(天皇誕生日がなくなった)クリスマス・イヴ  

平成天皇の退位によって、5月1日から令和の御世になり平成時代の天皇誕生日であった12月23日が祝日でなくなりました。
平成の最初は、年末の忙しい時に祝日が1日挟まると、たまった仕事の処理が大変だと困った気分でしたが、これもいつの間にか慣れてくると年末休みの予行みたいな気分で22〜3日過ぎ頃から正月を控えた休みが早く始まるような印象で、その始まりを告げるアトラクションとしてクリスマスを楽しむようになりました。
キリスト教徒の方々には申し訳ないですが、日本人の私にとってはそんな程度の位置付けです。
今まで約30年間クリスマスイブ前日の休みを利用してイブの一晩前のイヴ?を楽しみましたが、今年は前日の休みがないので、24日が土日にかからないと調子が狂う感じです。
キリスト教徒ではないので、23日が休日になってから夕方から娘と出かけて熱気に溢れたデパ地下での買い物を楽しんでいたことがわかります。
お正月そのものよりは年末の買い出しや準備に精出すのが楽しいことだと気がつきます。
お祭りそのものよりその準備に半年以上かけて精出すことが、地元民には一体感の醸成その他で意味深いものでしょう。
消費者・観客にとってはイベントの瞬間だけ切りとって見ているだけ・文字通り時間の消費ですが、お祭りの準備、高校野球の場合甲子園に出るまでの営々たる努力・プロセスにこそが価値あるのがわかります。
諸国の巡礼・我が国のお遍路さん同様で道行きに価値があるのです。
車等で神社仏閣の入り口に着いてから深い森に囲まれた参道を歩くときの有り難さは、本来行うべき巡礼行脚の短縮版としての意味があるからでしょうか?
今日24日は、普通に仕事があるし、仕事を急いで切り上げてまで、背広を着てカバンを持ってデパ地下に行きたいわけでもない・結果的に買い物する気になれません。
休日がたった1日減っただけでクリスイブを楽しむのが億劫になるなんて!
キリスト教徒でないから誘導される何かがないとその気が無くなるのが当たり前と言えますが、見方を変えれば年をとって暇があるようでないのが人生というものか?
今年の年末は特に仕事がたて混んでいるわけでもないのに、天皇誕生日の休日が1日なくなっただけでなんとなく余裕のない気分です。
50台半ばに事務所と自宅間距離が数キロ以内に近づき電車に乗って2分の距離になって以来、朝ゆっくり新聞を読みお茶を飲んでから仕事に出かけられるのは、なんとゆったりした良い気分だ!と満喫していたものですが、この4〜5年、時間のたつのがバカに早くなったせいか、ちょっとゆっくりしているといつの間にか10時〜10時半を過ぎてしまうようになり、この1年くらいでは、気がつくと11時半頃になってしまい、事務所でお昼を食べる時間に間に合わない!っと慌てて自宅を飛び出すことが増えてきました。
この関係かしれませんが、年末が近づいたのに祝日が1日なくなっただけで今年はなんとなくせわしない感じ・・、クリスマス・イブを楽しむゆとりがない・・
平成になって5〜6年経つと、天皇誕生日のおかげで年末にヒト休みがあって良い息抜きと思ったものが、今ではこれが普通になってしまったようです。
昭和のいつのころか忘れましたが、隔週土曜休日になり平成に入った前後頃から週休2日制が定着しましたが、今ではもうこれに慣れてしまって、毎週土曜日に仕事するなど考えられないようになりました。
ちょっと楽すると、すぐにそれに慣れてしまうと言うことでしょう。
出かけるとエスカレーターに乗るのが普通・・たまにエスカレーターがないと階段が億劫になります。
この間平成天皇陛下だけでなく私の方も30年分年をとった点が大きな変化の原因でしょう。
若い頃にはお年寄りがゆったりした動作で歩いたりしているのをみると、ゆっくりした気持ちで生きているように見えたものですが、自分がいざその年になると動作(仕事)が遅くなった分時間的に忙しい・全然ゆったりしていないのです。
駅まで10分で歩ける距離を15分前に出れば余裕ですが、歩くのが遅く15分かかるようになれば15分前に出でも目一杯ですし、若い頃には発車1〜2分前に駅に駆け込めば何とかなることが多かったのですが、今では5分ほど前に着かないと落ち着きません。
と言うわけで、やることが遅くなった分時間が足りなくなってきた結果、休日のないクリスマスでは・・何となく億劫・・。
「今年はパスしようか?」
と考え始めた人が(高齢化に伴い)増えたのではないでしょうか?
そんな横着な人は私だけかな?
と思っていましたが、今年は何故かかイルミネーションもLED発達のおかげでクリスマスツリー系が減ってきらびやかな装飾系が増えましたし、街中にジングルベル系の音楽がほとんど聞こえない状態です。
今日6時半ころに電車に乗って帰りましたが、駅周辺も電車の中もクリスマスらしい雰囲気がまるでなくいつもの帰宅風景でした。
80歳前後になって仕事をやめた場合、毎日休日になりますが毎日休日が10年も続くとそのころには昔「クリスマスパーティなどあったかな?」と忘れてしまうかもしれません。
ちなみに私の誕生日は、祝日の前日なのでこれを「早くする分には、問題がない!と前日誕生祝いをしてきましたが、この祝日は多分私の生きている内になくなりそうもない祝日なので、怠惰な私でも続きそうです。
ただ、もっと高齢化が進めばこれも「生きているってめでたいの?」という疑問が起きて?億劫になってくるでしょう。
何もかも億劫になってついには、生きているのも億劫となれば・人生最後ということでしょう。
今では、百才を超えた方のほとんどが全面億劫の境地に達し・達観しているのでしょうが、私が100になるころは、まだそこまで達観できないであちらが痛い・疲れた・・出かけるのは億劫と贅沢言っているのでしょうか?

罪刑法定主義2(生麦事件)

日本人が当然知っているべきモラルを知らない外国人が来るようになった場合、日本人ならば当然知っているべきモラルの同一性がありません。
例えば、薩摩藩が幕末に起こした生麦事件が有名ですが、大名行列に乗馬で乗り入れるなど日本人から見れば「不敬」そのものでしょうが、外国人から見ればいきなり斬り殺されて大騒ぎになったものです。
乗り入れた英国人一行の方は、前方から東海道筋を道路いっぱいに進んで来る久光の行列を見て困惑したらしいですが、(通訳が随行していなかったのが事件発生の大きな原因だったでしょう)どうして良いか分からずにいると、先払いの者から身振りで道路脇によれと言われたように思って・・現在よくある光景・・山道や狭い道路で対向車に出くわすとお互い左右に避けながらゆっくり進むような感覚で脇によって進めば行列も右脇に寄ってくれるのかと思って騎馬のまま進んで行ったようです。
道が狭く久光の行列が道一杯に進んでくるので、結果的に英国人の騎馬グループと行列が衝突する形になり、先行の足軽などが馬を避ける結果、次第に行列の中程まで(すなわち久光の籠近くまで)行列をかき分けて乗り入れてしまう結果、護衛の武士団は黙って見過ごせない・・血相変えた戦闘モード満々の武士団の殺到に直面した英国人一行が馬主を巡らして引き返そうとしたが時すでに遅し!大事件に発展した瞬間だったらしいです。
日本の場合、古代から牛車や行列が行き合えば、身分格式の低い方が道を譲り脇に控えるのが礼儀でしたし、これは江戸城内の廊下で大名同士が出会っても同じルールです。
西欧でも例えば、西洋由来の軍隊組織では初見の人同士では相手の階級の見分けが付かないので肩章襟章等外見で階級が分かるようにしていて、階級の低い方が最敬礼して脇に下がって見送る仕組みです。
英国でも似たようなルールがあった・・・格上格下の礼儀ルールは洋の東西を問わず同じとしても、よそから来た英国人が島津の行列かどうか(旗印や家紋程度で分かるはずもないし)の判断もつかない上にそれが分かったからと言って、島津が何ほどの家柄か、自分と比較して自分がよけるべきかどうかの判断までは付かなかったでしょう。
ましてこの時、島津久光が700人もの軍勢を率いて江戸に出て来て、公武合体論に基づく一橋慶喜の将軍後見職任命や春嶽の政事総裁職任命等を迫って実現させて意気軒昂な帰路(は400人)でした。
こういう事情も全く知らなかったでしょう。
ただ、今でも、個人が何らかの集団とぶつかりそうになれば、言葉が通じなければ集団の通過を待つのが普通で、まして危なそうな軍の列であればなおさらではないでしょうか?
この辺に英国人側に常識論で見ても、一定の落ち度があったように見るのは、日本人としての贔屓目かも知れません。
この事件処理で幕府が英国の要求する巨額の賠償金を払ったものの、薩摩側はこれに応じなかったので薩英戦争につながるのですが、このように、大名行列と出会ったときの礼儀ルールをきちんと法令化していれば相手国からの文句に対する立場が大きく違っていた・・こんな危険な国だから、不平等条約が必要という論拠にされて明治以降の不平等条約解消が難航した下地でした。
人権擁護のためではなく国内的には権力意思貫徹には周知が前提・・対外的には国家主権確保のためにも、生類哀れみの例のような明文法が必要になります。
産業構造や社会生活が複雑化してくると、技術的規制は日常常識では判断しかねるので明文化して起き、プロでもその都度確認する必要が起きてきます。
建物建築でも「家はこういうものだ」「柱と柱の間隔は一間にきまってる」という経験による工事では間違うので、今ではいちいち図面を確認しながら作業していく必要があるのと同じです。
社会の仕組み=商品の種類が単純な時代には、いわゆる名僧知識の禅問答的御託宣で間に合ったしょうが、商品経済が複雑化してくると、具体的ルールや細則がないと現場でどうして良いか・個々人の裁量で行うと精密な機械が故障する時代になってきました。
精密部品・・普通の電化製品でも寸法は何センチ何ミリまでピタリ合っていないと不具合が起きる時代ですが、法制度もこれに比例して細かく細かくなる一方です。
世の中になぜ専門家が増えてくるかといえば、法律家でも金融商品取引ルール証券取引ルール、道路交通法、原子力安全規則などなど分野ごとに膨大精密すぎて、税務関係は税理士などそれぞれの専門家が必要な時代=それだけ法令(だけで足りずその先の規則、細則〜ガイドライン(別紙技術基準)等々分野ごとに細かくなっているからです。
これに加えて人の移動広域化・・異民族間移動の場合、元々の基準である道義意識も違ってくるので技術的規制だけでなくいわゆる自然犯でさえも明文化していないと外国人には、思いがけないことで処罰を受けるリスクが増えます。
現在では金融・証券取引や道路交通法あるいは各種環境規制や食品衛生や建築などの安全基準 のように専門化してくると、明文法に処罰すると書いていない限り処罰できないようにしてくれ・という逆転現象が起きてきます。
早くルールを明文してくれないと商品開発しても普及(ドローン利用のサービスや車自動運転、電子通貨関係など)できないという逆転現象が起きています。
罪刑法定主義が人権擁護という政治論より、産業発展によりいろんな分野でのルール化が求められるようになったことが、ルール化が進んだ基礎事情でしょう。
西洋では、絶対君主制・・恣意的処罰が横行したので絶対君主から領民の人権を守るために生まれたと習いますが、我が国の場合、支配者が慣習法や道徳律に反するルールを新たに決めた場合、特別な法令が必要な社会が到来していた・逆方向からの発達であったし、これが今の潮流と理解すべきではないでしょうか?
中国は独裁・専制・法治国家でなく人治国家と揶揄されていますが、商品経済が進み、産業構造が高度化すると政治家の思いつきで製造基準を変えられない・・精密ルール化は避けられないはずですので技術基準の法令化・ルール化が進む点は、同じではないでしょうか?
問題は(共産党幹部であろうとなかろうと、)誰もが等しく「ルールを守らねばならない」という法の下の平等ルールを守れるか次第ではないでしょうか?
そのためには司法権独立が必須ですが、中国政府は香港の覆面禁止条例無効判断をした高裁判決を否定する主張をしているようで、政府が司法権を軽視しているようでは、法を守る気がないと自己主張しているようなものでこれこそを重視すべきです。
諸葛孔明の故事に「泣いて馬謖を斬る」という故事がありますが、上に立つものは自分の決めたルールを守らないのでは、配下がルール・命令を聞かなくなるからです。

旧刑法2(罪刑法定主義1)

ちょっと話題がずれますが、皇族に対する罪というか、やってはいけないことは、日本民族にとっては法以前の自明の存在であるべきでした。
内乱・いわゆる謀反や親殺しが許されないことも同じでしょう。
内乱罪等を明記するようになった前提として考えられることは、まず西洋で発達した罪刑法定主義の思想・明文なければ処罰できない・・明文化するかしないかの論争があったはずです。
ボワソナード主導の立法作業でしたので、当然西欧の到達していた法思想を前提に行った筈ですが、法以前の存在であると思われていた皇族に対するルールを明文化=これを国会(国民の意思)で決めたときに限り初めて犯罪になることには抵抗があってもおかしくありません。
天皇の超法規的神格否定につながるものでそれ自体が明治政府にとっては大事件で大きな論争があってもおかしくなかったと思われますが、民法典のような大した政治論争ももなく?すんなり法制定されるまで行ったように見えます。
当時の国民意識では、討幕のための旗印として王政復古を掲げたものの、実際には古代からの象徴天皇程度の意識・・敗戦直前のような極端な神格化意識がなかったからではないでしょうか?
王政復古を看板にする明治維新体制は時代錯誤性が大きかったのですが、新政府は看板の建前上古代律令制に基づく二官八省制を一時採用しましたが、維新直後三治政治〜廃藩置県に始まる地方と中央関係組み替えによる地方組織整備などどんどん変えていく(司法官などの人材育成→西欧留学性派遣による世界の法常識の吸収も焦眉の急でした)中で、中央政体も二官八省制をどんどん形骸化していきます。
こうした明治初年の新政府体制再構築過程を紹介してきましたが、(旧刑法編纂や刑事法制や司法制度整備もその一環として紹介していたものです)これらを法制度として整える必要から司法卿ができ、並行して神祇官などの二官八省体制を改組して現行の各省体制の基礎を作っていくなど、実務面では着実に近代化が進んでいたので明治維新が成功したと思われます。
古代から連綿と続く天皇制の根本に関しても近代化の動きの総決算が明治憲法制定ですから、その下準備的各種法整備の一環である刑法制定作業においても政権の目指す本音の方向に動いて行くしかなかったのでしょう。
政権の要路にある人々は、政府・権力というものは民族全体の無言の賛同によって成り立っていることを知っていたし朝廷に対する尊崇の念も法で強制するものではないと心の底で知っていたでしょう。
ちなみに戦後皇族に対する罪全部がなくなったのは、天皇制存在の理由は国民の支持(といっても賛否を問う形式論ではなく、暗黙のこうあるべしという民族の価値観)によるのであるから、特別な法類型を決めなくとも良いのでないか!という意見であったように記憶していますが、あるいは尊属殺事件の憲法解釈であったかも知れません。
明治維新前の刑罰制度を大雑把に言えば、常識に属することは、明文で決めなくとも処罰できる・・「人を殺したり物を盗むな!」という御法度がなくとも、そんな道徳があると知らなかったと言わせない基本社会であったと言えるでしょう。
こういう社会の場合、法網を潜る(工夫)余地がありません。
中国の場合「天網恢々疎にして漏らさず」という古代からの名フレーズがあり、現在では、「上に政策あれば下に対策あり」「上有政策、下有対策」と言われるように法対策が盛んです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit

中国には「上有政策、下有対策」という有名な言葉がある。元々は国に政策があれば、国の下にいる国民にはその政策に対応する策があるという意味だが、現在は「決定事項について人々が抜け道を考え出す」という意味でほとんど使われている。ここではいくつかの実例を挙げ、「上に政策あり、下に対策あり」の原因を探ってみる。
以下略

上記には4個の主張があるのですが、私に言わせれば中国人は私益あって公益意識がないというに尽きると思っています。
我が国では、公益=地域共同体→日本民族の共同利益を守るための道徳が先にあるのですから、明文法規はその例外的位置付け・・書いていないことにこそ真善美があると考える国民性です。
物事の理解には余白を重んじる・・音楽で言えば絶え間ない音の連続も綺麗ですが、お琴では「手事」と言いますが、あくまで手先の技のことです)むしろ音のない「間」を重んじ、沈黙は金といい、眼光紙背に徹するというようにすべて基礎的原理が同じです。
知識をいくら並べても限界があるデータのない先や余白から物ごとの本質を見抜く力にこそ価値があるのです。
詩で言えば余韻を重んじる点では、俳句こそがその最高形態でしょうか?
我が国では、法網をくぐる工夫をすること自体「恥ずべきこと」という意識ですから、タックスヘイブンとか法にさえ触れなければ何をしても良いという発想には驚きます。
中世以降の「非理法権天の法理」を紹介してきましたが、次第に権力が強くなってきて、道義や慣習任せにしないで権力者の定めるルールが最優先するようになると「犬を追い払ってはいけない」などの新ルールは社会常識的道徳律では気がつかないことになります。
為政者が、新たに今度これも禁止するから・・と決めた場合(禁中諸法度→紫衣事件は事前に「お達し」していたのに、従来慣習法?でやったのに何が悪い?と開き直った事件でした)知らない人が多くなるので、周知のために御法度を定めて江戸時代以降の各種御法度や生類哀れみの令・・注意を促すという仕組だったことになります。
価値観同一社会では、天皇家や徳川家に対して日本の道徳から見て許されない行為が何かの規定がなくとも、慣習を変えるとか、常識に反する新たな制定ルールだけお達し・公布すればよかったのでしょう。

国民2(旧刑法1)

ところで法律用語として登場する「国民」と「臣民」「人民」の関係を見てみると、明治憲法〜敗戦まで、我が国では、臣民という用語の他に自由民権運動で憲法制定運動が盛り上がる前の明治14年旧刑法で、すでに「国民」という熟語が出てきます。
ということは、その何年も前から国民という用語が議論対象になっていた(・・江戸時代までには、公卿〜士族や商人農民・・庶民を含めた総合概念)憲法制定運動当時には法律専門家の間では常識化していたことがわかります。
https://ja.wikisource.org/wiki/
刑法 (明治13年太政官布告第36号)

1880年
公布:明治13年7月17日
施行:明治15年1月1日(明治14年太政官布告第36号による)
廃止:明治41年10月1日(明治40年4月24日法律第45号刑法の施行による)
沿革(法令全書の注釈による)

第3節 附加刑處分
第31条 剥奪公權ハ左ノ權ヲ剥奪ス
一 國民ノ特權
二 官吏ト爲ルノ權
三 勲章年金位記貴號恩給ヲ有スルノ權
四 外國ノ勲章ヲ佩用スルノ權
五 兵籍ニ入ルノ權
六 裁判所ニ於テ證人ト爲ルノ權但單ニ事實ヲ陳述スルハ此限ニ在ラス
七 後見人ト爲ルノ權但親屬ノ許可ヲ得テ子孫ノ爲メニスルハ此限ニ在ラス
八 分散者ノ管財人ト爲リ又ハ會社及ヒ共有財産ヲ管理スルノ權
九 學校長及ヒ敎師學監ト爲ルノ權

上記の通り、旧刑法31条には国民の用語があります。
旧刑法とは現行刑法明治四十年刑法施行まであったものです。
この時点で既に「国民」という用語が採用されていたことに驚きますが、旧刑法制定の経緯を07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」前後で連載していますが、2006年7月8日のコラムを見直してみると、

「ボワソナードは、来日当初は自分で草案を作成せずに、気鋭の若手に講義する御雇い外国人そのものだったのです。
この講義を聴いた日本人が刑事関係法典の編纂事業に携わっていたのですが、うまく行かず、明治8年ころからボワソナード自身が草案作成に関与するようになったのです。
この作業は、フランス法を基礎としながらも、ベルギー、ポルトガル、イタリア各国の刑法案を参考にして編纂されたものでしたから、この刑法典は、ヨーロッパ刑法思想の最先端を集大成した法典化であるとも言われています。
この法典は約5年の歳月を経て結実し、明治13年(1880年)に太政官布告され、明治15年(1882)年施行されました。」

とあり、5年間も議論にかかったのは、ボワソナード民法が法典論争を引き起こしたように、何を刑事処罰し、刑事処罰しないか、且つ個々の刑罰をどの程度にするかは、他犯罪との比較が重要で民族価値観を敏感反映するものですから、国内価値観との調整などに時間をかける必要があったからでしょう。
例えば、古代から天皇家に対して弓をひくなど恐れ多くて許されないのは常識として武家諸法度その他法令が発達しても刑罰対象になるかの法定をしていませんでした。
例えば伊周の失脚の直接のキッカケは、(一般化されていますが、史実かどうか不明です)子供じみたことですが、女性問題で花山法皇の牛車に弓を射かけたというものでした。
朝廷に対する不敬罪を規定した御法度がなかったように徳川体制に刃向かう・謀反は当然許されない大前提でしたが、そういう常識的な御法度がなくて当然の社会でした。
これらも刑法で処罰関係が条文化されたものです。
もう一度旧刑法を見ておきます。

第2編 公益ニ關スル重罪輕罪
第1章 皇室ニ對スル罪
第116条 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第117条 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 皇陵ニ對シ不敬ノ所爲アル者亦同シ
第118条 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
第119条 皇族ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
第120条 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ輕罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス
第2章 國事ニ關スル罪
第1節 内亂ニ關スル罪
以下略

人民〜国民1(私擬憲法)

「市民」を名乗るのは、トキの政府から距離を置く立ち位置を強調するには西洋文明由来なのでおしゃれな印象・・人民より語感印象が良い程度のことではないでしょうか?市民の対語かな?人民についてウイキペデイアで見ておき見ます。
何も知らないで余計なこと言うなと市民活動家に叱られそうですが、ま、いつも書いているようにこのコラムは、思いつきコラムで専門家の論文ではないので、間違いがあればご容赦ください。
ウイキペデイアで見た限りの付け焼き刃知識ですが、人民という熟語は中国古代からあり、共産主義者のオリジナル発明ではないようです。
人民に関するウイキペデイアによると以下の通りです。

文献上は戦国時代の『周礼』や『孟子』に既にみられる。『周礼』には、君主や群臣などの支配者と相対する被支配民としての「人民」の概念が述べられている。『孟子』の「盡心下」篇によると、孟子曰く、「諸侯の宝は3つある。土地・人民・政事である。珠玉(真珠や宝石)を宝とする者は、殃(わざわ)い必ず身に及ぶ。」(孟子曰、「諸侯之宝三。土地・人民・政事。宝珠玉者、殃必及身。」)
日本語の文献においては、古く8世紀の『古事記』、『日本書紀』の中に現れる。当時は、「おおみたから(大御宝)=天皇の宝」・「みたから」、「ひとくさ(人草)」という和訓が当てられていた。
「おおみたから」の訓をあてる語は、他に「黎元」や「庶民」もあり、「ひとくさ」は語義のまま青人草(あおひとくさ)と書く例がある。同じ意味で使われる言葉には、「衆人」「世人」「百姓」「諸人」「万民」などがある。「人民」は『古事記』に少なく、『日本書紀』と六国史において一般的な語であった[1]。
「人民」は特別な用語ではなく、君主の統治対象という以外の限定を付けない幅広い概念であった。たとえば「庶人」・「庶民」は無位か低い位階の人々を指し[2]、「平民」は奴婢・浮浪人・蝦夷を含めない身分的な概念だが[3]、「人民」にそのような線引きはない。また「人民」は、統治の良否や自然災害・事件の影響で富んだり悩まされたりする文脈で記され、「人民反乱」のような使用例は古代にない[4]。権利や行動の主体にはならず、もっぱら受け身の文脈で用いられた。

我が国でもこの流れで青人草や庶民等の和語になりこれが中世には土民となり、江戸時代には百姓となり、基本的に支配対象としての呼び名であって、時に土一揆、百姓一揆などの呼び名にもなっていきます。
政治の対象を表現する概念だった「人民」を政治主体者概念に一変させたのが、リンカーンのゲテスバーグ演説だったようです。
いわゆる「人民の人民による人民のための政治」(「government of the people, by the people, for the people」) です。
この演説が、人民をそれまで政治の対象でしかなかった人民を政治主体者と宣言したことになります。
これを受けた明治の自由民権運動期には、運動家の間では「人民」が流行し、憲法草案華やかなりし頃には、多くの私擬憲法では「人民」という用語を主張したようです。
例として植木枝盛の憲法草案の一部を見ておきます。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51592

自由民権運動の潮流から私草された憲法案には、基本的人権を認め、国民主権を明確に定めるものも少なくなかった。なかでも最も急進的だとされるのが、植木枝盛(えもり)の『東洋大日本国国憲法按』(1881年起草)である。
植木の憲法草案の先進性は、全220条中36か条におよぶ人権規定と、第72条に示された政府への抵抗権に表わされている。
第5条「日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス」、第42条「日本人民ハ法律上ニ於テ平等トナス」、第49条「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」と人民の自由・平等を保障。
第72条には「政府恣(ほしいまま)ニ国憲ニ背キ 擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ 建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ 日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」と定めて、国民による革命の権利まで認めている

上記の通り民間の草案は今でも普通にありそうな(政府に気兼ねせずに考えればこうなるのが普通ということでしょうか?)人権重視草案でしたが、人民→政府転覆の権利まで突き進む点で政府の警戒を受けたらしく、すでに明治14年旧刑法で採用されていた「国民」用語も使わずに政府案は「臣民」という後戻り的発想の定義になってしまったようです。
明治憲法で「臣民」という用語が採用された後、人民用語は臣民という用語を不当とする反抗的ニュアンスで使用されたり反政府運動家愛用の特殊用語化し、なんとなく一般人が使いにくくなり、社会の片隅に追いやられていったようです。
現在用語法もこの延長上にあり、人民という響きになんとなく現行秩序否定したいイメージを感じるのはこうした歴史に由来するのかもしれません。
また私が育った戦後から昭和終わりころまで「我々人民は〜」と叫んでいた人たち自身も、現秩序に対する否定的感情をそのまま表す人が普通でした。
これが余計社会から孤立化を進めたので現在日本では「人民」を使う人が減ってしまった原因でしょう。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。