マニフェスト(選挙公約)の重み1

自民党は企業代弁政党である上に自民党の政策立案・運営に一体化していた官僚の実務能力不足の露呈などを総合判断の結果、前回(2009年)衆院選では「自民党に任せられない」となって民主党に政権を任せたのですが、予想通り民主党には受託能力(実務運営能力)に欠けていることがはっきりしました。
民主党の実務能力が低いことは政権交代前から分っていた のですから、数年くらいは大目に見るしかないと、総選挙前の06/11/09「政権交代2(任期制・転職社会の効用)」で書いたことがあります。
しかし、今回の消費税増税法案推進行為は実務能力の問題ではなく、民主党に対する信用失墜にとどまらず現在の政治制度・民主主義制度そのものの信用をなくしてしまう結果になることを心配しています。
日本はバブル崩壊とその事後処理だけはなく、民主主義制度破壊・新政治制度創設の分野でも世界の最先端を走っていることになるとすれば名誉なことですが・・。
経済・文化が世界最先端であれば政治の枠組みも当然最先端になるべきですから、我が国で新たな政体が創設されても不思議ではありません。
民主主義制度自体永久不変の正義ではなく、ある生活形態によって生まれたに過ぎないとすれば、グロ−バル化・コンピューター化の時代には別の政体がいいのだということになるのでしょうか?
民主主義の時代が終わったので新しい時代に向けて別の正義の形態を民主党や日本のマスコミが構想しているなら何の心配も要りません。
以下、間接民主制・・国民の思いを議員に付託する制度をこのまま続ける以外に今のところ新しい正義の方式が分っていないとした場合の意見です。
私は今のところ民主主義に変わるより良い政体の存在を知りません・・衆愚政治を避けるために制限選挙制にすべきだという意見を書いたことがありますし、この後でも書きますが、これも代議制民主主義の一方法としての意見に過ぎず代議制民主主義そのものの廃止を主張しているものではありません。
間接民主主義制度は、国民主権と言いながらも、国民個々人が直接政治をすることが出来ないので政党や個々の候補者の掲げた公約に対する信頼を基礎に政治運営を国民が代議士に「お任せ」することで成り立っています。
個々人の代議士に託すだけでは国会内の多数派工作で負けてしまうこともあるので政党政治が発達しました。
同じ託すならば発言力のある人に頼りたいし、同じ意見のグループがあればそのグループに政治を託した方が自分の意見が実現し易いということで、国民の方も無所属よりは党へ・・どうせなら実現可能な大きな党へと票が集まり易くなります。
これが議員の与党病が生まれる所以です。
選挙民は自分の意見を託すに足る人かどうかについて当初は人格識見・・あるいは有力者かどうかで選んでいましたが、その内自由主義か、社会主義か等の政党色で選択し、最近では選挙の争点が次第に具体化して来る時代になってた来たので、争点ごとに公開質問状を送付してそれを新聞やネット上で公開される時代が来ています。
選挙民の多くはこうして明らかにされたテーマごとの意見を見て自分の投票行動の基準にしています。
特に前回選挙の政権交代は、民主党には実務能力が低いことを多くの国民が知りながらも民主党への政権交代を期待したのは同党の掲げる主義主張・・公約・マニフェストに共感したことを主たる投票基準にしていたものと思われます。
従って公約あるいはマニフェストは、国民に対する次の選挙までの当選者の行動目的の約束ですから、当選後公約に正反対の行動をしても許されると言い出したら選挙・・代議制民主主義は成り立ちません。
一人二人ならルール違反として次に落選させれば済みますが、多数党あるいは全議員が談合してこのようことをする・・あるいはルール違反しなかった他の政党や議員まで全員で消費税増税は必要だったのだから、ルール違反(選挙民の意見)は問題じゃないと言い出したら、信任で成り立っている選挙制度・代議制民主主義制度を否定しているに等しくなります。

個々人の政治能力と政党政治2

代表と代理の違いを09/01/03「代表と代理(大理石)理事の違い」のコラムで書きました。
代理は個別の権限範囲を決めて委任された人の法律行為ですが、(車を買う・・特定の土地を売るなど権限が特定されているのが原則です)代表の場合は、その人格を信頼してテーマ無限定である分野に関してはそっくり一任する関係です。
会社の社長を代表取締役と言い、会社運営に関しては株主総会決議事項を除いて広範に業務執行を一任するのがその例です。
とは言え、時代の進化によって生殺与奪の権を握る信長や専制君主への一任の時代とは違い、一定の範囲内限定で信任する傾向が出てきます。
西洋市民革命前夜の王党派と議会派、革命後はジャコバンとジロンド党などから始まり、社会主義運動が盛んになると社会・共産主義諸派(ロシア革命中にはボルシェビイキメンシェビイキなど)と自由主義系の党派に大きく分かれて行きました。
20世紀前半は共産主義対資本主義と枢軸国とに入り乱れていましたが、後半は米ソ対立を軸に、おおむねこの2大政党(我が国で言えば自社・55年体制)の時代だったので分りよい時代でした。
この枠内で国民はどちらに一任するかを判断すれば良いので簡単でしたし、政治家の施策についても自由主義の範囲であれば個々の政策に不満でもあまり国民は不満を言わない・・不満だからと言って自民党支持者が共産党に投票鞍替えする心配がありませんでした。
ソ連崩壊後資本主義の枠内でどのグループに委ねるかとなると、争点がもっと具体化せざるを得ませんし、国民も不満なら別の政党に乗り換え可能になってきました。
同じ方向に向かっているバスや電車が数本ずつあるような時代です。
こうなると政党名・・基本綱領だけで政党を選ぶのではあまりにも抽象的過ぎて選択基準にならなくなります。
(憲法改正を求めるとしてもどの方向で求める政党か政党ごとにはっきりしてくれないと「改正」というだけでは政党選択出来ません)
そこで選挙民に訴えるために選挙ごとに掲げる公約・・マニフェストを掲げる方が選挙民にとって選択の基準がはっきりして訴求力が強いことから、ソ連崩壊後世界的にマニフェスト選挙が主流になって来ました。
我が国でも政党が選挙ごとに掲げる公約は当初は抽象的でしたが、回を重ねるごとに選挙民に対する訴求力確保のために具体化して来るとともに、「公約」よりももう少し具体的政治課題明示向きのマニフェスト提示が前回・前々回選挙のころから定着・主流化しています。
他方国民の方も、このシリーズで書いているように労組や企業に任せられなくなり自己決定をする必要に迫られるようになったことと、自由主義か共産主義かという抽象的枠組み選択の時代が終わったことから、具体的政治課題に関心を持つようになったこともあって、各政党にマニフェスト提示を求めてこれによって投票行動を決めようとする人が増えて来ています。
郵政民営化選挙以来この方式の選挙が続いていて、現在の民主党政権もこれによって自民党との違いを際立たせて政権を獲得したものです。
実務能力がない政党は困りものですが、能力さえあれば選挙民の意向に反したことを実行して良いか・裏切っても良いか・・・選挙公約・マニフェストの重みについては明日以降に書いて行きます。

個々人の政治能力と政党政治1

僅かな放射能汚染さえ嫌がって、東京圏から関西・中国地方へ移住している人もかなりいます。
そう言う人はその代わり文明の利器を手放すなら行動が一貫していますが、人並みに電気器具を利用して、あるいは電気の利用による企業製品を購入して普通に生活しているとしたら、良いとこ取りをしようとしていた大阪市民と考えが同じです。
大阪・京都市民も「反対さえ言ってれば後は政府や企業が何とかすべきだ」という無責任な態度で自分はその分電気を使わない・電気を利用した製品(工業製品の殆ど)を使わないと言わないのですから、無責任な主張だったことになります。
原発廃止・家から柱の取り外し等に比べて一般の政治決定は、その何百倍も複雑で一波万波を呼ぶような複雑な経路を経ていろんな方面へ波及効果を及ぼして行くのが普通です。
複雑な政治問題では市民の短絡的な反対に従って政策決定した場合、どのような危機・効果を招来するか(柱の撤去のように)目に見えないことから、市民運動家系・タレント系の政治家ではただ反対するだけで、その効果に対応した前向き提言がないまま(言い換えれば無責任発言)になり勝ちです。
政治決定に関しては、上記のとおりその及ぼす効果が複雑過ぎるので信頼出来る人や集団に一任すれば気楽ですし、その道に長けた人に一任するのが合理的であることから代議的民主主義制度が生まれて来ました。
私が受験したころの司法試験勉強科目であった政治学原論では、昔から政治はプロによるしかなくこれを世襲君主あるいはその側近によるか民主的手順で代議員を選出するかの違いで民主主義と言っているだけで、結果的に少数者による多数支配しかあり得ないと学んだような記憶です。
中国では古代から皇帝の政治権力の正当性・授権は天命によるとして、近世の西洋では王権神授説が流行しました。
市民革命以降世襲君主の代わりに民意によって選ばれる代議士とその代表者が権力の担い手になり、その代議士を選ぶのに所属企業や労組などの推薦に頼って来たのです。
ところが、誰かにお任せしていたらどうなるか分らない時代が来たので、自分で一々の政治課題を考え行動するしかなくなりました。
国民個々人にとっては目前のテーマとその後の複雑な経路を経て効果が出る結果の関係が分らない・・(部屋を広くしたいということとそのために間仕切りの壁や柱を取り払ったら安全性がどうなるか・・その先のことは素人には分りません)古代以来個々人がそんな能力のあったことはないので、大変なことです。
有価証券投資・運用のような値上がり値下がり程度の単線的見通しでさえも難しいことから、個々人が直接手がけるのは至難の業で投資信託みたいにどこかに委ねるしかないのが普通です。
投資顧問のAIJ事件が発覚したばかりですが、プロでない個々人どころか年金基金などセミプロでさえ、直接運用するのは至難のことですから、投資顧問会社に一任しているのが普通です。
そこで複雑な政治決断をどこかに任せるしかないということで間接民主・代議制になっているのですが、実務能力を信頼して任せていた自民党は世襲制がはびこり2世3世議員の時代になって絆創膏を貼った大臣が出て来たりして信用を落としてしまいました。

政治の担い手(企業から個人へ)2

政治と国民の間に入るべき組織・団体の政治機能が弱体化し国民個々人が自分のこととして直接政治の主役になって行くしかないので自衛のためもあって、政治意識が高まるのは良いことです。
その結果1億総評論家時代が到来し、ひいてはその意を受ける政治家も百家争鳴のなかで多数の個々人の民意を直接把握しなければならないので大変です。
国民は自分がアマチュアであることからプロに対する反感があるのも理解出来ますが、感情の赴くままに支持する傾向が強まるとアマチュア的政治集団の民主党・・あるいは維新の会のような政党がが有利になります。
政治のステークホルダーがアマチュアである個々人に下りて来たのだから、(元々最終利害関係者は国民個々人でしたが、これまでは会社その他の団体が介在してその恩恵を間接的に受ける関係でしたので気楽だったのです)その支持を受ける政党もアマチュア的政党になるのは仕方がないとも言えますが・・・。
厳しい消費者・利用者がいてこそ、商人が鍛えられて良い商品・サービスが生まれて来ます。
政治に対しても厳しい注文をつけ情報を提供して鍛えてくれる企業実務家が疎遠になり、政治家がアマチュアから直接支持を受けるようになると批判・不満情報が中心となり、その意見を通せば全般的社会・産業構造がどうなると言う有益な情報が入らなくなります。
家の建築でこの柱が邪魔だからない方が良いと思っても、その柱を取り外したら家の安全性がどうなる・・補強可能かという全般的見通しとセットでないと実現が無理なことは誰でも分りますが、政治に関してはその先の検討不要の無責任な意見がはびこり勝ちです。
原発で言えばアマチュア的に言えば危険なものはやめた方が良いに決まっていますが、アマチュアの主張はそこで停まっていて、原発をイキナリ全面的にやめた場合の市民生活がさしあたりどうなるか・どう対処すべきかの意見(情報提供)がありません。
原発に頼って経済市民生活がこれまで組織されていた以上は、これをイキナリ止めた場合(時速2〜300キロメートルの運動体でも徐々にスピードを落とせば安全ですが、イキナリ崖にぶつかって急停止するような事態です)の日本の産業構造への影響・・市民生活がどうなるかという総合的判断を捨象した一方的意見ばかりになり勝ちです。
「自分は反対しているだけだ・・その結果困ったことになるとしたらそれに対する善後策を考えるのが政治家・政府の責任だろう」という自分の意見通りになった場合及ぼすマイナス面に対する手当を考えようとさえしない無責任な意見が多いのが市民意見の大多数・特徴です。
ものごとには、長期・超長期の方針ばかりではなく短期の視点も重要です。
大飯原発の再稼働に関して弁護士出身の大阪橋本市長は当初大反対で民主党をボロクソにケナしていましたが、次第に現実的判断に同調せざるを得なくなった推移を見ても、アマチュアの支持に頼る政治家の限界が明らかです。
(橋下氏はテレビ番組に出ていて有名になり政治に出た経歴であって・弁護士出身というよりはタレント出身という方が正確でしょう・・維新の会も基本的には実務経験による裏付けのない集団です)
今回のように目前の電力危機・・経済・市民生活直撃という結果が目前に見えていてもあれだけ抵抗してほぼ時間切れになるまで難航させたのが衆愚政治というものです。
言わばギリシャ国民が最後の最後まで緊縮政策に反対してゴネていて再選挙までした結果、ギリギリの所で「やっぱりユーロ離脱もイヤだ」ということで渋々緊縮政治に舵を切るようなそぶりで決着したのと似ています。

政治の担い手・・企業から個人へ1

民主党の実務能力のお粗末さにあきれて自民党政権に戻っても、(民主党よりマシかも知れませんが)自民党政権時代の約3年前に比べて企業の海外構成比率がより上がっているので、以前よりも熱心に政策実現のために応援する必要性を感じていないので、自民党にまともな実務能力が育つ訳ではありません。
自民党は政権を離れたので企業が寄り付かないと焦っているようですが、自民党が仮に政権政党になっても、企業は昔に比べて国内政治重視レベルが下がっているからあまり期待しない方が良いでしょう。
マスコミ中心の時代には左翼の評論家が幅を利かしていましたが、ここ数年ネットの発達で右翼保守系評論家の方がネット上では華々しい感じになっています。
いずれにしても企業をバックにした組織的政策提言・・地味なものがなくなったので、彼ら思いつき的発言・・極端に走りがち・・純粋な理屈だけ述べていれば良いので分り易くて脚光を浴びているに過ぎません。
・・実務能力に裏付けられない単発的評論でいくら有名になっても、誰が現実政治を担えるのかということです。
経済評論家・技術評論家がトヨタや日産の社長や現場の責任者を出来ません。
物事の決断というものは単純ないくつかの論理を突き詰めれば良いのではなく、人智の及ばない無数のファクターを総合直感力で決断して行く作業です。
料理でも健康でも分っている個別栄養素の集合さえすればおいしいものが出来たり、健康維持出来るものではありません。
評論家は政治家や経営者が意識にのぼっているいくつかの要素を取り出してその論理矛盾を論破して喝采を受けているのですが、(悪く言えば揚げ足取りみたいなものです)現実には意識下で判断している要素がその何倍もある事実・・人智ではまだ分らない物事の方が多い事実を無視した議論になりがちであることを自覚・・謙虚にする必要があります。
実務指揮者・・その他指導者には無数にある無意識下の要素を判断出来る能力に優れた人がなっていることが多いので、これを意識にのぼった要素だけで批判・討論しても本来議論がかみ合っていません。
土俵が違うのですから、マスコミ的議論の場では実務家は決断の根拠をうまく説明が出来ず(意識下の深層心理の集合的決断を言語で論理的に表現するのは無理があります)不利に決まっています。
個人企業経営の親子の議論で言えば「お前らには分らん・・」と経験豊富な親父が一喝するしかない場面です。
経営評論家が経営してもうまく行かないことが多いのは、上記理由から出て来ることで、評論家(口舌の徒)は意識に出た言語の要素分析に長けているのに反比例して無意識下の要素判断能力がその分逆に低い人が多いことに由来しています。
民主党政権で軍事評論家が、6月初めころに防衛大臣に任命されて物議をかもしましたが、(この供給源は保守系の牙城でしょうが・・・)民主党に限らず、今や、実務家ではない単発的評論家しか政治に関心を示していないことを象徴しています。
現実政治を堅実に担えるのは、もの言わない・・無意識下の要素吸収能力の高い多数の実務家ですが・・・。
話がそれましたが、企業が政治から離れつつある現象・・政治はどうなるかのテーマに戻します。
企業が以前ほど政治に熱心ではなくなり、・・熱心でなくなっただけではなく、ときに利害対立しかねない存在となって来ました。
これまでは自分の勤務している会社の命運と自分個人の損得はおおむね一致していたので、大方のことは会社の指導者の意見に任せておけば良かったのですが、今や、会社の都合で日本の労働者を見捨てて(リストラしてでも)海外生産増に動くかもしれないのでは、利害対立関係になるので安心して任せておけません。
実際、6月24日の日経新聞第一面では多くの企業が海外生産増=国内生産縮小の方向性を打ち出しています。
企業は海外に軸足を移しつつばかりではなく、昭和年代の従業員中心経営から株主重視へ軸足を移しつつあり・これの原因とも言えますが海外株主獲得へとシフトしています。
2012年6月30日日経朝刊15面「日本の株主」欄によれば、例えばトヨタ・住商などは10年前には、国内金融機関の保有率は5割をこえていたが、今では保有比率が2〜3割に下がっていて減少分の穴埋めに海外株主獲得に力を入れていると書いています。
海外株主が増えれば従業員利益よりは配当期待が高まるのは当然の帰結ですから、企業利益は従業員である自分たちの利益でもあるという蜜月関係は終わりつつある原因と思われます。
国民個々人が直接のステークホルダー・利害関係人になってしまった時代は、国民にとっても国民の福利を実現すべき政治にとっても大変です。
これがここ20年ばかり続いている内需拡大政策に関して、最近では公共工事や企業補助金支出よりは、個々人への直接バラマキ→消費拡大期待噴出の基礎となっているのでしょう。
この期待を受けて民主党は「コンクリート(企業)から人へ」と個々人への直接支出の方向性を打ち出しています。
しかし仕事の場を縮小してその分個人に対しての補助金・・失業給付や育児手当その他個人向け給付を増やす政策では産業は逃げ出すばかりで日本経済は左前になります。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。