アメリカの標榜する民主主義社会とは、極論すれば「多数でさえあれば,内容がでっち上げでも何でも決めて良い」「決めたらそれが正義」という社会です。
(実際には「そんな無茶はありません」と言うでしょうが、仮にそうなっても誰も文句言えないシステムであることを書いています・・)
憲法という歯止めがあると言う人がいるでしょうが、でっち上げデータに基づく法制定・裁判のリスクに対しては、憲法違反の問題にはなりません。
極東軍事裁判のように戦勝国が占領支配下で好き勝手な裁判システムを作り、裁判という形式さえ踏んでいればその認定は正義ということになります。
日本語で言えば茶番劇そのものです。
「制度を活かすも殺すも人次第」というのが我が国のコンセンサスですが、そこには「法手続きさえ履践していれば結果はどうでも正義だ」というあんちょこな正義の否定があります。
アメリカが好きな人選をして形式的な裁判手続きをしたというだけで何故正義になるのか日本人のほぼ誰一人納得していないのが現実でしょう。
内容の当否を問わずに・・手続きさえ尽くしていれば正義と言う英米法のデュープロセスオブローの思想は、世界の覇者になった英米が好きなようにルール・・国際標準や国際法廷を組織出来ることを前提にしたルールです。
会計/税制・子どもの奪い合いに関するハーグ条約その他の全ての分野でアメリカの主導する世界標準が幅を利かししています。
強者の自分の都合に合うように(内容の善悪を区別しないで)ルールを作りさえすれば、これを守らないのが悪であると言うのが・・英→米支配の世界ルールになっているのです。
これでは専制君主や独裁権力が恣意的に価値観を決めて支配しているのと同じで、強者支配の貫徹道具にしかなりません。
私が大学に入ってルール・オブ・ロー「法の支配」を教わったときには初めて聞く新しい観念でしたが、(今では高校生でも常識かも知れませんが・・)「手続きさえ整備されていれば内容はどうでも良い」となれば、古代中国の韓非子が唱えた法家の思想とどこが違うの?と言う疑問が出てきます。
韓非子の言う法の支配は制定内容が(当時は国民の意見を聞く時代ではないので)独裁者あるいは専制君主の意向次第ではあるものの、(その時代なりに正式な君主の命令・・日本で言えば詔勅や御法度になるのには、一定の手順が決まっていたでしょう)部下〜国民は予め決めた法のとおり盲目的に執行する・・法律・命令どおりかどうかで賞罰を決める思想である点は近代以降(英米主導)の法の支配と共通です。
法家の思想は、法(マニュアル)がなくて君主がその場その場で判断していると以前に言ったことと考えが変わることがあって周囲が混乱するから、予め法=マニュアル化しておけば周囲にとって行動基準が前もって分って、合理的と言うに過ぎません。
その代わり事前に決められたルールに従っていれば内容の当否を問わないし、逆にルール違反していれば内容が正当であっても処罰すべきだというのが韓非子の主張でした。
03/05/10「中国の法形式主義1(法家の思想)」のコラムで韓の昭侯がうたた寝したときに衣の係ではない冠の係が気を利かして衣を掛けたことで、却って処罰されたという故事を紹介しました。
もう一度紹介しておきましょう。
誰加衣者(タレか衣を加フル者ゾ!)
昔者、韓昭侯、酔而寝。典冠者見君之寒也。
故加衣於君之上。
覚寝而説、問左右曰、
「誰加衣者。」
左右対曰、
「典冠。」
君因兼罪典衣与典冠。
其罪典衣、以為失其事也。
其罪典冠、以為越其職也。
非不悪寒也。
以為、侵官之害、甚於寒
(括弧内は私の独自訓読です・・オモへラク、侵官の害(越権行為)、寒より甚だし)
紀元前3〜4百年前(韓昭侯・在位B.C.362-333の人です)から中国では命令・ルールの是非を論ぜずに、ともかく法を盲目的に守ることを良し・・守らない方を悪とする思想でやって来たのです。
所謂「悪法も法なり」というソクラテスの意見と同じです。
ソクラテスのこの言葉が日本で誰でも知っているほど何故有名になっているかと言うと,我が国では「悪法は法の効力を持ち得ない」という自然法的原理が行き渡っているから・奇異過ぎて理解不能な感じがするからちょっと読むと心に引っかかって忘れられないからです。