寄留地2(太政官布告)

寄留の話に戻します。
法の世界では、05/12/10「仏教の衰退5(廃仏毀釈4)」のコラムで既に紹介しましたが・・お寺の宗門人別帳から神社登録制度になったときの明治4年の太政官布告第二条但し書きに「寄留地」が既に現れています。
もう一度紹介しておきます。
以下の条文では生まれると先ず姓名住所を書いて届けますが、「現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ」ている時には寄留地最寄りの神社に(戸長に届けた上で)参ることとされています。
修行と言うと武者修行をイメージしますが、今で言う親元から離れて技術修行(・・結局は見習い・奉公人を含むでしょう)や勉学のために大都会に出ている程度の意味でしょうし、今の留学の語源はこの辺にあるのかもしれません。
この布告では、今後生まれると直ちに届けることとし、この布告の時に(まだ守札を所持していないものは老幼を問わず)住所地と寄留地の2通りの届け出があったことになります。
ここでは寄留の定義がありませんので、どの程度安定居住した場合、寄留になるのかは常識に従って届けると言う扱いだったのでしょうが、次に紹介する寄留法では90日以上の定住と決められています。

第322 太政官 明治4年7月4日
今般大小神社氏子場取調ノ儀左ノ通被定候事
 
 規則
 1 臣民一般出生ノ児アラハ其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ其神ノ守札ヲ受ケ所持可致事
   但社参ノ節ハ戸長ノ證書ヲ持参スヘシ其證書ニハ生児ノ名出生ノ年月日父ノ名ヲ記シ相違ナキ旨ヲ證シコレヲ神官ニ   示スヘシ
 1  即今守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス生国及ヒ姓名住所出生ノ年月日ト父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長ヘ達シ戸   長ヨリコレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ケテ渡スヘシ
   但現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ本土神社ヨリ受ケ難キモノハ寄留地最寄ノ神社ヨリ本條ノ手   続ヲ以テ受クヘシ尤来申年正月晦日迄ヲ期トス
 1 他ノ管轄ニ移転スル時ハ其管轄地神社ノ守札ヲ別ニ申受ケ併テ所持スヘシ
 1  死亡セシモノハ戸長ニ届ケ其守札ヲ戸長ヨリ神官ニ戻スヘシ
   但神葬祭ヲ行フ時ハ其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ記シ更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊主トナスへシ尤別ニ神   霊主ヲ作ルモ可為勝手事
 1 守札焼失叉ハ紛失セシモノアラハ其戸長ニ其事実ヲ糺シテ相違ナキヲ證シ改テ申受クヘシ
 1 自今六ケ年目毎戸籍改ノ節守札ヲ出シ戸長ノ検査ヲ受クヘシ
 1  守札ヲ受クルニヨリ其神社へ納ル初穂ハ其者ノ心ニ任セ多少ニ限ラサルへシ
右ノ通ニ候條取調相済候へハ早々可届出尤不審ノ廉有之候ヘハ神祇官へ可承合侯事

上記のとおり各地神社への寄留地登録・・氏子制度が発展して行き、(これと無関係に?)戦後住民登録制度の前身となる寄留法(大正3年・1914年法律27号)寄留手続令(大正3年勅令226号)および寄留手続細則(大正3年司法省令10号)に繋がって行くのです。
大正3年の寄留法(大正3年法律27号)同4年施行で寄留届け出義務があるのは、本籍地外で90日以上一定の場所に定住するときですから、90日も一定の場所にいれば一定の根が生えた・・寄留したと言うことでしょう。
今は住所を定めたときから届け出義務がありますが、当時は住所と言う観念的基準では分りにくいので90日以上定住すれば先ず機械的に寄留にあたると定義付け、届け出を義務づけたものと思われます。

牢人から浪人へ

 

小説などでは作州「牢人」などの表現を時々見かけますが、江戸時代前期頃まで・・再就職の容易な時代までは何故堅牢の「牢」になっているのか不明です。
武者修行中の宮本武蔵に対して、これを使うと何となく意志堅固な印象があって、それなりの効果はありますが、本当に当時からそう呼ばれていたのかについて不思議に思うのは私だけでしょうか?
江戸時代初期には戦国時代の生き残りで意志堅固な浪人もいたでしょうが、江戸中期になると経済成長が止まってしまったので食い詰めた長期失業者を意味するようになると浪々の身を現す浪人となり、幕末になると思想的立場で脱藩した武士も増えて来て水戸浪士や勤王の志士など再び前向きのおもむきで小説などでは表現されます。
(赤穂「義士」の表現は明治・大正になってから発達した講談で、浪人ではイメージが悪いので美化して広まった表現であって、事件のあった当時には「義士」と言っていたとは思えません)
明治の廃藩置県・廃刀令・家禄の公債化によって失業した元武士に対しては、不平士族と言うマイナス名称が付与されました。
このように見て行くと元々「浪人」と言う用例は(昔からもしかして少しくらいあったとしても)一般化していなかったように思えます。
今では、牢人は室町から江戸時代初期までの用法で、その後は浪人になったとわざわざ時代区分までされて解説されていますが・・最近の時代小説はそのように書き分けていると言うだけで、室町時代までの文書の引用もなく・・根拠不明です。
私は法律家ですので、原文らしきものの引用がない説明だけでは落ち着かない性質です。
そもそも、江戸時代に失業した武士と違い戦国時代までの武士は地盤を持った自営業でもあった(足軽とはそこが違います)ので、武士の方が主君と言うより支持していた上位者を見限ってあっちについたりこっちについたりしていたものです。
地方豪族はこうした国人層に支えられていたし、大名は小豪族の多数支持で成り立っていました。
最近上杉家重臣の直江某の物語がテレビ放映されて有名になっているので(私は見ていませんが・・・)多くの方がご存知と思いますが、武士と言えばそれぞれが大小の区別があっても自分の領地・地盤を持っているのが当時の仕組みです。
ですから地元に根付いた武士の支持を失って失業・落ちぶれるのは大名小名クラスであって、武士自体は自分の直接の耕地・耕作者・地盤を持っていた・・半農半士でしたのでどこかの家人をやめて・・出仕をしないで帰っても生活に困ることはなかったのです。
源平の合戦に参加して負けた源氏や平家自身は落ちて行くところがなくなりますが、それぞれに参加していた一段下のクラス鎌田正家などは、国許に帰ればそれぞれ安定した地盤を持っていたことを見れば明らかです。
サラリーマン化したのは、戦国末期に先祖伝来の地盤を持たないでイキナリ出世した武士・・傭兵のごとく戦闘専門化した武士に限られたでしょう。
戦国中期頃までは、普通は自分の一定の地盤を基に配下・一定武力を持って参加していたのをやめるだけですから、失業してウロウロしていたと見るのは間違いですし、この頃は仕官の口を求めて(地盤を離れて)浪々して諸国を歩く牢人などは本来存在していません・・地盤を追われてしまうのは限られた場合だけ・・例外現象だったでしょう。
職を求めるようになったのは、伝来の地盤を離れて武士がサラリーマン化した後の現象と見るべきでしょうから、浪人以前に諸国をウロウロする種類の人材が仮に存在していたとしてもごく少数でしかなく、社会現象とまでは行かなかったように思われます。
古くは山中鹿之介、戦国末期では長宗我部・真田幸村のような根拠地を追われた元武将や腕一本で世間を渡り歩く後藤又兵衛・塙団衛門などいわゆる豪傑などがいたことは確かですが・・彼らを当時世間で牢人と言っていたかは疑問です。
信州の牢人真田幸村などの表現・・名乗りを聞いたことがありません。
ただし、今日タマタマ宗門改め関係のデータを見ていたら、「牢人」と言う単語が出てきました。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hozonpage1.htmの日本の戸籍制度――江戸時代からの引用です。

   寛永16年〔1639年〕の大阪の菊屋町の「宗門改帳」の例(以下省略)
  一 此以前ヨリ切々被仰付候吉利支丹宗旨御改之儀、毎年町中五人組
   借家之者共候致吟味油断不仕候事
  一 吉利支丹宗旨之者ニ家をかし候者ハ、家主たとい宗門にて無御座候
   ても御成敗、両となりハ闕所ニ可被仰付候、堅御触之上は油断ニ在間
   敷候事
  一 他所より参家買者并借屋かりニ参候もの町中立合宗旨改寺請を立たせ
   置可申候事付、牢人に宿かし候儀、大坂惣年寄印形指上切紙不申請かし候 
   ハ、五人与共ニ曲事ニ可被仰付候

1639年の宗門改めのお触れの中に「牢人に宿かし候儀」=「牢人」に宿を貸す場合の掟が書かれています。
牢人に対しては、宿を貸すだけでも惣年寄の承諾書を要求していて厳しく制限していたことが分ります。
この実例によれば牢人の呼称は、この頃までには実在していたことになります。
牢人は家を借りるところか、一晩の宿さえ簡単に借りられない仕組みですから、「どうすりやいいの!』となります。
この頃には、既に就職難の時代ですから、戦闘能力の高い武士が職を失いウロウロしているのは危険きわまりない・・・政権側では牙を持ったオオカミがウロウロしているように危険視していたのです。
失業武士に対する厳しい政策が、慶安4年(1651年)由井正雪の乱を引き起こしたので、牢人が農民等に転向して行って次第に減って行ったこともあって、幕府は藩の取り潰しを緩めるとともに宥和政策に変化して行くのです。
それにしても何故「牢」などと言う漢字が当時用いられたのか(私の国語力では)今のところ理解不能です。

 浪人2

今回は室町から江戸時代初期までは牢人と言い、中期以降は浪人と言うようになったと言う一般の理解に対する疑問・・・江戸中期以降・失業した武士が職を求めて諸国を浪々していたかの疑問がテーマです。
武士を召し抱えることが出来るのは大小名しかなく、江戸時代中期以降は、どこでも財政難・・人減らしに躍起でしたから、よほどの才能がなければ新規召し抱えを期待出来ませんでしたし、大名は妻子とともに江戸詰めの期間が殆どですから、自ずから藩政の重要事項も江戸屋敷で決める習慣になっていました。
こうなると職を求めて諸国をウロウロしていても、歩行距離が伸びるばかりで就職のチャンスは滅多にありません。
Aの城からB〜Cの城まで順に歩くよりは、江戸の大名屋敷を巡った方が効率的ですし情報も豊富です。
しかも国元には責任者不在ですから、今で言えば本社採用希望者が地方の工場を訪問しているようなことになります。
徳川政権創業当初は、諸大名の政治は国元中心の政治でしたが、何代も江戸屋敷で生まれ育つことが続くと国元へは「帰るのではなく出張する」ような実態になっていた・今の企業で言えば3〜4代前に創業したときの工場が地方にあって創業者の故郷としても、4代目の社長が東京本社からその工場を訪問するような感じになります。
徳川政権が安定したころには、失業者はチャンスを求めて江戸(蔵屋敷関係の才能のあるものは大阪)に集中することになりますので、江戸中期以降職を求めて諸国をウロウロする習慣はなくなっていたことになります。
後述する新井白石も、失業中は諸国をウロウロしたことはなく江戸にいたのです。
職を求めて諸国をウロウロするから、浪人と言うようになったと言う現在の説明は、実態に合わないばかりか、室町時代以降江戸時代初期までは牢人と言っていたのが江戸中期以降、浪人と名称が変わったと言う一般的に行われている説明はなおさら無理があります。
むしろ群雄割拠の戦国時代の方が、腕に覚えのある英雄豪傑が諸国を遍歴することが多かったでしょう。
ウロウロするから浪人と言うのは、江戸中期以降の求職活動の実情に合っていないので、この頃から浪人と言うように変わったと言う説明は無理があります。
大塩平八郎の説明も元天満与力と言うのが普通で浪人とは言いませんし、新井白石も失業していた期間がありますが浪人新井白石と言いません。
浪人と言う用例が何時から一般的に使われるようになったかの疑問ですが、戦後学歴主義・・進学熱が高まってくると受験に失敗して再挑戦中の受験生が増えて社会問題になりましたが、彼らに対して、受験「浪人」と言う名称が普及していたことは私が実際に経験しているので間違いはありません。
これは再挑戦してに苦労している状態を江戸中期以降の浪人のイメージに重ねたもので、ゼロからの創作ではなかったかも知れませんが、元々一般的ではなかった用語をリメイクしてヒットさせたに過ぎないように思われます。
もしかしたら浪人と言う言葉はこの頃から一般化したに過ぎず、もしも過去にあったとしても受験浪人ほど一般的用法ではなかったにもかかわらず、戦後受験「浪人」が一般的になったので、時代小説を書く際に如何にも昔から一般に使われていた言葉であるかのように利用するようになった疑いがあります。
過去の用例を見て行きますと、主家を持たない武士が全部浪人かと言うとそうではありません。
近江聖人と言われる中江藤樹のように親の世話をするために退職しても故郷で塾を開いている人もいるし、平賀源内や松尾芭蕉あるいは一派を立てて剣道場を開いていた有名な人が一杯います。
武士=仕官していなければならないものではなく、上記のように武士でも自活能力を持てば主家がなくとも浪人とは言わないのです。
ただし、戦闘員だけを武士と言うならば、平和な社会では自立・自活出来るのは山賊ぐらいしかいないことになりますので、剣道場主以外で塾を開いたりして自立している人は本来の武士をやめた人・教育者や産業人と言えるかもしれません。
飽くまで武士・戦闘能力にこだわっていて平和な時代に自活する能力がなく主家を持てない・・職を求めて失業中の人だけを浪人といったのでしょうか?
しかし江戸中期以降では、戦闘能力の高さだけの売りでは、特に優れていた場合でも剣道場を自分で開くくらいが関の山で採用までは滅多にされません。
上記のように戦闘能力だけにこだわる失業者を浪人とする定義ですと、再就職は絶望的でその内に食い詰めて行くばかりで短期間で飢え死に必至(あるいは犯罪予備軍)の状態の人をさすことになってしまいますから、こういう人は直ぐに死に絶えて行ったか、生き残るために武士をやめて農民化等転職して行った筈で、社会的階層を形作るまでは行かなかったでしょう。

浪人1と浮浪者

 

失業中の浪人でも長屋などに落ち着くと、生活手段にある程度見通しがついた状態ですから、一応根を下ろしたものとして寄留者に昇格していたのかも知れません。
寄留者になる前の状態を何と言うのでしょうか?
寄留前は胞子がふわふわしている状態に擬せられるとすれば、寄留になる前は浮浪者・浮浪人と言ったのでしょうか?
浮浪者と浪人の違いは何でしょうか?
浪人とは長期休職中の失業者を現在では意味するようですから、それなりに前向き・・・今の受験浪人が最もポピュラーな存在ですが、進学する予定もなく無職でぶらぶらしてたむろしている少年とは違い受験浪人は前向きですから、働く気がなくなった浮浪者よりはもう少ししっかりした印象です。
公園などに寝泊まりしている人を浮浪者と言うのは浪人に「浮」を上乗せしてふわふわした(求職意欲を持たない)印象を現した熟語になって定着したのでしょう。
親元にいる少年がプラプラしていても浮浪者とは言わないので、借家であれ何であれ、住む家の有無(毎晩寝る所が決まっていても公園の一隅では駄目です)が大きな要素になっているようです。
定住社会が長かった我が国では、人と土地の親疎・定住の度合いによって区分し、他所者その他定住の度合いに応じたいろんな呼び方が発達したのかもしれません。
ところで、戦闘員としての武士が退職した場合、就職先となれる一定地域の支配者が乱立していない限り再就職先は一人しかいませんから、そこから解雇・退職すれば、その領域内にいたのでは再就職先がありませんので、その地域から出て行くしか生きて行く道がありません。
職を求めて他国に出てウロウロしている状態になるのがほぼ100%ですから、その状態を浪々の身=浪人と表現したものと推測されていますが、これは現在から推測で言っているだけなのか、当時からそのよう言っていたのかについては疑問があります。
戦国時代や経済活動の活発な時代には、武士に限らず組織から離脱しても直ぐに再就職や自分で一定のグループを作ったり独立自営出来たので、失業期間が短かったのですが、経済活動が停滞すると退職=長期失業に直面するようになります。
江戸時代中期以降は経済活動が停滞していたので各大名家もリストラ含みですから、一旦主家から離脱すると再就職が望み薄ですので、一時的失業を意味するよりは、その人自体の属性・一種の身分にまで変化して「浪人」と言う一種の身分呼称が形成されて行った印象です。
浮浪者と浮浪人の違いにも繋がりますが、「者」は「人」に比べて一時的な意味合いが強い・・何時でも立ち直れる・・意欲を持ち直して欲しい社会の期待があるのでしょうか?
これに対して浪「人」となると、もう這い上がる見込みない・・ずっと浪人のままと言う烙印を押されたことになるのでしょうか?
現在の用法でも、生産「者」も大多数の場面では消費「者」ですし・消費者もある場面では供給者になりますし、今日の勝「者」は明日の敗「者」とも言います。
観覧者、鑑賞者やラジオ聴取者、入場者、出演者、退場者も一時的な区分けに過ぎず、人の属性ではありません。
「者」は、いつでも立場の入れ替わる一時的立ち位置・・現在何かを「している人」を意味しています。
これに対して日本「人」が突如アメリカ「人」に簡単に入れ替わることはないし、入場・乗車料金の基準である小人と大人も簡単に入れ替われません。
今では簡単に移住出来ますし国籍変更も簡単ですが、それでもどこから来た人かが重視されますので地域属性は簡単に変わらないことを前提にして、どこそこの「人」大阪の人京都の人、千葉の人と言うのですが、将来移住が頻繁になって来ても神戸者、千葉「者」東京「者」埼玉者、奈良者とは言わず、広域化した呼び方・・首都圏人、中部圏人、大阪圏人と言う呼称に広がる程度でしょう。

寄留とは?

これまで戸籍制度・本籍との関連で寄留と言う用語を(特に説明なしに)何回も書いてきましたが、ここから寄留制度の始まりから、現在の住民基本台帳制度まで書いて行きます。
江戸時代から明治の初めにかけては、持ち家を持たないで出先で現にいる場所(安定した生活実体がない人)で登録する現在の住民登録制のような仕組みがなかったし、また就職先もないのに郷里から放出されたものにとっては、居住先も安定しなかったので郷里にいなくなった人を登録から消してしまうか、郷里に登録したまま維持するかの二者択一しかなかったと言えます。
江戸に流入した人のいる場所は、言わば仮の住まいであって、現行民法で言う住所(生活の本拠)と言う観念すらなかったように思われます。
住所観念については、09/21/02「住所とは? 1」以下のコラムで既に紹介していますし、最近ではFebruary 19, 2011「本籍2(寄留の対2)」以下のコラムでその法制度の歴史を紹介しましたが、いわゆる生活の本拠であって、仮住まいではありません。
江戸時代に田舎から江戸に出て来た人の多くは、どこかへの住み込み奉公が原則で住まいとして自前のものがなく安定したものではなかったのです。
ましてや安定した奉公先から解雇されてその日暮らしになった者にとっては、長屋住まいと言っても不安定そのものだったでしょう。
当時は通勤制度がなかったので、どこかに安定した職のある人は住み込みが原則で家賃を自分で払う長屋住まいではなかったので、言わば今の契約社員や日雇い人足みたいな不安定職業の人の住むところが長屋でした。
これは浮浪者に限らず地方から江戸詰めになって、江戸屋敷で長屋住まいをしていたレッキとした武士も同じ意識・・自分の本来の住所は国元にある意識だったはずです。
現在でも人の居場所(一定期間以上過ごす場所)には、民法上(明治29年成立)住所と居所の2種類がありますが、私の学生時代には下宿屋に寄留していると言う言葉がまだ使われていました。
 民法

 (住所)
 第二十二条  各人の生活の本拠をその者の住所とする。
 (居所)
 第二十三条  住所が知れない場合には、居所を住所とみなす。

民法の条文で言えば、当時の下宿屋への寄留とは「居所」に似たような意識でしょう。
住所がどこにあるのかを旧民法では届け出を基準に決める形式主義であったと理解されていることと、現行民法では客観主義になっていることなどをFebruary 23, 2011「戸籍と住所の分離3」に少し書きました。
届け出だけの形式で決めるのではないとしても主観(意識)だけで決めるのではない・主観客観総合して「生活の本拠」か否かを決めるものです。
意識はどうであれ、下宿屋や学生寮での生活はレッキとした住所であって「居所」ではないのですが、これは後に選挙権の行使場所について昭和20年代に大問題になって最高裁で決着がついていますので後に紹介します。
旧民法(明治23年成立)の条文をFebruary 24, 2011「戸籍と住所の分離4」のコラムで紹介しましたが、旧民法ですでに現行条文同様の住所概念が出ていますので、同時にこの対としての居所概念も出ていたように思われます。(居所の条文自体を入手していないのでここは推測です)
法・学問の世界では明治20年代頃からこのように住所とまで言えない程度の住まいの場合、寄留ではなく、居所と言うようになっていた筈ですが、日常用語としての普及は進まなかったようです。
現行民法施行後約100年以上も経過している現在でも、まだ居所などと言う表現をしている人は滅多にいないでしょう。
「寄留」と言う漢字の意味からすれば、胞子などが宿主となる樹木に寄り付いてそこで根をはやしているイメージですが、郷里を離れて江戸に出た人の住まいは浮浪者=胞子みたいなもので住まいとして安定性の欠けた状態と理解されていてこれを表現したものだったのでしょう。
それでも寄留と言うからには一晩や二晩宿に泊まるだけではなしに、ある程度根を下ろした状態を意味していた筈です。
ここ3〜40年前から下宿屋がなくなったせいか、寄留と言う言葉を使う人がなくなってしまったので「寄留地」は今になるとよく分らない言葉ですが、ヤフー辞典によれば
「文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉六・一〇「我日本は文明の生国に非ずして、其寄留地と云ふ可きのみ」
と既に使われているようですから、遅くとも江戸の終わりから明治始め頃には一般的用語だったようです。
寄留者とは浮浪していた人(胞子)が寄生する場所を得て、ある程度根を下ろして定住するようになった状態を意味していたように推定出来ます。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。