今回の消費税問題以前から、今度選挙すれば民主党政権運営のお粗末さから、民主党が大敗するだろうと言うのがもっぱらの下馬評でしたが、消費税増税が成功したらそれを国民が評価して逆に大勝するという見通しなのでしょうか?
(マスコミによる野田内閣の勇断・・決められる政治と言う応援を計算に入れているのでしょう)
そうなれば公約違反の政治上の罪は選挙でみそぎが済んだ・・許されたことになると言う計算かも知れません。
いわゆる事後承認ですが、緊急事態に関しては国会の事後承認という制度がありますが、増税の場合選挙する暇がないことはあり得ないのに、(元々国王の求める増税の可否を議論することが議会の基本的機能でした)増税の可否までも事後承認で済ますのでは、選挙で信を問うことは何もなくなってしまいます。
ヤンバダムの例でも分るように一旦始めてしまうと元々はやるべきでなかった工事だったとしても、今更やめるともっと損害が大きくなってしまうのであれほど反対していた民主党でさえ中止し切れないことからも分るように、(原発だって作ってしまいこれに依存する体制を作ってしまっているのでイキナリ全廃出来ないのですが・・)既成事実を作った方が勝ちみたいな所があるのが政治です。
ですから、何もかも既成事実を後から判定する方式は民主政治向きではありません。
結果責任を負うだけであれば、(遠征の失敗などでその後王朝が倒れるのは)専制君主でも独裁政権でも古代からどんな政体でも皆同じで、民主主義制度とは無縁です。
他律的な疫病等のばい菌の穢れを払う禊の効用と意図的な公約違反の関係については後に書いて行きたいと思います。
消費税増税実行はマスコミの応援を受けられるので選挙で大量得票に繋がるという思惑からか、民主党執行部は離党者に対する意趣返しのつもりか、離党者の選挙区に対立候補を立てる方針とも言われています。
自民・公明との談合で消費税増税を実現するのですから、本来の対立政党である自民公明両党から公約違反の道義責任を厳しく追及される心配がありません。
民主政治の息の根を止めた戦時中の大政翼賛会選挙同様で「赤信号みんなで渡れば怖くない」ということでしょう。
談合3政党の共通の敵は、公約違反を追及する離党者グループですから、この共通の敵に向かってこれまた談合・共闘態勢が先ず構築される(マスコミは当然その応援をします)ことになるのでしょう。
離党者からは公約違反の追及が厳しいことが予想され、野田総理とその1党にとってはそれが怖いからその批判(歴史に残る批判です)さえ封じることが出来れば、仮に党が消滅しても良いくらいの判断なのでしょうか。
刺客と言えば郵政選挙の例が想起されますが、郵政選挙場合、テーマもはっきりしていたし、小泉政権の圧勝が予想されていたので、落下傘候補であるいわゆる刺客候補も一定の勝算があってのことでした。
(実際に落下傘候補もかなり当選して、保守系乱立による共倒れは殆どありませんでした)
今回は元々民主党が一丸になって戦っても大敗すると言われている状態でしたが、消費税増税が民主党にとって、公約違反問題もあり、どのような審判が下されるか分らないイチかバチかの大勝負です。
消費税増税がプラスに作用して圧倒的強い立場になれば良いですが、そうではない限り他人の選挙区に何の地盤もない新人が執行部の意を受けて立候補をしても当選出来る確率は殆どありませんから、圧勝の見込みもないのに送り込めば共倒れを前提にした作戦・・泥試合の開始となります。
立候補は本来当選を目的にあるものですが、相手を落とすことだけを目的に立候補するのはこれまた民主主義制度の本義に反しています。
当選目的ではない共倒れ目的での立候補者(刺客)を仕向けて来るならば、小沢派の方も(軍資金次第ですが・・)対抗上執行部寄りの当落線上の選挙区へ刺客を送り込む泥仕合となって、双方大敗を喫することになるでしょう。
自民・公明その他の政党が漁父の利を占めることになりますが、野田総理が政治生命をかけると言っていた意味が、自分を含めて民主党をそっくり滅ぼしてしまう・自壊させるつもりでやるとすれば潔い決断です。
信頼で成り立っている民主主義制度を根本から覆す大罪を犯した責任は、党首だけではなく党自体にあるので党自体が消滅するのは良いことです。
ちなみに「政治生命をかける」と言う従来の語義は、信念に基づき不利益を顧みずに自分より大きな権力・マスコミを敵に回す主張を敢然とするときにこそ、「正義のために頑張るぞ!」と使うものであって、「これから泥棒に入るぞ」とか、悪いことだけども断れないので「大きなものに巻かれるぞ!」「信念に反してマスコミ受けするように主張を変えるぞ!」と正義・信念に反する決意表明に使うべき言葉ではありません。
野田総理が「政治生命をかける」目標は、株屋で言えば、顧客からの特定銘柄買い付けの指示に反して、証券マンが別の銘柄の方が良いと思って勝手に別の銘柄の買いを入れてしまうなど悪事を働くときの決断に使っている感じです。
あるいはファンドの組み入れ比率を株屋が無断で変更するための決断みたいなものかな?
証券マンが顧客に説明しないで勝手に売買する以上は「地位・クビを掛ける」ことになるでしょうが、この場合結果的に儲けられさえすれば客は文句を言いません。
しかし政治の場合、結果が良いかどうか直ぐには誰も分かりません。
例えば石油ショックやプラザ合意による円高傾向が日本にとって国難だったのか、却って省エネ技術が発達したり生活ベル引き揚げの発火点になったのか、低金利が良かったのか悪かったのか増税せずに国債で賄って来たのが良かったのか悪かったのか(私に言わせれば国内から資金調達している限り金持ちからの所得再分配機能を果たしているという意見です)、一定の公共工事をするのと別のことに投資したのとどちらが良かったかが、20年経っても漸く分るかどうかと言う状態です。
外国の例でも・・アスワンハイダムは、今になるとナイルの肥沃な流域を駄目にしてしまったマイナス・失敗ではないかと言われているのを想起しても良いでしょうし、中国の山峡ダムも同じような運命のようです。
政治の世界では「結果さえ良ければ良いし、悪ければ責任を取る」と言っても事後判定は意味をなさないので、結果の如何(目的が善意であるか否か)に拘らず国民の信託に背くこと自体が絶対的に許されないのが、民主政治の原理であるべきでしょう。