ポンド防衛の歴史6(ポンド自由化圧力)

ポンドを自由化すれば、ポンドが強いときにはポンドを買う人が増えて資金が流入しますが・・・ポンドが世界の基軸通貨の地位を退いて久しく弱体化進行中の戦後において、ポンドの換金自化をすれば、ポンドのドルへの交換を通じた資金流出・ポンド預金の払い戻しが生じます。
大戦前から終戦時までにはイギリスのスターリング域内諸国への債務・・域内諸国のイングランド銀行への預金残高=イギリスにとっての対外借金は100億ポンドにも膨らんでしまいました。
第二次世界大戦終結時にイギリスが戦前から保有していた対外債権を売り払ってもポンド換算で僅かに11億ポンドしかなかったために、アメリカ、カナダからの54億ポンドの借款しても、まだ35億ポンドが不足していたと12月1日に紹介した名古屋大学教授金井雄一氏の「基軸通貨ポンドの衰退過程の実証的研究」では書かれています。
11月29日の「自国通貨が逆流した場合」で、円資産の海外保有の増加は、目出たいことではなく対外借金の変形である・国力低下時に払い戻しの債務になるリスクのテーマで書きましたが、ポンド預金が債務に転化して困った事例の1つです。
基軸通貨の地位を滑り落ちて行くとき、それまで外貨準備となっていたポンドのドルへの乗り換え圧力・・ポンド売りの巨大な負担でイギリスが戦後何十年も苦しむことになります。
円も今は元気がいいですが、いつか下り坂になれば海外に出回った分だけ売り圧力に苦しむことになりますから、円の海外保有が増えるのは将来の借金を増やしているようなもので、そんなに良いことではありません。
大幅な国際収支マイナス状態・・ポンド売り圧力下で終戦を迎えたイギリスは、ポンドを自由化すればたちまちドルへの換金ラッシュに見舞われるので、アメリカから求められても容易には応じられません。
イギリスが保有する外貨・ポンド換算約6億ポンドだけでどうやって凌いで行くか解決策が見えない中で戦後経済が始まったので、戦後イギリスの経済はポンド自由化の要求(世界世論)との戦いでした。
戦勝国・・大英帝国の栄光を背に人並みに自由化したいが、そのためにはポンドの買い戻しが必要なので大変だったのです。
敗戦国の日本やドイツは廃墟の中からの復興が始まり・・今で言えば復興景気に沸いたことになりますが、戦勝国のイギリスの方は、借金の返済から始まるので、ナチスにやられた爆撃の後を直すことすらママならない状態で、戦後の用意ドンが始まったのです。
戦争には負けたものの日本は世界中から孤立して戦っていたので、対外債務が多分ゼロみたいな状態で始まったように思えますから、(お寺の鐘まで供出するほど国内資源を食い尽くしていたので、敗戦時にはみんな飢えに苦しむ生活でした・・国民に対する借金・・国債や公的債務は一杯あったでしょうが、対外債務がなかったように思えます)海外植民地を失ったとは言え、逆に身軽に本国だけの一点集中の復興が出来たこともメリットでした。
(軍事費ゼロで始めたことも大きいのですが、これは誰もが知っている通りです)
ドイツに至っては本国さえ西側半分余になったので再建する分が少なかったので日本よりも早く立ち上がれたのかも知れません。
この点イギリスやフランスは、荒廃した本国の改修・再建どころか、日本支配から戻って来たインドシナ半島などの植民地へのテコ入れが必要で、それが不十分だと独立運動などに悩まされるなど余計な出費が続いたのです。
結局維持し切れずに手放しますが、そこまで行くには膨大な出費がありました。

ポンド防衛の歴史5

イギリスは1939年対ドイツ戦開始後数次にわたる為替管理政策の結果、域内の基軸通貨国としてウマい汁を吸って来たので、戦後もこれを維持をしたかったし、するしかなかったのがイギリスの立場でした。
(いきなり解体すると100億ポンドものポンド預金残高・債務の決済をしなければならないので破産してしまいます)
自由貿易主義のアメリカは戦争中からスターリング地域の解散・解体を求めていたので、(アメリカ主導のIMFの基本合意が出来たのは戦時中でした)アメリカに助けてもらっているイギリスとしては戦争が終わるまでは特別扱いを許されるとしても、戦争が終わった後もいつまでも為替規制によるブロック経済を存続し続けることは不可能な政治情勢でした。
IMFを国際通貨基金と訳しているように、国際的な為替規制ルール不備が貿易戦争・・ひいては大戦の引き金になった反省で戦後の最も重要なスキームとしてアメリカ主導で戦時中に基本協定が成立していることから分るように、為替規制が必要なときのルール化が創設目的でした。
学校では戦後体制として国際連合の創設しか教えられませんが、国際連合は政治の枠組みであって、政治を規定する経済の枠組みの創設がその前提として重視されていたのです。
ですから、IMFは国連が出来ると直ぐに国連の正式機関として位置づけられます。
国際通貨基金が実効性を持つには大きなグループであるスターリング地域の解消・・なわちポンドの為替規制の解除・自由化が求められていたのです。
大戦突入の経済要因としてブロック経済化と教科書で習いますが、その技術的基礎は為替規制にあったからです。
ブロックの名称をイギリス貨幣の名称である「スターリング地域」というのは、まさに通貨の共通化・・貨幣交換性拒否による閉鎖経済を意味することになるからです。
IMFは戦時中の1944年のプレトンウッド協定で合意された戦後の経済枠組みで、発足は1946年3月29カ国で創設・・日本は52年加盟と同時に理事国になっています。
私たちは、ミッドウエー沖海戦・レイテ島沖海戦やノルマンディ上陸作戦等の戦争現場ばかり目を奪われていますが、連合国内部(血は水よりも濃い筈の英米間)では、戦後経済のあり方に関する熾烈な経済戦争・政治交渉が続けられていたのです。
アメリカは悲惨な戦争の原因がブロック経済化にあると考えていたことは・・これが戦後アメリカ支配下の我が国の歴史教科書の基本思想になっていることからも明らかです。
これに加えてアメリカは戦時中に連合国援助向けに拡大した供給力のはけ口として戦争が終われば世界市場の自由化・拡大を求めていたので、閉鎖経済の象徴のようなスターリング地域の存続はアメリカの意志・思想だけではなく、経済利害にも反していたのです。
イギリスはいつかはポンド交換性を回復をするしかないことも分っていたので、前回紹介したようにケインズによる「国際清算同盟案」を策定したりして努力していましたが、スターリング地域内での借金が増えるばかりで解体・ポンド交換性回復の具体案が出来ないまま終戦を迎えたのです。

ポンド防衛の歴史3

英連邦諸国は弱いポンドとリンクすることによって、交易上有利な地歩を築き(為替切り下げ競争に成功したのです)スターリング諸国の域外国との貿易黒字が増加しましたが、黒字分はポンドで預金されたままになるので、イギリス単体では貿易赤字でも、域内国の持って来た黒字分のドルで買い物が出来ました。
たとえば、インド国内で調達した莫大な戦費は、ルピアで調達され、これの支払い債務の方はポンド預金に切り替えられたので、預金という記帳で済ませただけで実際に支払われていませんでした。
イギリスはこれを流用して、諸外国との貿易赤字の穴埋めに使えたことになります。
(終戦時のインドのポンド預金は11億ポンドあまりと言われ、このように、域内に対しては預金通帳の交付だけで支払をしていなかった・・預金残高分だけ対スターリング地域内での赤字が累積していました。
域内・親戚からの借金で、ポンド維持・対外的メンツを保ち莫大な戦費を調達していたのです。
イギリスは戦時中は特殊事情としてスターリング諸国の売上金流用で、自国経済を賄っていましたが、戦後これの支払(返還)に窮することになります。
話題が変わりますが、戦後インドの独立運動が激しくなって行った原因には、この不払い・経済問題の不満が大きかった可能性があります。
スターリング地域の設定は、歴史教科書ではブロック経済の始まりで、このために世界経済が混乱して世界大戦に突入して行ったとされていて、それは貿易の動きではその通りでしょうが、為替切り下げ競争・ポンド防衛から始まった点も見逃せない視点です。
すなわちスターリング地域の結成が結果的にブロック化したのは事実でしょうが、その前にイギリスにとってポンド防衛が急務だったのです。
弱含みのポンドの切り下げにリンクしたことによって、貿易上有利になった英連邦諸国が貿易で儲けた外貨・・ドルや円、マルクをロンドンに持ち込んでポンドに替える→イギリスはこの外貨・ドルで対外決済を出来るのでイギリスの貿易赤字がこれで穴埋めされてポンド下落を防げる・・その代わり域内諸国に対してはポンド債務・・ポンド預金が増える仕組みでした。
言わば今のアメリカが世界の基軸通貨国である結果、貿易赤字分を日本や中国からのファイナンス(アメリカ財務省証券や公社債を買わせて)で資金環流を果たしているのと同じような結果を、スターリング地域の設定によって果たしていたと言えます。
しかし、これも戦時経済の特殊性で許されたに過ぎず、いつかは域内に対する膨大なポンド債務の決済をしなければならないことは重荷として分っていました。
戦争が終わりに近づく1943年4月にケインズの考えによる「国際清算同盟案」が策定され、この頃から、その解体・清算・決済への準備・計画が進んで行きます。

ポンド防衛の歴史2

スターリング地域のポンドリンク制を今のユーロ相場に喩えると、為替相場を利用した貿易競争力の側面で言えば、(為替切り下げ競争は今でも事実上行われています)リンク制は統一為替制と効果は同じです。
現在のユーロに喩えれば、リンク制・統一為替制はその構成国のどの経済に合わせるかに、構成国の損得がかかってきます。
変動相場制下の現在では、ユーロ相場は欧州諸国の言わば平均的能力で相場が決まるので、ギリシャ等南欧弱小国にとっては実力以上に相場が高いことになるし、ドイツ等強者にとっては実力以上に低い相場になるので、交易上有利になって大儲けする国と割高な為替相場によって損をする国に分かれます。
これに対して変動相場制以前の固定相場制の時代には、人為的に基準を決められるので、最も経済力の弱くなった国の基準に合わせれば、そのグループ構成国全部が実力以上の安い相場になるので、全構成国が為替上有利になります。
スターリング地域はこの中で最も経済的に弱りつつあって相場が弱含みで進んでいたイギリスポンドをいきなり2分の1に切り下げた上で、全構成国がこれにリンクしてしまいました。
為替相場をあげても良い筈の勢いのある大英帝国の自治領諸国・新興国まで一緒に半値に切り下げられてしまったのです。
スターリング地域設定・為替相場のリンク制創設によって、英連邦諸国は当時の為替切り下げ競争上・・貿易競争上有利な立場を獲得しました。
(ユーロ圏の独仏等と同じ立場です)
ユーロも最も弱い南欧諸国の経済実力でユーロ相場が決まっていれば、どこも落ちこぼれが起きずみんなが交易上有利になっていたでしょう。
実際はユーロに対する期待感で実力平均値以上に相場が上がってしまったので、南欧弱小諸国は余計苦しくなったと言えます。
スターリング地域に話題を戻しますと、他方でポンド防衛のためにポンドのイギリス支配領域外との両替を、1940年の為替管理令の改正で許可制にしたことから、排他的経済地域としてのスターリング地域が法的に生まれます。
(社会科の歴史で習うブロック経済化の法制度上の誕生ですが、かっちりした制度になるまで1931年から約10年かかっています)
この結果、域内貿易はポンドで決済し、域内の貿易収支はロンドンでのボンド預金の振替作業をする機能になっていったようです。
(世界の金融街シティーの誕生の背景か?・・ロンドンに外貨両替を集中させるためには外為の自由化・・金融取引のセンター機能の強化が必須でした。)
この結果(1931年以降徐々に進んだ制度ですが・・・)自治領諸国が域外との貿易で得た資金は、すべてイギリスでポンドに両替され、そのポンドをドル等との交換に回すので、域内諸国の域外に対する貿易黒字分だけイギリスに滞留するので、イギリスのポンドの相場が下げ止まり・安定しました。
イギリスは、自国の経済力に合わせてポンドを仕方なしに最低限切り下げたので切り下げても赤字基調は変わりませんでしたが、(自国の貿易黒字によってポンド相場を維持したのではなく、)スターリング地域全体の総売上をロンドンのイングランド銀行へポンド預金にさせることによって、スターリング地域全体の貿易収支黒字分だけポンドが滞留するので、ポンド相場を維持出来るようになりました。

ポンド防衛の歴史1

1990年代のポンド危機は、ポンドの無理を衝いたジョージ・ソロス氏の仕掛けが成功したものでした。
(これがひいては、韓国などがIMF管理になった1998年頃のアジア通貨危機に連なったのです)
日本は円の海外流出量以上の外貨準備を持っているか、取り付け騒ぎが起きないように貿易黒字・国際収支黒字を維持していれば、円相場の上昇期待があって売り浴びせがおきません。
これに反して国際収支の赤字が続き且つ流出している自国紙幣量よりも外貨準備が小さいときに、これに目を付けたファンドからの先物を利用した空売り・・売り浴びせが起きるリスクが高まります。(彼らは成功する目算があって仕掛けるのです)
ポンド危機と言えば、そのずっと前・・イギリスが基軸通貨国の地位をアメリカに奪われるつつあった1920年代から戦後間もなくの頃までの世界経済の主要テーマでしたが、私が1950年代後半から60年代初め頃に目にしていた新聞記事には、連日のようにポンド防衛がどうしたこうしたの連続でした。
(その頃はまだ中学生頃だったか・・経済的な意味までは理解不能でしたが、ポンド防衛の文字の氾濫だけが記憶に焼き付いています)
大恐慌直前頃から、イギリスは、貿易赤字によるポンドの為替相場下落だけではなく、その結果として基軸通貨国の地位を追われるつつあったことから、いわゆるスターリング地域の設定に走ったのですが、第二次世界大戦終結とともにスターリング地域の解体要求に直面しました。
スターリング地域に関しては、ブロック経済化の流れで08/25/05「大英帝国から英連邦今ではEUの1国に(ポンドの地位低下)」で紹介したことがあります。
スターリング地域諸国の外貨準備はすべてイングランド銀行のポンド預金になっていたので、スターリング地域の解体となれば、イングランド銀行に大量にポンド預金されていたポンドの持ち高削減(借金返済)圧力に曝されていたからです。
ポンド防衛については中学生頃に新聞を呼んでいた断片的記憶ですので、この辺の詳細についてネットで検索してみると、本日現在平成17年名古屋大学教授金井雄一氏の「基軸通貨ポンドの衰退過程の実証的研究」がPDFで読むことが出来ます。
イギリスは、台頭しつつあったアメリカに基軸通貨国の地位を脅かされつつあって、さらに大恐慌による世界中の為替切り下げ競争に対応して低下した自国の経済力に合わせてポンドを約2分の1に切り下げています。
上記論文によれば、1931年にポンドの金本位制廃止と同時にイギリス自治領諸国も一緒に金本位制をやめて今後はポンドに自国通貨相場にリンクさせることを決めました。
(自治領諸国の中には実力が向上して為替切り下げどころではない国々があったので、これらの国々は対外貿易上極めて有利になりました。)
同時に自治領諸国は稼いだ外貨をロンドンで全量ポンドに両替してイングランド銀行にポンド預金をすることにしました。
域外国に対しては統一為替相場制(リンク制ですから今の統一ユーロの先がけです))となり、これがスターリング地域の始まりですが、実際には以後しょっ中制度が変わり参加国も変わっています。
この結果、上記実力低下の著しいイギリスのポンドの切り下げ分の恩恵を困っていない域内国も一緒に受けられたので、域外貿易を有利に進めることが出来るようになったらしく、その儲け・・外貨準備をロンドンに集めることに成功しました。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。