例えば明治40年以降続いている現行刑法の3条は現在のネット検索では昨日引用したように本日現在の条文しか出ないので、戦後改正されて「国民」という用語になったのか、40年現行法制定当時も「国民」であったのかを知ることができません。
これが戦前どうだったかを見るには、昭和8年版六法全書がたまたま我が家にあるので刑法を開いて見ると、3条の文章が文語体であるほかは「国民」という単語が「帝国臣民に之を適用ス」となっているほか全語同じです。
(漢文調が口語体に変わったのは平成になってからです)
これによれば、もしかしたら明治40年制定当時から明治憲法に合わせていたように思われますが、そうとすれば旧刑法も、明治憲法制定に合わせてほぼ同時に国民を臣民と変更していた可能性がありますが、旧刑法については、制定当時の条文しかネットに出ないので明治憲法制定によってどうなったかの変化が今の所私には不明です。
ところで、国民という概念が明治13年の旧刑法記載だけで、一般に知られていなかったのかといえば、日露講和条約反対の日比谷焼打事件の集会名は国民集会といったようですし、暴徒押しかけ先対象になっていた新聞社名が「国民新聞」と言うようですから、当時在野で「国民」という表現がすでに利用されていたようです。
ですから、国民という単語は日本国憲法制定時に創作された単語ではなくずっと前からあったのです。
もともと明治憲法で創作した?臣民という用語の方が我が国古来からの用例から見て無理があったように直感します。
敗戦→新憲法制定の必要性から、国民意識に合わせて是正されたと見るべきでしょう。
私のド素人的語感からいえば、「臣」とは支配者あるいは誰かの手足となって働く支配者側の人間であり、「民」とは権力との対で言えば領民・・権力集団の外側にいて支配される側の総称でしょう。
領民の中から権力機構内にいて権力者と主従関係にある状態の人、現在風にいえば従業員の内労働組合に入らない管理職がオミ・・天皇家直属の大豪族トップを「おおオミ・大臣」中小の豪族を中臣、小臣と言い、江戸時代でいえば大名?小名、旗本、御家人であり、天皇家の朝臣は、江戸時代の直参旗本クラス?御家人や小者までいろいろですが、このように領民中権力機構に関係ない人を「民」というのではないでしょうか?
権力機構外の民の中にも経営者と従業員がいますが、それらはまとめて民です。
言葉の意味では単純な「たみ」でいいのですが、日本人は漢字にした時に二字熟語にしないと落ち着かない国民性ですので「民」に何をくっつけるかの違いでしょう。
皇族以外は臣民というのは一応当たり前過ぎですが、臣民を合わせた二字熟語をなんというかの問題で抵抗権に魅力を感じるグループは人民といい、その他の人は「日本国の民なのだから国民」千葉県の人は千葉県民というようにこれが普通になってきたのでしょう。
県民の中で、県の役人とその他をあえて分ける必要を感じないのが現実です。
明治以降の一君万民思想で天皇(皇族)以外は全部「臣であり民である」と分ける必要がなく、単位に日本国の民=日本国民とすれば単純だったと思いますし、憲法で「臣民の権利義務」などと書く必要がなかったのです。
臣民によって適用法が違う場合には分類する必要がありますが、同じ法が適用されるならば、分類して法に書く必要がないでしょう。
臣民=皇族以外のものといいうことですが、そうとすれば民そのもの済むはずです。
民の中には大工も官僚も商人も漁民もいますが、あらゆる職種を羅列する必要がなくまとめて「民の権利義務」で良かったのです。
臣民・天皇直属の役人とその他の権利義務と書いても、臣と民で権利義務が変わるものではない・・どちらも日本国民であり同一の刑法民法の適用があります・高級官僚も庶民も皆家族法の対象ですし、買い物代金を支払う義務=民法の適用があり、殺人傷害等すれば刑法の同じく刑法対象です)ので2分類の必要がなかったのです。
これに対して人民は政府権力に対する対抗概念ですから、人民と官僚になる人は対立概念でありこれを含めてまとめる上位概念はありません。
支配されていた人民が抵抗権行使の結果、支配者になれば人民ではなくなるのですから、人民解放軍とか人民政府とかいうのは言語矛盾です。
臣民を今で言えば、官僚も総理大臣も皆国民であり、国民(国内に居住する人全員?形式的には国籍取得者)の中から、官僚や民間人に分かれる大元の上位概念です。
この結果官僚を辞職すれば在野ですし在野から官僚にもなれる、「臣と在野」は互換性をもっています。
法の適用は法の下の平等であって、官僚と一般国民との違いによって適用される刑法や民法に違いがありません。
明治憲法下でも高級官僚も一般の人も(家族法分野で言えば、婚姻や親子関係など)皆同じ法の適用がありましたので、明治憲法で臣民の権利義務とわざわざに分類したのは無用な分類だったことになります。
江戸時代までは、身分階層によって刑事法等の適用が違うことが多かったし婚姻制度も主君の許可がいるなど法適用が違っていたので武家諸法度、禁中、寺社など違ったルール適用を前提にしていましたので、その伝統に従って臣民と書いたのでしょうか?
我が国で「臣」の漢字を歴史的に見れば、天皇直属を大オミ・臣・・・でしたが、時代が下ると末端武家の従者も家人から家臣へと変わっていきます・・。
臣・・誰かに従う人・・サラリーマンといっても、勤務先は企業も中小企業〜個人事業主もあるように、天皇家・権力機構にに仕える豪族とその豪族に仕える人との違いが生じます。
古代王朝で言えば八色の姓」制定前には「オミ・臣」がありますが、八色の姓制定後従来貴族は全員朝臣(家の制度完成後に一般化された「家臣」同様に朝廷の「臣」いう点で同質表現)になり、その後は地方豪族にもオミが広がり、朝廷のカバネ制度と関係なく?武家の台頭後武家内の秩序・・主従関係を漢語的表現して、君臣というようになっていきます。
臣は一般的に権力機構に仕える従者に使い、民間の人に従うのは、色々な表現があったでしょうが、臣と言うようになったのは、権力の対象でしかなかった地下人・武士団が藤原氏など権力者の下請けをやるようになり〜武家自体が権力者になっていく過程で家人などと言っていた従者が家「臣」に昇格してきたような気がします。