失踪宣告4

このシリーズで何回も書いていますが、江戸時代のように家から出ただけではすぐに無宿者にしてしまうのを明治政府は認めなかった・・簡単な抹消を認めなくしたのですが、抹消除籍を厳格化したのですが、その代わりどこかで死亡している筈なのに、これが証明出来ない中間的な場合、戸籍上登録されたままで終わることが予定されていたことになります。
その結果戸籍上生きたままになっていて困る人のためには、制度的にはまず不在者として管理人を置くことが出来、行方不明が長引けば前回紹介したように申し出により失踪宣告して除籍出来るようにして整合性を保っていたのです。
とは言え、政府が職権でやってくれるのではなく、国民の方から裁判所に申し出て・・証拠を調べて(国で証拠を集めてくれるのではなく申立人が証拠をそろえて提出して)漸く認めてもらう・・裁判所の手続きを踏む必要があるので、実際には容易ではありません。
手続きを簡単にすると江戸時代のように無宿者が溢れてしまうのを恐れた制度設計になっているのです。
話が変わりますが、ときに、「3年以上行方不明だから直ぐに離婚出来るでしょう」と言って来る人がいますが、それだけで自動的に離婚出来るのではなく、「それが裁判で判決理由になると言うだけであって、3年以上行方不明とか悪意の遺棄を裁判で証明しなければならないのですよ」と説明することがあります。
今でも失踪宣告をするには弁護士に頼むしかないのが普通ですから、こういう手続きをする必要があるのはよほどの財産家の子供が帰って来なくなった場合だけで、公的住宅やアパート等に住んでる人が亡くなってもその子は行方不明の兄弟をさがす必要がありません。
事業等に失敗して蒸発するような無資産者が死亡した場合にも、その子は親が死んだことを知らなくとも何の不都合もありません。
そのまま生活していれば良いだけで、何らかの手続きをする必要性がありません。
家督相続から戦後は均分相続になったので、相続登記等の手続きをするには行方不明の弟や伯父さんの印が必要になったのですが、農地や自宅を処分する必要がない農家等は何もしなくともそのまま耕していれば良いので、行方不明の弟などを探しまわる必要がありません。
普通の庶民は、費用を掛けるほどの遺産がありませんので、探しまわって失踪宣告までする必要を感じません。
たとえば10万円前後の預金でも解約するには相続人全員の印鑑証明書が必要ですが、このような場合、行方不明の兄弟がいても預金名義人が死亡したとは言わずに、同居の家族がそのままカード等で払い戻して行き残高ゼロにしてしまうのが一般的ですから、蒸発した伯父さんなどの死亡証明まで必要とはしません。
(自分の預金でさえ解約手続きは面倒なので、引っ越しなどの時に残高ゼロにして(解約しないで)放置している人が殆どでしょう)
戸籍制度は人民に対する国家管理(徴兵や課税あるいは犯罪者の識別・特定や破産・前科その他の身分登録)の治安必要性が始まりですから、戸籍に漏れるのは政府としては困りますが死んだ人がそのまま残っていても悪いことをしませんので、国民が放置しておいて良いならば政府の方から追いかけて行ってまでお節介しない仕組みです。
蒸発した息子の母親が何年経っても息子がまだ生きているかもしれないと思っているのに、政府の方であなたの息子は死んでいる筈だからと言って抹消・管理まで強制する必要性がありません。
壬申戸籍の布告の前文を2011/02/15「戸籍制度整備1」で紹介しましたが、如何に戸籍登録が国民の義務であるかについてクドクドと書いています。
今でこそ国民は登録することによって政府から各種(生活保護や年金、保険、子供手当などの)受益者・権利者となることが多いのですが、帝国憲法制定にあたって「臣民には分際のみあって権利等あるべくもない」と言う森有礼の意見を06/09/03「臣民と国民との違い2(臣民分際論)」で紹介しました。
戦前までは「臣民には義務のみあって権利などあり得ない」と言う明治憲法制定時の森有礼の道徳思想がそのまま妥当していた社会だったので、国民は登録されるのは何もメリットがなく、出来ればいろんな登録から逃げ出したいだけであり、政府は何とか登録させようと努力している関係でした。
結婚も習俗による挙式だけでは無効として、届け出があった時だけ有効な結婚と認めるなどもその一つです。
届け出がなくとも準婚関係として判例や学説が保護して来たことを09/22/02
「住所とは? 2(報告的届け出と創設的届け出)(内縁)」その他で紹介しましたが、政府の立場はあくまで内縁と言う後ろめたい関係にして法的には不利益な扱いを少しでも残しておく主義で一貫しています。
こういう思想下では、政府は管理したくて管理しているだけですから、国民から消してくれとお願いして来たら・・・国民が出して来た証拠調べをして「間違いない」と分ったときに限定して恩着せがましく消してやる制度設計でした。
政府と言うものは元々そういうもので、以前警察の役割についても積極的に捜査するものではなく被害届を受けて記録することが大方の仕事で自分から動き出さない・・原則受け身の制度になっていると11/13/04「捜査機関の民営化=2足のわらじ2」等で書いたことがあります。
現在では警察の受け身の姿勢が批判されていますが、政府は人民を管理し収奪する対象としか考えて来なかった長い歴史があって、今でも・・警察は警察の立場で捕まえたい奴を捕まえるのであって、民間から「あいつを捕まえてくれ」と言われて下請けする気はない・・・簡単にはそういう姿勢が改まらないものです。

失踪宣告3(超高齢者問題)

息子や兄弟が蒸発してしまった場合、家族にとっては仮にどこかで死亡していても分らないので死亡届を出しませんし、蒸発者が出先で死亡しても身元不明で処理されることが多いので、その血縁者にはまるで分らないのが現状です。
江戸時代には、連絡がとれていても無宿者にしてあったのですが、明治以降の制度では逆に連絡がとれなくとも戸籍に残すことなって簡単に消せなくなっているのでいつまでも戸籍に残すしかなくなっただけのことで、超高齢者が戸籍に残ったままになるのは制度設計の問題です。
親は蒸発した息子のことを心配しながら死んで行きますが、その内蒸発した人の兄弟姉妹も死亡し、甥姪の代になると行方不明になった叔父さんのことまで覚えていてわざわざ役場にもう死んでいるのではないかと相談に行く人は稀です。
(手間ひまかけて相談する必要性がないのです)
家督相続の時代には行方不明の弟や妹などには相続権もなかったので、相続が開始しても戸籍に残ったままでも何の不都合もなく戸籍抹消の必要性がありませんでした。
江戸時代生まれで行方不明になっていても、(戊辰戦役その他の混乱時期でもありました)無宿者に出来ず一応登録したものの実家との消息を絶ったままで明治大正にかけて死亡した場合、身内は放りっぱなしにしていることが多くなるのは当然です。
戦後は均分相続ですので親が死亡し相続開始すると兄弟が行方不明のままでは、相続登記や預金解約が出来なくて困りますが、実際には生きている限り親死亡は風の便りに聞いて戻ってくることが多いものです・・郷里を出て出奔している人はいつも郷里の噂を気にかけていて一方通行的に情報を得ていることが多いからです。
それに今は、盆暮れに顔を出していなくとも、親が死ねば相続権があるので、(江戸時代までは一生懸命親孝行していても相続権がなかったのですが、戦後は逆に何の義務も果たさなくとも権利がある逆転の時代です)なにがしかを長男から貰える期待があります。
非難の決まり文句に「親の葬式にも顔を出さなかった」と言うくらいですから、どこからか戻って来て相続権を要求することが多いのです。
それでも連絡が取れない例外的な場合は、失踪宣告等で戸籍上死亡扱いにする仕組みとなっていました。
相続財産を処分して資金を得ようとしたり、住宅ローンを利用しようとすれば、相続登記が必須ですから、(大都会近郊農家の場合)草の根を分けても相続人となる行方不明の兄弟を捜すことになります。
東北その他都会から遠隔地の農家などで跡継ぎが農地を耕しているだけの場合、そのまま耕していれば良いのであえて行方不明の弟を捜す必要もないでしょう。
探す必要があっても探しきれない時には失踪宣告を得て、戸籍から除籍してしまえる扱いです。
こうした不便(・・失踪宣告を得るには相当の費用がかかります)を防止するためにも、生前に遺言書を作っておいてもらえば、相続人の捜索が不要になります。
昨年秋以来問題になっている事例では、家を建て直すほどの資力がないので相続登記等の手続きが不要で、老父母の年金受給権を頼りに生きている貧困層が、親の死亡を隠して親の名で受給し続けている場合です。
明治政府は実家からいなくなった人を無宿者・・除籍しない代わりに、いつまでも戸籍が残って不都合な場合に備えて、不在者の財産管理制度を創設し、それでも収まらない人がいれば失踪宣告制度で戸籍から抹消を出来るように後始末まで一応用意していたのですが、これらは必要に迫られた人が申請する制度ですから、必要がなければ放置されたままになるのは当然です。
明治政府は戸籍から漏れて兵役の義務などを免れる人が出ないかに関心があって無宿者扱いを禁止したのですが、消す方には関心がなくむしろ厳重な制限・・証拠などを要求していたことになります。
不在者の財産管理制度や失踪宣告制度については、05/15/07「刑事処罰拡大の危険性7(各種資格の制限1)失踪宣告2」で条文だけ紹介していますが、まだ内容を書いていなかったようですので、ここでもう一度条文を紹介して次回に内容に入って行きましょう。
以下は明治30年に制定されたときのまま・・5〜6年前に口語体から文語体に変更しただけの条文・現行法です。

民法(明治二十九年四月二十七日法律第八十九号)
民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ日ヨリ廃止ス

第四節 不在者の財産の管理及び失踪の宣告
(不在者の財産の管理)
第二十五条  従来の住所又は居所を去った者(以下「不在者」という。)がその財産の管理人(以下この節において単に「管理人」という。)を置かなかったときは、家庭裁判所は、利害関係人又は検察官の請求により、その財産の管理について必要な処分を命ずることができる。本人の不在中に管理人の権限が消滅したときも、同様とする。

(失踪の宣告)
第三十条  不在者の生死が七年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪の宣告をすることができる。
2  戦地に臨んだ者、沈没した船舶の中に在った者その他死亡の原因となるべき危難に遭遇した者の生死が、それぞれ、戦争が止んだ後、船舶が沈没した後又はその他の危難が去った後一年間明らかでないときも、前項と同様とする。
(失踪の宣告の効力)
第三十一条  前条第一項の規定により失踪の宣告を受けた者は同項の期間が満了した時に、同条第二項の規定により失踪の宣告を受けた者はその危難が去った時に、死亡したものとみなす。

住民登録制度6(公示から管理へ)

ついでにこの辺で昭和26年の住民登録法と昭和60年の改正法を紹介しておきましょう。

住民登録法(昭和二十六年法律第二百十八号)
第一条この法律は、市町村(特別区を含む。以下同じ )においてその住民を登録する ことによつて、住民の居住関係を公証し、その日常生活の利便を図るとともに、常時人 口の状況を明らかにし、各種行政事務の適正で簡易な処理に資することを目的とする。
住民基本台帳法(昭和四十二年法律第八十一号)
(昭和60年法律第七十六号による改正後)
第一条この法律は、市町村(特別区を含む。以下同じ )において、住民の居住関係の 公証、選挙人名簿の登録その他の住民に関する事務の処理の基礎とするとともに住民の 住所に関する届出等の簡素化を図り、あわせて住民に関する記録の適正な管理を図るた め、住民に関する記録を正確かつ統一的に行う住民基本台帳の制度を定め、もつて住民 の利便を増進するとともに、国及び地方公共団体の行政の合理化に資することを目的と する。」

上記アンダーライン部分は昭和60年に付加されたものですが、住民票制度は本音としては国民管理目的で充実して来たことを04/14/05「夫婦別姓26(公証の時代3・・・住民基本台帳法2)」その他で繰り返し書いて来ましたが、各種登録制度の表向きの目的として国民の便利のために必要な制度・・・公示制度を掲げて来たものですが、完成に近づくと国民管理目的を正面に出して、元々の「公証」目的はついでみたいな書き方に変わってしまいました。
この改正で国民を管理する目的が正面に出て来たことを、この条文の変化でこれを読み取ることが可能です。
元々戸籍制度はその管轄の変化を見ると分りますが、明治2年に民部官庶務司戸籍地図掛(国土地理院の前身)が担当して始めたものが1871(明治4)年民部省廃止とともに大蔵省租税寮へ管轄が移されて以来、租税対象として制度整備が進んで来たものです。
国民に対し徴税目的で制度創設しますと宣伝したのでは国民の協力を得られないので、公示機能(公に証明する機能=公証)を前面に出していたのですが、いよいよ完成してくるとそんな目的は背景に追いやり管理目的を前面に打ち出したと言うことでしょう。
住民登録制、さらには世帯別把握を基本とする現在の制度から、今後は個人別の(年金等の)番号制その他個人識別制度が普及してくれば、(昨年秋頃から書いている結婚制度の崩壊とは別の要因で)将来的には制度上の家族概念に結びつく戸籍制度自体更には世帯単位の住民登録制度まで不要になってくるべきかも知れません。
韓国では日本統治時代から引き継いだ戸籍制度を何年か前に廃止していることを昨年何かのコラムで紹介したことがありますが、個人識別に出身地や親兄弟に関連づける戸籍までは必要がないと言うことでしょう。
ここ10〜15年間の韓国の制度改正は目覚ましいものがあり、いろんな分野で日本が遅れを取り始めている心配がありますが、これもその一つでしょう。
ある人を特定するにはDNAあるいは虹彩・指紋等で識別が可能になれば、親兄弟の氏名(壬申戸籍では士族か否かエタ・非人等身分まで書いていました)は関係がありませんし、まして出身場所などは今では全く意味がなくなっていることは分かるでしょう。
昨年から話題になっている超高齢者の問題も、戸籍制度と住民登録制度を混同している二種類の制度設計が併存しているから起きて来たことであってこれを混同をしたマスコミが騒いでいただけです。
戸籍制度さえ廃止すれば、超高齢者が登録されたままの社会問題も起きません。

住民登録制度5(改正と運用定着の時間差)

本籍だけで管理していて住民登録制度がないと国民の現況把握が出来ず不便ですので、政府の方でも次第に現状把握方式を充実して行きました。
と言うよりは、元々人民の現況把握の手段として出先の把握だけではなく親元でも把握しようとたことが、寄留地把握と本籍把握の二本立て制度の始まりとすれば、徐々に現況把握制度を充実強化に励むのは当然の成り行きです。
本来過渡期の把握手段である本籍制度は、寄留値把握制度が充実した時点で御用済みになっていた筈です。
March 5, 2011「寄留地2(太政官布告)」March 6, 2011「寄留者の管理と神社1」で紹介したとおり大正3年には寄留法が出来、昭和27年に戸籍管理と切り離した住民登録に関する法律が施行されているのですが、法律が出来たとしても直ぐには実施・・浸透しませんので、住民登録が一般化して来たのは(私のおぼろげな記憶によれば)昭和30年代半ば以降頃に過ぎません。
私の子供の頃にはまだ住民登録制度が定着していなかったのか、あるいは身分証明制度がなかったからか、どこかに行く・・例えば修学旅行先の旅館で食事を出してもらうためには、米穀通帳持参(1981年に廃止=昭和56年)の時代でした。
法律と言うものは作ればその日から実行出来るものではなく、準備に年数がかかります。
民法応急措置法の精神(家の制度廃止)によって戸籍制度も抜本的に変わるべきでしたが、これに基づき昭和22年に戸籍法の改正が行われましたが、実際に核家族化に向けた改正の準備が出来たのは昭和32年頃で、(昭和32年法務省令第27号・・33年から施行)でした。
これによって全国の戸籍簿を各市町村で徐々に書き換えて行き、(これによる改正前の戸籍を改正原戸籍と言います)全国的に完成したのが、漸く昭和41年3月でした。
(完成の遅れた市町村ではそのときまではまだ古い戸籍方式の登録が行われていたのです)
それまでのいわゆる原(ハラ)戸籍を見れば分りますが、戸籍謄本の最初に前戸主と現戸主が書いてあって、その妻子や戸主の兄弟姉妹(結婚して他家に入ればその時点で除籍)とその妻子・孫まで全部記載されています。
分家して独立戸籍を興さない限り一家扱いで、弟の妻子まで家族共同体に組み込まれる仕組みでした。
コンピューター時代の到来に基づき、コンピューター化に着手したのが平成の改正で、この結果横書きに変わりましたが、コンピューター改正前の戸籍も改正前原戸籍と言いますので、今では相続関係の調査に必要な戸籍には、昭和の原戸籍と平成の原戸籍の2種類があることになります。
登記のコンピューター化が始まっても全国の登記所がコンピューター化し終えたのは、20年前後かかって全国で完成したのはまだここ数年の事でしょう。
昨年春離婚した事件で、都内錦糸町の数年前に買ったばかりの高層マンションの処分に際して、当然コンピューター化していると思っていたら、購入時の登記では権利証形式(以前紹介しましたが、コンピューター化した場合・権利証から登記識別情報に変わっています)だったので驚いた事があります。
寄留法が30年も前から施行されていたと言っても、住民登録制度が始まってもその日のうちに国民を全部登録出来るものではないどころか、国民の届け出習慣の定着・政府側の実態把握の完成等に時間がかかり国民全部を網羅するには15〜20年程度は軽くかかってしまった可能性があります。
その完成を待って昭和42年の住民基本台帳制度(・・これが現行制度です)が出来たと思われます。
このように改正経過を見ると戦後の戸籍法制度改正は昭和41〜2年頃までかかっていたので、それまでは制度的には過渡期で戦前を引きずっていたことになります。
国民の意識も急激には変わらないので、このくらいの時間経過がちょうど適当だったのかもしれません。
私の母は明治末頃の生まれですが、私の長兄が結婚した時に戸籍から長男が抜けてしまってるのを知って、とても驚き寂しそうに私に言っていたのを思い出します。
今になれば結婚すれば新戸籍編成になって親の戸籍から自動的に除籍されるのは当然のことで誰も驚きませんが、昭和30年代には親世代にとっては(まだ自動的に抜けるようになった仕組みを知らない人もいて)子供が「籍を抜いてしまった」と衝撃を受ける時代だったのです。
明治始めの戸籍制度は即時(半年後程度)実施制度でしたが、これは元々生まれてから家族として籍(人別帳)にあったものを無宿者として積極的に除籍していたのを、今後は除籍しては行けない・・一旦除籍してしまった無宿者をもう一度籍に戻すだけだったので、即時実施でも家族意識に変化がなく問題がなかったと思われます。
戦後の核家族化への改正は、(同居していても結婚すれば)積極的に籍から抜く強制だったので、意識がついて行けない人には抵抗があったのでしょう。
戦後改正は天地逆転するほどの意識改革であったこともあって、実施・定着には時間がかかったのです。
我々法律家の世界でも現在通用している最高裁の重要判例は、昭和30年代後半から40年代に集中しているのは偶然とは言えないかもしれません。

戸籍制度9(変遷)

徳川政権の宗教管理・人民把握政策として檀家寺制度が始まったことを、05/12/10「公家諸法度と紫衣事件」以降のコラムで紹介しましたが、この機会に、江戸時代に始まったお寺の役割であった宗門人別帳登録管理から政府の直接の仕事に切り変えた最初の戸籍である壬申戸籍(明治4年大政官布告第170号)以降の制度変遷を大まかに辿っておきましょう。
国家的規模で出来た最初の壬申戸籍は、手がかりとしては、一家の跡取りのいるところ・・現住所を本籍地として始めるしかなかったので結果的に現住所登録と身分登録の渾然としたものから始まりました。
(・・・今では本籍地をどこにしても良い制度ですから、本籍を見てもどこの出身か分りませんが、明治の初めに造った戸籍の本籍地を見ればその人がどこの出身でその村に行けば親族が一杯いる・・氏素性が直ぐに分ることが想定される仕組みでした・・・。)
次の明治19年内務省令による戸籍では、除籍制度が設けられています。
弟の妻子・その子が結婚するとその妻子までと際限なく登録者を増やして行くと戸籍簿が膨大になり過ぎますから、(家の制度思想などの無理な要求がない限り・・当時まだそうした思想要求がなかったのです)自然に任せると都会等他所で定着した人は分籍して新本籍を作って行く人が増えるのが普通です。
また元々家の制度を前提に先祖まで書く必要性を考えて作った制度はなく、当面そこに住んでいる人を基準に登録し、一緒に住んでいなくともまだ所帯を構えていない半端状態の息子や娘を一緒に書くようにしたに過ぎないのですから、本来これらの人が都会等に定着したならば、そこでまた戸籍を作るのが基本思想だった筈です。
その結果分籍したりしていなくなった人を除く必要が出来て来たからでしょう。
このときも本籍と住所は未分化でしたが、住所地の表示が従来の屋敷地番から、地番に変わったそうです。
(09/16/09「地租改正条例1(明治6年)」前後のコラムで不動産登記制度の進展・・結局は土地に地番を順に付して行くシステム整備について紹介しましたが、地番の登記制度が進んで来た結果です。
(そのシリーズで紹介しましたが、それまでは何々の庄・・あるいは何々郷の宮の前何反何畝歩と言う表記でしかなく、土地の特定表記方法は番号がなく・・番号順ではありませんでした)
ちなみに上記シリーズで紹介したように、明治19年には我が国最初の法律である登記法が成立しています。
今でも戸籍内の人が全員死亡や新戸籍編成等によって除籍(いなくなる)になると、最後に除籍簿・・除籍謄本に移りますが、明治19年に出来た除籍簿はその前身です。
明治31年には明治民法成立に伴う大改正で、これまで書いているように民法で定めた家の制度を貫徹するための戸籍法(令や布告ではなく法律制度)になり、従来の戸口調査目的から家の制度貫徹目的に変わり、身分簿と戸籍簿の2種類が設けられました。
この身分簿を見たことがないのではっきりしたことを書けませんが、現在の身分帳(前科や破産歴など有無の証明に使う身分証明書・・これは今でも必要に応じて発行してくれます・・・の元になる帳簿)のことではなく、系図に類する関係を証明するものだったかも知れません。
この時点で本籍は現住所とはまるで関係のない制度になりました・・・・今では住民登録と連動した戸籍付票制度がありますが、これは多分戦後寄留法が廃止された時に作られたものではないでしょうか?
更にFebruary 23, 2011「戸籍と住所の分離3」に紹介したように、大正3年(1914)に大正4年式戸籍法と寄留法が出来て、戸籍と身分登録が一本化されて、これが戦後改正(22年法で施行は23年からです)まで約30年間続いた制度でした。
上記のように寄留法で個人が居住地別に個別管理出来るようになった以上は、中間組織である家の制度・戸籍制度は不要になった筈ですが、これをやめられなかったのは、家の制度を思想的に強調し過ぎたからではないでしょうか?

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。