グローバル化進行による落ち着きどころに関してJune 24, 2012「貿易収支赤字転落(原発事故)1」で書き始めていましたが、国際収支改善努力の意欲能力が石油危機時とは違って来ていること・・個々人の努力にかかる時代に移行していることを書いている内に民主主義制度の行く末に話題がそれてしまいました。
話題を国際平準化による落ち着きどころに戻します。
国民がどの政党に頼るにしても、頼らないにしても国際競争下で生き残りを図るには、政党の責任・・企業の責任にして安住せずに、国民個々人が高賃金に見合う能力を一人一人が自分で磨いて行くしかありません。
国民個々人でみれば、構造転換・・高度化について行ける人と行けない人がいるのはどのような教育・職業訓練制度を用意しても(個体による能力差があるので)どの社会・民族でも同じです。
国がジリ貧になるかどうかは、国際収支黒字を維持して行くための構造転換について行ける人材がどのくらいの比率で存在するかに掛かるでしょう。
大量生産向け・・底辺労働者向け産業から順に新興国に追い上げを受けるので、その階層のレベルアップが政治的に要請されます。
実際には彼らのレベルアップは無理がある・・少しくらい職業訓練をし直しても・・比喩的に言えば30点までが能力の限界の生徒に対して「もう少し頑張れ」と尻を叩いても大したことにはなりません。
何とか訓練して35点レベルに引き上げた頃には新興国もそのレベルの分野で競争力を持って迫ってきますから、お金がかかるばかりで何にもなりません。
とは言え、この階層の人口がどこの国でも最大ですので政府としてはこの階層の多くを失業させたまま「あなたは駄目よと・・・」放置しておけないので「政治的に」職業訓練努力を要請されているに過ぎません。
私は自分が不器用なので分るのですが、「お前程度の仕事だと韓国や中国の職人に負ける・高い給与は払えない」と言われて失業した場合、職業訓練校に通い直しても殆ど結果は変わらない・・それ以上に器用にはならないことは自分で分っています。
知能・美的センス・運動能力その他どの分野でも生まれつきの素質が重要で、同じことが言えます。
以前に「努力さえすれば何とかなる」ような教育論・・人みな平等的意識による教育論は政治的アッピールとしては必要かも知れませんが教育論としては誤りであるという意見を何回か書いたことがあります。
(しかし政治の世界では本当のことを言えません・・嘘を言っても良いということ自体おかしな風潮です・・政治は建前だけ言ってれば良いと言う風潮ですが・・本当のことを前提に議論しないと本当に国を良くすることは出来ません。)
能力別人口構成はどの分野でもピラミッド型・・即ち下に行くほど多くの人口を抱えています。
身障者まで加えれば別ですが、健常人だけの階層で見れば、ビヤ樽型人口構成はあり得ないと言っても良い公理のようなものでしょう。
とすれば下位レベル層から順に新興国の挑戦を受けて失業して行くと、人口構成上では大変な比率になって行きます。
これが健康な若年層の生活保護受給者増の流れになっているのです。
現在行っている職業訓練によって少し能力が引き上がるときには、新興国の技術水準がそれ以上に上昇して追い越される・・いたちごっこでキリがないので、競争力維持のためには、彼らの賃金を新興国並みの能力しかないならば能力に会わせて下げてしまい、生活水準維持のためには補助金(生活費補填)を交付するしかありません。
現在はこの差額を企業負担にして、労働者の生産性以上の給与負担を企業に強制しているのが最低賃金の引き揚げや非正規雇用の正規雇用化(これはこれで技術の伝承などの意義がありますが、ここでは賃金の面だけで書いています)などであり、このための政治介入が盛んです。
政治介入が盛んであると言うことは、経済の原理=労働の対価に見合っていない給付を強制していることに外なりません。
経済原理に反する行為・・水が低いところに流れるのを阻止するような政治は、短期的には可能でも長期的にはその水が溜まって決壊すると大変なことになるのと同様に却って傷・・社会的損失を大きくします。