日本人の心=日本教4(伊勢参り4)

13日の日経新聞報道による平成25年10月12日までの内宮参拝者636万人と前回遷宮時の約380万人の数字とを比較すると前回遷宮時に比較して約1、7倍の増加率になります。
次のページには、明治以来の歴年別集計表があります。
これによると戦後昭和22年に内外宮合計で83万5000人(内宮だけですと36万9000人・・外宮の方が大幅に多いです)に激減した後に順調に回復を続けていますが、前々回遷宮時・昭和48年の内宮参拝者は504万人ですから、次の平成5年の552万人との差では20年間で約1割しか増えていません。
これから比較すると、平成25年の前回比伸び率は約1、7倍ですから、異常に高率でアップしたことが分ります。
失われた20年という人が多くいますが、私はそうは思っていないことを「グローバル化以降のゼロ金利政策2」その他で繰り返し書いてきました。
一人の人間で言えば、成長期は傍目には目ざましいものの、成長の止まったように見える・・内実は同じように成長を続けてしていますが(身長の伸びのように)外から見えないだけです・・中高年・・円熟期こそ味わいが深くなるものです。
平成に入って生活レベルが下がったのでは困りますが、デフレの結果名目では現状維持・あるいは若干の低下があっても円高によって(少子高齢化による実労働者数の減少もあり)実質2倍近い生活水準の向上があったと言うのが、私が繰り返し書いて来た意見です。
身長の比喩同様に成熟社会とはそう言うもので、外見上身長の伸びが止まることが何も悪いことではありません。
高成長が終わったことによって、却って日本人の心が安定して古代縄文時代から連綿と続いて来た「和」の心を大事にする落ち着いた社会になったのではないでしょうか?
ちなみに内外宮参拝者比率を遡ってみますと、戦後直後は外宮参拝者の方が多く推移していますので、コアの信者が支えて来たことが分ります。
例えば28年の遷宮時には内宮240万人に対して外宮が241万人で外宮の方が1万人多くて今とは逆になっています。
内宮参拝者の方が多くなって内外逆転するようになったのは、昭和32年に内宮211万人に対して208万人となってからで、以降徐々に内宮の方に多く参拝するようになり現在に至っています。
外宮は本来的に内宮への奉仕活動のために存在するお宮ですから、全国から奉仕活動で一定数の出入りが必要になりますので、奉仕に参加した大方の人がついでに内宮にお参りして帰るパターンの場合、参拝者数は外宮の方が多くなります。
(近隣の人では年に数回以上外宮に奉仕のため・あるいは打ち合わせなどで行く人がいるでしょう・・その割に内外差が少なかったのは、内宮だけ参拝者が一定数いたからその差を縮めていたからです)
昭和31年までは内外差を逆転するほど(弥次喜多のような)一般参詣者が多くなかったことが推定されます。
昔から双方お参りするのは、かなりの信仰心または時間の余裕がある人に限られています。
私も昭和50年ころに弁護士会の団体旅行に参加して、伊勢神宮に参拝したときには内宮だけでした。
歴年データによれば、昭和31年までは、外宮参拝者の方が多い=言わばプロ信者が基本的に支えて来たことと、内宮だけ参拝者の方が多くなった32年以降は、それほど信仰心が篤くないが兎も角お参りしてみようと言う一般・周辺参拝者が着実に増えて来ていたことが外形上推定されます。
美智子現皇后の成婚式の前後ころを思い出してみると、年長のいとこに連れられて12時直前に池袋の家を出て明治神宮へ初詣でに行ったことがありますが、かがり火の中を初詣する若い男女でごった返していた時代です。
(当時は正月松の内は若い女性は振り袖姿で出社するなど、かなりいろんな習俗が復活していて、神宮の森でも振り袖姿の女性が大半でした。)
昭和32年が一般人参拝者の増えて内外逆転し始めた節目の年ですが、これを経済的に見ると戦後初の昭和29年から昭和32年までのいわゆる神武景気の最終年にあたります。
戦後の荒んだ飢餓状態から漸く脱して、国民の心にゆとりが芽生え始めたときと一致することになります。
(景気が良くなって直ぐにゆとりが生じるものではありませんので、物品の消費行動とは違って一般の心にジーンとしみ込んでゆとり・行動に反映するには数年以上かかります。)

日本人の心=日本教3(伊勢参り3)

昔から「悪知恵」にたけている人と言いますが、一定の才能があっても道徳律に反した悪い方にしか使えない能力では日本人にとっては価値がありません。
中国何千年の歴史と自慢しますが、そんな方向ばかり・・相手の足を引っ張ったり権謀術数・狡猾さばかり発達させているのでは、人智・道徳律の発展という意味では何千年分も退化する一方で来たように見えます。
悪い水に長い間使っていたようなもので、長かった分だけ悪くなってしまったことになります。
私のように(勿論島崎藤村や啄木の詩も好きですが・・)漢詩文に憧れて育った世代にとっては、現在中国の退化し切った価値原理を知るとその落差に驚くばかり・・憧れていた分に比例して失望も大きい状態です。
よく考えてみると私の好きな漢詩文もその裏にはずっと専制政治の弊害・失脚に関連する故事に溢れていたのです。
・・例えば「論仏骨表」の上奏によって韓愈が左遷されて行く途中で、見送りに来た甥に与えた詩が有名ですが・・そうした社会のあり方が人民の正義感に影響している問題点にまで、高校時代には気が回っていなかっただけも知れません。
日本人としてはそれでも良い・・これだけ世界中に日本の悪口を言いふらしていてもまた助けを求められれば、これからも過去を水に流して助けてやりたいというのが我が国の宗教です。
どんな悪人でも頼って来れば助けると言う有り難い教えですが、その分日本人にとっては「甘えの構造」になっている面も否定出来ません。
韓国人はいくら悪辣な日本批判をしても,日本はいつでもこれを許してくれて,いつでも韓国人さえ日本に近づく気になれば、日本と仲良くなれるし日本人はこれを受入れて来れると心底信じている様子が見えます。
悪く言えば甘く見ているフシがありますが、この意味するところは日本人が彼らが言うような悪人ではないと言うことを自白しているのと同じことになります。
安倍総理がいつでも門戸は開かれているというのは、まさに日本人の宗教心から沸いて来る冷静な結果です。
ネット上では今度中韓が困って来ても無視してやれば良いという報復的意見が多いですが、多くの日本人の正常心・・大方の意見はそうではありません。
一国を代表するべきものは落ち着いた大人の対応をする必要があり,この辺では中国が国連で口汚く日本を罵ったり韓国大統領の一国元首の発言とは思えないような低レベルな発言を繰り返しているのを見るとまだまだ国家統治経験が低すぎるという感想を持つ人が多いでしょう。
アメリカ流の弱肉強食の原理・利己主義が蔓延して、戦後少しの期間日本人の心が中韓並みに荒みかけていましたが、生活が落ち着くと縄文の昔から続いて来た本来の日本人の和の心を徐々に取り戻すようになった傾向が伊勢神宮参拝者増加に反映していると思われます。
以下平成24年伊勢市観光統計【資料編】「参宮客の変遷(明治・大正・昭和・平成)」データによります。
戦後の荒廃した一時期・・欧米流の弱肉強食の思想から、日本人の心が縄文以来万年単位で育んで来た正常心・・和の心に戻り始めたのか、昭和28年ころからかなりの参拝者に復元しています。
昭和28年の式年遷宮以降経済復興に連動して順調に伊勢神宮参拝者が増加していますが、バブル崩壊後・・まさに平成という年号のとおり外形的成長は止まっても豊かな生活が始まった平成に入ってから意識的に元の日本人の心に復帰したと私は思っています。
人の心の変化に関する統計は滅多にないので、このような外形の変化で見るのも一方法です。
そこでネット検索すると、(10月16日から書いたようにマスコミ報道は当てにならないので)上記の伊勢市観光統計資料が出ていました。
1ページ目には平成元年以降の月別統計が出ていますので、まずこれによります。
これによると平成元年の内宮参拝者は396万人、平成5年は1年間で(前回遷宮時)552万人で、10〜12月末までの数字では約180万人なのでこれを引くと10月初めの時点では、(月間数字しかないので12日目での比較は大雑把になります)380万人程度であったことが分ります。
一日一日の細かい数字まで発表用の表に載せていないだけで、多分伊勢市当局に問い合わせれば日にち別の数字も当然分った筈(日にち別集計がないと月別集計も出来ません)ですから、マスコミはその気になれば正確な数字を簡単に発表出来たのに、敢えて1年分と9ヶ月あまりと比較する・・伸び率が低く見えるような作為報道をしているのではないかと言う立場で10月16日からマスコミ批判して来ました。

日本人の心=日本教2(伊勢参り2)

日本列島では異人種・思想がきても反発するのではなく,暖かく迎え入れる懐の深い「和」の地域だという情報が秦漢の時代・古代から広く行き渡っていた可能性があります。
ちなみに我が国を古代において「大和のくに」と称したのは,まさに大きな「和の心」の集団という意味だったでしょう。
ちなみに,今で言う国概念ではありませんので「くに」とは地域・集団を意味する程度だったと思われます。
自民族以外を獣扁や鮮卑等の蔑称で侮辱したい漢民族の心は、これに長く精神的に属して来た今の韓国人の異様な歴史捏造熱・誇大妄想に繋っています。
日本以外の国々では、強者はどこまでも強く勝った以上は何をしても良いというのでは、最終的に社会が持たないのでキリスト教での宗教的修正が博愛精神の強調であり・・慈善事業・・アメリカで盛んな寄付の奨励となります。
今やアメリカでは寄付や善意に頼るだけでは、格差拡大の激しさを放置出来なくなって来てあらたな社会問題になってきました。
大革命以降は善意や宗教活動では補い切れないのが分って,法制度的には権利の章典・人権尊重ですが、これらはすべて内心の道徳律がないことを前提に外から矯正・押し付け・3権分立・外部控制(チェックアンドバランス)等で憲法等の法で強制する道徳です。
中国の儒教にはこの修正もないママできましたので、敗者・弱者は悲惨そのもので修正されないままできましたし、現在も似たようなものです。
政争に負けると(専制君主制の時代には政争に負けると罪九族に及ぶという大変な粛清が待っていました)大変なので,中国や朝鮮では古来から社会の発展あるいは正義が何かを考えるよりは、命がけで政争(讒訴等の打ち合いと、これから身を守る方法)に明け暮れて来ました。
専制君主制ではなくなった今も似たような独裁制ですから,いつ失脚するか分らないのでそのときの逃亡資金として私腹を肥やせるときに肥やせるだけ肥やしておく、同時に海外に妻子を前もって逃がしておく、裸官が盛んなのもこの流れの結果として理解すべきです。
古代から今に至っても中韓では賄賂政治やめられないのは、このような粛清・失脚制度に組み込まれている以上仕方がないでしょう。
世界中では日本人のように博愛・畏敬・和の精神が原則ではありませんから、原則として権力を握った方は苛斂誅求やりたい放題のとんでもない権力行使になりますので,人民・弱者の反抗や革命が必要になります。
中国の場合最後は流民の大量発生になって王朝滅亡することの繰り返しでしたが,今でもココから学ぼうとする気持ちにはなれないようです。
西洋では,フランス革命などを自慢して教科書に大々的に書かれますが,自慢出来たものではない・・為政者がそこまで国民を追い込んでいて気がつかないの?と日本で言えば恥ずかしい事件とすべきであったことをこのコラムで繰り返し書いてきました。
中韓がどんなに日本に対し、根拠のない非難をし続けていても、日本を頼って教えを請いに来れば日本人は誠心誠意、最新技術を研修生に教えて技術移転・近代思想移転に協力してきました。
彼らは学ぶだけ学んで後に「日本を追い越せば、日本に復讐したいと公言して已まないのにもかかわらず」です。
熊その他猛獣でも傷ついていれば、日本人はまず助けようとします。
その猛獣が元気になったら助けてくれた人を逃げ際に襲うかも知れませんが、そんなことに頓着しないで、苦しんでいればまず助けてやるのが日本人の心です。
実際日本で熊やイノシシが助けてくれた恩人を襲った話など、聞いたことがありません。
鶴の恩返しのテーマがいつまでも日本人の心を打つように猛獣でも恩を感じる筈というのが日本人の心ですが、中韓の人々は,猛獣よりも卑しい心根を持っているのでしょうか?
中韓では、時間の経過によって人智・道徳律が進歩するのではなく逆に退化・・人智は猛獣よりも狡猾な方向へ進んでいることになるのかも知れません。

日本人の心=日本教1(伊勢神宮1)

伊勢神宮参拝の話に戻ります。
私が30年ほど前に家族でお参りしたときには、寒いときでもあり人影もまばらで正宮付近には見渡す限り私たち家族だけの森閑としたものでしたが、今年の9月末に鳥羽で2泊して外宮から順にお参りしたときにはウイークデイにもかかわらず駅構内並みの雑踏でした。
私は郊外の森の散歩などが好きですから、雑踏の雰囲気は元々好きではありませんので今回は仕事を休んでウイークデイにしたのですが、平成に入ってから国民の神道回帰が進んでいる印象を受けました。
正確には戦後右肩上がりで推移していたのですが,平成に入ってから水面下を超えたので目立つようになったと言うべきでしょうか?
日本人は無宗教と言いますが、キリスト教のような非合理な教えには承服出来ないというだけです。
日本教と言うか日本人の基本姿勢は人智の及ばないのがこの世の基本であって、人智の及ぶ範囲はホンの僅かであると言う謙虚な姿勢です。
分らないのが基本であるから,自分以外のもの・・動植物含めて全て対する畏敬の念・・どんな動物も植物も人間同様に大切にする・・欧米のように万物の霊長・・山を征服するなどという観念はありません。
ましてや人間同士においてはタマタマ今自分が優位にあるからと言って、相手をいくらでも動物並み以下に貶めて良いという意識がおきません。
中国の歴史では勝てば相手に何をしても良いという無茶苦茶なおぞましい歴史のオンパレードですし、アメリカも動物と同視する奴隷制度やペスト菌を塗った毛布などバラ撒いて抵抗力のないインディアンをほぼ絶滅させた・・その残酷さは良く知られているところです。
アメリカに限らずマヤ文明やアステカ文明を滅ぼして殆ど跡形もなくしてしまったのも西洋人です。
我が民族にはそう言う歴史がなくどんな人でも動物でも家族同様に大事にする習性・・これこそが日本の和の心・・神道の基礎でしょう。
どこにも神がいまします・・八百万の神と言い、どこでも手を合わすのは、あらゆるものに畏敬の念を抱くからそうなるのです。
戦争に勝った相手の神も敬う心でやってきました。
あらゆるものがみな同じく尊敬の対象になる日本の社会で「和の心」が重視されるのは必然です。
これに対し日本以外の社会では異教徒かどうか同人種間でもエリートか否かの差別化が好きですから、(上層階級は働かないなど)そこには相手をそのまま受入れる方向よりは差別化→敵意が基本となります。
聖徳太子の言う「和」の心を随ではトンと理解出来なかったので、これを「倭」の国と貶めて呼称するようになったのでしょうか。
出土している「漢の倭の奴の国王」の金印は後漢時代ですから、聖徳太子よりはずっと古いので「和」を基本にする精神は聖徳太子よりもずっと前からの日本列島の基本ルールであったことによります。
私は元々和の精神は縄文時代からの精神だという意見ですが、これを対外的にも日本列島にいる人たちの特徴としていつから知られるようになっていたかのかまでは分りません。
縄文人と弥生人の争いを前提にした解釈が一般でしたが、(騎馬民族説もこの一種です)最近の研究では一定期間経過で折り合って、平和併存・・一緒に住むようになって行った様子が出て来ています。
政治的動機で作られた日本書記や古事記とは違う・・民衆の心を編纂した万葉集を見ても,諸外国に多い英雄を讃える詩文等とは違い、今の日本人同様の温かい「和」の心で満たされています。
日本では古来からの経験で渡来人がきて最新技術でも何でも入って来ると、そのまま懐深く受入れて従来の生き方と融合して行く智恵になっているのです。
佛教伝来や唐の律令制の導入や明治の和魂洋才(その間に鉄砲その他多種多様な文化の伝来を吸収してきました)もその応用でした。

マスコミの中立性7

全く嘘のない正確な事実報道に徹しても、例えば尖閣諸島問題で対中貿易縮小で困っている企業の実情ばかり報道すれば、日本は中国に歩み寄る必要があるような意見醸成に効力があり、中国の訪日観光客が減ってもそれ以上にその他からの訪日客が増えているという報道が多ければ中国観光客など気にする必要がないと言う意見が増えます。
ですから事実報道が正確でさえあれば良いというものではありません。
対象の絞り込みにマスコミの意向によって選別が行なわれることが大きな問題です。
マスコミは、トータルデータを報道すれば良いのであって、中国客にシフトしていた観光業界や中国輸出に頼っていた企業の苦境ばかり大々的に報道するのは、事実には違いないとしても偏った報道になります。
中国の代わりに、東南アジア関連で業績拡大している企業もあるのです。
車では顕著ですが、中国で販売が減ってもアメリカ等で増えて却って史上最大規模に膨らんでいることから明らかなように、世界トータル販売の動向を報道すれば良いことです。
中国経済の失速懸念が大きくなっている今では、この機会にリスク軽減のために数〜5年かけて中国比重をドンドン下げておくのは、日本経済にとって幸運・チャンスとの意見があっても良いでしょう。
このように国際政治では、どの意見が将来の日本に有利に働くか分りません。
事実の取捨選択まで含めた中立維持は難しいので,民主政治を守るためには弱者の立場優先・権力批判に限ってはある程度批判記事を書くのは良いというスタンスが従来許される風潮でした。
国内政治に限ればこれも1つのスタンスでしょうが、対外政策に関しては、相手国の事実主張ばかり正しいかのように報道するのは如何なものかという意見が出て来るのは当然です。
日本の国益を守ると言う点では一致していても、どうするのが国益に資するかは人によって意見が違います。
慰安婦の強制連行があったかのような報道を貫いてこの問題を世界的に広げた朝日新聞の功績は、結果的に「韓国なんか相手にするな」という方向になって日本の国益に資する結果を招いているとも言えます。
韓国はこんな問題で日本を怒らせ続けていることによって、日本から徹底的に憎まれるだけで韓国は何のトクもしておらず政治・経済。文化的に見れば巨大な損失を被っています。
慰安婦問題の報道は朝日新聞が韓国が日本から嫌われるように仕組んでやったので、日本は今後韓国の面倒を見る必要がなくなって得しているだろうと言われれば、そうかも知れませんのでこの問題提起した朝日の記者は国士となります。
尖閣諸島問題も、中国の侵犯行為は結果的に日本が自衛の必要性に目覚めさせてくれた点では,大きな功績がありました。
日本の誰がけしかけたという訳ではないですが、もしもけしかけた日本人がいたとすれば彼は国賊ではなく逆に大した愛国者です。
もしも平和裡にあと数十年も経過して米国の力が今の半分くらいになって、しかも中国の軍事力が今の数倍になってからイキナリ今回のようなことが起きると日本には備えがなくフィリッピンのようにやられっぱなしになっていたでしょう。
中国がまだ大したことがないのにちょっかいを出してくれたので助かったのです。
国際政治では何が後で得するか損する知れないので、それぞれが信ずるところに従っていろんな意見が出ても良いとも言えます。
しかしどんな意見でも,事実に反した意見を書いたり言ったりしていると結果的にマイナスになることが多いように思えます。
慰安婦問題で言えば韓国を引っ掛けようとして日本のためにやったとしても、事実報道に徹するべきで、ないことまででっち上げて報道したとすれば、韓国から騙されて乗せられたというクレームが来るでしょうから結局日本のためになりません。
自己抑制出来ない・・抑制するどころか積極的に特定的立場への誘導や虚偽報道するのに邁進するならば、マスコミとしての存在意義がないだけではなく、害悪があります。
(やらせ報道がときどき問題になっていましたが,虚偽報道が末端→下請けにまで日常化している体質が露呈していたのですから,この時点で下請けの問題ではなく、首脳部→上層→中間管理職→発注者に至る企業全体の企業体質を問題にすべきだったと思われます。)
中国政府宣伝機関である新華社の要員が常駐していると言われるNHK批判に始まり(米軍占領期に占領軍が要員を派遣してマスコミ支配していた構図を中国が引き継いでいる印象です)、今やマスコミ界は殆どが中韓の人脈に握られているとのネット報道もあります。
真偽は別としてそこまで言われるほど、国民の信用がガタ落ちです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。