蓄積の利用

次世代が頑張ってしぶとく生き残ってくれれば、私の生きている限りの時代には高度成長期とその後の蓄積を利用して、次世代も何とかなるし豊かな老後が保障され、日本の憂き目を見ないで済むでしょう。
(バブル崩壊後もずっと貿易を含めた総合収支で大幅な黒字を続けているのはご存知のとおりですから、蓄積を食いつぶし始めるのはまだずっと先のことです。)
次世代は、我々世代のように何もないところにインフラを作る必要がなく、現状維持で足りるのですから、実は我々世代のようにぼろ稼ぎをする必要がありません。
社会全体では分りにくいので、個人レベルに落として言えば、我々世代は都市住民2〜3世でも子沢山時代で長寿化の始まる頃だったので長男でさえも自分で郊外に出て土地購入から始まりましたが、次世代は少子化の結果親又は祖父母の遺産を承継出来るので建物の建て替え費用だけで足りる時代ですから、次世代はそれほど稼がなくとも間に合います。
ただし大都市圏に通勤出来ない地方出身の次世代にとってはゼロからの資産形成が必要ですから、この点は昨年末からのテーマ・都市住民内格差の続きとしてこの後で書いて行きます。
建物も従来と違い百年住宅が標榜されるようになり、一般的に耐久性が増していますので次世代は建て替え費用負担も不要でちょっとした仕様変更・リフォームだけで間に合う時代になるでしょう。
このことは新築の減少ですから、(仮に30年に1回の建て替えが100年に1回になれば単純計算で3分の1)海外進出による国内生産縮小にとどまらず、国内需要・労働力需要面がさらに縮小して行くことになります。
いろんな意味で少子化を進め供給をしぼり、(その分国内需要も減少しますが)労働力過剰問題を解決していかないと国民は暗い気持ちにならざるを得ません。
昨年大晦日に書いたように、子沢山でも全員失業又は非正規雇用よりは一人っ子でもきちんとした未来のある職業についている方が親にとっては幸福です。
これを国家レベルにしても同じことで、人口大国で威張るよりは人口はほどほどでも一人当たり収入が多い方が国民は幸せですが、政権担当者は対外的に大きな顔をしたいので、つい本末転倒した政策をしたがる傾向があり、マスコミもこれに迎合して少子化対策などと報道したがるのです。
少子化対策と言うならば、少子化の進行が世の中の変化に遅れていることが原因ですから、もっと少子化を加速・促進させる対策であるべきです。
人口問題は情緒に訴えるのではなく、合理的に考えて行くべき問題です。

福袋と箱根駅伝の正月

今年の正月は身近にいる娘二人の存在をフル活用して、ささやかなマイホームの幸せを感じるスタートです。
年末年始は、私が高齢化して肌が乾燥しているとかで、娘が毎日いわゆるアンチエイジング&スキンケアを実践してくれるので、(寝転んでいると歯を綺麗にしてやると言って口の中をいじられるし・・)以前飼っていた犬が毎日毛を梳いて貰っていたときはこんな感じだったかな?と想像出来るような毎日を楽しんでいます。
御陰で顔つやが良くなったと言ってくれるのですが、結果はどうであれ、娘や妻に大事にされていじくり回されているのは(ときに眉毛を抜かれたりして痛いですが・・)まんざらでもない生活です。
年末には(自宅から徒歩約10分の)いわゆるデパ地下の買い物に家族4人で買い物に出かけ、お祭り騒ぎを楽しみながら買い物を済ませた勢いで、お正月2日には、(喪中なので・・色々理屈は書きますが、やはり神社仏閣は遠慮して)初詣の代わりに福袋を娘達と一緒に買いに出かけて、楽しく過ごす予定です。
福袋の中身は何が出て来ようとも男にはあまり関係がないのですが、まあ、開けてびっくりの娘達の楽しみにつきあうのも親の楽しみの一つです。
昨年のクリスマスのコラムでも書きましたが、たまたま娘が海外から帰国している・・・また海外を飛び回る日々が始まるまでのつかの間の休息のようですので、こちらも娘らの愛情を受け入れて次世代のことをくよくよ考えずに、今年は個人生活としては今を楽しむ精神で過ごす始まりの年にしたいと考えています。
昨年の正月2日は青山・原宿の辺りを夫婦で徘徊して東京駅前の新丸ビルで食事して帰りましたが、今年は福袋のついでに千葉駅近くの行きつけのレストランで食事して帰り、後は福袋を開けてみながら、箱根駅伝の実況(が終わっているのでユーチューブで)を楽しみ(と言ってもこのコラムを書きながらチラチラと見たり)して1日が終わります。
駅伝の何が楽しいのか分りませんが、(母校が連続出場しているくらいかな?)長年の習慣です。
母校の栄光?って、私にとってどんな意味があるのか知りませんが、何となく酔いしれています。
私の学生時代には、母校が7連覇だったか6連覇したことがあって、(東京オリンピックでも母校の選手が色々活躍しました)今思えば日本の高度経済成長と同じで、すべての分野で夢のある華やかな時代でした。
箱根駅伝を見ると若い頃の夢多き時代を思い出すことになるので、ほろ苦いような印象で正月が始まります。
私自身その頃良い思いをしていた訳ではなく(どちらかと言うと「若いと言う字は苦しい字に似ている」印象の時代です)私個人の来し方に重ねてほろ苦いのではなく、ほろ苦い思いは日本社会の来し方行く末(結局は次世代の心配)に擬してのことです。
母校はその後もぱらぱらと優勝をしていますが、最近概ね優勝候補ではないのですが、それでもしぶとく3〜7位程度の成績で連続出場しているのはまさに地味な校風ぴったりですが、何となく高度成長が終わった日本の将来を見ているような印象です。
オランダ・・次には英仏の覇権争いがあってイギリスが世界に覇を唱えていたもののドイツに挑戦されているうちについにアメリカに覇者の座を譲り渡して久しいのですが、それでもまだ世界政治・経済におけるオランダや英仏独の発言力は無視できないものがあります。
ユーロ危機と言っても英蘭独仏は健在の様子です。
我が国は元々トップを狙える国ではないので、中国が躍り出ても一喜一憂する必要がなく、旧覇権国(我が母校の駅伝順位)同様に3〜7位の範囲内でしぶとく生き残っていければ良いでしょう。

元旦と喪中

みなさまにとって良いお正月・・輝かしい新年の幕開けになったこととお慶び申し上げます。
先のことは善くも悪くも分らないとしても、ともかく昨年の1年がひとまず終わり、新しい1年が始まるのはめでたいことではないでしょうか?
「めでたい」の語源は多分新たな芽が出ることを言祝ぐ意味でしょうから、旧年から新年への変わり自体・・一陽来復がめでたいと言うことです。
私にとっては、母が昨年秋に亡くなったので昔の基準(今でも陋習?として残っていますが・・・)で言えば喪中ですが、どこかに勤めている訳でもないので、喪中を理由に多くの休みを貰えるメリットもありません。
服喪の習慣は05/24/10「物忌みと隔離4」や06/11/10「服喪期間と禊ぎ」などで書いたように、不浄に触れた近親者が周りに病原菌をまき散らさないようにする謹慎行為に渕源があって、その後宮中への出仕を休める口実になる(当時は公休日の観念がなかったので喪中を理由にするお休みは重要な役割でした)外、会いたくない人に対する面会拒絶などいろんなことに便利なので,多用されて定着して来たに過ぎません。
今は公休日の外に有給休暇も十分にあるので、服喪等と言って断る必要もないし、治療看病が専門家任せの現在では、身内が病原菌に直接接する訳でもないし、実際の必要がなくなって久しいのです。
その上にヒト様のおめでたいことに対して、(例えば結婚式や出産があった場合に)自分だけがめでたくないから「おめでとう」と言いませんと頑張る必要もないでしょう。
いくら高齢でも母親が亡くなればそれなりの感慨はありますが、それは個人的なことであって関係ない他人にその感情を共有してくれと強要するのは行き過ぎです。
と言う訳で私の場合特に喪中ハガキなど出しませんし、(相手がおめでたいと思えば「おめでとう」と言ってくれれば良いし・・わざわざ「私はめでたくないのです」と否定しません)お正月の挨拶も従来どおりで良いと思っています。
いずれにせよ、1年が新しく始まることは地球上の万物に共通ですので、その事実を受け入れることが必要です。
喪中の人が正月に何々をしては行けないなどいろいろ書かれていますが、入学式や結婚式は目出たいからやるのではなく、物事の始まりのケジメとしてやることが結果として目出たい行事と言う評価に繋がっているだけです。
目出たかろうが喪中であろうが朝起きればおはようと言い、顔を洗うのと同じで、ケジメの行事に過ぎない色々な行事に喪中の人が参加しては行けないなどと言うのは言い過ぎでしょう
神社仏閣詣でも同じことで、目出たいから行くのではなく年の始めくらいは普段ご無沙汰しているけれどもケジメとして詣でようかと言うのが本来でしょう。
自宅の神棚も庭の手入れも普段の行為とは別にケジメとして、年末年始くらいは特別に綺麗にしたりするだけの話で目出たいからではありません。
仕事の始めと終わりに仕事場を綺麗にしてから始めたり終わりに整理したりするのを、年末と年始の行事は1年の終わりと初めに大掛かりにしているに過ぎません。
神社には穢れがある身で行ってはといけないと言うのが一般的解説ですが、神社仏閣は元は穢れの集積するところ(今の病院・・病原菌の集まるところ)なので、帰りに身に付いた穢れを祓ってから帰るべきところが神社であったのが、後世逆転したに過ぎないことを05/27/10「(1)神社の機能」以下05/28/10「(2)土葬後の濯ぎと祓い」前後までのコラムで連載しました。
と言う訳で、喪中だからといって新しい年の始め・ケジメとしての行事自体をやめる理由はありません。
とは言うもののあえて初詣をする必要もないので、今年は初詣の代わりに家族そろってデパートの福袋詣でをする予定ですが、これもその内に初売りに行くこと自体遠慮すべきだと言う時代が来るのでしょうか?
商売人とすれば、来るのを拒むよりは「喪中の人ポイント割り増し!」と銘打って客寄せするのが本来でしょう。
前置きはこのくらいにして、新年のコラムに入って行きます。
喪中の人がいようといまいと年が改まった以上は、皆様にとっても私にとってもこの1年は良い年であってほしいし、国民生活に大きな影響を及ぼす政治も漂流をやめて新たな意気込み・スタンスで進んでほしいものです。

生産性向と雇用減

生産性向上による雇用縮小分と増えて行く一方の労働人口の受け皿として、輸出増に活路を求める生産拡大=貿易黒字の拡大政策に対して、昭和末頃から失業の輸出として日本叩きが激しくなって来たので、海外工場立地しかなくなり、日本の一人勝ち・・これ以上の国内生産拡大が国際政治的に許容されなくなりました。
そこで韓国・台湾更には東南アジアあるいは中国等への順次の進出で日本製部品を使った組み立てによって、迂回輸出で稼ぐ構図にして行ったのが、その後の展開です。
いまさら製造業等の分野で国内雇用が減ったと騒いでも、上記経過によれば国際・国内・政治上の公約とも言うべきですから、何の解決にもなりません。
(後に紹介しますが、今でも膨大な国際収支黒字が続いていますが、中国躍進の陰に隠れて文句言われていないだけです)
ところでバブル崩壊後の雇用減は、従来のように生産性向上分を絶えざる国内生産拡大で解決しないで生産増分を海外立地に移しただけで、国内生産縮小による部分はそれほど多くはありません。
たとえば、代表的な産業である製鉄であれ車であれ、現状維持どころかじりじりと生産を増加しているので、国内雇用減少の原因は技術革新による分が多いでしょう。
www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5500.html – キャッシュによると以下のとおりです。
2008〜9年だけは減少していますが、これは日本だけではなくリーマンショックによる例外です。

他方車の方は、opyright (C)2009 株式会社 自動車情報センター All Rights Reservedによると、(この分は表の紹介を省略しします)

「国内乗用車の生産台数は1998年の 805万台から
2008年の 992万台へと増加した。車種別に見ると 普通乗用車は

2001年に小型乗用車を抜き2005年以降は大きく伸張する。」

これは国内需要の増加もあるが それ以上に

海外需要の拡大が大きく影響している。

と記載されています。

上記の通り、バブル崩壊後も日本は製鉄・自動車等の基幹産業では、海外進出しながらも国内生産を減らしていなかった(ジリジリと増やしていた)ことが分ります。
それでも「労働需要減少と就労者増」Posted on January 12, 2011で紹介したように製造業で大幅な労働者減になったのは、ひとえに生産性の上昇・・合理化によるものでしょう。
事務系労働者縮小も、ファックス・パソコン・携帯の普及に代表される事務系技術進歩によるものです。
バブル直前までは合理化によって労働者が余ると、その分生産拡大・輸出増・・規模拡大(事務間接部門も増えます)によって吸収していたのですが、これが許されなくなったので若者の就職が難しくなったことが上記統計で分ります。
1月4日の例・・飲食店で言えば、来店客数と滞在時間増加にテーブルの追加(厨房能力拡大)・生産設備の拡張(輸出)でごまかせなくなったので、余ったエネルギ(資金)を土地等の非生産的資産に向けて平成のバブルになってしまったのです。

大晦日

昨日の続きです。
自分の人生が充実していても子供世代がしっかりしないと、(特に女性の場合)何となく幸福感が今ひとつ・・空洞感があるものですが、母の世代は(私の母に限らず)自分自身の生き抜いた人生は大変だった人が多いものの、子供世代が高度成長期に遭遇して充実・・ランクアップしている人が多く、子の幸せ中心に考える女性としては幸せだったと言えるのかもしれず、人生は考え方次第です。
私の前後の世代は、高度成長期に成人したので、多くの人は親世代よりは生活水準・階層的にワンランク上がって経済的に豊かになっている・・親孝行な世代です・・ことが多いのに比べて、私たちの子供世代は親の地位・・親同様の社会的地位や経営を維持するのに苦戦している人が多いのが現実です。
ホワイトカラーで言えば、大手企業の部長・重役クラスの子が同じような地位に就ける場合の方が少ないでしょう。
個々人ではこの逆もある(初代貴乃花のように子供が2人も横綱になった例もあります)でしょうが、大方の傾向ではこの流れ・・親同様の地位を承継出来ないことは否定出来ない・・・日本経済がグローバル化・国際平準化の影響で縮小過程に入っている以上仕方のないことです。
子供世代が苦戦しているのを見ると現在の親世代の方は幸福感が今ひとつと言うところで、これが社会的に現れているのが年金問題に連なる不安とも言えるかも知れません。
子世代さえ元気(収入が拡大傾向)ならば、年金(掛け金支払能力も上がるので)の将来に関する心配があり得ないのですから、年金問題は将来世代の見通しの暗さに由来するとも言えます。
個々人レベルで見ても、子供が3人〜4人いても全員がしっかりしない・・非正規雇用では不安ですが、一人っ子でもその子が事業その他の分野で成功していれば親は将来不安を感じないでしょう。
次世代の数の問題ではないことが明らかです。
年金問題を個々人のレベルに落とせば、自分の身近な子世代の不安を集約した不安心理の制度的表現と言えます。
少子化進行が年金不安の源泉ではなく、子世代の多くが失業したり非正規雇傭程度・・定職に就けていないことが不安を増幅しているのです。
私の持論ですが少子化をもっと進行させて、その代わり精選された子孫だけが残って行き、(レベルの低い子供を5人育ててもみんな仕事にあぶれているよりは)一人っ子でも世界の潮流に遅れずやって行けるようなしっかりした子供がいた方が、親の幸福感を満たせる筈です。
終わりは新たな始まりでもあるのですから、来年以降は日本の多数意見?・・政府・マスコミが、数で勝負する明治以降の発想を転換させて一騎当千の人材を求める・・次世代の活躍に期待出来るような人口政策・少数精鋭主義に目覚めてくれることを期待して、今年最後のコラムとします。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。