍾乳洞入り口で末娘に抱っこ1とせがまれて長男におんぶしてもらった記憶があるので、末娘が3歳頃か?)した時に雪舟庭園を見学したことがあります。
この記憶が正しければ、雪舟が活躍していた頃と大内家が繁栄していた時期が重なることを知ることができます。
西行や雪舟は京で食えなくなって諸国行脚したのではないでしょうが、下克上の典型?大内家も滅びる頃には、こんな大物を専属で抱え込めるほどの大大名(信長〜秀吉)が成立するには安土桃山時代を待つ必要がありました。
今川義元は偶然?桶狭間の戦いで負けましたが、もともと今川義元みたいな公家風生活・自分が先頭切って突撃する勇気のない大将では国人層をまとめて戦うには務まらない時代に入っていたのです。
それまでは少しでも余裕があれば鉄砲一挺でも多く買う必要がある・・・一人でも多くの兵を養う必要がある時代でしたので、文化といっても細々とした伝来になってきます。
みやこヒトは文化を売るしかなくなった・・宮廷文化人が地方に疎開してそれを売り物にしたので、我が国文化担い手が地方に拡散し草の根に広く行き渡った時代ですが、これが後世日本民族の民度向上底上げに大きな影響を与えたことになります。
何れにせよ文化伝道程度の役割しかなくなった時点で古代から続く大和朝廷支配が実質的に終わったことになります。
盆暮れの付け届けもなくなったころには、25日紹介したように下克上の結果に対する正式承認を得るために、越後守護代の長尾氏や尾張守護代家の奉行織田家などから献金が来るようになります。
朝廷やこれにすがりつく公卿らも含めて安定収入が皆無になり、この程度の臨時官位授与に対する対価収入で、朝廷・廷臣や将軍家が息をつないでいた事がわかります。
朝廷や公卿の強制徴収権がなくなると、任意徴収・寄進に頼るか何かを売る・何かの対価を得ない限り生きていけません。
ところでこのような不明朗な(当時「献金」という用語があったとは思えませんが、25日長尾為景等のウイキペデイア引用の続きなのでこの用語を使います)献金を禁忌したのが徳川幕府であり武家社会の基本ルールでした。
これを明文化したのが禁中並公家諸法度だったのですが、朝廷の方は、従来通り将軍家を通さない官位授与禁止の厳格化くらいに軽く受け止めていたのでしょうか。
頼朝以来のルールは朝廷が勝手に官位授与した場合、(義経の例で有名ですが・・)武家秩序内規違反で武家権力内で処罰を受ける秩序罰でしかなかったのが、朝廷に授与自体を禁じる・朝廷の官位等授与権限は幕府下位の一部門としての位置付けを明文化したことになります。
ここまでは武家法度の制定でなく「禁中」に対する法度制定ですから、禁中=朝廷もその拘束を受けるようになった点については、朝廷側も明白・深刻に受け止めていたでしょうが、本来武家の支配下になかったはずの宗教界の地位授与にまで禁止範囲が広がっていた点を甘く見ていたし、朝廷側の重要資金源でもあったのでおいそれと飲めない面もあったのでしょう。
幕府とすれば、幕府=軍政府にとどまらず国内全政治上の権力頂点に立つ・・幕府が朝廷の上に君臨するからには、武家以外の僧位等の名誉職の授与権も幕府に属することを明確にし、これに反した場合大目に見ることが出来ない事件だったのでしょう。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。