騒乱の功罪4(カントリーリスク1)

李氏朝鮮での壬午事変(1882)は、背後権力主導による騒乱演出を始めた最初の事件でしたが、この事件の教訓は民族主義を強調して排外行動をうまくやれる面があると同時に、列強による自国居留民保護を名目にした外国軍駐留を誘発するマイナスがあったことでした。
外国軍駐留・介入を誘発する朝鮮でのマイナスの経験を活かすどころか、中国では自分の交渉能力の拙劣さ(戦前・・政権弱体化に乗じて不当な要求を受けたことがあったので同情の余地がありましたが・・)あるいは(戦後は日本のえせ同和の要求同様に味を占めて)無茶な要求を押し通すためにこれを補う手段として定着して行くのです。
多分朝鮮族も同じですが、失敗・・マイナス面を認めたくない・・大成功したという公式発表が幅を利かす国柄がそうさせるのではないでしょうか?
昨年の李大統領による竹島騒動演出は、国際的に考えて韓国に何のメリットもなかったので、政治的に見ればマイナスですが、飽くまで失敗したとは認めないのが韓国の政治です。
アメリカの超金融緩和の出口戦略が語られるようになって、新興国からの資金引き揚げが始まりかけています。
これに連動して韓国のみならず中国も資金不足に陥るリスクが目の前に迫っていますが、どんなに苦しくなっても自分から失敗を認める訳には行かないので、歯を食い縛っていれば、日本が見かねて助けてくれるだろうと言う状態です。
朝鮮通信使の国書問題をこの後に書きますが、日本にきて自国より進んでいるのを見て驚いた筈ですが、「日本はこんなに進んでるよ」と決して報告はしなかった・・出来なかったのと同じです。
強烈な劣等感の裏返しで少しでも自己の非を認めると自己の立場が崩壊すると気張っているのです。
騒乱・大衆動員によって実力行使するやり方は幼児が自分の意見を合理的に表現する手段がないために泣き叫んだり、駄々をこねるのと同様です。
乳幼児が合理的意思表示能力がなくてお腹が痛くてもお腹がすいても「泣くしかない」のは可哀想ですが、泣きさえすれば何でも聞いてくれることに味を占めて、泣き叫んで不当な要求でも押し通そうとして行動するようになると「駄々をこねる」と言われます。  
中国では戦前列強による不当な圧迫に対する抵抗手段として騒乱を起こす手法を利用してきた歴史が長いので、デモ・民衆騒乱の形式さえ取ればどんな目的でも正当化出来るような誤解が生じているように見えます。
自分の方が不当な要求でもある程度ごり押し出来る大国になった現在でも、自分の不当な要求を相手に押し付けるための手段に悪用し始めている疑いがあります。
えせ同和の恐喝行為同様です。
清朝末期には外国軍の介入を誘発するマイナスを気にしないで、朝鮮での騒動で対応した経験を活かして?騒乱を繰り返しては外国人排斥運動をしたので、諸外国は自衛のために自国軍を駐留させることになり、清朝はいよいよ自壊を始めます。
現在中国政府もこのマイナス面の反省をせずに国際競争を有利にするための官製の反日、外国企業を標的にした騒動を繰り返して来ました。
(反日暴動以前には、チベット民族弾圧に対するフランスの姿勢に反発する官製のデモや不買運動が頻発していました。)
現在では清朝末期や戦前と形は変わっても(外国軍の進駐には発展しませんが違法な圧迫を加えれば何らかのしっぺ返しがあって)似たような繰り返しになって行くことに対する理解がないようです。
中国はいまどき外国軍の進駐はあり得ないと言う「歴史認識」による自信だけ持っていて、自国内である限りどんな無茶・・違法行為をしても形だけ処罰すれば文句言われないという立場になっているのでしょう。
昨年の反日暴動で日本車を破壊した犯人に対して、つい最近執行猶予付きの判決が出たと報じられています。
形式的処罰をして一応法治国家の体裁をとっていれば文句言われないし、他方では国民に対しては日本車に乗っているとどんな被害が及ぶか分らないという威嚇宣伝の目的を達したとして悦に入っています。
これがカントリーリスクとして認識されてじわじわと不利な投資適格・交易条件になって跳ね返ることを理解出来ないのです。

騒乱の功罪3

軍の併存状態になると、そこでのヘゲモニー争いでは強い方が自然に優勢になって行きます。
源平合戦当時の平家と源氏の武士団が都で併存しているときには、弱い方の源義朝がジリジリと劣勢になって行くので、清盛の熊野詣での隙に兵を挙げたり、石田三成がこのままでは徳川に政権を乗っ取られると思って、上杉征伐名目で出陣させて徳川軍が大阪を空けた隙に兵を挙げたり・・といつも同じパターンです。
属国である朝鮮で始まった諸外国軍併存=支配パターンは清朝のお膝元でも始まり、次第に相対的に力を持つ駐留軍の動向の方が影響力・・支配力を持つようになってきて、清朝政府に主権があるのかないのか分らなくなって行きます。
清朝末期〜国共内戦時代には半植民地化して行ったと歴史で習うのですが、これは自作自演の騒乱によって招いた面も無視出来ません。
明治維新のときに本格的内戦していると外国軍の介入を受ける心配があることは(江戸城無血開城など)日本人全体の意識でしたが、中国の支配者には自分の地位保全に汲々としていて国がどうなるのかの心配が足りなかったのです。
諸外国軍並立に関連してついでに書いておきますと、日本軍による南京虐殺があったと中国と米国は虚偽宣伝に努めていますが、当時の南京は国際都市であって諸外国軍の入り乱れた南京では共産党ゲリラ等の騒動・虐殺がある都度一番規律のしっかりしている日本軍支配地域に現地住民が逃げ込むのが普通であったことが、諸外国の駐在員の日記や本国にいる家族等への手紙等に出ているそうです。
実際にそんな大虐殺があれば、あることないことを理由に処罰理由を探していた極東軍事裁判で、連合軍がこれを理由にしなかったことの説明がつきません。
何しろ南京その他の都市には日本軍・日本人だけではなく列強諸外国軍が駐留し,宣教師・商人その他雑多な居留民がいた(・・だからこそ、自国民保護のために諸外国軍が駐留していたのです)ていたのですから、どうして外国駐在員等からの虐殺の目撃や噂等の証拠が出ないのかということです。
戦後5〜60年もたって、日本敵視政策を始めた江沢民以降イキナリ問題にし始めたのは奇怪至極ではないでしょうか?
話題を大衆動員・騒乱の効果に戻しますと、世界中で、デモや騒乱というものは民衆の権力に対する不満から起きるものであることを逆手に取って中国では、(政府が背後で唆しながら・・)
  「騒乱による外国人の被った被害は基本的には政府の責任ではない・・・」
  「不当な列強の押しつけに国民の不満が爆発した」
という建前を利用して国際プロパガンダを流す・・政府が背後で主導してデモや騒乱を起こさせても民意によると言う宣伝で政府責任を逃れる手法を編み出しました。
現在でも政府が外交交渉を有利に進めるために中国政府頻繁に利用する官製デモの原型が朝鮮での壬午事変でした。
尖閣諸島に大量に出没している中国艦船を海艦とか公船と称していますが、元は海軍所属でしたが今は海軍の軍籍を外していて、これは軍事行動ではないと言う建前で日々領海侵犯しているのも、官製デモの亜流になります。
勿論船団を組んで出没する漁船等も政府から高額日当を支給されて出漁?している官製デモンストレーションです。
北京5輪の聖火リレーのときに善光寺周辺でのチベット民族弾圧反対デモに対して、中国政府動員のデモ隊が貸し切りバスで大量に集結して、却って、チベット弾圧反対運動家を圧倒してしまった光景を思い出す人が多いでしょう。
在住人数で競えば当然チベット族の方が少ない上に、亡命人はお金がないし日当など払えないので(デモに参加すること自体中国に残して来た身内への迫害を心配するので参加率も低いでしょうし)、競り負けるのは当然です。
他人の国においてさえ、日当支給で大量デモを演出する中国の横暴な態度に肝を冷やした日本人が多かったと思います。
中国政府とすればイザとなれば日本国内でさえ、大量動員出来るという中国の底力を示したつもりでしょう。
同じようなことをアメリカその他どこでも数の力で示して、彼らはそこで国威発揚をした・・相手を圧倒して勝ったつもりになっています。
そんなことをされたその国の国民が、在留中国人や中国政府に対してどのように思うようになるかに思いが至らないのが哀れです。

壬午事変3(騒乱の功罪2)

韓国や北朝鮮が頻りに威嚇的言動を繰り返しているのも惨めな話ですが、自分たちは何かあると直ぐにいきり立つことのマイナス効果を知らないのですから哀れです。
・・相手はその野蛮さに驚いて黙ってしまうのは、相手を尊敬しているからではなく、自分に対する低評価に繋がっていることに気づかないから格好良いことと思ってやっているのでしょう。
壬午事変(1882)で、進展する開化勢力に対抗するには旧勢力は民衆騒乱を演出すれば効果があると味を占めたので、以後この種のデモを中国は繰り返すようになった(文化大革命・紅衛兵運動も権力・黒幕による演出・反革命運動という意味ではこの一種です)のではないでしょうか?
壬午事変(1882)では朝鮮政府及び袁世凱の軍は外国公使である日本外交団を保護せず放置したので、日本公使一行は多数の駐在日本人の死者を出しながらあちこち逃げ惑った結果最終的に偶然?通りかかった英国測量船に引き上げられて一命を取り留めました。
もしかしたら、英国は日本とは比較にならない諜報網を有しているので、予め袁世凱や大院君の陰謀を察知して現地に船を回していた可能性があります。
(と言うよりは大衆動員ですので誰でも予測出来ていた筈ですが・・日本は当然政府軍が公使館を守る筈と信頼していてこう言う結果になったのです・・読みが甘いということです)
昨年の中国の反日暴動の場合も、前から分っていましたが、まさか中国政府が焼き討ちまでやらせるとは予想していなかったのと同様です。
ニューヨークの9・11事件でもあれだけのビルなのに,被害者にはアメリカ金融界の大物や政界の有名人が一人もいない・・被害者はみずほ銀行など日本人中心というのはどうも解せない話です。
ビル崩落の状況が老朽ビルの爆破破壊とそっくり同じ状況で崩れて行ったこともあって、米政権との出来レース・・偶然としては出来過ぎなので事前情報があった・・日本人だけが知らなかったと言うのが真相ではないかと疑われています。
日本は昔も今も情報戦には弱い・・第二次世界大戦時に限らず今では韓国や中国にあることないこと良いように宣伝されっぱなしですが、我が国では武士の魂として情報収集程度までは何とかなるとしても積極的にでっち上げた嘘まで宣伝するのは潔くないと考えるので、こうした虚報合戦には不向きです。
イギリスはロシア南下政策(不凍港獲得願望)を食い止めるためには、清朝の存在は当てにならない(朝鮮がいずれロシア支配下になる)と見て日本の朝鮮進出を陰で応援していた(あるいは英国発企画・思想に日本が知らぬ間に洗脳されていた?)可能性があります。
この騒乱の結果大量の日本人死傷者を出した結果に対して、今の政府とは違い当時の日本政府は当然毅然として責任追及を求めます。
(イギリスがバックにあって強気に出られたのでしょうか?)
袁世凱としては大院君を捉えたという名目で天津へ逃がしてうまくやったつもりだったでしょうが、目の前に駐留している清朝軍が暴徒を鎮圧したり、日本公使等外交団を保護しないで放置していたのですから、これでは実際に朝鮮が清朝の実効支配下にあることを列強に示せなかったことになります。
この事件後の日朝交渉の結果、朝鮮政府・袁世凱も日本人保護のために日本軍の駐留を認めざるを得なくなってしまい、朝鮮においては日清両軍の並立状態となり却って清朝の独占支配が揺らぎ始めました。
壬午事変以降、この種の官製騒乱で味を占めたのか?この後で清朝本土でも(外国軍の介入を招くマイナス面を考えずに)騒乱が頻発しましたが、清朝政府が外国人を保護出来なかったことから、結果的に西洋列強による自国民保護の名目で清朝支配下の本土に各国軍が駐留を始めることになります。
(政府は自分の非力を補うためにデモや騒乱を煽動をしているのですから、外国企業等を保護する気はなかったでしょう)

壬午事変2(騒乱の功罪1)

事大主義・保守派の大院君(高宗の父)が壬午事変(1882)で大衆騒乱を陰で操り事実上のクー・デ・ターを起こして権力奪取したのもつかの間でした。事件後(本当はバックで軍事的承認・後押しをした筈の)袁世凱の軍が彼を捉えて(日本の批判をかわす目的だったのでしょう・・)天津へ送って李鴻章が査問したのは、儀礼的朝貢国から法的属国支配へと変更したことを内外に示した象徴的事件となりました。
朝鮮国王の父親を拉致して本国へ移送した点では、清朝の支配権を内外に誇示出来たでしょうが、駐留していた袁世凱の軍は騒乱になす術もなく(彼が煽動している以上は当然・黙認ですが・・)日本人を保護しなかった国際政治上のマイナスに気づかなかったのです。
昨年の中国での反日デモでも、中国政府はこれを規制しないでやりたい放題させていた結果、平和堂・パナソニック等の工場が焼き討ちに遭いましたが、この手の政府主導デモ・騒乱の最初の方式と言えるでしょう。
この騒乱の結果政府の信用・カントリーリスクが世界中に広まったマイナスを全く気にしない・・信用という価値を知らないのが中国です。
彼らは「ザマーミロ、中国の怖さを思い知っただろう」と溜飲を下げているのでしょう。
この心理はヤクザなどが「ここぞ!」というときに目に余る乱暴狼藉をしないと示しがつかないという意識で乱暴をするのと共通です。
正しいことを通すために敢然と悪に立ち向かうなら良いですが、理不尽な要求を通すために「国を挙げて違法行為に走る性癖があることを証明して何になるの?」という問題です。
違法行為実現のためにはどんな乱暴なことでもすると言う本質的怖さ(獰猛な猛獣と同じであること?)を市民や諸外国に植え付けることが、長期的にプラスになるかマイナスになるかの価値判断が狂っているのです。
思慮のある人間と見られるか、獰猛な猛獣と同じ・野蛮人と見られるべきか、どちらが人間として望ましいかは、誰も目にも明らかでしょう。
この程度の単純な利益考量すら出来ないで、「舐められてはならない」・・と威張り散らすことが長期的利益になると思って行動しているのが、このとき以来今に続く中国の心です。
尖閣諸島や南沙諸島その他中国が示威・威嚇行動をすればするほど、彼ら自身は「どうだ!」とばかり自慢しているのでしょうが・・自分の国際的信用・評価を落としていることに気づかないのですから哀れです。
弱い相手・・例えばフィリッピン対しては、中国海軍が現地紛争海域に長期常駐体制を続けていて事実上その海域を自国領土のように実効支配してしまっています。
現在海軍力では日本には叶わないのを知っているので、海軍自体が出て来ないで訳の分らない公船と言う名目で海軍艦艇のお古で事実上の海軍見たいな多数の船が尖閣諸島の日本領海侵犯を繰り返しています。
日本には力が及ばないとなれば、国境線では軍隊ではないと言う名目で海軍のお古の船を、海軍の軍籍から外して多数利用して領海侵犯を繰り返し、自国内で日本企業に対するデモの威嚇で嫌がらせを続けています。
戦前ならば,現地政府が外国人の安全を守らないと言うならば・・ということで、日本を含め西洋列強は中国に自国民保護のために軍を駐留させていました。
今ではそう言うこと(自国民保護のための軍の駐留)が出来なくなったのを良いことに中国は気に入らない外国があれば、好き勝手にデモ等の名目で破壊活動を行って威嚇するようになっています。
世界中ではデモは反政府活動として本来発生するものですが、中国の場合官製のデモばかりで反政府活動のデモは弾圧が厳しいので存在しません。
フィリッピンのように相手が弱ければ剥き出しの軍事力行使をして、日本のように少し強い相手には(これは海軍ではありませんという言い訳しながら挑発を続ける・・)そして相手が中国国内で手を出せないデモという「民主主義的手段は仕方がないでしょう・・」という建前で、相手国企業に対する嫌がらせを仕掛けるのが中国政府の手口です。

日本対中朝対立の始まり2と根深さ

西洋の所有権法理の適用の1つとして、清朝はフランスの一撃であっけなくベトナムに対する朝貢関係・・支配権放棄をせざるを得なくなりました。
(仏領インドシナの成立です)
清朝はアヘン戦争やアロー号事件で権威を失った結果、ドンドンと周辺格下・朝貢国支配権を失って行く危機感によって、それならばと属国支配強化・・具体的に軍を駐留して具体的支配が必要との動きとなったものでした。
ウイキペデアによれば、1881年(光緒7年)以降は李氏朝鮮との外交も、朝貢国との関係を扱う礼部から北洋大臣・・当時李鴻章が大臣・へと移管・・直轄地に準じる扱いされ、それまでは控えられていた朝鮮の内政や外交への干渉が強まり、朝鮮の属国化が進んでいました。
学校の世界史の勉強では,中国はアヘン戦争以降なす術もなく列強に蝕まれて行くような印象ですが、結果見ればそうですが、清朝とても黙って手をこまねいていた訳ではなかったのです。
版図を守るために必死だったことは分りますが、そのためには内部改革によって筋肉質にして行くことが先決ですが、これを怠って軍を周辺に膨張させていくだけでは意味がありません。
企業で言えば、赤字体質を改めないで出店競争ばかりしていても先がないのと同じです。
第二次世界大戦後、世界の混乱を利用して中共政府はチベットを完全に属国化したのは、この文脈で理解すべきです。
ただし朝鮮半島と違い簡単にチベットを属国化出来たのは、チベットの外周はヒマラヤの向こうなので外側にちょっかいを出せる(朝鮮に対する日本のような)国がなかったのが幸いしたと言えるでしょう。
それまでチベットにはイギリスがかなりちょっかいを出して関心を示していましたが、第二次世界大戦でドイツの空爆によって疲労困憊というか国力を大幅に減じてしまったし、戦後はインドの独立運動が始まっているなどその奥にあるチベットへの介入能力がなくなっていたことによります。
中央アジアのウイグル自治共和国その他内陸少数民族への直接支配強化も似たような経緯によって完全属国化して行ったのではないでしょうか?
周辺民族にとってはそれまで儀礼的服属で済んでいたのに直接支配になって行くのでは、納得出来ませんが周辺に援助してくれる国がないので泣き寝入り状態です。
欧米流法理の影響で却って窮屈な関係になって行き・・反乱等が頻発している原因です。
アジア的曖昧さをなくして行くのは善し悪しです。
このような経緯を踏まえると習近平総書記・国家主席が唱えるようになった清朝の栄華を復活させるというスローガンは、19世紀に切り離さざるを得なかった朝鮮半島〜ベトナム支配の復権を目指しているのかも知れません。
台湾は清朝時代朝貢関係にさえなかった(朝貢するようなはっきりした王国が樹立されていなかった)のですから、その主張からは除かれることになります。
沖縄は薩摩には具体的支配を受けながら、表向きは清朝に朝貢していたので、この朝貢関係を根拠に中国政府は最近自国領土だと言い始めた根拠になっているのでしょう。
日本公使など外交団と駐在日本人に対する襲撃事件が起きた壬午事変(1882)は、清朝が朝貢国を扱う役所の管轄変更・・属国支配強化を始めた翌年のことでした。
江華島事件(1875年(明治8年)江華島条約成立(1876)後、日本の開明化の働きかけに呼応して開明派が力を得て開明派の中心であった高宗の妻ミンピを中心とする日本の軍事顧問受け入れなど改革が進み始めていました。
江華島事件以降着々と朝鮮への浸透をして行く日本に対する保守派と清朝の焦り、清朝駐留軍をバックに保守派・事大党がこの事件を引き起こしたものと思われます。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。