江戸時代産業構造の変化2(工場制手工業)

昨日引用の続きです。

そこに十数人の賃金労働者を雇い規格品を分業制によって大量生産する方向へと移っていきました。
これがいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)の成立で、現在の工場勤務の原型とも言えるでしょう。
量産化に対応すべく技術革新もどんどん行われるようになります。
織物業では機織り機は「いざり機(ばた)」からのより高性能の「高機」へ。糸撚り機は人力の「紡車」から水力利用した「水力八丁車」へと機械がグレードアップしていきました。
マニュファクチュアは全国的に広がり、中には藩全体がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられ、藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきました。(専売→その藩のみが独占的に特産品を売ること。)
中でも雄藩としてのしあがったのは・・・そうです。薩摩藩と長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。
「農民が工場に出勤し、製品を作り、賃金をもらう。」こうした農村の賃金労働のはじまりは、農村を貨幣経済へとどんどん巻き込んでいきます。一方で、農業従事者が減ったことで田畑が荒廃していったことも紛れもない事実です。
田沼に代わって老中となった松平定信は従来の土地至上主義へ回帰を目指し、自給自足を推進するため、商品作物の栽培を禁止する法令を出します。つまり、「お金儲けのための作物や特産品を作らずに、お米を作れということです。」
だって、貨幣経済が農村にまで普及し、経済は活性化。さらに技術革新によって飛躍的に経済成長しているというのに、この後に及んでこんな法令・・・・時代錯誤も良い所。
定信の政治が民衆の反感を買ったのは、これですよ。これ

上記意見でも定信の改革?の時代錯誤性を書いています。

藩が主役になる産業・・専売制度は長州が有名ですが、例えば阿波徳島に旅行した時に見学した藍屋敷・・の藍の専売制度もそのような一例でしょう。
産業構造変化については、木綿産業限定ですが具体的記述のある以下の論文がネットで見つかりました。
https://repository.kulib.kyotou.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdf

昭 和 62年 9・10月 京都大学経済学会
江戸後期における農村工業の発達 日本経済近代化の歴史的前提としての一一 中 村 哲
II 近世社会〔江戸時代の社会〉の経済的性格と木綿
日本では,中世社会〈鎌倉・室町附代〉と近世社会〔江戸時代〉は封建社会 という点で共通した面をもっているが,他面,非常に異質である。経済的側面 におけるもっとも大きな相違は,商品経済の発達であるυ
・・・幕末開港以後の主要 貿易品,すなわち輸出の生糸,茶,輸入の綿織物,砂精などは, もともと日本 にはなかったものであれ中世には輸入品であり,中世末から近世初に国屋化 されたのである。低技術の生糸は古代からあったが. 15位紀から発達した高級 絹織物である酉陣織の原料となる生糸はすべて輸入であり中世末,近世前期 (16~’17世紀)においては生糸は最大の輸入品であった。
木綿は・・・日本で国産化されたのは. 15世紀末からで 16世紀に全国に普及した。最初は かなり高価であったと思われるが,普及するにつれて大衆衣料となった。
この木綿をはじめとして,中世末から近世初にかけて,それまで輸入品であっ た砂糖,たばこ,茶,絹織物,生糸,磁器などが国産化されていった。
それによって日本人の生活が大きく変った。国産化された場合,農民でも生活するためには,商品経済関係に入 らなければならなくなったのである。
・・・木綿は16世紀, とくにその後半か ら急速に全国に普及し, 17世紀の初めに庶民衣料としての地位を確立したとみ られる。
ところがこの頃から商品生産としての綿作(原綿栽培), 綿工業は畿内(大阪,京都を中心とする地域で,当時,日本で経済的にもっとも進んでい た)に集中する傾向がみられ,畿内では農工の分離が始まる。
北陸,東北,九 州など綿作の立地条件のよくないところは畿内から大量の原綿を買い入れ,原 綿から綿糸を作って綿織物にするようになり,東北J 九州という後進的な農村 も全国的な商品経済のネットワークの中に入ることになる。
・・・1714年に大阪に集められた商品は銀44万貫余と いう巨額に達するが,そのうも35.8%は蔵米, 即ち年貢米であった。幕府,藩 は農民からとり立てた多量の年貢米を大阪に送って販売し,その金で大阪で必 要な物資を買うか,江戸や国元(自分の領国〕に送金して財政を維持していた。

上記によれば1714年(吉宗の将軍就任1716年の2年前)時点で、大阪の商品取引高中で米の比率はすでに35、8%しかなかったことがわかります。
引用続きです。

III 近世後期 (18世紀後半以後〉の商品経済の発展
近世的経済構造は18世紀中期以後解体してゆく。
文化・文政期には,主要商品しかわからないが, 米以外の商品の中で,集荷量の不明のものが,判明する商品と同じ割合でこの 1世紀聞に増加したものと仮定すると,文化・文政期には蔵米は 150万石(1 石は約 5ブッシェル〉で1714年の112万石より増えているが,価額では全商品の13.7%に低下している。
他の商品のふえ方がはるかに多いことと,米の他の 商品に対する相対価格が下ったためである。
蔵米を 100として, 1711年に綿関係商品は18 であったが, 1736年に31となり, 1804~29年には 105 となっている。つまり木綿 関係商品が蔵米より多額になっているのである。
しかもこの資料には 18 4~29 年の綿関係商品には相当多額にあったと思われる縞木綿〔先染の綿織物〉と綿糸が欠けている。 蔵米と綿関係商品はたんに物として(素材的に)ちがう(米と衣料というように〉ということだけでなしその経済的性質が本質的にちがっている。

江戸時代産業構造の変化1

同時期の水野家の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。
浜松は家康の本拠地であったことからか?転封に際しては実高による損得よりは格式獲得のために?大名が数年ごとに変わっていたとようで、領内産業構造改革の気持ちが乏しかった分成長力が低いのか、交易窓口の長崎に近い九州との距離で変化差がついたのか今のところ私には不明です。
当時の日本各大名家の実高表を知りませんが、列島の位置関係で見れば、西から東〜東北に移るに従い構造改革の波及が遅くなっている印象です。
例えば私が育った頃にどこの小学校にもあった?薪を背負って歩きながら本を読む二宮尊徳像が目に焼き付いていますが、彼は1856年70歳で死亡ですから、水野忠邦とほぼ同時代人で天保年間中心に活躍した偉人です。
(小田原藩で生まれ育った人で中高年期に今の栃木県中心に活躍)
彼の事績を見ると、経営才覚の良さもありますが、活躍の場の関係で成功例の多くは農産物増産・・農村振興政策でした。
このあとでhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdfの論文を紹介しますが、和泉国や尾張の国では同時期にはすでに今でいう農村工業地帯が成立していたのに比べれば、幕府直轄地を含めた東国の後進性が明らかです。
参考までに長州・・毛利家のGDPを見ると以下の通りです。

(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石?


(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石? | 公益財団法人 芸備協会

・・・石高は、農業生産高はある程度反映されるが、鉱工業・商業関係の生産高は限定的にしか反映されていない。斎藤修・西川俊作らによる『防長風土注進案』についての研究によると、1840年代の長州藩経済は、ほぼ200万石規模だったと推定している。
幕末の長州藩は島津藩や浅野藩を遥かに凌ぐこの財力によって、銃や軍備を整えることができたため、徳川幕府を倒す主役を演じることができたのである。

各藩がそれぞれの環境に合わせて改革に精出していたのですが、会津など東北系は生産増政策でも稲作の普及に成功するかどうかが藩政改革の中心であったのに対し、西国大名系は・・家内制手工業やサービス系への構造変化に対応できていた違いのように見えます。
例えば以下の記述です。
いわゆる家内製手工業の発生・成長がどうなっていたかの関心で検索すると以下のネット記事がありましたのでこれを紹介します。
読んでみると私の考えているのとほぼ同内容というか、学校教育で知る程度の常識紹介かな?ですので、大方引用紹介します。
ただし、その次に紹介する中村氏の京大論文のような具体的データ記載引用先がなく、誰かの意見の受け売り的意見でしかないように見えるものの、分かり良い説明です。

2017-10-12

【マニュファクチュア】日本の産業革命!明治維新の地殻変動の始まり。
江戸時代後期、貨幣経済は全国の農村に普及し、マニュファクチュア(工場制手工業)が成立しました。農民達は農業から工業へと労働形態をシフトさせていきます。
これによって大成功を収めた藩が薩摩藩と長州藩。いよいよ明治維新の地殻変動が水面下ではじまったのです。
18世紀後半、農民達が農業を捨てるという現象が起きました。
「農民が農業を捨てる!?じゃぁその農民は何をやっているの?」と思った方もいるかもしれません。
実は工場で働くようになったのです。農業ではなく、工業に従事する農民達が現れるようになったのです。
これが18世紀後半から成立する工場制手工業(マニュファクチュア)です。いわば日本独自の産業革命です。今まで農業が主流だった農村に工場が建設され、工業が台頭してきたのです。これはすなわち、資本主義経済の発達を意味します。
時の老中・田沼意次は貨幣至上主義の政策を行いましたが、彼の政策が上からの変化だとすれば、下からの変化が起きていたのです。
今回はそのマニュファクチュアが成立した過程について見ていきたいと思います。江戸時代中頃から後期にかけて農業以外の産業の発展が顕著になります。
例えば、林業、鉱業、水産業、または漆器、陶磁器、製紙、織物といった各地の特産物において著しい発展がみられました。
しかし、これらは一部の富裕層のみが購買していたため、商品の生産も問屋の注文を受けて農民個人が副業として細々と作っていたに過ぎませんでした。
この副業形態を農村家内工業と言います。例えば、砂糖や塩があれば、普段作っている汁物をより美味しく作ることが出来ますよね。一般庶民だってこれらの特産品が欲しいと思うようになるわけです。
・・人間には欲がありますから、やはり便利で最新鋭で快楽を与えてくれるものは欲しいのです。
庶民の物欲と購買力はどんどんあがり、大量消費の時代がやってきました。すると、問屋制家内工業では生産が追いつかなくなります。さらに多くの人手を集め、さらに大規模な生産施設が必要になったのです。
問屋自身が大規模な設備投資を行い、広い土地と生産道具を購入し、工場を建設し、労働者を募りました。農民達も農業をやるよりも、工場で働いたほうが効率的に賃金を稼ぐことが出来るため、積極的に工場労働へ応募するようになりました。

以下引用明日に続く

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道4(秀才の限界5)

寛政の改革や天保の改革はいずれも儒教が目標とする聖人・・帝王の自己抑制・・質素倹約奢侈禁止中心で、新たな進歩の芽を規制したことが特徴です。
もっとも定信は人足寄場を作るなど一定の新規改革をしていますし、忠邦も前将軍家斉の濫費政治を徹底排除・・濫費に加担してきた閣老粛清をするなど清新政治を目指しています。
(後記庄内藩国替え騒動の時にミズノの責任を問うために登場禁止処分した老中に対する復讐だったとすれば却って恨みを買い政敵を作ります)
日本ではこういう粛清はもっとも嫌われます・・迫ってきた国防の危機対処のために国防の基礎体力増強のために、江戸大阪周辺の旗本や譜代の入り組んだ小領地を上知(と言っても取り上げっ放しではなく遠隔地との交換です)させ・・一円支配復活による幕府軍事力強化策などしていますが、こういう利害の絡んだ国内政治は人望のない場合強硬策のみでは上手くいかないものです・・。
この後で庄内藩に対する順次領地交換命令に対する地元民による反対運動を紹介しますが、同じ石高同士の交換でも実高の違いが大きいので、損をする藩が出てくる上に藩札の処理で損をする人や大名貸の取りはぐれリスクから領民も反対する・・まして幕閣に顔の効くものがうまい汁を吸える疑いまで生じると・・為政者の信用が欠かせません。
水野の場合には庄内藩騒動で裏で工作していた点を暴かれて信用失墜したばかりでしたので、人望的に無理な政策だったのでしょう。
ここでは、大方の方向性を直感的に表現したものです。
寛政〜天保の改革を見ると、なんとなく漢の王莽による儒教信奉の理念重視の新規政策が空回りに終わって、短期政権に終わったのと似た印象を受けます。
帝王は自分が奢侈に走り怠惰では困る点は今も同じ・健康のために車に乗らず自分の足を使うのも生き方の一つですが、国民が、電話やITを駆使して手間を惜しむ?便利になるのを規制する必要はありません。
朱子学エリートが紀元前の儒学を基礎にした教科書?通りの理想?実現のために政治を支配すると寛政や天保の改革?のような時代錯誤になり幕府崩壊を早めたことになります。
ちなみに徳川政権中期以降幕府に限らず各大名家も産業構造変化・・農業収入に頼る限界による財政難を克服するために各大名家では競って藩政改革・・に走ります。
藩政改革は、商業社会化に応じた前向き改革が中心・・主として特産品の産出努力に精出して相応の成功を収めていますが、幕府・定信や水野の改革は質素倹約中心でしたので方向を誤ったと言うべきでしょう。
ちなみに定信が幕政に乗り出すに当たって成功体験として喧伝されているのは、天明の飢饉に際して備荒米を放出した善政ですが、当時の経済矛盾・・産業構造変化に対応するための改革をしないと体制が持たない危機発生の原因は、貨幣経済の発達と農業依存の財政収入体制の矛盾関係にあったのですから、備荒米放出程度の実績では5〜6周回遅れの古代的政治・儒教でいう帝王学・質素倹約の儒教道徳を実践して自慢していただけのことです。
西洋列強が押し寄せてきている危急存亡のときに時代遅れの改悪?ばかりしていたので、幕府がどんどん信用をなくしていったことになります。
幕府要人は奥州白河藩主や会津やあるいは彦根など、経済変化の主流から外れた地域の経営しか知らない経営者(大名)が中心であったことが、時代逆行の安政の大獄を生み時代についていけなくなった大きな原因でしょう。
韓国文政権の最低賃金引き上げ策の頭でっかち性をどこかで書きましたが、定信や忠邦は上地令や公定賃金などで失敗ばかりである点も似ています。
親会社の改革が失敗ばかりで子会社(各大名家)の改革ばかり上手くいっている大企業の最後のようなものです。
各大名家は、9月2日に書いたように関ヶ原後、領地内の生産高アップに努力して約100年間で耕地面積を倍増していたと言われていますが、100年経過後は米の生産高競争では無理が出てきたので、新規収入源確保のために特産品創出にしのぎを削るようになっていました。
例えば水野忠邦の出身地唐津藩では表高6万石に対して、実高25万石あったと言われています。
唐津藩に関するウイキペデイア解説の一部です。

・・・・入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。

水野忠邦に関するウイキペデイアの引用です。

寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。
文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。
忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。

上記の通り唐津藩は表高6万石に対して実高25万3000石ですから、この間のGDP伸び率の大きさがわかるでしょう。
同時期の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊の道3(秀才の限界4)

メデイアの基本論調は過疎地の集落消滅を困ったものだ・・山奥の散在した生活が理想というかのような主張です。
山奥や海辺の集落は、一定の社会状況下でそこに住むのがその人にとって合理的だったから始まったに過ぎないように思えますが・・。
平安京に人口が集中して都会になり、鎌倉に人が集まり、応仁の乱で京に住んでいると食えなくなれば食える地方に分散し、大名による地方支配が確立すれば城下町が出来たように、江戸時代といえども庶民、豪商を問わず人口の離合集散は産業構造の変化に適応していると見るのが合理的です。
「地方はいいぞ!」「地方に戻れ」と合唱するよりは、都市型産業が隆盛になれば、それに適応させる職業訓練・政策誘導が合理的です。
定信の時代には今ほど明白ではありませんが、元禄文化〜吉宗を経て1700年代末以降は産業構造ではコメ余りが始まり、農業生産力を競う時代から利便性やサービス化・文化力を競う時代に入っていたのです。
奢侈禁止という古代国家価値観で新しい文化・浮世絵〜錦絵〜歌舞伎〜意匠を凝らす都市文化を禁止弾圧し、都市住民を地方へ戻せという政策を本当に採用すれば無謀すぎるというか、狂気沙汰に近かったでしょう。
定信は教養の塊のような人物だったので「小売価格の統制や公定賃金を定め」ればそうなると思って実施するのもエリートらしい頭の構造です。
せっかく家柄に恵まれていても、秀才が政治をするのは間違いの元・・政治とエリートとは、相性が良くないのです。
過去の文物理解力が高い点が秀才の要件であって、創造力が高くて秀才になっている人は滅多にいません・・・エリート意識の強い人・・秀才が新規産業を興すには不向きです。
ウイキペデイアによれば、天保の改革は以下の通り僅か2年で忠邦が失脚しています。

天保12年(1841年)に大御所家斉が薨去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、農本思想を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。
遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵[2]が着任する。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。
天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は代官出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、天保14年には人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の開発を目的とした下総国の印旛沼開拓や幕領改革、上知令を開始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である貝淵藩ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、幕府直轄領に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した[3]。
上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位や紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された[4]。

寛政〜水野改革は全般的に素人の思いつき的施策だったように見えます。
寛政の改革で失敗したのにその後も引き続き質素倹約とか貨幣改鋳にこだわる改革政治がなぜ続いたのでしょうか?
一つには田沼意次のように下賤の身から上がったものではなかった・・定信は吉宗の孫ですから飛びぬけの貴種、役職を退いても幕閣内の地位は揺るぎません。
役職によって上に立てたのではなく、無役の時から吉宗の直系孫として城内で行き合えば、どんな大大名も権勢を振るう老中も一歩下がってお見送りしなければならない、尊貴の身分です。
老中首座をおりても思想影響力は隠然たるものものがありました。
例えば貨幣の金含有率の水増しは古代から「悪貨は良貨を駆逐する」と言われる古典的悪政でしたから、儒学秀才系にとってはこの進行をなんとか食い止めようという悲壮な使命感を持っていたからではないでしょうか?
現在の財務官僚系列が財政赤字解消にこだわるのと同じ使命感によるようです。
寛政〜天保の改革は素人の思いつき的改革に過ぎず却って幕府財政をガタガタにした原因に見えるのですが、今になっても何故これらを3大改革の2例と歴史で教えるのか不明です。
健全財政論を信奉する財務省系官僚機構(・EU官僚もおなじですが)にとっては、「質素倹約論は子供みたい!などと言われたら困るからでしょうか?
吉宗の享保の改革は質素倹約の他にいろんな制度改革が行われ、蘭学奨励などで学問研究が活発化した外、現在に至る官僚制度や訴訟制度が確立するなどの功績があります。
学問の自由化によって奔放な活躍をした平賀源内も出ましたし、浮世絵・錦絵その他百花繚乱時代のタネを蒔いたものでした。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊の道2(秀才の限界3)

定信や水野忠邦の政治はいわば時の流れに棹さす・・反動政治ですから、これを歴史家が何故改革というのか不思議です。
定信は気に入らない学問を禁止したりすること自体、広く多くの意見を元に前向きに活性化しようとする気持ちがなかったことがわかります。
吉宗が自分の知らない意見を求めて目安箱を設置して広く意見を求めたのとは大違いです。
農業生産に頼る経済構造ではなくなりつつあったから、江戸等の大都市に人が集まってきた・・地方では食えないから集まっているということは、江戸大阪等の大都市の方が食える道(職)があるという嗅覚によるのですから・これを地方に返すと言っても無茶な政治です。
「農は国家の大本なり」という漢文を高校時代に読んだことがありますが、漁労採集の生活から農耕社会に移行した移行期の思想・・文字ができるかどうかの超古代思想(先秦諸子百家時代でも古すぎる思想として重視されなかった農家思想)としては理解可能ですが、こういう超古代思想を学んで江戸時代後半期に超古代社会に戻そうとする(現実無視の)理想?政治実現に奔走したから、教養重視の)学者にとって理想的政治家像になっているのでしょうか?
徳川政権草創時には、大名その他の経済力基準を米の収穫力・・何万石とか何俵何人扶持などと表現して軍役その他の基準にしていましたし、徳川政権発足後各大名も一円支配を利用して各領地内での水田稲作拡大(新田開発)に務め1600年〜1700年頃までも大多数の大名家では耕作地をほぼ倍増させていたとどこかで読んだ記憶です。
房総半島ではこの間ほとんど生産増がなかったことを何回書いてきましたが、これは大多数が旗本領に細分化されていたために、いわゆる一円支配がなかったことによると思われます。
新田開発には前提として水路整備のインフラ工事先行が必須ですが、千葉県では旗本の知行地が細分化されていたので、(一つの集落全部ではなく共有?・・極端な場合、一つの水田を複数の旗本が領有するような事例が紹介されているように)領主側にインフラ投資資金力もなければ意欲もなかった・現状維持政策に終始していたことによるでしょう。
このために(旗本規模での新田開発は無理があるので)幕府の公共工事として椿海と言われた干潟(現在の旭市)干拓事業や印旛沼干拓事業など推進していますが、その都度失敗しています。
吉宗がこれの延長上で直轄地での新田開発・米の増産に励みましたが、その頃には米の増産による武家の収入増政策は限界に達していたので、増産すれば相場下落に苦しみ、「米将軍」と揶揄されたのです。
食料不足は生命の危機ですから絶対的不足社会(エンゲル係数重視)では増産が重要政策ですが、(戦後物不足時代には作れば儲かる時代だったので、設備投資資金さえあれば儲かる時代でした)必要を満たすようになれば、増産だけでは価格下落するだけ・大阪堂島で米相場が必要になった所以です。
今ではコメも豚肉鶏肉野菜類も全て銘柄にならないと売れないし、洋服も洋服でさえあれば売れる時代ではありません。
ブランド化が必須になってきます。
元禄以降では、飲食店も食べ物さえ供給すればいいのではなく、味の良さ、しつらえのよさ、(1800年代に入りますが)笠森お仙のような客呼び版画などが流行るようになります。
性産業でさえ高級娼婦になるには深い教養教育して、付加価値をつける必要が出ていました。
次々と都会に人が集まるのは相応の需要があるからですから、それに見合ったインフラを整え、産業を興す必要性に思い至らず元の農村に戻れという定信の政策は、改革と言えるでしょうか・・無策すぎませんか?
今の日本経済を見ればわかるように人口の9割を農業に従事させるのは無理がありますし、コンピューター化について行けない人もいますが、そういう人救済のためにコンピューター化禁止するよりは、IT化適応教育訓練する方が合理的です。
大手メデイアは過疎化を悪しきものとして、しょっちゅうUターンを奨励し、ある小都市が最も幸福度が高いとか住みやすさ日本1などと4〜5年に一回の割で報道しては、Uターンした若者を英雄のように報道します。
過疎地の集落消滅を困ったものだという一方的な視点で報道しています。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。