異民族直接支配→植民地支配でない?2

異民族直接支配→植民地支配でない?2

コメコンは域内分業の強制組織でしたが、これは体良くロシア支配の固定化を図るものでした。
ソ連支配圏内の域内分業とは自由主義諸国間で一般的なサプライチェーンの統制版ですが、ソ連解体→コメコン解体=ソ連による権力統制がなくなると、本来の競争力に基づくサプライチェーンと違う弱み・・ロシアから割高品を買わされていた国や地域は、国際相場で他国から買うようになり、国際相場より割安でロシアへの供給を強制されていた国や地域は販路を国際市場に求めるようになります。ソ連崩壊後ロシア共和国の旨みが消えて、ロシア共和国が急激なマイナス成長に落ち込んだ原因(私の個人意見)です。ソ連解体後のマイナス成長の結果についてはあちこちに記事が出ていますが、一例を挙げれば以下の通りです。https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jbic/report/review/pdf/28_07.pdf

第1章 はじめに
ロシア連邦:体制移行の現状と今後の課題*1国際審査部第2班能勢 学小田島 健
1991年12月のソ連解体以降、ロシアを取り巻く政治・経済環境は劇的に変化している。崩壊直後、急進的な経済改革が実施された結果、旧ソ連諸国と比べても大きく生産が落ち込み、ハイパーインフレーションや財政収支、経常収支の悪化に見舞われてマクロ経済は大きく不安定化した(図表1、2)。また1998年にはアジア通貨危機の余波を受けた結果、それまでのクローリングペッグ制が維持できなくなり、対ドルのルーブル為替レートが大幅に切り下げられ、短期国債の事実上のデフォルトが生じた(図表3)。この結果、1997年にプラス成長となった経済も再びマイナス成長に陥り、物価・為替の安定性も喪失された。
・・・豊富な天然資源を有する同国は、1999年以降油価上昇等の対外環境改善の恩恵を受けて目覚しい成長を遂げている。実質GDP成長率は4~10%と高成長で推移し、所得水準は崩壊直前の水準まで回復した(図表4)。

上記図表4を見るとソ連解体後中東欧諸国のGDPが一直線に近く上昇しているのに対してロシアの方は、2000年代に原油相場高騰によるまでマイナス成長でした。
ソ連邦解体直後の上記結果を見れば、約100もあるといわれる多数被支配民族を共産主義名下に一体市場化に成功したロシア民族がいかにうまい汁を吸っていたかが分かります。

現在用語でいえばグローバル論を展開した元祖レーニン主導でロシア革命が成功してソ連邦が成立したのですが、ロシア革命〜ソ連成立後のコミンフォルムとかコミンテルン・世界同時革命論等々一貫して今風にいえばグローバル化論の悪しき原型でした。 仮にソ連邦内で自由競争が行われているグローバル化であれば、中東欧やバルト三国の優秀な企業は鉄のカーテンで仕切ったソ連邦内を独占市場として席巻できたのでしょうが、強制割当制下では遅れた方に合わせられる不都合があったでしょう。

大手企業で不採算部門の損失穴埋めに成長部門が再投資資金を食われてしまい外部専業競合企業より不利になるのに似ています。 中国もこの段階に入ってきた・・・沿海部の収益を内陸部に回すしかない・規模の不利益に直面しています。

異民族直接支配→植民地支配でない?

レーニンの帝国主義論では資本主義の最終段階では植民地獲得のために列強間の帝国主義戦争が不可避と言うようですが、中国を見ればわかるように共産主義国家でも市場は必要でしょう。
共産主義だろうが資本主義だろうが、現近代社会では原始的(直接的)物々交換はあり得ないので貨幣利用は不可避です。
ソ連人も洋服を着るし本も読む、暖房用の石炭石油を燃やすしストーブや建物(建築業者)も必要ですし、強大な戦車群を擁していましたが、これらは分業なくして成り立ちません。
分業あるところに商品交換が不可避ですので、生産者は少しでも多く生産したいし媒介者・商人も必須です。
交換あるところに市場(築地市場のような物理的な場でなく為替取引のような実質的意味)が成立するのですから、顧客獲得競争が起きるのは必然です。
その販路が国内だけか国外に販路が広がっているかいないか(国際競争力の有無)によって資本主義の必然と名付けて非難しているだけのことではないでしょうか?
いわば「国外との交易が悪」と言う結果ですが、この論理を応用して中国やロシアは、異民族を直接支配にすれば国内市場であって植民地支配ではないというロジックに頼ってきたようです。
ソ連は内部に百とも言われる異民族を抱える他、第二次世界大戦後東欧諸国を支配下に置くとコメコンという経済共同体を組織して事実上自国市場に取り込みました。
民族数に関して1989年ソ連国勢調査がウキペデイア(本日現在)に出ているので見ると民族構成項目に民族別人口が出てますが、数えて見ると民族名が60まで出ていてそれ以外は「その他」となっています。
言語面の論文がみつかったので以下引用します。
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/46/shiokawa/shiokawa1.html</b交換あるところに市場(築地市場のような物理的な場でなく為替取引のような実質的意味)が成立するのですから、顧客獲得競争が起きるのは必然です。

ソ連言語政策史再考
Copyright (C) 1999 by Slavic Research Center,Hokkaido University.
本論に先立って、ソ連の民族政策-その一環としての言語政策-への視点について簡単に述べておきたい。
ソ連の民族政策-その一環としての言語政策-への視点について簡単に述べておきたい。
ソ連が「帝国」の一種だという指摘は、かつては政権によって強く否定され、ごく少数の人によって提起される異論という性格を帯びていたが、ペレストロイカおよびソ連解体以降、急速に広まり、むしろ通説と化した。
・・・・ソヴェト政権は諸民族の平等や民族自決の原理を掲げ、特定民族の優越性ではなく全人類的普遍性に基礎をおく理念によって自己を正統化した政権だった。
もちろん、現実の力関係としてはロシア人が圧倒的優位に立っていたが、建前の世界では、他の諸民族とロシア人とは平等とされ、いくつかの民族には名目にもせよ「主権国家」が与えられた。
象徴的なこととして、ソ連の正式名称「ソヴェト社会主義共和国連邦」には「ロシア」を示唆するような地名・民族名が含まれず、理論的には地上のどこにでも当てはまるような呼称となっていた。
そしてまた、ソヴェト政権は、少なくとも公的な建前としては、ロシア以外の民族文化・言語の振興政策や、かつて「後進的」とされていた諸民族に対するアファーマティヴ・アクション(積極的格差是正措置)的な政策をとっていた。
そうした理念と現実とが著しく乖離していたことは、今日、誰もが認めるところだが、そこから、単純にその建前は空疎な虚言だったと片づけるのでは、その特異性が明らかにならない。
・・・ロシア語は正規に「国家語」「公用語」という法的位置づけを与えられることはなかったが、共通語となることは暗黙に当然視されていた。
レーニンは、少数民族に民族自決権を与えれば彼らはそれを行使しないだろうと期待したが(19)、それと同様に、ロシア語の法的押しつけをやめれば自然にロシア語が普及し、共通語になるだろうと想定していたのである
(3) スターリン時代
政策転換の第三の要素として、共通語としてのロシア語の強調がある。
1920年代から30年代前半にかけては、前述のように、ロシア語を特に押しつけなくても自然に広まるだろうとの楽観論が支配的だったが、その楽観論が破れたとき、法的な義務化の発想が登場した。ロシア語教育義務化に関する1938年3月13日の党中央委員会・人民委員会議共同決定がそれを代表する(36

ちょっと前まではソ連の東欧諸国支配の仕組み・コメコンとセットになった軍事組織ワルシャワ条約機構は大人の常識でしたが、ソ連崩壊後30年近く経過して歴史の彼方になったので念のために紹介しておきます。
ソ連が第二次世界大戦後占領した衛星国?支配の名称・・コメコンに関してはウイキペデイアによれば以下の通りです。

第二次世界大戦後に、アメリカ合衆国政府が行ったマーシャル・プランに対抗して設立された。
成立から1954年の第4回総会までの期間は、ソ連を中心とした外国貿易推進機関の性格が強く、加盟東欧諸国からソ連が一方的に利益を搾取していると批判されていたが、1956年の東欧動乱をきっかけに、ソ連は東欧諸国との経済関係の再構築に取り組んだ。
当初加盟国は、ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロバキア[1]、ハンガリー、ルーマニア[2]、ブルガリアの6ヶ国。ひと月遅れてアルバニア[3]が加盟した。その後、1950年に東ドイツ、1962年にモンゴル、1972年にキューバ、1978年にベトナムが加盟した。一方1962年にはアルバニアが事実上脱退。最終的に加盟国は10ヶ国になった。
この他に、ユーゴスラビアが準加盟国、フィンランド、イラク、メキシコが非社会主義協力国、その他にもアンゴラ、エチオピア、南イエメン、モザンビーク、ラオスがオブザーバーの地位にあった。また中華人民共和国、北朝鮮もオブザーバーを送っていたが、中華人民共和国は中ソ対立の影響により、北朝鮮はチュチェ(主体)思想に基づいた独自の社会主義路線を取ったことにより、両国ともに62年を最後に会議に参加しなくなった[4]。
1989年の冷戦終結に伴って東欧革命が始まり、1991年6月に解散した。

GDP指標の意味3

文化力も同じで、古代から匈奴〜モンゴル系等北方系民族が武力だけで中原の地を制しても、漢民族文化に吸収されてしまい独自性を失っていった事例でも明らかです。
例えばロシアが武力の優位性だけに固執して?日本を征服しても商工業力や文化力で劣っている限り、日露の国境がなくなれば時間経過で樺太やシベリア地方は日本文化や商工業に支配されてしまうだけでしょう。
日米戦は地力を有する日本台頭を押さえ込むために無理ヤリに戦争に引きずり込まれた印象ですが、終わって日本が戦勝国米国支配下に入ったことで国境の壁を低くしてみると戦争で勝ったはずの米国が日本にどんどん経済戦争で追い込まれるようになったのが戦後秩序でした。
19世紀にかけて西欧諸国間で植民地獲得競争が盛んになったのは、西欧の産業革命後におけるアジア諸国との圧倒的技術格差を背景にしていたので、市場獲得・国境の壁さえなくすか低くすれば本国商工業者にとっては植民地国の市場を席巻できる前提があったことによります。
幕末に欧米諸国がこぞって開国を迫った所以です。
日本戦国時代の豪族間〜大名間の戦争は一見領地獲得競争のようですが、領地自体に意味があるのではなく、生産力の基本たる農地=それにくっついてくる農民取り合い戦争ですが、支配地を増やすことにより、兵力供給源の現地農民を配下に取り込むことによる戦闘力増強を目指したものでした。
日本の場合は、わが国将棋ステムの応用ですが、これが成り立つのは出身地による能力差が少ないことと差別をしない・・能力さえあれば、新たに支配下に入った領民や商人でも差別なく取り立てることが可能な仕組み・同一民族間戦争しか経験がなかったことによります。
この仕組みのおかげで、落城のときには大将だけが腹を切って首を差し出してその他お咎めなしの処理が普通になっていたし、攻防戦最中の奮戦ぶり次第で「敵ながらあっぱれ!」評価されれば、落城後攻撃軍配下になったあと重用されるので、卑怯な裏切りのない武士道が守られていったのです。
我々弁護士もそうですが、やるときはやる・その結果恨まれるというよりは、だいぶ経ってから過去の敵方が頼り甲斐があると思うのか?別件で知り合いを紹介して来るようなことが結構ありました。
きちんと戦うべき時には戦い切った方が、負けた相手も気持ちが良いようです。
日本社会では争っている人もそれぞれ合理的判断できる人が多く、敵方であっても理屈があってきちんと主張すべきことをしていると、その戦いぶりを相手も見ている社会です。
武田家滅亡時に親族筆頭の穴山信君(梅雪)が、勝頼を見限って徳川を介して信長に帰順しましたが、家康に伴われて安土城で拝謁をした時に信長は意図的に軽くあしらったことが知られています。
千年単位で形成されたこうした価値観がそのま適用されたのが台湾・朝鮮統治のあり方でしたし、東亜戦争中に東南アジア地域から欧米植民地支配解放後の日本統治の方法でした。
ただしこういう価値観のない朝鮮族にとっては、(自分ならこうするだろうという)「日本統治下では非道なことが行われていたに違いない」という思い込み・実際の日本統治経験世代が「日本統治時代がよかった」と一言でもいうと反日教育で育った世代に殴り殺される事件が報道されていました。
https://www.j-cast.com/2013/09/13183859.html?p=all

95歳男「日本統治よかった」発言で殴り殺される 韓国ネットでは「死んで当然」「正義の審判だ」
2013/9/13 18:26

いまだに日本批判(事実にもとずく批判は必要ですが、妄想を事実のように刷り込む教育)を拡大する一方です。
異民族間の支配地拡大パターンでは、戦闘力に取り込むどころか造反リスクが高まるので、その監視抑圧システム負担が逆に増えます。
今の中国でも主に異民族支配に必要な公安警察コストが、正規軍予算を上回っていると言われるほど不経済な状態です。https://jp.wsj.com/articles/SB11827117695770103410504584086233770516714

中国の国防費超える治安維持費、その意味とは
By Josh Chin
2018 年 3 月 7 日 11:48 JST
ここ数年、中国政府の国内治安維持と国防の予算は全体として経済成長を上回るペースで増えてきたが、国内の方がはるかに速いペースで増加し、現在は国防予算を約20%上回っている。

中国の国防予算は米国をそのうち追い越すか?というほど巨額ですが、治安予算がそれを追い越しているというのですから、何のためにチベットやウイグル、内モンゴルや女真族や植民地を国内に抱え込んでいるかが合理的に言えば疑問でしょう。
本来中国はこれら異民族を切り離して友好国関係・・攻めてさえ来なければ良いいのです。
周辺少数民族が中国を侵略する力がないのですから、そういう心配はもともといりません。
古代から周辺国を直接支配せずに朝貢関係・・専制支配下の上下関係ではなく、大国として一目置いて尊重してくれれば良い・友好関係にとどめてきたのはこういう知恵があったからです。
戦国時代の例を今日コラム中段に書いたように、国民は国内治安が乱れるのは困るので統一のための戦争の必要性を認めるし、あるいは異民族が侵略してきて妻子を掻っ攫われ物資略奪されるのは困るので防衛用の武力を必要とし、これに参加する必要を認めるでしょうが、一般国民にとっては自分の命をかけてまで侵略・・市場獲得や支配欲目的の戦争に協力するメリットはありません。

GDP指標の意味2

今の国家や企業運営に置き換えれば、アナリストや統計学者が採用するサンプル対象数字だけを追う経営・・試験問題だけ特化して勉強して好成績を取っている秀才みたいです。
過去問集が市場に出回っていますが、これはそっくり同じ問題が得るという意味ではなく、その問題で求めている論点・思考回路を理解しましょうという意味である程度合理的ですが、そっくり同じ問題を5年も10年も出題すれば、意味不明なまま丸暗記してきた受験生が好成績になり、本来の実力を測れません。
例えば日経平均採用銘柄(ダウも上海総合も皆同じ)中心に買いを入れる、あるいは売り浴びせる偏った運用などがあるとその指標が信用できないのに似ています。
私の子供の頃には、品質を見るために米俵(当時は藁を編んだものでしたので先を尖らせた篠竹を簡単に刺し込めました)のに細い篠竹を差し込んでコメを抜き取って検査する方法がありましたが、これは出荷した大量の米俵のどの部分に検査官がいきなり差し込むか不明なので、結果的に均一化が図られる仕組みでした。
国土防衛が重要なのは領内の住民の生活が、夷狄に荒らされないこと・・いわば強盗から守るこことが目的であって、侵略軍=強盗との戦いに勝って侵攻軍を追い返せば住民を守ったことで英雄ですが、侵略してこない相手に攻撃して勝った場合・どんな戦争でも戦争に勝てば英雄という意味ではなかったはずです。
いつの間にか支配者の自己満足のための戦争でも戦争に勝てば英雄となってしまったように思われます。
こういう政治や企業運営では国民や社員その他ステークホルダーが困ります。
一家の稼ぎ柱のお父さんが猛烈に働くのはありがたいけれども、4〜50歳で倒れてしまうのでは家族が困るでしょう。
アレクサンダーや漢の武帝、ナポレオン等の遠征に次ぐ遠征成功は彼らの名声には寄与したでしょうが、戦役に駆り出される人民にとっては負担が増える(租庸調等人民負担の中でも兵役の義務は最悪でしょう)ばかりで「いい加減にしてよ!」というところで何の意味もなかったでしょう。
アレクサンダー大王は終わりの頃には武将から反対されてインドから引き返したとなっています。
アレキサンダー大王に関するウイキペデイアの記事から一部引用です。

紀元前356年にペラで生まれ、20歳で父であるピリッポス2世の王位を継承した。その治世の多くをアジアや北アフリカにおける類を見ない戦役(東方遠征)に費やし、30歳までにギリシャからインド北西にまたがる大帝国を建設した。戦いでは敗れたことがなく、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。
・・紀元前326年、「世界の果て」に到達するべくインドに侵攻し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族に勝利する。しかし、多くの部下の要求により結局引き返すこととなった。
紀元前323年、アラビアへの侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり32歳で死んだ。その死後、彼の帝国は内戦(ディアドコイ戦争)のよって分裂し、マケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。

その結果中東地域にギリシャ文化が広まった功績・・・ナポレオンの大侵略戦争によりフランス革命の成果が欧州に広まった功績があるとしても、それによってマケドニアの地元民やフランス国民にとって何かメリットがあったのか不明です。
フランスもナポレオンも当初亜h防衛線sのであたtでしょうが次第に防衛の枠を踏み越えて支配欲獲得の動物的欲望に転化していったので、国力を消耗し尽くした結果、次の時代・19世紀英仏の世界規模の覇権争いに負けてしまった・特に北米にせっかく進出していたフランス植民地をほぼ失った原因になったように思われます。
戦国時代のように国内の乱れを統一するのは、戦乱で困っている国民には朗報・・戦乱で逃げまわらなくとも安心して学問や製造販売に打ち込めるなど朗報ですが、外国との戦いでは、負けて異民族支配され略奪されるのは困るというマイナスを防ぐ程度で十分であって、自分から遠征に参加して略奪者の仲間になりたい国民は滅多にいません。
十字軍遠征は、戦利品目的のファンドが組まれたとすら言われますが、そういうことを楽しみにして遠征団に自発的応募する人は、一般国民ではなくもともと生きている意味がない自暴自棄的無頼集団がいっぱい居たというべきでしょう。
まともな生活をしている人が、自分の生命をかけてまで出かけていって掠奪暴行したい人がいるでしょうか?
上記の通り外国との戦争で勝って国王の統治範囲が広がっても、一般人にはほとんどメリットがありません。
例えば、同じ生活水準の国同士で言えば、商人にとっては合体による市場規模の利益があるようですが、これは今でいう関税障壁がなくなるということになります。
負けた国の商人も勝った方の国でも相互商売(スーパーやコンビニ展開)できるので、本当のメリットは関税障壁のない状態の自由競争・・FTA締結したのとほとんど変わりません。
旧相手国が合体した結果相手国に進出して商売に勝てるかは、商人間(バックの製造業・製品レベル)競争で勝つ自信がない限り自国のテリトリーが広がるメリットはありません。
民力の差がないのに軍事力だけ磨いて勝っても、市場一体化後商工業レベルの競争で勝てない限りかえって自国産業が損をします。
アメリカトランプ氏の言動は、米国が国際競争に負け始めたのでグローバル化・経済一体化は損だと気付いて従来標榜していた自由貿易を制限したくなったのを素直(日米繊維交渉に始まり米国はもともとそういう国でした)に言いだしたものです。

江戸時代産業構造の変化3(GDP指標1)

昨日見たように大阪市場に出回る金額比率では1711年にコメ100対綿製品18だったのが、1804年以降100対105の関係に逆転しています。
しかも主力製品である縞木綿等が統計から抜けているというのです。
他の商品も同率変化かどうかまでは分かりませんが、綿に関しては大幅な比率変化です。
1800年代に入ると、(工業制手工業の発達によって)大口取引は大阪市場を通さない直接取引が一般化していったとも一般に解説されていますので、コメの経済比重は大幅低下していたことが明らかです。
今では、食品でさえもコンビニその他大手スーパーの食品工場化によって農産物や魚介類も公設市場経由はなく、大手の場合契約農家から直接仕入れが普通になっていますが、こうなってきたのはまだ数十年のことです。
魚貝類も同様です。
小池都知事就任以来、築地市場移転問題が一般の注目を浴びましたが、実はこの数十年で魚介類や、農産物の市場離れが激しく市場に頼る率が急激に減少しています。
(今でも市場経由で仕入れている業者は個人経営のレストランをちょっと大きくした程度で全国展開規模の企業で築地や太田市場購入を基本にしている企業は皆無に近いのではないでしょうか?)
千葉市中心部で見ると青果物や魚などの商店は、ほぼ壊滅状態です。
数十年前には、各地域には数店舗以上経営する個人的商売(地元スーパーや飲食店の成功者など)がありましたが、昭和末頃から平成に入った頃から大手に負けてあるいは吸収されて、地元地盤の百貨店やスーパーなど事業体の多くが姿を消しました。
領内から集めた年貢米換金の場合、今のような食品工場化=大規模購入先がないので、領内消費地の大部分を占める自分の城下町での換金だけでは外貨(幕府発行の貨幣)を稼げないので余剰分を従来通り大名は大阪市場で換金するしかなかったのでしょう。
戦国時代が終わると大名領国の一円支配確立・・農村地域内での自給自足分プラスアルファを残して徴税する関係上・領内の大規模米取引が原則として成立しません。
大大名であればあるほど、大規模に集まった米の換金には京大阪江戸三都での大消費地へ輸出するしかないのですが、そのためには直接個別大名が直接販路を求めて輸送するのは無理があるので自然発生的に大阪のコメ市場が成立したものでしょう。
江戸時代中期以降藩政改革の一環として、特産品開発→専売制は広がりますが、もともとコメを大名が年貢として取り立てた結果、(今の金曜市場で年金資金が大口運用者になっているような現象?)コメの出荷者として大名・旗本等の領主が大口市場参加者になったことから、結果的にコメの専売制度の基礎になっていたようなものです。
大阪市場に消費者(例えば江戸の町民が)が直接参加できないので、問屋が大量買い付けして各地の二次問屋〜三次問屋〜小売に分散していく・・結果的に問屋資本蓄積が発達し、問屋資本が、家内制手工業を組織化するまでの過渡期があったのです。
現在でも公設の魚市場や青果物では、セリ参加資格のある仲買人がセリを通じてまとめ買いして、その仲買人から各個人商店が買って帰る仕組みです。
このように家内制手工業を組織化したのが問屋資本でしたが、すぐにこれが直取引拡大によって問屋資本から離れて行きます。
家内制手工業の初期イメージは、今は姿を消しましたが、私の高校時代以降・・昭和3〜40年台に一般的であった家庭内内職が十数人規模の雇い人利用規模に変わった程度の光景でしょうか?
家内制手工業がさらに成長して工場制手工業に脱皮していくといわゆる産業資本家が勃興し、問屋資本による家内制手工業が淘汰されていきます。
これに比例して工業製品の直接取引が始まり、大阪市場を経由しなくなってきたのが天保の改革頃の経済状況でした。
製鉄や車造船テレビみんなそうですが、工業製品は市場での競りによる取引ではなく相対取引が原則です。
以上のように綿製品等の主要製品が大阪市場離れを起こしていたにも関わらず、大阪市場だけで見てもコメの比率が綿製品にくらべて大幅低下していたことがわかります。
徳川政権樹立当時コメ収益を基本(実は当時もコメだけを基準にしたのではないので厳密には複雑・・コメを基準値とした換算であったと思われます)として、幕府や大名家の格式・経済力差・軍役基準を決めていた物差しでは、1800年頃には対応できない時代が来ていたのです。
まして約100年前の1600年代初期との比較データが出ていませんが、幕府草創期に決めた石高との比較では、まるで基準になっていなかったと思われます。
9月4日に唐津藩の石高が表6万石に対して実高25万石と紹介しましたが、幕藩体制確立時の当初格付けは意味をなさなくなっていたことがわかるでしょう。
「鉄は国家なり」とか建艦競争の時代には「造船力」で国力を測る時代がありましたが今は違います。
200年前の大企業が200年間リーデングカンパニーであり続けているか・・仮にリーデイングカンパニーであり続けているとした場合、主力商品入れ変えに成功しているからこそ生き残っているのでしょう。
江戸時代270年間に主力商品産業が入れ替わっていたのです。
最近では旧来型GDP数値にこだわるのは意味がないのではないか?という印象を持つ人が増えていると思いますが・・。
そういうメデイアの意見を見かけませんが・・。
いわゆる失われた20年論では、GDPの上昇率が低いという主張ですが、個人の生き方で言えば、収入や売り上げ前年比なん%増で嬉しいのは青壮年期のことで、一定以上の年齢や年収になれば、これ以上売り上げ増や新店舗展開のために長時間働くよりは、この辺でスピードを緩めたいと考え若い頃の行動パターンを修正するのは不合理ではありません。
(個人で見れば、ある日救急車で運ばれるまで猛烈社員を続けるのは愚の骨頂です)
国家や社会も生き物?としては同様で、一定の高原状態に達すれば現状維持するのが合理的であり、ゴムが伸びきっている状態で際限のない成長を目指してある日突然ゴムが切れるような事態・・急激な国家破綻を招くより合理的です。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。