末端行政組織の整備(区制1)

寄留者を管理するための明治初期頃の末端行政組織がどのようなものであったかですが、村役人制度は定住者の多い地方では機能していましたが、住所まで行かないで不安定な生活をしている人の多い都会地では彼らよそ者を担当する組織がどうなっていたかです。
3月6日に引用して紹介した説明では明治2年に東京だけの戸籍整備実施にあたって市中の旧名主制をやめて入札制(今の投票制?)で年寄り・50区制を採用したと書かれていましたが、これによるとその以前から名主制が存在していたことが分ります。
明治2年の戸籍整備は脱藩浪人等不安定居住者の把握を目的で始まったとすれば、名主から発展した年寄りらは、戸籍編成時に寄留者も同時に記録するようになって行ったことになります。
そうとすれば、定住まで行かない人の現況把握にはお寺や神社の協力を必要としていなかったことになります。
ところで、3月5日に紹介した神社にお札を貰いに行くように命じた明治4年の太政官布告322では「戸長」を通じて(戸長の証書を持って)お札を貰いに行くことになっています。
この布告自体で既に戸長の人民管理が神社へのお参りに先行していることが分ります。
戸長とは何かですが、これは法的には、明治5年の太政官布告17号で、従来の莊屋、名主の制度を改めて、戸長にした結果生まれた名称であることが、この太政官布告で分ります。
法令全書のコピーがネットで見られるのですが、写真しか載っていないのでコピー出来ないので、明治5年分の法令全書から莊屋等から戸長に名称変更された布告を手写しで載せておきます。
第117号(4月9日)
「1 莊屋名主年寄等都テ相癈止戸長副戸長ト改称シ是迄取扱來リ候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事
 1 大莊屋ト称シ候類モ相癈止可申事
 1  以下省略

(漢文では「都テ」は「すべて」と読むことを09/15/09「都市から都会へ」のコラムで説明しております。)
上記のとおり、明治5年4月からそれまでの莊屋名主等はなくなって戸長副戸長制度が出来たのですから、明治4年には戸長の呼称がなかったかのように見えます。
莊屋名主等から戸長への名称変更の布告前の明治4年の布告の中に既に「戸長」が出てくるのは、その頃には戸長と言うものが(全国一律ではないまでもあちこちに)事実上出来ていたからでしょう。
すなわち明治4年の壬申戸籍布告の時に同時に従来の小さな村(10戸前後?)を7〜8ケ村集めて一つの区として、区ごとに戸籍編成をして行ったようですから、このときから同時に区制が行われていたことになります。
この区長を戸長と言うようになっていたのです。
区は地域の区割りのことですし、その長=区長を戸=居住の単位・・普通は建物を現す戸長と何故言ったのか今のところ私には不明です。
上記の通り従来のムラや町の集落とは別に、明治4年当時から区制が行われつつあり、莊屋名主に変わって戸長が既に一般化していたので、明治4年の太政官布告第322では戸長の証明書添付が義務づけられるようになったのかもしれません。
小さな自然発生的集落では、国家としての中央政権の施策を貫徹出来ないので、施策実行に適した人工的な区割り・区制を施行し始めていたのですが、太政官布告と言う統一的布告によらずに実施していた結果一般化していた戸長と言う呼称を明治5年4月に初めて上記太政官布告で明らかにし、国家規模の法的根拠を与えたに過ぎないと言えます。
但し、明治5年4月の布告では単に莊屋等を戸長と呼ぶと公認しただけでその前提たる区制と町村制の関係を明らかにしておらず、混乱が生じていたようです。
これは以下に書いて行くように元々、区制は、今で言うプロジェクトチームのようなもので当初は目的別にいろいろ区を作っていたようですから、まだカッチリした地方行政組織の構想が出来ていなかったので、戸長の名称だけ全国統一にしたものの地方行政組織制度まではまだ布告出来なかったことによるように思えます。
同じ年の明治5年の11月には旧来(江戸時代の)の郡町村制を廃止して大区小区制がしかれ、大区の長が戸長となり小区の長が副戸長になりましたが、地方によってはいろいろだったようです。
後に学区制も紹介しますが、小学校も従来のムラごとに作ったのでは経済的に維持出来ないし構成員も少なすぎるので、もっと広域化して・・500戸単位くらいで一つの学区を作ったようですから、この頃は近代化に追いついていない小規模な従来の単位をいろんな制度ごとに「区」と言うものを作って行った時代でした。
学区制を定めた学制(明治五年八月三日文部省布達第十三)は明治5年8月ですから、着々と「区」を基準にして政策を実現して行く思想を基礎にして実践が始まりつつあったのです。

寄留者の管理2(旅館業法1)

戸籍制度整備・・準備が進むに連れて、お寺の従来の権限をどうするかの議論が当然あったでしょうが、宗派の管理は明治政府にとって重要なことではなかったので、住所登録まで行かない現地所在場所の管理・・現況把握の必要性だけが議論になって行ったのでしょう。
現地登録制度がないままですとせっかく除籍(江戸時代の無宿者扱い)を禁止しても、親元で息子の居場所についていい加減な場所を申告しているかどうかの突き合わせが不可能になります。
寄留者の滅多にいない農村地帯は別として都会では、寄留者の比率が高かったでしょうから、これが現にどこにどのくらい住んでいるかの把握が行政上必須です。
前回書いたように代々の居住者よりは、移動性の高い人物の方が政府にとってはより把握の必要性が高かったからです。
現在でもホテル等に宿泊するには宿泊者名簿の記載が法律上要求されているのはこのためです。

旅館業法(昭和二十三年七月十二日法律第百三十八号)

第六条  営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2  宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。
第十二条  第六条第二項の規定に違反して同条第一項の事項を偽つて告げた者は、これを拘留又は科料に処する。

ホテルに泊まる時に、浮気がばれないように気楽に偽名で止まる人がいるかもしれませんが、上記のとおり、お上のご機嫌に触れるとこの法律を楯に言いがかりみたいな嫌疑でイキナリ身柄拘束されても文句言えません。
その議論の中で現地登録機関・・身分証明書発行程度の機能をどこに認めようかとなったと思われます。
明治初期には、行政組織による管理・把握に不安があったので、全国展開している組織であるお寺か神社に・・従来どおりお寺に任せるか、新たに神社に任せるかの議論は当然起きたと思われますが、3月5日に紹介した明治4年太政官布告322によれば、過去のいきさつがあって神社に軍配が上がったものと思われます。
徳川政権の人民管理の下請け的立場にあったお寺に対する反発と今後日本は神道で行くと決めた方向性もあり、さらにはお寺は葬式仏教化していて、お寺参りなどは先祖のあるところで行うに過ぎず、寄留地・出先にいる人がその近くのお寺には縁が薄いことから、現況把握に向かない点もあったでしょう。
どういう議論があった結果か分りませんが、結果として上記太政官布告によって神社が寄留者にお札を授けることになり、その受付簿を整備して行けば・戸籍地に同居していない寄留者管理用の名簿を現地で備えられる方向に発展可能だったことが推測出来ます。
これが寄留者登録機関として発展しないで、何故消滅してしまったかの関心でこの辺のコラムを書いています。

寄留者の管理1

 

江戸時代でも宗門人別の手続きの実際は、お寺で宗派の認証を受けてそれを村役人に届けて名主等の村役人が署名して村役人が管理する仕組みでしたが、明治になって、お寺の認証を経る前段階がなくなった点が江戸時代の人別帳と庚午戸籍以降の戸籍制度の関与機関の相違と言えます。
05/09/10「お寺の役割4(宗門人別帳1)」前後で書いたように、江戸時代の人別帳制度始まりの動機が切支丹選別にあって、同時に切支丹と結びついた時には戦力になる浪人の締め付けをすることにあったのに比べれば、明治では切支丹の選別よりは、旧幕臣を中心とした不穏分子の動態把握にあったのですから、宗派の認証は二の次でした。(旧幕臣が切支丹である可能性は低いでしょう)
この時期の脱藩浪人は、失業者と言うよりは、主家に迷惑をかけないように自ら脱藩して何とか薩長土肥政権に意趣返しをしたいと言う者が多かったこともあります。
徳川政権初期も失業武士は元豊臣方残党か幕府によって取りつぶされた大名家の元家臣が中心ですから、元々徳川政権に対する不満分子でしたし、明治初期の廃藩置県前の失業武士もその多くは旧幕臣や元会津藩士などいわゆる賊軍系・・薩長土肥政権からすれば旧敵方の残党とも目される武力グループでした。
徳川初期にはこの不満分子の武力・エネルギーが切支丹と結びついて大事件になったものですし、明治では、これが新政権のお膝元となるベき東京に住み着いていたのですから、なおリスキーでした。
ちょうどエネルギーが上野の山に溜まったところで、徳川政権の残党とも云うべき者達のエネルギーをまとめて叩きつぶして、(慶応4年=明治元年5月14日僅か1日の作戦で)不満分子を江戸から潰走させ、他方で彰義隊に参加しなかったものに対しては懐柔策として前回(3月7日)書いたように静岡茶の栽培その他の開拓に誘導して行ったので、(北海道開拓などは旧賊軍系元藩士が中心でした)旧賊軍系を中心にした不満分子に対する問題は解決を見ました。
この後は、不満分子の担い手は旧幕臣系から廃藩置県(明治4年7月14日)によって失業した新政権側の失業武士、不平士族に移って行くのです。
話を戸籍整備に戻しますと、慶応4年(9月に明治への改元です)5月の彰義隊攻撃でその余燼の冷めやらぬ翌明治2年3月には前回紹介した戸籍登録開始・・言わば残党狩り的調査とも言える現況調査を始めたのが明治2年の東京での戸籍整備開始でした。
ただし、戸籍制度は職権で調査して官が作って行くのではなく、戸主による家族構成員の自主的届出制度でしたので、どこまで行っても(いくら罰則で脅しても何百万戸に上る戸主みんなを処罰することも出来ないし)正確性を確保出来ず、明治19年式戸籍の2年ほど前から壬申戸籍は行き詰まってしまっていたようです。
3月6日に壬申戸籍布告前文を紹介しましたが、そこで色々(くどいくらいに)と政府が訴えているのは、如何にして国民が戸籍から漏れないようにするかの心配ばかりです。
之だけくどくどと書いているのは、治安維持のための人民の把握や戸籍届けの脱漏による徴兵や徴税機能が空洞化しないように把握漏れを恐れていたからでしょう。
太閤検地以来現在まで実測よりも2〜3割面積が多いのが農地では普通なのは、(耕地整理した土地は正確です)面積が課税の大きな基準になるからです。
ただし、お寺の認証が不要になっただけで、戸籍簿の記載内容には構成員の宗教から人相身体の特徴まで何でも書いていたことはFebruary 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のコラムで書いたとおりです、
後のいわゆる明治19年式戸籍(内務省令や書式等を総合をして言うようです)で漸く宗派を書く欄がなくなったようです。
宗門人別帳時代には実在しても除籍してしまうなど実態に反する記録が多かったのは連座責任を免れるためでしたが、明治政府の戸籍管理は治安維持・徴税目的でしたから、(そうではないとする反論も当然あります)明治3年の庚午戸籍では一村3名の戸籍改役を置き年4回、各家ごとに戸籍と突き合わせをして確認を義務づけるなど厳しい規制が行われています。
それでも事実に反した記載(偽籍)が多かったのか、
「明治7年(1974)2月には、甲第9号を以て戸籍編製法が、「管下戸籍未タ全備ナラス随テ人員遺漏ノ弊ヲ免カレス」として、
1、戸主幼少、婦女のみの場合、空名を掲げることのあるのを、幼少戸主、婦女戸主を許容して、極力現実の人員を把握しようとしている。
 2、「人民適宜ニ任セ戸主ト家族ト東西ニ住居ヲ分ケ家産ヲ別ニスル者ハ総テ分家ト見做(な)シ一戸ヲ以テ論スヘシ」とし、現実の生活単位をそのままに把握する。
 3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。」
以上は、ww.town.minobu.lg.jp/chosei/…/T12_C01_S03_1.htm -からの引用です。
最近ははやりませんが、30年ほど前までは表札に家族全員を書き出す形式のものが流行っていて、門柱や玄関付近の柱に貼ってあったことがありますが、この通達によって習慣化されたものでしょう。
いまでも各戸に、苗字だけの表札を掲げる習慣が残っていますが、考えてみると不思議な習慣ですが・・これからは次第になくなって行くように思われますが・・・はこのときから始まったものです。
明治19年(1886)内務省令第19号によって、正当な理由のない未届けを過料にする規定が設けられていますから、国民の抵抗はまだまだあったようです。

宗門改めから戸籍整備4

徳川政権で認められていた仏教寺院の宗門人別改め権限(・・このときでも登録は名主層等村役人の仕事でした)を取り上げて、これを神社に移管した象徴として前回紹介した太政官布告が一般的に紹介されているようですが、実態は違うようです。
国民管理構想は壬申戸籍どころかその前の明治2年6月4四日民部官達をもって府県に対し示した、京都府編製の戸籍仕法書(長州藩の制度が採用されたとか言います)が頒布されて全国施行された庚午戸籍(明治3年3月施行)に始まるようですが、このときから既に名主等の旧組織利用による言わば行政府が独自に管理する方向で準備が進んでいたもので、江戸時代との違いはお寺抜きになっただけです。
戸籍制度の直後に布告された前回紹介の布告が宗教選別権をお寺から取り上げて神社に与えた布告であるとは一概に言えないでしょう。
全国版ではないので法令とは言えませんが、明治政府は天皇の行幸に間に合うように東京だけの戸籍管理を応急的に実施していますが、この段階で既にお寺経由ではなく、名主制に代えて年寄りの仕事になっていたこと(お寺や神社の関与がなくなったこと)が分ります。
この戸籍管理は、東京には脱藩浪人や失業武士が溢れていて治安に問題があったので、(治安維持名目に旧幕臣を中心に彰義隊が結成・鎮圧された経過を想起しても良いでしょう)彼ら旧幕臣ら失業武士の実態把握・・第一に治安確保目的に人別管理を行うために急遽実施していたのがその基礎にあります。
今でも地域の交番は、域内居住者の動静把握に熱心ですが、治安維持にとって先ずどこにどういう人が住んでいるかの情報把握こそが、基礎・第一歩です。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_nihon_k1.htmからの引用です。
「東京では明治2年〔1869年〕3月ころに「東京府戸籍編製法」と「戸籍書法」(以下これを二法という)が施行されていた。
 それは同月の天皇の東京行幸と遷都に関し、東京の都市下層窮民の救済と無禄無産の者の取締、総合すれば治安対策のために制定された。
 とりわけ「脱藩者」への取締が急務となっていた。彼らが生活に窮し暴動など起こされては遷都自体が無意味になるからである。
 同月10日に市中改正により旧名主が廃止され、彼らの入札により中年寄、添年寄が任命され、50区制が発足した。彼らの第一の仕事が帳籍編製だった。まず、「現在人別調」をこの時点ですでに「入別入」している者と「無人別」の者とに分け、別々の帳籍に登載して把握するというものであった。
 こうして把握された「脱藩者」などが全国各地の開墾事業に動員されたのである。
現在、静岡県では茶の栽培が有名であるが、これもそのときに行われた旧武士階級の救済のためのものである。」
とあります。
明治政府は元々脱藩者・・浪人・武士の失業者は存在自体が危険な存在としてどこに誰が住んでいるかの実態把握を急いでいたので、彼らが真言宗か浄土宗か(仮に切支丹であっても)にあまり関心がなく、先ずは誰がどこに住んでいるのかの実態把握を急いでいたのです。
その記録ついでに、宗派も分れば良い程度であって、お寺による宗教に関するチェック機能を事実上問題にしていなかったと見るべきでしょう。
宗門改めのお触れをMarch 4, 2011「牢人から浪人へ」のコラムで紹介しましたが、江戸時代初期以来刃物を持った武士の失業者は、切支丹同様に危険視されていたのです。
天草の乱も浪人が関与しなければあそこまで大きな事件にならなかったでしょうし、明治になってから起きた上野の山の彰義隊の戦い・各種不平士族の反乱は士族がいなければ事件にならなかったし、有名な秩父困民党事件も浪人・失業士族が絡んで騒ぎが先鋭化したものです。
現在のリビアの争乱も、デモ隊側に寝返った元兵士がデモ隊側に参加し、内乱の様相を呈してくると政府軍側も丸腰の民衆・デモ隊相手とは違い武装兵士相手なら思い切って銃火器の使用をしやすくなり、却って争乱が長引き・・一種の内乱状態に発展してこれまでアフリカ諸国で長引いた内乱に似た状態になりかねないリスクを抱えています。

寄留者の管理と神社1

大正3年成立翌4年施行の寄留法(各種文献では施行日を基準にして紹介していますので、大正4年式と紹介されています・・壬申戸籍も同じで、前年の布告ですが、施行が翌年の壬申の年だったので、壬申戸籍と一般に言われます)では既に市町村長への届出になっているので、前回紹介した神社からお札を貰う仕組みとの関連がその後どうなったのか、少し気になるところです。
ちなみに歌の文句では「お札を納めに参ります・・・」と言うのですが、法的には、お札を納めるのではなく、守札を貰い所持する仕組みですから、(しかも6年に一回の検査ですから)一種の身分証明書の機能を期待したのでしょう。
江戸時代には領域を出るときだけ道中手形・・一種のパスポートが必要でしたので、移動自体に許可が要ったとも言えますが、明治になると守札さえ所持していれば移動が自由になったとも言えます。
封建制社会では農民の移動を極端に嫌い土地に縛り付ける事が重視されていたのに対し、明治政府の目指す商業社会化への幕開けの思想的基盤の闡明です。
その代わり明治ではどこか他所へ行く予定のない者(老幼を問わず)までこの所持を強制したと言えますがので移動の自由を縛る目的ではなく、移動の自由を認める代わりに国民一人一人の登録・・管理が重視されていた事になります。
お札不所持に対する効力を書いていないし、居住地内外を問わずお札の所持を強制するのは実情にも合わないので、これがいつの間にかうやむやになったような印象です。
江戸時代までの禁令は禁止するばかりで違反したときの効力が決まっていなかったことを、02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」のコラムで紹介しましたが、明治4年太政官布告はまだ西洋式の刑法の出来る前のことで江戸時代のお触れと同じ形式です。
ただし、いわゆる壬申戸籍も同じ年・明治4年4月の太政官布告第170号で、翌明治5(壬申・ミズノエサル)年2月1日から施行されたので壬申戸籍と言われているものですが、壬申戸籍管理は大蔵省租税寮管理(実務は地方吏員)で神社の管轄ではなかったので、上記神社に関する太政官布告(も同じ明治4年ですが7月4日に第322号で後から出来たことになります)と同時並行だったことになります。
それどころか7月の布告では「来申年正月晦日迄ヲ期トス」・・来たる申年正月晦日までに届け出が命じられ、他方で壬申戸籍の施行がその翌日の2月1日からですから、連携関係にあったことが明らかです。
行政下部組織(当時はまだ市町村制は構想段階程度だったでしょうが・・・庄や郷の村方)管理の戸籍制度と神社のお札(神社も記録して行くでしょう)との併存をどう理解すべきでしょうか?
壬申戸籍の布告を法令全書の手写しでしたものをFebruary 15, 2011「戸籍制度整備1」で紹介しましたが、ここで再度紹介しておきましょう。
前文によれば、管内社寺ヘ達しておくようになっていますが、これは人生の始終を詳らかにする・・・生死の行事は古来から社寺で執り行っていたからでしょうか?
但し、中には神社へ参りしない人もいたでしょうから、その脱漏を防ぐために神社へのお参りを強制したのが同年7月4日の太政官布告第322号だったかもしれません。
そうとすればお寺も神社もそれぞれの役割を期待されていた事になります。
(ただし、神社は生まれた子供が漏れないようにするので、政府に取っては重要ですが、寺は死亡者の届け出だけですから現世の政治には関係がなかった・・死亡者が戸籍に残ったからと言って政治的に重要性がなかった事になりますが・・・。)
とは言え、前回(3月5日)紹介の太政官布告第322号では戸長の証書を持って神社へいくのですから、その条文から云えば、先に戸長への届け出が義務づけられたことになります。
政府としてはその最末端の行政組織である戸長への届出さえあれば、それだけで国民把握は十分ですから、その後の神社の協力は不要だった筈ですから、何のために神社の協力が必要だったのか不明です。
この間の政治の動きを見れば、壬申戸籍の草案〜布告(4月)段階ではまだ社寺の協力必要との認識であったので、社寺へのお達しをし、そうすると神社側では「神社へお参りをしない人までは分りませんよ」となります。
神社側の要望で「法でお参りを強制してくれないと困る」となって王政復古のスローガンとの兼ね合いもあって7月の太政官布告になったのでしょう。
その追加的太政官布告322号が出来上がる間での間に、既に次年から全国的に制度化される「戸長」制度が一部動き出していたので、その布告の中にまだ制度化されていない「戸長」の認証を要する旨が書き込まれてしまったのではないでしょうか。(莊屋から戸長制度への変遷については、この後にざっと紹介します)
今の法制定実務からすれば、来年何月の戸長制度実施のときからは、戸長の認証がいるとしておけば良かった事です。
戸長制度が動き出すとそこで出生から死亡前の登録もみんな戸長の行う戸籍登録で間に合うのですから、神社へお参りをするように命じた太政官布告は、この時点で不要になった筈です。
言わば蛇足・・結局王政復古のスローガンに合わせたリップサービスの域を出なかったことになります。
前書きが長くなりましたが、、壬申戸籍発布の布告の大部分を紹介しておきます。
この冒頭に府藩縣とあるのは、廃藩置県がこの年7月14日ですから4月はまだいわゆる3治体制下でまだ藩が残っていたからです。
(原文は縦書き・旧字体が簡単に出ない漢字は現在の漢字になっていますが原文は全部旧字体です・文中◯は写真なのではっきりしないのですが、欠字のような印象で空白がある部分です)

第170 4月4日(布)
今般府藩縣一般戸籍ノ法別紙ノ通リ改正被仰出候条管内普ク布告致シ可申事
戸籍検査編成ハ來申年2月1日ヨリ以後ノ事ニ候ヘ共右ニ関係スル諸般ノ事ハ今ヨリ処置スベシ・・・以下中略・・・
右ノ通リ被仰出候事
人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ處ニ於テ其ノ時々其ノ由ヲ記録シ名前書員数共毎歳11月中其管轄管轄庁又ハ支配所ヘ差出サセ・・・中略・・・。
右の通り管内社寺ヘ可触達候事
戸数人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル ◯素ヨリ云フヲ待タス然ルニ其保護スへキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スへキヲ ◯施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍を詳ニセサルヘカラサル儀ナリ 又人民ノ安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ
去レバ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルヽモノハ其保護ヲ受ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ、此レ人民戸籍ヲ納メザルヲ得ザルノ儀ナリ中古以来各方民治趣ヲ異ニセシヨリ僅ニ東西ヲ隔ツレハ忽チ情態ヲ殊ニシ聊カ遠近アレハ即チ志行ヲ同フセス・・・以下省略

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。