発光ダイオード特許事件7(日本文化批判はどうなる?5)

今の価値観では分が悪いから政治運動して新たな規則ルールに変えてもらおうと言うならば政治の場で決めるべきであって、訴訟の場はは現行ルールで勝敗を決する場です。
政治で勝つには数百マンの支持でも少数政党にすぎませんが、裁判所を取り巻くにはわずか数百人も集まれば大勢力です。
訴訟を、応援団の多い方が勝つ仕組みにしてしまうのは危険です。
国会周辺への動員も同様で、わずか1〜2万人(1億人とすれば0、01〜0、02%の勢力)でも大報道して国会議決に影響を与えようとするかのような報道姿勢が見られます。
代議制民主主義は代議員の討議の結果、多数決で決める制度であって国会周辺に集まる支持者の数で決めるものではありません。
こういう組織動員勢力を過大評価するためにメデイアは、国民大多数の集団であるかのようなすり替え報道しています。
ルールがどうあるべきかの政治問題は政治の場面で民主的に決めることであり、司法は政治問題で決まったルールに原被告どちらが適合しているかを最終決定する機関であって裁判所に集まる支持者の数で決める手続きではありまん。
9月20日日経新聞朝刊では、原発事故に関する東電経営陣の無罪判決が出ていますが、天災等の発生確率に対する判断が結果的に違った場合、(いまにも大雨が降りそうな時に雨具の用意をしないような一見明白な場合に備えを怠ったのとは違い、東北大地震は文字通りの天災です)100年一回の災害でも備えをどの程度すべきかの政治責任や経営責任を問うのは別として、司法で刑事責任まで追求するセンスを疑うの私だけでしょうか?
9月9日午前5時頃に千葉市を襲った台風15号による房総半島ほぼ全域にわたる停電〜水道供給停止〜自家発電装置の燃料切れなどの連鎖による広範な災害をみてもわかりますが、台風情報は前から出ていたし、台風の規模等事前情報がありました。
そういう強力な台風があれば倒木あること等を前提に電車等は計画的に運休して備えていたということは、東電も倒木被害による電線切断や電柱の倒壊なども予想可能であったこととになります。
そうするとこの台風→停電によって人身被害を受けた人に対する犯罪者として「刑事訴追すべき」という世論になるのでしょうか?
15号台風は日本列島全体で見れば、(昨年関空を襲った台風21号より風速が遅い)東北大震災ほど想定外の想定外台風ではありません。
民事責任あるいは補償は別として、刑事責任まで追及すべきという意見は滅多にいないのではないでしょうか?
(この辺は私の根拠なき推測ですが、論理的に言えばもしも民事上の過失責任があるならば、刑事上の過失責任も問うべきという論法では、体育その他全て萎縮してしまうからです。)
崖っぷちの危険道路や丸木橋も必要性との兼ね合いで通行禁止しない・事故が起きたらその限度で対応というのが世の中のあり様ではないでしょうか?
9月20日の日経新聞43pを見ると決まり文句の「検察官役『判決国に忖度と批判』と大きく出ています。
「国に忖度」という批判論(内容を読む気がしませんが、多分中村教授同様の定型的非論理的主観意見でしょう)メデイア界にはこういう主観的意見を持っている人が多いのでこういう具体性のない感情論を報道したくて仕方ないのでしょうか?
反政府運動的訴訟で負ければ「不当判決」などの感情論的決めつけ論が横行していま
す。
合理的批判は社会発展に必要ですが、事実適示のないまま、司法が政府を「忖度」しているとか「腐っている」という感情論を煽るだけでは合理的な批判精神も育ちません。
「何が腐っている」のか忖度の根拠等の具体論がないままでは、国に忖度というのでは、個人訴訟で裁判に負けた方が「裁判官と相手が癒着している」とひがみっぽくいうの同じレベルではないでしょうか?
検察官役と書いているので弁護士・それも腕利きの弁護士でしょうが、プロ中のプロが具体的論証なしにこう言う主観論を堂々と発表するとは驚きです。
発光ダイオード事件では、「司法が腐っている」という発言は弁護士から出たものではありませんでしたが・・。
もしかして具体的論証できる資料があってその説明をしたが、メデイアは長々と引用できないので結論だけを記事にした場合もあります。
とはいえ、「忖度」などという曖昧概念を証拠でどうやって論証できたのか、理解不能です。
「凡庸な弁護士に分かるはずがない」秘術がある点が、「やりて弁護士」という評判をとっている源泉かもしれません。
こんなことを弁護士が大手新聞の前で言うのでは、司法制度の存在を前提とする弁護士自身が司法制度を否定しているようなものです。
現行司法制度を変更したり、否定したいならば、政治の世界(その前提として、司法界の実務家意見が重視されるのでその協議会等で発言すべきもの)で運動をすべきでしょう。
市民感覚が・・(上記同日の日経社説にもこの種の表現がされています)と言う感情論で訴訟をやって来たのでしょうか?
誰が市民感覚を代弁する権利があるのか?民主国家においては代議士の集合体・国会意思ではないでしょうか?
弁護士や報道機関が何の根拠で市民感覚を代表しているつもりになれるのか不思議です。
もしかして、こういう主観論に秀でた人をメデイアで持ち上げているのかな?
市民感覚と言う感情論で刑事罰が決まるのでは恐るべき社会になります。

発光ダイオード特許事件6(日本文化批判はどうなる?4)

彼は韓国のように開き直る気持ちはない・・ノーベル賞もらった子供や親族が地元にいて肩身が狭い?ので不思議な関係になったのかな?・・日亜化学との修復を望んだようですが、日本人は相手が感情論を言い立てでも激しい反論をしない分そうは簡単に行かないのが日本社会です。
最後まで努力して郷里や日本全体に受け入れて貰うか、そこまでやる必要はないとアメリカに帰って日本批判に精出すしか活路がないのではないでしょうか?
今のところ、山崎氏の結論を意訳すれば、「さあどうぞ!気に入らない日本にいつまでも関わっていないで米国で頑張って下さい」と内心思っている人が多いような気がします。
2〜3年ほど前に歴博の企画展で大久保利通関連の展示がありましたが、そこで感じた印象では、大久保一族は今でも地元鹿児島では肩身が?広くないようですが・・。
彼の一族は故郷を捨てるしかなかったのでしょう。
ノーベル賞受賞で郷土の偉人と尊崇されるべき彼が郷土(物心着いてから育った地域)に足も踏み入れられないかのような表現(徳島には日亜の人がいっぱいてどこを歩いてもいきあうからと修復を求めた動機を説明しているようですが・・)というのですから、6億円獲得のために場外批判したのが高くつきすぎたのではないでしょうか?
ただし、生まれ故郷・・小学2年まで過ごした愛媛県伊方町では、顕彰碑が立てられているようです。
その程度で我慢するか?ですが、彼にすれば物心ついてから育った地域や大学や企業でその時の仲間(日本人は誘われれば公然と拒否しませんが、彼と会うのにコソコソ会うのはみんな嫌でしょう)から認めて欲しいのではないでしょうか?
16日紹介した山崎氏の記載では
「和解成立の時に「中村氏自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけている」と言うのですから本当に公言したならば異常です。
https://biz-journal.jp/2014/10/post_6311_3.htmlに、以下のとおり紹介されているので事実だったのでしょう。

中村氏は最高裁まで争い200億円を勝ち取るつもりでいたが、升永英俊弁護士の説得に従い矛を収めた。当時会見で中村氏は「日本の司法は腐っている」と感情を露わにし日本を離れ、米国の市民権を得た。

以下によれば、和解内容が公開されていてこの筆者(個人名が出てこないのでどういう人か不明)自身和解前から寄与度5%くらいでないか・結局は5〜7、5億円の範囲内で地裁判決の200億は幾ら何でも法外すぎるという批判を発表していたようです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yamayosi/public_html/memo107.htm

「この和解案をしぶしぶ呑まされた感じの中村氏は「たったの8億円」と失望を隠さなかったと報じられ、低俗的な週刊誌では「日本の司法は腐っている」と言いたい放題の感じです。」
と書いているので、山崎氏のいう司法批判をしているという紹介は大方合っているのでしょう。
(ただし、紹介情報源は同じの場合もあります・・慰安婦問題での朝日の大規模報道により日本中の大手マスコミや世界メデイアが報じる結果、あたかも公知の事実のようになった印象ですが、検証委員会結論では朝日新聞の引用数は少ないと否定的評価をしていることに国民の不満がありましたが、証拠にもとずく判断とすればそうなるしかないでしょうが、上記の意人らは引用元を書いていないからです)
続けて
「中村氏を持ち上げ日亜化学をヒールに仕立てたのは、中村本(これは巧妙な升永弁護士の戦略であるとの見方は外れていない)に洗脳されたマスコミの仕業で、彼らの大いなる反省が求められます。
同じく朝日新聞の1月23日の科学劇場記者席なるコラムで、東京本社科学医療部次長の高橋真理子氏が「青色発光ダオード訴訟 和解額は安すぎる !?との記事を書いているが、感情的な内容で科学記者が書いた内容とは思えず、中村本の呪縛から逃れた様子は見られません。」

とも書いています。
あちこち検索すると当時明発見〜量産成功に至る流れに詳しい?業界常識として1審判決は非常識すぎるというコンセンサスができていたような気配です。
無茶すぎる請求を前提にした陽動戦略に地裁がまんまと乗ってしまったということでしょうか?
地裁の論理が批判的に紹介されているのを見るとこの発明がなければ現時点での売り上げがなかった→だから寄与率5割という論法らしいですが(そんな単純論理ではないと思いますが骨格を言えばそうなるという解説でしょうか?)論理の粗雑に驚きます。
車の場合で言えば、ブレーキやハンドルを構成する特定部品一つでもなかったら走れないから、その部品価値は「車一台の9割の価値がある」というような論法です。
この論法によれば500万の車の各部品1個が450万円となり、全部足したら車一台10〜20億円になり、それから逆算すると部品価値は9億円になる→循環計算を繰り返せば、部品の総合計が上がる一方で車の値段が1兆円〜2兆円と際限なくあがるので結論が永久に出ません。
私は中村氏の弁護士を知りませんが、もしもこういう論法で訴訟提起した弁護士が敏腕・辣腕と賞賛されているとすれば、おかしくないですか?
弁護士の仕事は、正しい利益を相手が侵害しているときに訴訟を通じてどちらの主張が正しいかを裁判所に判定してもらう代理職です。
10の権利を百と主張し実現することではありません。
現行ルールをどちらが守っているかの冷静な判断のために政治から切り離した司法権の必要性を世界中が認めているのですから、訴訟手続に政治圧力をかけるための大衆動員はメデイア動員→政治力圧力の必要がないばかりかそういう行為は憲法の精神を踏みにじる違法行為です。
裁判所前に支持者多数動員したり訴訟内容をメデイアで大規模報道するような法律家がいますが、司法手続きを政治の場に変えようとしている人たちのようです。
彼らの多くが「司法権の独立を守れ」と言う人たちでもあるのですが、何からの独立か?とすれば、政治権力からの独立しかないのですから、自己矛盾行動しているように見えます。

発光ダイオード特許事件5(日本文化批判はどうなる?3)

中村教授に批判攻撃された日亜化学と日本文化の修復可能性に戻します。
個人的事件でも同じですが、訴訟外で相手方の悪口雑言を口外した人とは、訴訟で形式上和解しても
「二度と付き合いたくない」
というのが普通の人の行動でしょう。
4〜5年前あるいは昨年扱った労働事件も、企業側はあいつは元々グータラで・・と言いたがるのですが、弁護士としては事情聴取で得た元従業員の良い点を最大限を活かした言い方で「期待していたのに残念なことになった・・」という態度で相手に接するし、相手弁護士も「本人は会社には感謝しているが残業手当不足分だけいただけたらいいのです」・というスタンスでお互い冷静にデータチェックを進め円満和解に至る例が多いのです。
お互い当事者の不満タラタラの主張を吐き出さないのが礼儀ですし、悪口を言いたいだけ言って恨みを残しても意味のないことです。
中村教授は感情に走って(弁護士のアドバイスを振り切って?あるいは知恵をつけといて弁護士は無関係を装っているのか不明ですが)独自記者会見を開いたのでしょうか?
ところで
「ノーベル賞学者が、日本企業と研究する機会が失われてしまったのも事実だ。」
と何か日本社会が失ったものがが大きいような記事の書き方です。
彼を支持して来たメデイアの発想でノーベル賞受賞でリベンジした・・この勢いで修復を申し出ればうまくいくのではないかと言う、あくまでパワーゲーム的思考だったのでしょうか?
3名ものノーベル賞同時受賞で沸く日本に帰れば、「屈辱的和解」を飲まざる得ず米国での研究生活に没頭すると言って日本から去らざるを得なかった彼にとっては、凱旋将軍のような気分になったでしょう。
修復を求めるとは言いながら同時に研究のエネルギーは(自分を正当に評価しないことに対する)「怒り」(日亜化学と日本社会?)だと明言している点を日亜化学が重視したような解説もありました。
日本では評価されず屈辱的結果になったが、ノーベル賞受賞出来たではないかというリベンジ論で帰ってきたことになります。
しかしこの論理には飛躍があります。
同時受賞の他の2人も同じダイオードの受賞者であり赤崎氏だったかはむしろ草分け的存在ですが、彼ら二人が高額報酬を得て中村氏だけが程評価されなかったというなら日本社会は偏っていることになるのでしょうが、彼ら2人は大学に残って組織内の名誉で満足して生きているのです。
ノーベル賞を受賞したと言っても200億円もくれるわけではなく名誉が主たるご褒美である日本の対応と変わりません。
勝者の気分で日本に帰ってみると、早速中村氏は米国人であって日本人ではないというネット批判の洗礼を受けました。
誰とでも仲良くできれば仲良くしたいのは人情ですが、一定限度を超えた人とは金輪際付き合いたくない」というのも一つの見識です。
隣国とは仲良い方がいいのですが、際限ない悪態には堪忍しきれない・・対韓関係では我慢の限界・「もう近所付き合いしたくない」というのが今の国民大方の意見でしょう。
企業側・日本全体にとっては、ノーベル賞受賞者は世界にゴマンといますので誰と付き合うかを選べますので、「こういう人柄の人と共同作業するのは金輪際はごめんだ」と事実上宣言されたということでしょうか。
日亜化学との真の和解ない限り日本社会が受け入れない・他企業も近づけないということでしょうか?
大々的メデイア露出を繰り返した結果、日亜化学・ひいては日本社会を足蹴にして出て行ったイメージ?(当時の論争・どういうやりとりがあったか報道の一部しか知らないので正確には不明ですが・・)が日本社会で定着しているようです。
中村氏が、日本など相手にできないと国を飛びだし米国籍をとってしまった反日?イメージ定着してしまったものを今更払拭するのは大変でしょう。
屈辱的和解を受け入れた時に「日本司法は腐っている」(・・日本など相手にしない・・)「研究に没頭する」と見栄を切った彼がノーベル掌受賞を機に、日亜化学との修復を何故望み、門前払いされて何故「落胆」するのでしょうか?
日本という信仰集団からの離脱効果・・今になって心に沁みているということでしょうか?
この辺は日本教ともいうべき宗教心みたいなものですから、外国人には理解し難いことでしょう。
外国人でも優秀ならば日本企業は付き合うのですが・・彼に限って付き合えないというのは、日本教・集団倫理を積極的に裏切った男としてのわだかまり・・軋轢があるのでしょう。
彼が日本国籍を喪失している場合、日本国籍を再取得したいといっても、「日亜化学との関係修復していただけませんか?」と暗黙のニュアンスが伝わっているのかもしれません。
外国人の国籍取得は一定の要件をクリアーした時に大臣が許可できるだけであって法律要件クリアー=許可ではありません。
許可は政治裁量によるので、政治的な反対が多いと簡単ではありません。
韓国は感情9割みたいなところがあって、「言い過ぎる不利」に気がつかないようで、・今の韓国に対する日本人多くの感情は、ついにもう付き合いきれない・ダメだという段階になってしまったのと似ています。
韓国国民は日本の怒りの深さに焦っているようですが、(日米から離反して、北朝鮮と中国につく戦略の文政権にとってはその方が好都合でしょうが・・)詫びを入れるどころか開きなおって日本非難を拡大する一方ですので、いよいよ相手にされなくなるでしょう。
中村教授は元日本人として「さあどうする?」というところです。

発光ダイオード特許事件4(日本文化批判はどうなる?2)

日本は大人の国ですから、表向きの祝賀と日本文化・日亜の企業批判を世界で展開したことに対する恨みとは別です。
韓国のように口を極めた批判や反論をしませんが、企業の反応が日本的です。
中村氏は、報酬分配率が低すぎるという争いは、それ自体プロ法律家に委ねて淡々と合理的に主張して行けば良かったことです。
彼は自分の正当性を主張するために日本文化批判をしていたのでしょう(批判内容を知りませんのでまた聞きです)が、教育制度や日本文化批判は訴訟の勝敗に関係ないことです。
我々一般事件でも、「相手方は日頃からこんなひどい人」だと頻りに言いたがる人がいますが、(そうですかと聞いていますが)我々プロとしては事件勝敗に関係ないことが多いのでそういうことには原則として取り合い(主張し)ません。
個人攻撃やメデイア発表や政治批判と結びつけたがる人は、自分の主張や証拠に自信がないときに「大手企業従業員や国家公務員がこういうことをして良いのか!社会問題化するぞ!という一種の脅迫的効果・相手が事件になるのを嫌がって有利な交渉ができるの?を期待していることが多いものです。
原発その他政治的訴訟の場合、やたらとメデイア露出が多いのは、この一種と言えるでしょう。
訴訟で勝ってから公表するのは合理的ですが、誰でもどんな言いがかり的訴訟でも訴えていき自体自由ですから、政府やだれそれを訴えたというだけでは本来報道価値がないはずです。
まともな根拠がある訴訟かすら分からないのに、訴え提起直後のの記者会見をそのまま報道するのは、一方の主張に偏し、報道の中立性違反報道というべきでしょう。
こういう場合、訴えられた企業の多くは、「訴状を見ていないのでコメントできない」という報道が普通です・・結果的に双方意見聴取したという外形的公平を確保している装いですが、被告とされた方は言い分を全く言えない仕組みが横行しています。
訴訟では基地の場合騒音程度、原発の場合地震の影響等々詳細な科学的知見にもとずく技術論が論争テーマですから、これについていきなりマイクを向けられても相手の訴状も見ていない段階で原告の主張・論建てに具体的反論をできるわけがありません。
こういうスタイルの大々的報道が多いのは、メデイアの期待する結果を求める(場合によっては事前打ち合わせ済み?)訴訟だからでしょう。
訴状提出直後に記者会見を開いて宣伝するパターンは、勘ぐれば?原告主張自体の弱さを補強するためにメデイアを利用しようとする人や勢力が訴訟外の効力・パッシングを期待する場合が多いように思われます。
一般事件では、弁護士が人格攻撃に参加するのは恥ずかしい(結果的に道義的・品位を害する?)事だという意識が普通です。
日本文化批判大好きメデイア界が中村氏が不用意に吐露する感情に飛びつき彼を煽りに煽った結果、訴訟外の発言が国際的フィーバーになった・彼は利用されたのでしょうか。
弁護士がその記者会見に同席していないとどこかで読んだ記憶ですが、訴訟に関係ない主張に関与したくないという意見相違があったからでしょう。
16日紹介した山崎氏の記載では
「和解成立の時に「中村氏自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けだよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけている」
と言うのですから、上記発言が事実とすれば法律家でない素人としても異常です。
そもそも不満なら和解に応じなければいい・その上で判決を貰って判決内容を公開して世間の批判に晒せば良かったのに、これをしないであえて密室協議解決を受け入れてから司法制度批判するのはルール違反です。
非公開の和解で決まった以上、裁判所が勧告した背景説明・・論理を判決のように公開できません。
裁判所が弁解出来ないのをいいことに無茶な批判をしている・卑怯な争い方をする人だな!と受け取るのが常識人の受け取り方です。
弁護士の意見に従って裁判所の提示する計算式に応じたのですから、裁判所の提示した寄与率・成功率等の計算根拠等に反論できなかった・裁判所の提示を正しいと認めたからでしょう。
裁判所提案を合理的なもの・・自分らの従来主張が非合理な論理組み立てであったと認めて応諾しておきながら、こういう手前勝手な意見をメデイアで公表する人とは、まとも会話になりません。
一般的に不合理な主張や声明は報道価値がないのですから、これを大々的に公的メデイアが取り上げること自体、メデイアの見識が疑われます。
メデイアとしては、こういう非常識な主張をする人だと一般に知らしめる目的で反面教師的批判をすべく報道する場合もあります。
「韓国・中国でこういう反日批判がある」と報道するのは、中国、韓国の動きが正しいというのではなく、こういう非常識な主張をする国だと言う意味を含めて行っていることもあります。
ネットでは「A社は人民日報・新華社の日本支社だ」という批判すらありますが、中国で取材活動する限り中国批判は書けないが、その通り報道して日本国民に中国の動きを伝えるのは良いことです。
この点フリージャーナリストは、中国批判をジャンじゃんやっても、その後危険を避けるために中国へ行かないようにすれば済みますが、企業・大手メデイアは事業継続が基本ですから、明日から中国取材基地閉鎖する訳に行かない(日本にとっても現地取材基地を引き払うのは国益に反するでしょう)のでこういう報道方法になるのは合理的です。
しかし言論の自由がある国内報道ではそういう配慮不要です。
非常識意見を言う人はゴマンといますが、メデイアは個々人の非常識意見を一々報道する必要がありません。
政治家の意見ならば、馬鹿なこと言えばそれ自体を批判する公益性がありますが、個人の主観的意見はもともと公益性が低いので非常識意見は報道価値が低いものです。
にも拘わらず非常識な意見を大規模報道するのは、その編集発行者がその意見を支持しているからではないでしょうか?
発光ダイオード事件の結果は日本経済にとって重要関心事ですから報道価値がありますが、価値があるのは和解を含めた訴訟結果であって、個人コメントの価値ではありません。

発光ダイオード特許事件3(日本文化批判はどうなる?)

発光ダイオード訴訟で訴えた方は、自分一人の功績だと思い込んだわけではなく貢献度を高く見たのでしょうが、価値観的に見れば、将来名誉(現役集団参加者の水平分配だけでなく将来利益を温存し子孫段階での新たな挑戦資金にする)より現世利益という欧米型選択をしたのかもしれません。
結果的に山崎氏のいう集団成果がもっと大きいのでないかの指摘に合理性があって、1審判決から見れば雀の涙ほどの和解金で和解するしかなくなったように見えます。
発光ダイオード事件は集団と個との分配争いが争点だったように見えます。
山崎氏意見を再掲します
「中村氏が批判し罵倒してやまない日本の集団主義的研究生活よりも、アメリカの大学の個人主義的研究生活の方が、より豊かな研究成果をもたらすだろうとは、私は思わないからだ。
「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさに、中村修二氏が気付くのはそう遠い日ではあるまい。」
哲学者山崎氏とすれば文化の激突に関心があるのでしょうが、米国でも研究は一人で孤独に行うものではなく、巨大な研究組織・・チームで行なっている点は同じです。
問題は、組織内貢献度の測定方法でしょう
現代の研究開発は学者が書斎で考え抜いて鉛筆一本でできるものではなく、一定のコンセプトが決まってもそれの実験装置など巨大なコストがかかるので、米欧でも研究所と製造企業一体化した巨大組織が必須です。
研究と言えば大学が独占しているものではなく、製薬事業などでは研究開発費の負担に耐えかねて世界企業同士の合併が盛んです。
この点は16日紹介した実務家らしいhttps://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200408/jpaapatent200408_041-049.pdfの意見が妥当でしょう。
この4〜5年世界の大手自動車企業の合従連衡が進んでいるのも同じ原因です。
山崎氏の言う日本の強み?「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさ」といっても今や世界的に集団での研究開発が一般的です。
集団利用メリットとそのマイナス面を勘案するのがこれからの道でしょうから、集団であれば良いものでもありません。
日本の方が師弟関係に縛られて、縦系列に縛られた枠内研究・師の思想方向内の研究が多いのが現状です。
私の関係する法律学者もその傾向が顕著です・著名学者に関するウイキペデイア記事も「誰某に師事した」という紹介が多くを占めています・その人の基本的主張がそれでわかるからそういう紹介が主流になっているのでしょう。
医学界の白い巨塔だけではなく、ピラミッド型師弟関係に縛られている点はいろんな学界で似たり寄ったりでしょう。
昨日の日経新聞記載の履歴書には、経営学・文系でも恩師の系列を離れた共同研究の重要さを書いています。
世界中が集団・組織的成果を競うようになった現在、日本の方が集団行動の歴史経験が深いと言える程度の違い・系列集団知を超える発想を縛る傾向のマイナスの方が大きいか?・・でしょうか。
日本の過去の偉人・・日蓮等の出現は、叡山の集団知の束縛から飛び出す必要のある時に飛び出す人が多く出ていたことを現しています。
殻から飛び出すだけの、馬力や能力がないから、飛び出せない人が多いのも現実です。どちらの社会の方がいいか悪いかの単純区分け問題でないように見えますが・・。
起業しにくいから新規事業が出にくいとも言われますし、あんちょこに資金が集まるようになるとあんちょこ起業=あんちょこ倒産の多い社会になり、社会の安定を損なうでしょう。
アメリカの方が就職先を飛び出し起業するのにそれほどのエネルギーがいらない社会ということでしょうか?
集団知の必要な点はどこの社会でも同じですが、その拘束力の緩さをどうするかが時代に応じた知恵の出しどころでしょう。
山崎氏の意見は、素人の私がいうのはおこがましいですが、ちょっと言い過ぎの印象を受けます。
山崎氏の言う文化論の続きですが、もう一つの視点である日本文化訣別・企業文化批判?の後遺症がどうなるかです。
中村氏も言いすぎたように見えます。
この辺の中村氏による関係修復の動きが以下の通り出ています。
中村氏はノーベル賞受賞資金約半分を徳島大学に寄付するなど、ノーベル賞受賞による日本人全体の祝賀ムードをチャンスとして、日亜化学との復縁を目指したようです。
賞金一部を徳島学に寄付したという報道でした。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H5B_W5A200C1CR8000

中村教授が徳島大に寄付 ノーベル賞の賞金の一部
2015/2/6付

https://www.sankei.com/west/news/141126/wst1411260003-n2.html
2014.11.28 11:00

虫が良すぎる?ノーベル賞・中村氏の“復縁”申し出、“大人の対応”で拒絶した日亜化学…わだかまり示す証拠を発見
過去は忘れましょう-。ノーベル物理学賞に決まった米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授が、発明の対価をめぐり法廷闘争を繰り広げた元勤務先の日亜化学工業(徳島県)に関係修復を呼びかける一幕があった。両者の関係は歴史的な雪解けを迎えると思われたが、日亜化学側は中村氏との面談を“大人の対応”で拒否。和解から10年近く経てなお残る天才研究者と企業のしこりが浮き彫りになった。
・・・・日亜化学が発表した公式コメントは冷ややかだった。「貴重な時間を弊社へのあいさつなどに費やすことなく研究に打ち込み、物理学に大きく貢献する成果を生みだされるようにお祈りする」。
一見、やんわりと断っているように見えるが、日亜化学関係者は「社長を含め会社として中村氏と面会するつもりはない」と決意は固そうだ。
・・・今回の復縁が実現しなかったことで、ノーベル賞学者が、日本企業と研究する機会が失われてしまったのも事実だ。中村氏は11月5日、記者団の取材に対し、日亜化学が面会を拒んだことについて「非常に残念。これ以上の進展はない」と落胆した様子で語った。
関係改善への道は、これで完全に断たれた。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。