郡司1と国司

 
律令制施行に合わせて全地域を國にしてしまいました・・京・みやこのある場所さえも大和国としてしまったのですから、直轄支配を原則として半独立地域だけを國にする中国の国郡制そのものではありません。
4月30日〜5月1日に書いたように・・・大和朝廷成立時には各地には半独立国が含まれていたこともあるでしょうが、朝廷所在の本拠地(畿内)を含めて國としたことによって外見上の区別をなくしてしまった・・独立性の有無ではなく、単なる地方組織の名称にしてしまったとも言えます。
これも同一化・融和策の智恵であったでしょう。
徳川期に譜代・外様も親族も万石以上を全部同一の名称・大名にしたのと同様です。
大和朝廷では支配下に半独立国が多かったので直轄地でもアガタ主・豪族が治め(従属制の強い譜代大名のようなもの?)半独立・服属国を国造(外様大名)としていましたが、壬申の乱以降は中央権力が強化されていましたので、大宝律令(700年完成、702年施行)で地方制度として全国画一的に國を持って来ました。
この結果、その下の単位は郡になったのですが、同じくコオリ・コホリと言う音を当てられていた縣は5月3日に書いたようにどこかへ行ってしまいました。
国造制度が律令制施行直前の大化5年に「評」(これも「こおり」と読んでいました)と言う単位に編成替えされ、律令制が施行されると新たに設けられた郡となり國造は郡司と格下げされました。
國造が新たに出来た郡の長官・郡司に横滑り就任した場合、その権限は地域的範囲を縮小するのがやっとで(元々領主ですから)その領域内の権限・・それまでの国造の権限をそれほど大きくは変えられなかったでしょう。
国造の1つの領域を仮に3個のコオリに分けた場合、新たに出来たコオリのオサをまさか朝廷が派遣出来なかったでしょうから、結局は元の国造の一族の推薦によったのでしょう。
郡司の権限は表向き同じままで、その上に監督者が来たくらいが納得させられる範囲だったのではないでしょうか?
この時に1国に統合された造グループの有力者を昇格させて新たに出来たクニの代表者にしたのでは、地方豪族がよけい力を持ってしまうので、朝廷派遣の国司制度にした点・・その代わり監督権限程度にした点が漢の州の始まりに似ています。
5月5日にに紹介した通り当初の監察官・刺使には軍事権がありませんでした。
律令制発足当初は國造から横滑りした郡司は従来の行政機構そのままに郡衙(元々の本拠地の名前が郡衙と変わっただけ)を構え絶大な力(軍事力を含む)を持っていたのですが、10世紀頃までには国司の権限強化が成功して旧地元豪族が没落して行きます。
これは国司権力の法制度上の強化によるのではなく、後記のとおり、新たな勢力の勃興による入れ替わりが激しかったことによる没落の結果だったとも言えます。
国司の権威上昇側面は、漢の州が単なる監察目的から出発したのにいつの間にか州の牧が権力を持ってしまい郡が有名無実化して行くのと似ています。
しかし、州の牧が実力を持って行くのは軍事力を持ったことがその背景であったのに比べて国司は軍事力の主体にならなかった点が大きな違いです。
ここで国司の権力の源泉を見ておきますと、中国の郡大守同様に国司にはこれと言った軍事力を持たせずイザとなれば中央派遣軍が出動する仕組み・・中央の権威頼みでした。
元々国府は元の国造の有する地方軍事力のあるところに上乗せで始まったものですから、権威だけを利用していたのはその性質上当然でした。
山内一豊が土佐に赴任したときには、旧勢力の長宗我部氏は戦争で負けていたのですが、それでも大量の軍事力を持って赴任するのは大変でした。
このような力づくの落下傘部隊だったので、地元に根付いていた国人層・・一領具足との対立が幕末まで300年近くも続いたことになります。
まして古代の国司制度は・・・戦争なしに服属しただけの古代各地豪族の上に制度上いきなり作ったものですから、現地政府を制圧するほどの軍事力を持って赴任するのでは地元勢力との軋轢があってうまく行かなかったでしょう。
それに、朝廷は外敵には征夷大将軍を任命して大軍を派遣してくれますが、日常的地域内小豪族間の紛争(一種のゲリラ戦です)には大軍派遣出来ません。
結局現地従前実力者・・元の国造による警察権的小規模武力が幅を利かすことになります。
古代からの豪族は班田収授法の施行によって次第に経済基盤を失い、平行して武力も失って行きますが、この期間が大分続いた後に私荘園が発達します。
旧豪族・郡司の多くが私荘園主にもなって行ったでしょうが、私荘園間の紛争・警備のために現地武力としての武士団が発達して来ました。
国司は国司の権威を利用して元郡司を含めた地方新興勢力同士のもめ事に介入して(個人的能力によって)存在価値を高めて行ったのです。
権威利用とは国司の仲裁に反して抵抗すると反逆者になってしまうので、今の裁判権を持ったような状態で国司の権威が保たれていたことになります。

律令制による国の制度

5月2日に紹介したように大化改新以降、律令制施行までの間にそれまでの国の造の治める地域を小さく分けて・・喩えば3〜4個の評・(後に郡と改称)にして従来の国を2〜3個合併して1つのクニ・・一国内に郡が6〜7個にするなど規模的再編成があったようです。
このときのクニの名称や範囲がapril 28, 2011「くにと国」で疑問を書いておいた江戸時代末(正確には明治4年11月の府縣統合)まで続いた国郡制の基本(後に若干の変更があります)だったと思われます。
ただし、上記の従来の国を細分化して郡にして、これをさらに併合して従来よりも大きな国を作る実際の数については、わたしの比喩であって正確には分りません。
ただ日本書記では、ずっと昔の実在するかどうか不明の成務天皇の時代に国を山脈など自然の地形で区切って作ったように書かれていますが、これまで書いて来たように元は大和朝廷成立時の地方豪族の支配地ごとに国の範囲(大きな山脈を越えた飛び地支配は困難ですから当然自然の地形に似ているでしょう)・名称があったのを、大化の改新以降律令制導入に向けて(かなり無理な)統廃合をして新たに国の範囲・名称を決めたものと考えています。
例えば今でも南北対立の激しい長野県・信濃国をウイキペデイアで見ると
「7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした(当初は科野国)。」
「721年(養老5)から731年(天平3)まで信濃国から諏方国(すわのくに)が分置されたこともある。」
「645年の大化改新で科野国[8]が設置され、704年(慶雲元)の国印制定により、「科野」から「信濃」へ国名表記が改められた。」
「新政権は大化から白雉年間(645~654)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」(コオリ)と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊奈評・諏訪評・束間評(今の筑摩郡のことでしょう)・安曇評・水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評などが成立していたと考えられている」
とあります。
私の想像によれば、長野県の南北対立は明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県とこれに引き続く同年11月の第一次府縣統合によって、筑摩縣と長野縣に分かれていたのが、1876. 8.21の第二次府縣統合で長野県1つになったことから始まったように思われていますが、もっと古い対立があるように思えます。
古代のクニ制度改変(国をコオリ単位に細かくしてこれを再度まとめて「くに」と言うようになった)時に千曲川流域を中心とする水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評(千曲川流域)地域(もとは國)と現在の松本・諏訪地方を中心とする伊奈評・諏訪評・束間評・安曇評地域のクニを無理に合併させたから、こんな結果が今でも続いているのではないでしょうか?
信濃の國は壬申の乱で大海皇子側について勲功があったと言われていますので、(逆に千曲川流域地方は大友皇子側についた?)その論功としてもしかしたら、山を越えた千曲川流域までまとめた大きな1つのクニ・支配下にして貰った可能性があります。
壬申の乱に匹敵する明治維新で言えば、千曲川流域地方の勢力は早期に官軍側についた(真田家などは当初から官軍でした)のに、筑摩郡を中心とする勢力は徳川家の息のかかった大名が多かったことから、(例えば会津藩の始祖である保科氏は、高遠城で養育されました)県庁所在地を辺鄙な水内郡の長野村(今は長野市ですが・・)に持って行かれた可能性があります。
1つの国としては他国に比べて面積が大きすぎる外に郡の数が多すぎますし、間に大きな山並み(・・今はトンネルもあるし車で山越えは簡単ですが・・)があって、古代から1つの生活圏だったとは考えられない地形です。
大和朝廷成立当時としては北の果てに諏訪大社(信濃国一宮)があるのは、こうしたいきさつによると思われますが如何でしょうか。(単なる私の空想です)
周辺の同じ山国(海のない地域)・・例えば甲斐の国や飛騨の國はそれぞれ1つの盆地状のまとまった地域です。
その他はそれぞれ海路または水路で一つの生活圏をなしていた感じですが、信濃の国だけは南北が大きな山並みで分断されているのに無理に1つにして来たのが現在に至る南北対立の根源になっているのではないでしょうか?
戦国時代は殆どのクニで先ず国内諸豪族のヘゲモニー争いから始まって国内統一が出来てから、隣国に押し出して行くのが普通ですが、信濃のクニでは国内統一して外敵にあたる機運がまるでなく、武田と上杉両勢力の草狩り場になったのは、クニとしての一体性を欠いていたことによるでしょう。
明治で大きな縣を作るために、いくつかのクニ・地域を合併させた福島県や静岡県(伊豆、駿河、遠江)などと同じ地域対立が古代の律令制施行時から続いているのです。
福島県は大和朝廷成立時には、北辺の陸奥の国の一部でしかなく、独立のクニとして分離成立するのは大分経ってからのことです。
現在知られている岩代の国と岩城(いわき)のクニに分かれ命名されたのは、明治維新直後の数年程度のことです。(直ぐ縣制度に移行しますので・・なくなってしまいました)
718年(養老2年)に石城国と石背国が分離独立したこともあるようですが、前9年の役など蝦夷との関係が怪しくなると陸奥のクニに再編入されて以降、国として一体化したことがなくまとまらないまま(戦国時代も大名が乱立ですし、江戸時代も会津松平家を除けば小大名の乱立で)明治まできたのです。

州の刺使と国司

中国の場合、これまで何回か紹介しているように古代から清朝が辛亥革命で倒れるまで約3000年間?ずっと専制君主制ですから、國を功臣や親族に与えるのは領地のホンの一部でしかなく、その他殆ど全部が州や郡縣(直轄領地)です。
しかもそれは政権草創当時だけで(成立時に協力してもらったお礼をしなければならないので・・)皇帝権力が安定してくると少しでも直轄領地を増やして行くのがそのやり方です。
日本の場合政権成立直後が政権の最大で、徐々に中央権力が縮小して地方政権が強くなっていくのが原則だったのとは反対ですが、これは日本は細かな地域に分かれた水田耕作社会であったことに帰するのです。
北条家が鎌倉幕府執権職で独裁的権力を握った場合でも、一家だけで握れず多くの北条家に分化しながら持ち回りで執権職をやっていたように一定規模以上の領有を維持しきれない社会です。
逆に明治以降中央集権化が成功し、戦後の地方自治制度が形骸化している(自治体警察などは直ぐに形骸化しました)のは、産業構造の中心が稲作社会ではなくなったからです。
政治家が地方主権を唱えても、経済基礎に反した構想は意味を持ち得ませんので、せいぜいトキの政権攻撃材料に利用して国民の歓心を買うための減税党があるのと同じです。
減税だけでは国家運営を出来ないでしょうから、何を考えているの?単なるバラマキ政党と同じです。
経済活動のグローバル化を前提にすればむしろ地方行政単位は広域化の時代でしょう・・今回の震災被害の結果を見ても部品不足その他広域対処が必要なことがもっと明らかになった筈です。
前漢でも政権成立直後は(韓信のような)功臣を遇するために国を与えたりしましたが、政権の基盤が出来てくると徐々に取りつぶしたり国の権限を縮小して行ったので、景帝の時代にこれに不満を持った呉楚7国(王)の乱・・抵抗が起きるのですが、この抵抗を待って、皇帝軍が叩きつぶして、次の武帝の時にはついに郡国制がなくなってしまう・・全部直轄領・・郡縣制になってしまいます。
我が国の場合5月1日に書いたように朝廷であれ、将軍家であれ直轄領地を殆ど持たないのが原則ですし、あったとしてもそれを家臣に分知して譜代大名に治めさせるのでその家臣が力を持ってしまいます。
(足利時代の大大名・・応仁の乱を引き起こした管領の細川家も元は足利一門です)
漢時代の各地方の郡大守は地方派遣の公務員でしかなかったうえに、彼らに軍事警察権を与えていなかったし、世襲の地位でもなかったので彼らは任期中目一杯私腹を肥やす傾向がありました。
(これが農民暴動に発展して漢王朝が崩壊して行くのですが・・・専制君主制の場合、側近(外戚または宦官)政治になる→賄賂政治になるのが避けられない法則です。)
この汚職横行を改善するために、武帝は郡大守を監察する目的から監察官がいくつかの郡を監察する管轄区域として州制度を始めたことを5月5日紹介しました。
州は地名ではなく観念的な管轄区域の名称が始まりになります。
現在スーパーなどの多数店舗経営の場合何店舗かまとめて仕入れるなどの広域担当者を置いているのと同じ発想だったでしょう。
大和朝廷成立時の各国造は、軍事警察権を持つ半独立国(造あるいは地元豪族が領域内の税収をどう使おうと勝手・・使い込み・汚職の概念がないのですから、彼らの上に「不正」を監察する目的の役人を派遣する余地がありませんでした。
律令制を始めるにあたって漢が州を作ったのに倣って、元々の国の領域を狭めていくつかの評・郡に分割しておいて、これら少し小さくなったコオリをまとめて1つの単位を作りますが、これを州と言わずに元からある国(くに)としました。
しかし、漢の制度に倣って監察するには無理がありますので、「不正取り締まりではなくキチンと政治をしているかの親心?での監督のために似た名称の国司を置いたのが日本的と言うところでしょうか?
国司は昔からある国造を引き継いだ郡司の上にいきなり作った制度ですから、当初は(その後次第に権限を増やして行きますが・・・)せいぜい郡司らの意見調整(司会の司)ときちんと政治をしているか/ひいては朝廷に逆らわないように監督するくらいしか仕事がなかった筈です。
刺使が後に牧になると事実上支配権が強くなって行き、管轄下の各郡の意見調整して支配する方向へ進みますので、前漢の武帝が州に置いた監察官と結果的に職務が似ていたことになります。

郡縣・郡国制から州縣制へ

  
漢字導入時期は5〜6世紀と言われ、しかも王任と言う人の名を教科書で習った記憶ですが、実際には、交易を通じて人の交流があれば(渡来人も住み着いていました)徐々に入って来て気のきいた人が使い始めていたものでしょうから、彼がまとまった千字文を紹介したと言う程度のことでしょう。
ですから、本来誰が何時とは言えない性質のものです。
5月3日には中国の郡縣制ないし郡国制はなくなっていたと書いてきましたが、この際私の想像だけではなく実際の文献で紹介しておきましょう。
諸葛孔明の出師の表では既に州が出てきます。
「天下三分して益州疲弊す」
がこれです。
いつからかは不明ですが、後漢最後の三国鼎立直前の頃には既に州縣制に移行している様子です。
ちなみに第6代景帝のときの呉楚7国(王)の乱があって、これを鎮圧してからはいわゆる郡国制は消滅に向かい、次の武帝の頃からは全国が郡縣制となり皇帝が完全に掌握するようになっていました。
第7代武帝の時に郡大守による不正が横行したためにこれを監察するために全国に103あった郡の上に全国に13の州(冀・兗・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・朔方・交阯の13の州(最後の二つは郡))を作ります。
州1つごとにに州内の郡大守の不正を監察する刺使を置いたのが始まりです。
郡大守の格式に比べて刺使の格式が低くて監察の実が上がらないことと、州の軍事権を持つ州の牧制度が始まったことから、監察権を州の牧に与えるようになり、その後監察権が刺使に戻ったりある郡では刺使、ある郡は牧と言うように刺使と牧が並列したり、州の牧が権力を握ったりしている時期が続きましたが、結果的に州の軍権を一手に握るようになった牧が優位になり、牧が郡の行政権まで握るようになって行ったようです。
州内全部の郡の行政権を握るようになれば、結果的に州単位の行政になります。
中央集権国家では、郡の大守は行政権だけで軍権や警察権がありません
(我が国でも大名時代には、軍事力と警察権がありましたが明治以降の県知事や市長・・官選でしたので彼らが警察権や軍事権を持っていなかったのと同じです・・戦後地方自治制度になって地方自治体ごとの警察権を持つようになりましたが、これは直ぐに実態をなくして行きます)
何時の頃からか知りませんが州の「牧」は州(地方の)の軍事力を持つようになって行きましたので、(今で言えば軍管区長官?)中央権力が弱体化して動乱期になると地方で軍事力を持つ州の牧・・州単位が重要になってきます。
三国志でよく出て来る「徐州の牧」豫州の牧になったと言うくだりは、その州(郡)の軍事力を手中に収めたと言う意味です。
所によっては逆に郡の大守が実力を持っていて隣の郡も併呑して強大な軍事力を持っていたこともあるでしょうが、事実上の権力移行期には、いろんなパターンがあってもおかしくありません。
後漢以降・・特に黄巾の乱以降は中央政府はあってなきが如しでしたが、郡の大守には基本的に軍事力がなかったので、動乱期には奪い合う対象でなくなり、独立の意味がなくなって行ったのです。
州の牧の独立性が高まる・・行政権も掌握して行くと、その下部に位置する郡の大守や県令だけを中央で任命して派遣することが不可能になりますから、州内の行政組織もその州の牧ごとのやり方になって行ったことでしょう。
上記の通り州の権力と郡の統治権が競り合った結果、州の政治権力の方が優位になって行ったいきさつがあるので、州権力の定着に応じて郡大守と郡の政治自体が消滅して行ったと見るべきです。
各州には大きい州では120くらい小さな州でも5〜60くらいの縣城がありましたから、治安の悪い動乱期には軍事拠点でもある城を中心に行政が行われ、中間の郡の役割が消滅して行ったのだと思われます。
ちなみにウイキペデイアのデータ(何時のデータか不明ですが・・・)によると最大の益州(この中に巴郡や蜀郡がありました)で118の城、戸数1526257、口数7242028、荊州で117の城、戸数1399394口数6265952、徐州で城数62、戸数576054、口数2791693、最小の交州で56の城、戸数270769です。
(ついでですが、一戸当たり4人平均程度の人数で、以前から書いてきましたが昔から核家族だったことが分ります。)
郡が制度としてなくなったのではなく、中央の権力衰退に応じて事実上衰退・消滅して行ったと見るべきでしょう。
これが何世紀も続いているうちに地名を現すのに州名が原則になって行くのです。
ただ人名の説明をみると、かなり遅い時代でもその生地として「何々郡◯◯の人」と言う説明があるのは、上記のように法制度としてなくなった訳ではないから史書ではこのように書いているのでしょう。

大化の改新と中央集権国家化

古代からずっと専制君主制・中央集権国家できた中国では地方官吏を自由に任免する制度しかないのですから、専制君主制が馴染まない風土・・地方小豪族を無視出来ない国柄の我が国の地方制度に同じ漢字を持って来て当てはめるのは、意味が分れば分かるほど無理があったことは確かです。
言うならば中央集権・専制国家の地方制度・・これに基づく熟語をそのまま我が国に持ち込むのは無理ありました。
・・このために我が国独自の造語・・後に書いて行きますが「国司」「郡司」が出来て来たと思いますが、白村江の戦い(663年)で負けた我が国としては国内一丸にならねば唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされてしまう恐怖感があって、しゃにむに天下統一・・国内部族連合から、中央集権国家化・国軍編成が急務でした。
弱肉強食の西洋列強が押し寄せる中で、中央集権国家化を急いだ明治維新のときと状況が同じでした。
大化の改新以前には、国造よりは少し支配服従関係の強い朝廷直轄地の一部支配を認められているアガタ主(旧豪族)に縣を当てたりするなど微温的と言うか国内実情に合わせた間接統治体制だったのでしょうが、そんな悠長なことでは間に合わない緊迫感下にあったのが白村江敗戦以降の国際情勢でした。
国内再編の大型事件としては、天武・持統朝成立に関する壬申の乱でしょう。
壬申の乱は単なる朝廷内の勢力争い・・クーデ・ターに留まらず、大和朝廷の国家枠組みを変革する大事件だったことになります。
この辺に関する私独自の解釈については、02/03/04「吉宗以降の改革とフランス革命」で少し書いています。
この結果、朝廷親衛軍が強化され国内諸豪族の支配地返上の気運が盛り上がります。
この機運に乗じて先ずは、朝廷の支配領域から、アガタヌシによる間接統治をなくして行った・・模範を示した可能性があります。
薩長土肥が先ず自分の兵を明治新政府軍に差し出したのと同じ流れです。
白村江の敗戦以来、朝廷は国内統一・集権化の先がけとして、服従度・忠誠心の高いアガタヌシに率先垂範を求めた可能性があります。
ご存知の通り律令制導入の経済的基礎は、朝廷が版籍を全部把握した上で公民に区分田を支給する班田収受法ですから、中間の豪族を不要にする制度設計・・中国同様の専制君主制に編成し直す試みでした。
兵士も各部族から拠出するのではなく、朝廷が直接把握した名簿(戸口)によって防人としてあるいは租庸調の1つとして公民を個人的に徴兵して軍務につくようになります。
部族の私兵がなくなって行くので、明治維新で薩長土肥が藩兵を提供して国民皆兵制・・徴兵制に切り替えたのと同じやり方です。
これが一時的に大和朝廷成立前からの旧勢力の力を削ぐのに成功し、大和朝廷成立時の旧豪族は宮廷貴族化していきます。
彼らは最早自前の兵も地盤を持たないので、中央で失脚すればおしまいです・・この象徴的事件が菅原道真や伴大納言の失脚でしょう。
しかし、これは中央の制度問題に過ぎず、我が国の社会実態・・・・基礎的産業構造は谷津地など狭い丘陵地の間の水田を基礎とする農業社会である実態が変わったわけでないので、中央による直接管理は無理がありました。
全国一律の暦を配っても神棚に上げておくような実態については、03/04/03「桃の節句 2(旧暦と新暦)」や11/26/05「日本に科挙が導入されなかった理由2(地方分権社会2)」等で紹介しました。
10世紀頃からは旧豪族に代わって新たに生まれてくる地元勢力・荘園に蚕食される一方となり、戦国乱世以降は全部大名領地となって朝廷把握の領地は皆無・・逆に徳川家から支給される関係になってしまいました。
版籍の全面回復は、明治の版籍奉還・廃藩置県(古代史の名称で言えば荘園の廃止)まで約900年間待たねばならなかったのです。
明治の版籍奉還(荘園廃止)が、大和朝廷による中央集権の最終的完成であったことになりますから、大和朝廷の成立は明治2年(1869)と言うことになるのでしょうか?
版籍の「版」とは版図・範囲のことですから、その実務を行うためには地番を正確に付し、地積を測量して行く作業が始まり、(土地登記制度によって完成します)版籍の「籍」とは戸籍のことで戸籍整備作業が続いていたことを、February 15, 2011「戸籍制度整備1」からApril 12, 2011「戸籍制度存在意義3(相続制度改正1)」までのコラムで紹介して来た通りです。
大化の改新以降中央集権化を計る場合、大きな部族が抵抗すれば戦などで滅ぼして行けますが、小さな部族は稲作に必要な基礎集団なので残して行くしかなかったので国造から郡司さんに格下げされながらも残りましたが、それでも國のオサから郡のオサに権限を縮小して行くのです。
州や縣長官制度は、当時の唐の現役の制度でしたので我が国だけ終身制の縣の長官アガタヌシ制は誤った漢字の使用法となるので落ち着きが悪かったでしょう。
郡長官も中国では元は中央任命の官吏ですが、律令制導入時には既に郡が実在していなかったので(地名としての郡名が残っていても郡庁制度があったかどうかと言う意味です)終身乃至世襲制の郡司(国造の横滑り職)に持って来てもボカし易かったので、郡司に利用出来たのかも知れません。
世襲制(実質は民選)の郡司の下に中央から派遣した県知事を置くことは指揮命令系統上不可能ですから、この時点で縣制度は存在出来なくなりました。
その内に国司の権限を強化して郡司の権限を縮小して行く計画・心づもりではあったでしょう。
国造を横滑りさせたにも拘らず「郡主」ではなく「郡司」にしたのは、政府任命によると言う意味・・世襲出来るのは飽くまで事実上の権利・期待権でしかないことを強調したかったからでしょう。
そうは言っても徳川家家臣の形式をとっても外様大名の子孫は事実上の世襲権を持っていて、これを剥奪出来なかったのと同じです。
実際に同時に出来た国司は、任期制が貫徹されていて最後まで世襲出来なかったのですが、却って地元に定着している郡司に次第に実権を奪われて行きます。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。