我が国の文化受入れ態度3

戦後のアメリカの大宣伝・言論統制によっても西洋式思考方式として導入したドイツ法や学問・文化を取り除けなかったのですから、古来からの日本法(日本式価値観)を奪うことは全く出来ませんでした。
アメリカ支配後70年も経過するとアメリカ式文化が浸透したのではなく、逆にアメリカ文化を象徴するペンキ文化がはげて来て、慰安婦報道に対する国民の大反撃・・これは1つの象徴でしかありません・・を招くようになって来ました。
この辺は自国文化が根強く発展していなかったことから英米→米英式価値観がストレートに入って来たシンガポール香港等の東南アジア諸国との大きな違いです。
中韓両国は中国を基礎とする漢字文化圏が成立していましたが、日常生活を絵画化すると、両手を袖に隠す儒者の姿を理想とする文化で、日本のような物造りを尊重し勤勉に働くことを最も尊いとする伝統的価値観を形成した歴史がありませんでした。
額に汗して稼ぐことを卑しむ中韓では、商人とは(汗をかかずに稼ぐ・・ぼろ儲けを前提にしている)非道徳な存在であると言う前提意識が成立しています。
その結果、商人になれば道徳など考えなくても良い・・どうせ自分たちは非道徳な存在であると言うことになっていて、手段を選ばず、どんなことをしても金を儲ければ勝ちだと言う道徳意識が蔓延します。
我が国でも士農工商と言う序列を習うように、商人は信用出来ないと言う価値意識が儒教的規範として入ってきましたが、住友や三井等が「浮き利を追わず・・商人は信用第一と戒めて我が国の商人道を確立して何百年もたっています。
我が国のような商人道の確立がなかった中韓では、どうせ自分たちはアウトローで良いのだ・ルールなど守る気もしない・・知財剽窃など犯罪意識・・ルールを守ると言う意識も育たない社会になっている基礎・・歴史結果でしょう。
悪しき商業主義・・金儲けするには手段を選ばない価値観しか成立していないところに、ストレートに米英式(資本主義の悪いところ・非道徳的・・金さえ儲ければ良いと言う単純な)金儲け主義の思想が入った香港・中国や韓国等アジア諸国と商人道の確立している我が国との違いです。
日本の場合、フレンチよりイタリアンが良いとなっても、基礎的技術取得・修行に行って国内で開業する・・を前提にしていますが、中国では、何が儲けられるかの目先の選択が重視されます。
我が国は、明治以降の繊維〜製鉄、造船・車産業でもやみくもに儲けを追わずに先ず技術取得して自前で作ろうと努力して来ましたが、中国などでは、パクリであろうとなかろうと早く儲けることが先にありますから、そう言う努力をあまりしません。
簡単な技術導入で手っ取り早く追いつこうとするので、自前技術がいつまでも育ちません。
こう言う模倣文化・努力無視の文化では、良いものならばすぐに導入すれば良いので、拙速かどうかの議論さえ起きない・・「英断」ばかりで良いものはすぐに始めれば良いとなるのでしょう。
日本は上からの指導よりはボトムアップの国ですが、韓国その他は民意など問題にしない、良いものは果敢に受入れば良いと言うスタンスですから、リーダーシップが要求されます・・・開発独裁向けの国が普通です。
韓国の市場開放や法改正は果断で、刑事法制も(アメリカの意向で)簡単に全面改正するので、日本の何年先を行っていると賞讃されていますが・・実情を無視したアメリカ式理念(しかも本当はこれが正しいかも分っていないのに)の先行ばかりでは国民が不幸です。
李氏朝鮮も先進国清朝の制度をそっくり導入しているのに対して日本は独自性の上に儒教を取り入れたりしていましたから、100%取り入れている朝鮮から見れば日本は未開文化・・遅れた地域としての蔑視意識が根付いていた原因ですし、今ではアメリカ化の方では韓国の方が進んでいると言う自負心があるでしょう。
李氏朝鮮が根拠なく、日本に対する優越意識を持っていて明治維新当時日本をバカにしていたので征韓論に発展したのですが、今回の竹島や慰安婦騒動が表面化した根底にアメリカナイズ度では自分の方が先進国だと言う根拠なき優越感を満喫しているところにあったのかも知れません。
日本は慎重に日本文化に馴染ませながら導入する文化・・技術修得してから生産する(たとえば、鉄砲が入ったら直ぐに大量輸入すれば効率は良いですが、日本の場合すぐに国産化努力して徐々に鉄砲の普及に努力して来た)歴史ですが、国民にもいろんな種類の人がいるのは当然で、ここでは大方の傾向を書いているだけです。

我が国の文化受入れ態度2

明治維新当時の民法、商法や刑事法の制定過程を06/04/03「民法制定当時の事情(民法典論争1)07/26/05や「明治以降の裁判所の設置7(破毀院と大審院1)」等で連載紹介しましたが、明治初期からフランスの学者を雇い入れて、フランス式法制度の導入に力を入れていましたが、結局明治30年代に入ってボワソナード民法やロエスレル商法のフランス法から、ドイツ法に切り替えて施行しました。
幕末からの付き合いで、英米やフランスの方式・・当時の覇権・流行思考様式が充分に入って来ていましたが、我が国は英米をニワカ(成金的)国家・文化がないことを見抜いていたのです。
最近パクり国家的フランス文化のメッキが剥げて、本家のイタリア系文化が見直されているのはこのような動きの一環です。
明治以降敗戦までに西洋式思考・・和魂洋才に関しては、ドイツ由来の学問基礎が根付いている結果、戦後70年に及ぶ米国支配でも米国式学問・マスコミによる誘導は庶民にしか効果がない・・上滑りな影響しか与えていない気の毒な原因です。
我々法律界でも「英米法」とカギ括弧付きで理解しているだけで、今でもこう言う変わった法律制度があるよ!程度の、理解に留まっている人が主流であることから分ります。
アメリカかぶれから見れば、日本の思考方式が世界の潮流に遅れているとなるのでしょうが、結果としてみれば日本人の論理思考形式がドイツ的に考えて行く方が馴染み易いことを表しています。
是非は別として、アメリカ主導の国際経済秩序・・IMF体制・IMF主導の各種経済処方箋に対して懐疑的な意見を持っている人が日本人の大方だと思います。
中国では、アメリカ留学組のMBA取得者を多く抱えてそのまま経済政策をしようとしていますが、畳の上の水泳修練のようなMBA取得者の意見で実体経済を運営出来る筈がないと言うの我が国では大方の意見ですが、中韓ではそのまま幅を利かすようですから驚きです。
ですから、アジア危機でも欧州危機でもIMF仕込みの処方箋は実態無視の強制である・・と言う意識が強いので、ギリシャ等が抵抗するのは当然であると我が国では受け止めています。
アメリカにとっては、アメリカのMBA取得者が何の影響力も持てない日本は面白くない国でしょう。
金融資本主義・市場経済万能主義はアメリカがいうので「そうですか?」と受入れていますが、本音では、「どこか胡散臭い」と思いながら仕方なしに参加しているのが多くの日本人ではないでしょうか?
経済活動もいわゆる和魂洋才で(英語を話せないと通じないと言う程度の意識で)アメリカ式に国際展開していますが、心からそう思っている経営者は滅多にいないでしょう。
日産は経営者まで外国人にして、報酬も日本基準からすれば破格ですが、多くはこれに違和感を抱きトヨタ方式を支持していると思われます。
戦後アメリカは日本占領政策の一環として、報道界に虚偽歴史を報道するように強制して来たこと(私もこのコラムで何回も書いていますし)が最近分ってきましたが、国民は心底から受入れていたものではなく、この上滑りの文化侵略に迎合したのは、マスコミ・文化人だけでした。
何千年単位で出来上がっている日本の基礎的な文化破壊は愚か、明治維新後導入した西洋文化・・基礎に出来上がっているドイツ法(即ちドイツ式思考方法)ドイツ文化(音楽等)理解を根こそぎ奪うことが出来ませんでした。
とは言え、アメリカの音楽もかなり根付いています・・・今ではジャズの本場が日本に移りつつありますが、佛教が入っても神社崇拝はなくならなかったし、漢詩が入っても万葉以来の和歌が更に発展して来たし、洋画が入って来ても日本画が更に発展したように日本文化を棄てて受入れているのでありません。
美術館は別として、売り絵となる(即ち公的資金ではない自分のポケットマネーを払って買う・消費者の支持を受けている)のは日本画です。
ジャズが定着したのは、和魂洋才の応用編で、中国の過去の優れたものが中国で消滅しても日本定着して残っているのと同様の文化受け入れスタイルの現在版と言えるでしょう。

我が国の文化受入れ態度1

ドイツの最近の対中国接近等の動きを見ると、(昨日紹介した鳩山政権同様に)充分に考えないで目先の損得・国民受けを狙ってあわてて行動しているような印象です。
ドイツは長い中世時代には領邦国家であった関係で地域間競争があった点は我が国と同様で、じっくり社会の成熟と文化を育んでいたので、その点が強みです。
英仏では王権が強かったので早くから、国家一丸として時代の進運に逸早く対応出来る・・重商主義政策に邁進出来た優位性がありました。
歴史教育では、ナポレンによる民族国家成立を理由にしていますが、その前のルイ大陽王の時代は民族国家成立前ですから、その成功は中央集権制度確立の成果によると言うべきです。
その代わり、中央集権制の宿命で国内競争が弱いので、国内的に文化成熟しなかった(フランスの得意とするものの多くはイタリア文化のパクリです)と思われます。
日本では庶民相手に浮世絵や歌舞伎、俳句、落語その他の芸術が花開いているのに、西洋では、王侯貴族相手の肖像画程度しか芸術や音楽がなかった原因です。
統一の遅れていたイタリアでは、今でもフェラーリや料理文化などの各種の技術があるように、ドイツでも、領邦制が国際展開が遅れる関係であった代わりに、国内諸候の領土主権が強固であった分、競合する技術や文化発達の歴史を持っていました。
これがドイツイタリア共通に音楽が高度に発達し各種技術力が高い所以でしょう。
ドイツは封建制のために国内諸候に対する対応に忙殺されていた外に、西洋の端っこ・田舎にいたために都会人としての気配りや国際情勢対応能力が身に付いていない点は宿命的です。
(・・このために宗教戦争の舞台にされて外国軍がドイツで入り乱れて30年も戦うようになったなど)
田舎者のままで機敏な国際対応能力が劣ってはいますが、同じ国際体制が続くと、国内技術・文化の厚みが底力を発揮するので、ドイツが地力を発揮する前に作られた国際秩序がドイツの底力と合わなくなってきます。
第一次、第二次世界大戦も大きな目で見れば、実力に比例した国際交渉能力不足を武力で解決しようとした結果とも言えます。
この弊害克服のために、EUは、設立当初からドイツの意見が入って作られた初の国際制度ですが、今回南欧諸国に対するEU処理の混乱は、田舎者のドイツが牛耳っているので、うまく行かない面があると思ってみています。
我が国は、ドイツ同様の封建制でしたから、各地領主ごとの経済(特産品)競争があり国際経済組織としての為替制度など発達していたほか、いろんな文化が西洋よりも発達していました。
明治維新の大変革時でも我が国は、当時圧倒的覇権国家だった英米の統治方式をあわててそのまま取り入れませんでした。
古代佛教や律令制の取り入れや儒教の取り入れ、キリスト教の受入れ・・等々我が国はその都度智恵を働かせて慎重に対応して日本人の精神(和魂洋才)を大事にして来たのですから、本当に祖先は偉かったと思います。
左翼・人権派系は(兎も角)「世界の流行に乗り遅れるな」今では国際人権委員会の動きがどうのと言う主張・・思考方式が普通です。
英米思想の根本=ユダヤ系の金融資本主義であり、「宣伝に勝ちさえすれば良い方式」ですが、今はアメリカ支配だからとそれ一色で進みたいのが日本の文化人です。
中韓では、国を挙げてこれが良いと思ったら一直線に全面取り入れですから改革は早く(韓国ではアメリカ支配になるとすぐにキリスト教徒が多数になっていますし・法制度の改革も急激です)「金儲けにさえなれば何でも良い」「噓でも何でも宣伝戦に勝ちさえすれば良い」と言う思想そのままに邁進している様子です。
韓国は「アメリカの力が落ちて中国の時代が来そうだ」となれば中国寄りに露骨に舵を切ります。
中国政府の主導するアジアインフラ銀行に乗り遅れるな・・政府の判断ミスだと言う政府批判が一時マスコミを賑わせましたが、ネット発信による批判によって、すぐにトーンダウンして来ました。
ネットの発達によって、中韓寄りのマスコミによる世論誘導力(何故誘導したいのか不思議ですが・・)が格段に落ちて来たことが分ります。
明治維新直後・自由民権派によるヤイノヤイノの憲法制定要求には、政府は拙速に応じませんでした。
20年近くもかけてじっくり市町村制度など地方制度を整備しながら、世界の実情を調査研究した上で、(帝国憲法は明治22年発布です)国情が似ている上に、実際には長い歴史経過を見るとドイツ諸国の方が文化その他の基礎が進んでいると見抜いた我が国は、法制度や医学・文化学問の基本をドイツから学ぶことにした智恵と似ています。
緊急に決めるべきことと、充分な準備時間をかけて慎重にやるべきことの区別をしてこそ大人の智恵と言うものでしょう。

原発再稼働の是非と原子力政策1

現在政治家が優柔不断で決断力がなくて誤摩化しているのか、重要なので機が熟すのをじっくり見定めているのかの違いは、経済政策のように瞬時に決めて行くべき緊急性があるかどうかによります。
原発の新設をどうするかは国家意思が決まらないうちは手を着けなければ良いことですが、福島原発事故当時稼働中の原発をどうするかは緊急の課題です。
そこでもっとも津波に弱いと思われていた御前崎・浜岡原発は即時停止方向に決めた他は通常どおり運転し、その間新たな規制基準を作成して、定時点検による休止後新たな基準で再開の是非を決めると言う方式がとられています。
ところで、新設とは違い既存施設を再稼働するかどうかは、燃料棒の違いによっては実はそれほど緊急に国論を決めなければならないことではありません。
MOX燃料棒の場合には、再稼働しないで、今の施設のままで放置しておいて(廃炉すると決めても冷却しないで放置すると燃料棒がすぐに危険になる・・冷却不要・・危険でなくなるまでには何年もかかるようですし・・)、その間に津波で冠水・電源喪失すれば、稼働中と似たような被害が起きる点は同じです。
電源喪失の危険性・・大地震の確率はよく分らないとしても、稼働中ではない使用済み燃料棒も電源喪失して冷却し続けられなくなると大変なことになる危険性は同じです・・。
このために福島原発事故の場合、大騒ぎして全国から高所(高層ビル)放水用の消防車を動員したりして高所に保管中の燃料プールへの注水作業に必死になっていたことを想起すれば良いでしょう。
(ニュースでは東京都の石原都知事の発言だけでしたが、千葉市の最新式消防車も出動した・・その費用を請求中と震災後大分経った頃に聞いたことがあります)
燃料棒の違いによっては冷却する必要がないらしいのですが、その違い・・どこの原発ではどう言う燃料棒を使っているのかが報道だけではよく分りません。
MOX燃料棒使用原発の場合、「再稼働しなくとも、プールで冷やし続ける必要のある使用済み燃料棒の危険と再稼働したトキの危険性との違いが何か」と言う点にあるように思われます。
新設するかどうかの議論は、何の危険もないところに危険物を設置するのですから危険性が「あるかないか」ですから、大きな違いがあります。
(「50歩100歩」と言う言葉がありますが「ゼロと5〜10」の倍率は50歩100歩の比ではありません)
だからこそ、新設して行くどうかの基本方針を決めるには、国民意思が揺れ続けているのですが、その前に既存設備をどうするかの議論が決まった(この間にいろんな議論が煮詰まって来るでしょうからその)後に、じっくり決めれば良いことかも知れません。
この辺は歴史の長い我が国の優れたところで、慌てふためいてさしたる議論もしないで、直ぐに原発ゼロを決めてしまうドイツ等とは民族レベルが違います。
革新系文化人はドイツの英断を賞讃する傾向がありますが、自分自身じっくり考える能力がないから乱暴な決定を英断として賞讃する意見になるのでしょうか。
福島原発事故当時を思い出してみると、ドイツは事故直後慌てふためいて東京の大使館を閉鎖して大阪へ移転していました。
私は当時ドイツ銀行に対する投資信託もどきの遺産相続の関係で解約手続中でドイツ大使館にドイツの裁判制度関係の照会をしようとしたら、東京の大使館が閉鎖されてみんな大阪に逃げている・・窓口が大阪になっているのに、驚いたことがあります。
日本中が大地震に遭遇して大変な心労の最中に、このようなことしたら日本人がどう受け取るかの配慮が全くないのです。
国家を代表して来ている以上は、東京都民が移転しても国家代表として踏みとどまるくらいの気概が必要ですが、率先して東京を引き払って,日本を貶める急先鋒(韓国以上の露骨な動きに日本人は驚きました)をやってしまいました。
メルケル氏は震災後約4年経過後日本初訪問しても被災地へ足を運ぼうともせずに、岡田氏と慰安婦問題を話し合って日本批判したと報道されています。
何ら下準備もなしに鳩山総理が、イキナリ大幅なCO2削減を国際公約したり沖縄の基地移設問題で根拠・下準備なしに「最低でも県外へ」と主張していたのですが実際には、何も実現出来なかったことがあります。
この無責任発言が未だに我が国にとって沖縄基地移転問題解決にとって大きな負の遺産としてのしかかっているのは周知のとおりです。

原発問再稼働(司法の限界)9

日経新聞朝刊4月23日記載の「大機小機」論説紹介の続きです。
昨日書いたように裁判所が何%まで許容すべきかを決める権限があるかどうかの重要な議論を省略して、直ちにどちらの結論が正しいかの問題に入って行く展開の仕方は、暗黙のうちに裁判所は何でも最終決定出来ると言う前提意識を国民に無意識のうちに植え付ける・・洗脳機能を果たしています。
これに続けて「ホーリズム」とか「要素還元論」などと難しい聞き慣れない単語を使っているので撹乱させられますが、ホーリズムで考えれば答えは決まっている・・国民・・被害を受ける可能性のある地域の住民は「100%安全性を要求する」に決まっていると言う意見を書いていますので、国民意識を誘導するための論説のように読めます。
これまで書いているように、安全性に付いてどの程度のリスク率があるかを決めるのは当時の関連学会で「科学的に」決めるべきことです。
(この基準の妥当性に付いて門外漢の司法機関が裁定する権限はありません=伊方原発訴訟の最高裁判例も同旨・・あるのは科学界の水準に反しているかだけであってそのときの科学水準を決めるのは学会の構成員の能力です。)
科学界の当時のレベルで決めたリスク率を前提に、どの程度のリスクまで許容するかを決めるのは国民総意によるべきであって裁判所(マスコミ)ではありません。
マスコミが原発絶対反対論ならばその立場を明らかにして書けば良いことであって、中立・公正な意見のように見せかけて結論を誘導するのは国論(国民総意)を歪めてしまう危険性があります。
慰安婦に関するマスコミの偏りが指摘され始めましたが、まだ偏った意見を何気なく刷り込んで行くやり方が多く残っているのに気をつけるべきでしょう。
ちなみに25日朝刊社説では、尤もらしく裁判所が科学者の総意?否定するのは穏当ではないと言う趣旨の社説を書いています。
表ではそう書きながら、同じ日の紙面で裁判所の最終決定権を前提にした論説を何気なく乗せて国民を無意識のうちに一定方向へ誘導しているのです。
基準そのものではなく、国民意思が決めた(例えば80%の安全率なら許容すると言う国民意思が決まれば)その許容範囲に収まっているかを審査した規制委の審査が妥当であったかチェックするのは裁判所の権限です。
原子力規制委員会は専門家委員会らしく100%安全とは言えないと言う報道ですが、地震・津波に関する100%予知能力がないことが知れ渡っている現在の科学水準では妥当な意見でしょう。
一定のリスク判断をした後は(一定のリスク判断すら出来るのか?と国民が心配している状態です)どの程度のリスクで稼働するかは、政治(国民総意)が決めることです。
規制委が100%安全とは言い切れないと言っているから、(福井地裁仮処分決定を良く読めばそんな単純な論理ではないでしょうが・・新聞報道しか知りません)100%安全ではないと同義反復して「停止を命じる」とすれば、司法の役割をはみ出していて、行き過ぎの印象です。
(新聞報道が正確かどうかは分りません・・新聞は誘導的記事を書くことが多いので実態は不明です)
10月17〜18日ころに書いたように、どんな機械でもどんな技術(ソフト)でも100%の安全とは、言い切れないのが原則ですから、司法が100%安全を要求するのは、司法の名において新技術を禁止するのと同じです。
世の中に100%の保障はあり得ないのですから、どの程度のリスクを許容するかは国民の信託を受けた政治が決めることであって、許容限度に付いて非政治家・・民主的選任を経ていない法律界が口出しするのは越権です。
司法に限らず「規制委」と言う政治責任をとらない半端な組織を作ってそこに事実上の政治決定権まで付与している・・政治家が責任放棄している(原発推進か否かを明言出来ない)かのように見える政治家の方にも責任があると考える人が多いでしょう。
原子力政策をどうするかは国家の重大事・・100年の大計ですが、それだからこそ国民の総意も揺れ続けているのです。
国民総意を見極めるために・・あるいは国論が落ち着くところに落ち着くのを待って長期計画を決めたいと言うのも1つの見識かも知れません。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。