イギリスの場合、ポンドの基礎体力が回復した訳ではなく、12月10日に紹介したように成長率は低いままでしたが、戦勝国・老舗として参加しないのは格好が悪いということでのIMF8条国参加ですから、自由市場に参加すれば市場の実力試しの洗礼を受けます。
1947年の自由化のときに比べれば49年に大幅に切り下げた後ですし、既にスターリング諸国その他によるポンド保有資産(ポンド売り圧力の源泉です)が減っていたので売り圧力が低いとみたのでしょうが、それでも直ぐにポンド売りの攻勢を受けます。
これが61年から始まる外国為替市場でのポンドの売り浴びせ、と買い支え・・私が新聞に関心を持つようになった中学生〜高校ころのポンド防衛に関する連日報道に連なっていたのです。
ただし、その頃は90年代のソロス氏のようなファンドマネージャーが発達しておらず(手法も限られていたでしょう)まだ「チューリッヒの小鬼」という程度のメンバーでしたので、短期間に巨額の売り浴びせが(当時も空売りの手法があったとしても規模が小さかったでしょう)出来なかったので、かなり長期間の抵抗が可能だったようです。
1961年から長期化するポンド防衛戦争(市場の洗礼に曝されるようになった)が始まるのですが、遂にはこれに耐え切れずに1967年にポンドを1ポンド2、80ドルから2、40ドルへと約14%切り下げて漸く落ち着きます。
ただし、このときは南アフリカやインド、オーストラリアなど多くの諸国がリンクしませんでした。
こうしていわゆる英連邦諸国プラスαのスターリング地域にとって閉鎖的なポンド経済を維持するメリットがイギリス本国も構成国どちらからも次第に失われて行く流れが定着し、イギリス本国のEU加盟(1973)に繋がって行きます。
72年以降イギリスは変動相場制に移行したので、以降は市場の実力相応の変動によって上下する筈でしたので、国の威信がかかった「切り下げ」という政治ショウが不要になったはずでした。
ただ、イギリスは欧州の経済統合への参加という戦後の宿命的課題があり、(欧州の一員になるか英連邦にこだわるか)欧州には統一通貨ユーロ成立前段階の欧州通貨制度(EMS)があって、イギリスはこれとポンド相場の連動性・ERM(欧州為替相場メカニズム)を採用していました。
と言うことは、実質的にはイギリス単体の実力による変動相場制を修正して欧州全体相場にリンクする半端な変動相場制度だったと言えます。
イギリスは、一時北海油田の御陰で国際収支が堅調になったのですが、その枯渇に連れて再び戦中戦後連続していた国際収支赤字基調に戻っていたらしいのですが、上記連動性の結果、相場が経済力の変化に比例して修正されないままとなっていたのです。
東西ドイツ統一(1990年)後の復興資金需要によって高金利化していた欧州諸国の為替相場が上昇基調にあり、連動してポンド相場も上がっていました。