構造変化と格差6(水平移動から垂直移動へ2)

ここ20年以上にわたるグロ−バル化の進展による国内企業の海外展開と国内生産の縮小は賃金格差(日本の突出した高賃金)がその基礎にあるので、石炭産業だけ・繊維だけ等の特定業種が駄目になる場合と違い、単純作業的職種すべてにわたって海外進出に向かいトキの経過で逆輸入も増えて来ました。
国内大量生産は縮小する一方になったので、現場系職種の人が水平移動的職種転換すべき産業として残っているのは国際競争に曝され難いサービスや介護・福祉中心になりました。
いわゆる3K職場もその現場で働くしかないことが多いので輸入競争に曝され難いのですが、その代わり外国人労働力が早くからこの穴埋めに入ってきますので、その分野の仕事も減ってきつつあります。
20年ほど前にイギリスやフランスへ行ったときに道路清掃などしているのは殆どが黒人でした。
外国人労働力を入れようと主張する人々は、3Kだけではなく車製造工場のような一般的職種にも外国人を導入して工賃を安く上げようと言うことでしょう。
これではただでさえ労働需要が細っているのに、日本人の多くは失業者ばかりになってしまいます。
いろんな理由を上げて外国人労働力の導入に01/04/03「外国人労働力の移入1」以下で連載しましたし、その後もあちこちで反対して書いている理由の1つです。
今回の構造転換では、高度化産業に這い上がれたかその能力を維持出来た人だけが高収入を維持出来ていて、その他の単なる近代工業労働者あるいは商店店員等になるだけでは職場需要が縮小する一方です。
(後進国の労働者と同じことしか出来ない人が、後進国の何十倍もの賃金を得続けるのは無理です)
今や、彼らの多くが非正規職に就くか失業の危機に陥る社会が来てしまいました。
新興国でやれる単純作業分野の職場が減れば、その分野では需給の力・市場原理が働くので溢れた労働者の立場が弱くなり、失業か非正規雇用=ワークシェアリング等に傾斜して行かざるを得ません。
労働者の人権等の関係で市場原理万能ではなく法によるある程度の修正(社会法の原理)は必要ですが、市場原理をまるっきり無視して法の力で強制し過ぎると、無理して国内残留している企業の海外進出を加速することになり、国内再編が急速に進み過ぎます。
遅かれ早かれ輸出向け大量生産部門は100%近く国内から出て行くにしても、激変を避けるために少しでも国内工場の閉鎖を遅くするように努力するのが政治の役割です。
労働者を守るために無理な労働条件を押し付けると、却って海外脱出が加速されて結果的に労働者が苦しみますから、政治はこの点を按配する必要があります。
国内大量生産工場の海外移転→国内雇用縮小を究極的には阻止出来ないとしても、これに時間を掛ければ、その間に次世代に入れ替わっていけるので、職種転換がスムースになります。
工場労働者が職を失ったときにサービス業や介護や福祉の職場さえあれば直ぐにそこで働けるかと言うと、工場労働者は対人関係向きの性質でない人が多いので、心理的その他無理がありますが、(接客業に就いても直ぐには「いらっしゃい」と言えないようです)次世代になると適応して草食系・・人当たりが優しくなって来ます。
それに加えて基本的問題点は単純労務に関する労働力過剰にあるので、その間に少子化が進み労働者自体が減少することが大きなメリットになります。
以前から主張しているように、赤ちゃんを増やすより人口減を図るのは急務です・・。

構造変化と格差5(水平移動から垂直移動へ1)

法律の分野でも弁護士は過疎地の法律相談を日当にもならない僅かな費用で分担していますが、公務員になると裁判官や検察官(これら補助職の公務員も)は全国一律給与で
各地に赴任しています。
地域の需要は地域の経済力で賄ってこそ自立していると言えるとすれば、全国平均以下の経済力しかない地方にとっては、全国的一律給与の公務員が配置されること自体も補助金の仲間でしょう。
自治体警察が経済的に成り立たなくなって都道府県警察になったのも、市町村には維持費が出せないことがその主たる原因であったでしょうが、これを補助金の視点で見直せば、零細市町村にとっては自力では維持出来ない高度な治安組織が張り巡らされ、全国平均レベルのサービスを受けられているのも補助金の御陰です。
医療や弁護士、あるいは美術展・音楽等の催し・・サービスを受けるために出かけられないことはないとしても、住民サービスとして身近に欲しいとなれば、地方と都会の支払能力の差額を補助して芸人に公演してもらったり医師等に赴任してもらうしかなくなります。
その地域の支払能力で負担出来ない高額なサービスを受けようとすれば、補助金に頼ることになるので結果的に地元市場経済の支払い能力で決まる低い収入の地元産業=農業等に就くよりは、補助金関連職種に就いた方が高額な収入を得られる結果になります。
ギリシャなどでは公務員だらけになっていると言われるのはそのせいです。
勢い、地元住民の政治・関心は補助金の枠の広がり(老人ホーム建設や弁護士派遣などは従来なかった分野です)や補助率の拡大に向くことになります。
(田舎では、政治家は密接な関係で都会から地方に行くと驚きますよ・・・)
地方公務員自体、過疎地地元の就職先としては一番恵まれた職場になっているのは公共団体の職務の殆どが補助金(の分配等の仕事)で成り立っているからです。
教育費も保育料も老人ホームも中央から回って来る負担金・補助金がなければ、多くの僻地の自治体では現状水準のサービスを提供出来ない筈です。
ラーメン屋等飲食店・理容・美容師、塾ですら、直接補助金をもらっていないとしても、補助金によって水増しになっている農業所得、土木建設や医師・教員・公務員の顧客・・現地消費があって成り立っています。
明治以降元々都市にいた人や農漁村から都市に出て行った人たちはそれぞれに適応して、工場労働者・商店の店員を経て個人経営者までなる人や、公務員、教師、ホワイトカラー等に転進して行けました。
せっかくこうして職種転換に成功した人たちでも、出た先の地方都市が衰退して行き、別の都市に移動せざるを得なくなった人もいたでしょうが、その都度新たに発達した別の近代工業や商業の働き手として転換して行けました。
たとえば、私が身近に知っている例では、石炭産業が衰退すると九州方面から多くの人が千葉の復興住宅(と言う埋め立て地の団地)に移住してきましたが、折りから勃興していた千葉の工業地帯での労働者として多くの人たちが吸収されて行ったようです。
大規模炭坑の閉山に応じて炭坑夫だけではなくそこで営業していた商人、床屋、教師、あるいは事務職等みんな余るので、いろんな人が来たでしょうから、数の多い炭坑夫→工員が目立つだけで元の職種に応じてそれぞれ転身して行ったこと思われます。
日本ではこうしたことを繰り返しながらも、農業→都会近郊の植木屋や土木建設現場系の出稼ぎ職として、農民の次世代は集団就職を経て工員=繊維→電気→車などその都度別の工業生産分野が成長したので、水平的職種転換して何とかなっていました。
(「百姓」というように農民は出稼ぎに行けば、大工の下働きから土木工事、植木屋の手伝い・・現場系の仕事は何でも出来る人たちです。)

構造変化と補助金2(過疎地2)

江戸時代のままの生産力であれば、近代的な立派な橋を架けたり舗装道路を造るには、(いくつもの信号機の設置やガードレールさえ造れないかも知れません。)地元経済の支払能力を超えるので、その差額を補助金に頼ることになります。
江戸時代並みの農業所得からでは、高度医療機器を備えたどこの田舎にもありそうな病院1つ造れないでしょう。
高額所得の医師など雇用したり開業医や小中学校の教員への給与支払が出来るのは、各種補助金の御陰であって江戸時代の小さなムラが合併を繰り返して5000人〜1万人単位になっても、農業からの税だけでは不可能です。
今や江戸時代と違って農家もかなりの所得かも知れませんが、それは生産性が仮に10倍になったから所得が10倍になったのではなく、生産性がもしかしたら2倍程度になっている場合でも、それは補助金による農機具や肥料の購入が出来ることにより収量が上がったり・・莫大な税の投入による耕地整理による合理化効果が大きい面があります。
これに加えて仮に生産量が2倍になったに過ぎないとしても、輸入規制することによる国際市場価格の何倍もの価格を国民に強制するなど農家に対する幾層にもなる各種補助で農業所得が何倍にも上がる仕組みになっています。
現在TPP参加に反対して農業がつぶれるという農業団体の主張自体が恥も外聞もなく声高に言えるのは、車のように丸腰で海外と競争出来ない・・・国民に市場価格以上の割高な農産品を買わせていることを自白しているようなものです。
政治による割高な農産品価格設定の恩恵・・・補助金によって、維新以降個人的努力によって、高度化転換出来た人と江戸時代までとにたようなことをしている人にまで同じ生活水準が補償されています。
この水増し所得を前提に農家が家を建て替えたり、昔買えなかった肉類を買って食べたり車を買ったり医療を受けたり子供が塾に通ったり進学出来たりしています。
この波及効果で、農業地帯にもいろんな商売が成り立っているのです、
農村の場合、公共工事等の直接的補助金だけが目立っていますが、実際には基礎的な生活費底上げ用の補助金こそが重要です。
市場価格以下の協力を求められる弁護士とは違い、医師や教員、警察官等は全国平均の給与をもらえるし、公共工事の場合は民間受注工事よりも割高で受注出来るのが常識ですから、(このうまみのために刑事事件になるリスクを冒してさえ、賄賂・汚職・談合が後を絶たないのです)都会での民間受注並み以上の単価で受注出来ます。
美術等のサービス受益は個々人が都会に出かければ足りますが、工事現場が都会に出かけることはないので、補助金が早くから発達し目立ちます。
出かけられないという観点からすれば小学校等の教育も地元でしか出来ないので、教育(関連の土木工事も含めて)も早くから補助金の対象になっています。
この結果、先生は全国一律的な給与水準です。

構造変化と補助金1(過疎地1)

個人レベルでは、飽くまで衰退して行く地元に残っている人の中にも農漁業に固執する人もいれば、中央からの補助金期待の土木建設業その他に転進する人もいたでしょう。
地元に残っている人は郷土愛の固まりかと誤解しがちですが、(震災報道はそう言うイメージです)中央からの地方交付金や各種補助金は、個々人に配られるのではなく地方公共団体経由ですので、この補助金に群がって(いるつもりはないでしょうが・・)地元に生き残る人も多くいました。
補助金目当てに生き残っていると言えば、土木建設業ばかり連想しますが、実際には多くの教員、保育士、医師関連職種、地方公務員、個人商店も実は同じ人たちです。
過疎地の医師は元は地元で代々医師をしていた人でしょうが、今では中央から派遣されて義務感で赴任してる人が多いので、補助金の恩恵に浴していないように見えます。
過疎地の医療保険は独立採算であればとっくに破綻している筈ですから、地元経済に限定すれば医療費支払能力が大幅に縮小している筈です。
全国の平準化した保険料と国庫負担金が中央から回って来るから、過疎地の医療財政は成り立っているし、派遣される医師も存在・高給が支給されるのです。
我々弁護士需要でも、日弁連補助金で過疎地に法律事務所を設置したり、国庫金による法テラススタッフ弁護士が、過疎地の法律需要に対応していますが、地元の支払能力のみであれば、これらの設備・事務員等の維持が出来ません。
そもそも補助金とは何かですが、地元の経済水準による支払能力が低すぎると、都市でその何倍も高額収入のある職種は寄り付きませんので、(例えば芸術家やタレントは一日1〜数万円で公演してくれと言われても応じられないでしょう)都会に出かけて行くしか近代文明の恩恵に浴せません。
教育者に来てもらったり芸能人に公演してもらったり、不採算の医療その他の専門家に来てもらうためには、何らかの補助金でその一部を負担し、(医師や教師は相場の給与で赴任するみたいですが・・)残りは弁護士等の公徳心による減額(採算割れ価格)で成り立っています。
ちなみに弁護士にとっては、過疎地の法律相談に行ってると、事務所維持費が出ないので、事務所経費負担がいらないイソ弁等若手が分担している状態です。
東北の震災被害の法律相談もそうですが、当事者がその費用負担能力がないので、日弁連が担当者に交通費の外に一日3〜4万円支給して現地相談を行っているのですが、これでは事務所家賃・事務員の給与その他経費にすらならないので、赤字で協力している関係です。
(日弁連はどこからも援助してもらってないので、弁護士から集めた会費で相談に行く人に支給しています)
土木工事の場合も地元経済水準で払える限度で土木工事をしようとする場合・・・仮に地域の産業として江戸時代同様の農漁業しかない場合を例にすると、その生産力だけでは江戸時代まであった程度の木造の橋や砂利道しか造れないし、(砂利だって買って来る資金がないでしょう)勿論村役場も木造平屋建てがやっとですし、学校も幼稚園も病院もその程度のものしか造れない筈です。

構造変化と格差4

明治維新以降の格差発生・構造転換出来た人と出来なかった人の歴史をちょっとさかのぼってみましょう。
明治維新で近代工業化に舵を切った我が国では、近代化の時流に乗れた人は何十倍もの高収入になって行く(三菱その他いくつもの財閥がうまれた)のですが、従来通りの農業をしているだけでは収入が増えませんし、新規産業従事者でも経営者になって行く人と工員や店員で終わる人の差が出てきますが、それでも新産業従事者の方がその恩恵を受けて羽振りが良くなります。
この時点で第一次の格差が開いて行きました。
生糸や木綿の輸出を学校で習うので昔からの産業のように誤解しますが、江戸時代中期までは木綿は輸入品でしたし、生糸は明治になるまで輸入品でした・・これを明治になって輸出品に仕上げたので、これの元締めには莫大な利益が転がり込みました。
北海道には鰊御殿もあるし、紡績工場があちこちに出来たこともご存知の通りです。
いろんな分野で構造転換が進んだ時代ですが、実際には江戸時代からそのままの人の方が多かったでしょう。
戦後の高度成長期では全国的に近代産業化が進んだのですが、いわゆる過疎地とは高度成長の波に乗れずその地域の産業=農漁業・・あるいは生糸のように農漁業に基礎をおく産業が廃れて行く時代・・・空洞化して来たのに、代わりになる産業・主として鉱工業が育たなかった地域の別名です。
すなわち従来型の農漁業でやって行けなくなった以上は、有機農業等高品質化に農業自体の変質を図るか、近代工業へ産業構造を転換するべきだったのですが、地域全体の構造転換に失敗した地域を一般に過疎化・過疎地と呼んでいたのです。
04/14/04「戦後の農業政策1(自作農創設特別措置法と土地改良法1)」以下で連載していますが、農業の構造改革の方向としてはアメリカ式に大規模化しても到底アメリカやオーストラリアには叶わないので、大規模化による政府農政の対応は間違っていると(高品質化しかない)いうのが私の持論です。
ましてやグローバル化で、日本の何十分の1という低賃金国との競争になれば、大規模化による僅かなコスト削減ではとても競争になりません。
高品質の牛肉・豚肉・やサクランボや果物、米等の輸出で稼ぐしかない筈です。
後に書いて行きますが、ギリシャや南欧諸国と違い日本列島各地を別の国としない・同じ国内扱いですから、人口移動が容易です。
産業構造の転換が遅れた地域にいるとそのまま一緒に江戸時代のままの低い生活水準でいるしかないので国内地域間自由競争の結果、より良い生活を求めて他地域へ逃げ出して行くので、逃げられた方が過疎化して行くのであって、元々過疎地があったのではありません。
元々人が全く住まない原生林や山地も多くありますが、そこを過疎地とは言いません。
過疎地とは明治〜太平洋戦争までは一定の産業・・農漁業とその類縁の仕事で生活出来ていた地域であったが、戦後近代工業化への構造転換の遅れた地域から人が逃げ出す状態・逃げてしまった地域を日本的に表現したものです。
構造転換に成功した地域と転換が進まなかった地域を国際的に見れば、先進国(産業革命に成功した国)と後進国の関係であり、異国間では自由に移動出来ないし、日本の過疎地のように中央からの補助金もないので一方は貧しいままに取り残されて来たことになります。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。