憲法改正・変遷3(社会党の憲法解釈変更)

政策論争に負けた方は今後負けないように政策内容をレベルアップする方に努力するのが本来のあり方です。
スポーツ選手が試合に負けた場合、更なる精進努力をしないで、相手の悪口を吹聴していても却って信用を落とすばかりです。
政策発動の妨害目的・・時間稼ぎ・・訴訟でいえば、遅延工作は弁護士倫理違反と言われるように、政治家も政策討論で決着がついたことについて、揚げ足取り目的で法廷闘争をするのは政策遂行を妨害するのは邪道で政治家倫理にもとることになります。
この手段を権力者が利用した場合を見れば明らかです。
韓国大統領の動静を報じた朝鮮日報の記事を引用報道した産経支局長を刑事立件したことが騒ぎになりましたが、自己の動静を誤って報じられたならば言論空間で争えば良いことであって、権力者が場外乱闘に持ち込むのは正当な政治活動の域を超えた民主主義の破壊行為です。
一旦被害者になり弱者の立場になれば、何を言ってもやっても良いと言う風潮が(特に韓国人には)顕著ですが、政治家のやっていることが本筋を外していると長期的には国民の支持を失います。
ところで、自主憲法を認めない立場ならば、社会実態調査不要・・欧米ではこうだと言う観念的議論も可能ですし、国連勧告が大切・・この立場からは国連調査団報告に重みをおく立場が導かれます。
何かあるたびにテレビに出て来て、「欧米では・・」と言う意見が、昭和40年代初頭ころまで、マスコミでハバを利かしていました。
司法権が日本の国益を総合勘案して判断するべきとした場合、国内実態の判断では足りずに国際情勢全般に目配りして判断する必要のある外交のあり方を判断するのは無理があるので、日米安保条約の合憲性に関して統治行為論が出て来たのです。
どこの国と組むかを含めて司法が介入出来ないと明白な判断が示されている砂川事件大法廷判決を前提にすれば、条約内容の決め方・・どう言う段階で相互協力するかの細目協定まで司法が介入すること・・すなわち憲法違反かどうかの判断することは不可能です。
まして司法権でもなく実態把握能力に何の保障もない机上の議論しか経験のない、(国際情勢・国家機密情報を総合判断必要があります・・判断能力の担保もない)学者が、集団自衛権関連法案を憲法違反だと合唱すれば、特別な意味があるかのようにマスコミが大きく取り上げるのって、上滑りの感じを否めません。
仮に元裁判官で事実認定経験のある人でも、国家機密等を入手出来ない在野人になっていれば、国際情勢に関する情報を総合判断して条約の必要性を判断するのは無理があります。
我々実務経験のある弁護士でも、他人のやっている事件を軽々に判断出来ないと言うのが常識です・・弁護士仲間をかばう意味ではなく、訴訟でどう言う証拠が出ているか・これに対する裁判所の反応どうであったかなど総合しないと判断出来ないからです。
繰り返しますが、憲法は日本のためにあるのですから、日本にとって必要かどうかが合憲、違憲判断の分かれ目であって、日本の国益を離れた憲法解釈(・・例えば中国の利益になるための判断)は許されません。
日本の社会実態を見極めて憲法内容を判断して行く方式の場合、憲法違反かどうかを見極めるのに時間がかかるように、改正する必要があるかの判断も時間がかかります。
社会実態の変遷をじっくり見定めることを省略した憲法改正など直ぐに出来る訳がないことを前提に、「改正が先だ」と「百年河清を待つ」ような議論をしていると、必要とされている現実の政策対応が全て間に合わなくなります。
15日に砂川事件判決の田中長官の補足意見を紹介しましたが、憲法論を言い出したら何でもそうなりますから(非正規雇用も平等原則違反だから憲法違反だとか、消費税問題も弱者にきついから憲法違反と言う主張が可能です)全て憲法違反と言っていれば、約10年かけてその裁判の決着がつかない限り何らの政治決定も出来ないと言う論法は無理があります。
要するに憲法論・・護憲勢力の主張は、なんでも反対の社会党が政策論争で負けたことについて、憲法違反のレッテル貼りすればいいと利用していた便利な論理でしたが、これで国民の信用をなくしてしまいました。
政治家は政策の優劣で競争すべきですが、旧社会党は筋違いのことをやり続けたので信用をなくして行ったと思われます。
私は革新系と言うのは、社会の進歩に反対する超保守の集まりであると書いて来た所以です。
社会党は世上「何でも反対・・」と言われていたものの実は賛成する分野もあったのですから、政治と言うものには、利害集団がバックにあるものと言う前提で考えると、政策対応が停止することによって利益を受ける集団があることが分ります。
これを前提に分類すると、日米安保反対、自主防衛反対、グリーンカード反対、指紋押捺制度反対、防犯カメラ反対、通信傍受反対・・秘密保護法反対・・等々、産業的には空港建設反対、原子力発電反対、公害反対・それぞれ名目があり、結果的に日本のために良かった分野もありますが、概ね目先の目的を見れば、日本の安全保障に反対であり、経済が発展する疑いのあるものには全て何でも反対していたように見えます。
憲法論に持ち込んで思考停止を要求する勢力の目的とする方向性も共通です。
集団自衛権の可否について内容の議論を拒否して、・・「憲法改正するまではそんな法律は許されない」と言うばかりでは、現実政治向きではありません。
これまで書いて来たように憲法は、イキナリ改正すべきものではないし簡単に出来ないのが分りきっているし、しかもその主張者の多くが護憲勢力を標榜しています。
既に社会党が放棄した「何でも反対」路線の蒸し返しを民主党が憲法違反と言い換えているだけですから、思考方式としては、砂川事件判決で六十年まえから「自主防衛が許される」「防衛のために安保条約を結ぶのは合憲である・どこと組むべきかその内容について、司法権が介入出来ない・・立法府の専権行為である」と言う歴史的解決をすませている現実を無視して、蒸し返している点では、韓国が条約で決着がついたことを、もう一度蒸し返しているのと同じ思考方式になります。
但し社会党がこれ・・自主防衛権・自衛隊合憲・安保条約合憲を認めたのは、村山内閣になってからですから、国内的に大筋の決着がついたのは、まだ最近のことです。
2015年12月9日のウイキペデイアによれば、以下のとおりです。
村山内閣
総理大臣在任中[編集]
1994年7月、第130回通常国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。

社会党の年来の主張は、自衛する権利もない・・強盗に襲われても抵抗する権利がないと言うにひとしい、砂川事件判決後約40年間も最高裁判決を無視して非武装論をずっと主張していたことが分ります。
実務に関係しない学者ではなく、現実政治を担うことを目的とする政治家の集団が非現実的主張を続けていて一定数の支持があったこと自体、マスコミによる実力以上の援護報道が利いていたことを推測させます。

憲法改正・変遷3(自衛権肯定・砂川事件判決2)

憲法解釈は制定した占領軍の意向によるのではなく、「日本国民のための憲法である以上は国民意思によるべし」とした場合、違憲状態か否かの憲法解釈は、国民意識がどこにあるか・・意識変化の認定が必要ですので夫婦同姓制度が違憲か、非嫡出子の差別が許されるかの判断には昨日大法廷決定文を紹介したように、判定には数十年の経過を見る必要があります。
12月18日に紹介したチャタレー事件で言えば、その当時ではその程度の表現(伊藤整氏の翻訳文表現)でも「猥褻」と言う社会意識があったとしても、今では猥褻とは言わない程度の表現だと言う常識になっています。
憲法9条の解釈変更の必要性も、国民のための憲法・・日本国の安全保障の必要性を認定する以上は、じっくりと国際情勢の変遷と近い将来の環境条件を見極める必要があることは論を俟ちません。
敗戦直後の国際情勢・・アメリカの庇護の元にあれば、国際信義を信頼する非武装平和論も一定の合理性がありました。
朝鮮戦争直後にはアメリカによる庇護が必要となったのと日本の自衛権を認める必要があって自主防衛権と安保条約が(統治行為論によって)砂川事件判決で事実上合憲となりました。
野党や左翼系学者は憲法の文言通り理解して自衛権すらない・・非武装平和しかない・・戦争が起きれば非武装中立しかない・・武装したり、特定国と組すれば戦争に巻き込まれると言う意見に固執していた・・現在の集団自衛権反対論も同工異曲・・駆けつけ警護すればよその国同士の紛争に巻き込まれると言う意見ですが、日本に中国やソ連が攻めて来た場合、あるいは韓国による竹島占領の場合、日本は当事者であって、「中立」と言う概念自体成り立ちません。
彼らの論理によれば領土占領されたらそのまま認めるしかない・・竹島占領に連動して、これを無視して近づいた日本漁民が拿捕・殺されても?国民の生命・安全を守る必要がないと言う結果になります。
野党的理解によればこのような非道な憲法を無効と解釈をするしかなくなるのですが、これにも反対し、いわゆる護憲運動の主体になりながら、同時に自主軍備反対論を展開していたことになります。
強制されたか否かを声高に議論する・・空中論争にこだわっているとモノゴトが解決しないのが普通ですから、国民主権・・国民のための憲法に適合させるために、(制定した占領軍の意向を解釈基準にせずに)現在日本の社会実態・社会の意識に合うように静かに変容しながら合憲解釈して行くのが、合理的であり成熟した大人の智恵と言うべきでしょう。
自衛権すら認めないような憲法文言規定通りの解釈では実際無理があるので、これを異民族の強制によることを理由に無効とせずに、自主防衛は出来ると解釈変更して来た(解釈合憲)のが、最高裁砂川事件判決でした。
12月15日には引用が長くなり過ぎるので統治行為論しか紹介していませんでしたが、統治行為論の直前段落に「平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」ことがはっきりと認定されていますので、この部分を引用しておきます。
昭和34年(あ)七710号
同12月16日大法廷判決
理由
1.先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。・・・9条1項においては・・・戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。
・・・すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。・・・・・
2.次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法9条、98条2項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。
3・・(15日引用したとおり統治行為論の展開です・・稲垣)

以上のように国際情勢に応じて立法府の裁量により相互防衛条約も許されることはこの大法廷判決で確定していることになります。
中国の台頭によるサラなる国際情勢変化に応じて、国際情勢の把握・・どの程度の軍備あるいはどこと相互防衛条約を結ぶか・・集団自衛権が必要かは正に司法権が認定する能力を超えています。
国際情勢は時々刻々に変わる性質のものですが(2015年11月24日トルコ軍機のロシア軍機撃墜事件などは直前まで誰も想定していなかったでしょう・・)司法権は、冒頭に書いたように大事件では、10年ほど掛けて過去の事実調査・認定して結論を出す仕組みですから、近い将来の可能性を判断するようになっていません。
損害賠償、契約金請求、刑事事件、その他全ての訴訟事件は過去の出来事の認定によっています。
原発訴訟等各種行政行為が裁判対象になっていてマスコミが如何にもこれらが日本国に必要かが裁判対象になっているかのように報道しますが、立地等に関する過去の許認可手続に裁量権の逸脱があるかの手続内容を争うのが普通で、将来の必要性決定は民意を受けた政治家固有の直観的判断分野であって、司法権は分りません。
この意味でも将来の国家の安全をどうすべきかと言う・・防衛条約の最終決定権限を司法が持つことを期待すること自体、無理があります。
※12月25日日経朝刊には高浜原発差し止め訴訟判決が出ましたので、追記になります。
手続に瑕疵があるかだけの判断に対して、原告団は裁判所の意見がでていないと落胆?していますが、学会総意で決めた政府基準そのものの批判を期待するのは間違いです・・ソモソモ裁判は手続瑕疵の有無を判断するだけあって、地震想定基準がどこにあるべきかなど科学者でさえいろんな意見があって言い切れないことに、素人の裁判所が超越的判断するようなことは越権であってありえないことです。
その意味で、先行した仮処分判断自体がおかしかった・・裁判の常道を踏み外していた・・今回の判断が妥当と言う意見を書いている学者意見も併記されています。
マスコミもマトモになって来たようです。
以上が平和条約の有効性など高度な政治判断の必要な行為に対する司法の謙抑・・統治行為論を正当化する原理です。
なお、これから始まる普天間基地の移設工事に対する沖縄県知事による法廷闘争も、基地が必要か、どこにあるべきかの政治議論ではなく、手続瑕疵を巡る・・揚げ足取り目的の争いになりますから、政治家の本分である政策論争を放棄したことになる・・政策論争に負けた方が法廷闘争に持ち込むのは、社会党以来使い古された時間稼ぎの手法ですから、一種のリング外・場外乱闘行為であって、政治家の職務法規と見られてしまうでしょう。
民主主義国家においては少しでも良い結果が得られるように、政治家や学者など幅広い健全な言論空間・・訴訟でも充分な反論権の保障が必要ですが、選挙制度が完備していて、・・・ボトムアップ社会の日本では選挙制度施行以前からテーマごとに根回しが行なわれていて民意の充分な把握が行なわれています・・言論戦を尽くした以上は、その結果に従い反対論者も速やかな政策発動に協力すべきです。

憲法改正・ 変遷2(非嫡出子差別違憲決定)

12月16日の夫婦別姓合憲判決は、まだ判決文を入手出来ませんので昨日私の推測を書きましたが、数年前に出た非嫡出子の相続分差別違憲判断の決定文は公表されていますので、憲法判断に関する最高裁の考え方を参考にするために以下紹介していきます。
非嫡出子の相続分差別を合憲とする前最高裁判決が出た事件当時(当然のことながら、実際の相続開始は、最高裁に行く何年も前に起きた事件です)頃にはまだ社会状態から見て不合理な差別ではなかったが、今回の事件の起きた平成13年頃には、既に違憲状態になっていたと言う・・何十年単位の時間軸で見た・・社会意識の変化を認定した結果の判断が示されています。
この判断方式によれば平成7年に合憲判決が出たときには、まだ非嫡出子差別を許容するのが憲法の内容であったが、憲法がいつの間にか変遷し・・遅くとも平成13年に変わっていたことが平成25年になって、最高裁決定で認定されたことになります。
仮に日本国憲法が占領軍に強制されたものであるにしても、強制を理由に直ちに無効にすることが出来ない・・イキナリ反古するのは対米国外交的にも得策ではないし、乱暴過ぎます。
日本人の社会意識が変遷すれば自動的に憲法で許される範囲→許されない範囲の境界が変わって行く・国民投票で憲法を一挙に変えて行く必要がないと言うことではないでしょうか?
非嫡出子差別違憲・・夫婦同姓合憲の両判最高裁判断を見れば、(憲法の意味を社会の実態を無視して先進国の解釈や哲学をそのまま持ち込むのではなく)社会意識の変遷に合わせて、順次合理的に決めて行くべきと言う私の意見と同じであると思われます。
民度に応じた政治が必要と言う意見を、2015/11/29「民度と政体11(IMF~TPP)」まで連載してきましたが、今朝の日経新聞22pに民俗学者梅棹氏の論文の考え方によって、内部からの自然発展段階を経ている西欧と日本以外・・外部思想輸入による中国やロシア等では、発展の仕方を違った視点でみることが重要である旨の、経済学者渡辺利夫氏の着眼が掲載されています。
ちなみに梅棹氏は「知的生産の技術」などで一般に良く知られた碩学で、同氏のスケールの大きな思考に感激して大阪の万博公園内の民族博物館を妻とともに見学したことがあります。
このように憲法が時間をかけて変わって行くのを待つとすれば、憲法改正はすぐには出来ない・「新しい時代対応は憲法改正してからにしろ」と言う主張は無理がある・・政策反対論を憲法論に言い換えているに過ぎない・・何でも憲法に絡めて反対する「社会党が何でも反対党」と言われていたのと同じです。
憲法が徐々に変わって行くと、どの時点で憲法が変わったかはっきりしないと困る場合があるので、誰かが好奇心で争うと、・何年ころには「遅くとも」変わっていたと言う認定・・この確認作業を最高裁判所がしていると言うことではないでしょうか?
景況感に関しては、景気の谷がいつで、好景気のピークがいつだったと言う景気認定を政府・日銀が後で発表していますが、同じような機能です。
違憲立法審査権と言ってもその程度の意味・権能に理解するのが、合理的で社会が安定的に進歩出来てスムースです。
チャタレー事件で争われた猥褻の概念も、当時はその程度で猥褻になったが、今ではその程度では誰も猥褻とは思わないと言うのが常識的理解になっています。
ただし、以上は一般に言われているだけで警察もその程度では検挙しなくなっているので、本当はいつから意識が変わったのか誰も分らないですが、警察が仮に検挙に踏み切ると、(遅くとも)いつの頃から表現の自由の範囲内に変わっていたかが、判決または決定で認定されます。
以下非嫡出子差別違憲決定の抜粋です。

平成24年(ク)第984号,第985号 遺産分割審判に対する抗告棄却決定 に対する特別抗告事件
平成25年9月4日 大法廷決定
「・・・・法律婚主義の下においても嫡出子と嫡出でない子の法定相続分をどのように定めるかということについては,前記2で説示した事柄を総合的に考慮して 決せられるべきものであり、またこれらの事柄は時代と共に変遷するものでもある・・・・
(3) 前記2で説示した事柄のうち重要と思われる事実について,昭和22年民法改正以降の変遷等の概要をみると,次のとおりである。
・・・戦後の経済の急速な発展の中で,職業生活を支える最小単位として,夫婦 と一定年齢までの子どもを中心とする形態の家族が増加するとともに,高齢化の進展に伴って生存配偶者の生活の保障の必要性が高まり、子孫の生活手段としての意義が大きかった相続財産の持つ意味にも大きな変化が生じた。
・・・・昭和55年法律第51号による民法の一部改正により配偶者の法定相続分が引き上げられるなどしたのはこのような変化を受けたものである。さらに,昭和50年代前半頃までは減少 傾向にあった嫡出でない子の出生数は,その後現在に至るまで増加傾向が続いているほか,平成期に入った後においては,いわゆる晩婚化,非婚化,少子化が進み, これに伴って中高年の未婚の子どもがその親と同居する世帯や単独世帯が増加しているとともに、離婚件数,特に未成年の子を持つ夫婦の離婚件数及び再婚件数も増 加するなどしている。これらのことから,婚姻、家族の形態が著しく多様化しており、これに伴い婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。
・・・エ 前記イ及びウのような世界的な状況の推移の中で,我が国における嫡出子と 嫡出でない子の区別に関わる法制等も変化してきた。すなわち,住民票における世帯主との続柄の記載をめぐり,昭和63年に訴訟が提起され,その控訴審係属中で ある平成6年に,住民基本台帳事務処理要領の一部改正(平成6年12月15日自 治振第233号)が行われ,世帯主の子は,嫡出子であるか嫡出でない子であるか を区別することなく,一律に「子」と記載することとされた。また戸籍における 嫡出でない子の父母との続柄欄の記載をめぐっても・・・平成16年に戸籍法施行規則の一部改正(平 成16年法務省令第76号)が行われ,嫡出子と同様に「長男(長女)」等と記載 することとされ,既に戸籍に記載されている嫡出でない子の父母との続柄欄の記載も,通達(平成16年11月1日付け法務省民一第3008号民事局長通達)により,当該記載を申出により上記のとおり更正することとされた。さらに最高裁平成18年(行ツ)第135号同20年6月4日大法廷判決・民集・・は嫡出でない子の日本国籍の取得につき嫡出子と異なる取扱いを定めた国籍法3条1項の規定(・・・改正前のもの)が遅くとも平成 15年当時において憲法14条1項に違反していた旨を判示し,同判決を契機とする国籍法の上記改正に際しては,同年以前に日本国籍取得の届出をした嫡出でない子も日本国籍を取得し得ることとされた。
・・・・昭和54年に法務省民事局参事官室により・・・公表された 「相続に関する民法改正要綱試案」において,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を平等とする旨の案が示された。また,平成6年に同じく上記小委員会の審議に基 づくものとして公表された「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案」及びこれを更 に検討した上で平成8年に法制審議会が法務大臣に答申した「民法の一部を改正する法律案要綱」において,両者の法定相続分を平等とする旨が明記された。もっとも,いずれも国会提出には至っていない。
・・・・当裁判所は、平成7年大法廷決定以来,結論としては本件規定を合憲とする判断を示してきたものであるが、平成7年大法廷決定において既に嫡出でない子の立場を重視すべきであるとして5名の裁判官が反対意見を述べたほかに、婚姻, 親子ないし家族形態とこれに対する国民の意識の変化,更には国際的環境の変化を指摘して,昭和22年民法改正当時の合理性が失われつつあるとの補足意見が述べられ、その後の小法廷判決及び小法廷決定においても同旨の個別意見が繰り返し述べられてきた。
・・・・・・・以上を総合すれば、遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては、立法府の裁量権を考慮しても嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。
したがって本件規定は遅くとも平成13年7月当時において、憲法14条1項に違反して・・・というべきである・・・。」

憲法改正・変遷1

先進国のありようを後進国留学者が学んで来て、立派な概念を輸入・→「一般国民に教えてやる!」場合に、(遅れた?)国民から見れば急激な・・想定外の大変化になります。
分り易くするために文字・・成文法で書く・・本などを書くからには・・何回も見直すことになる結果、前後整合性のあるように自然に体系的な形式になります。
これを国民に教える・・普及させる人が必要ですから新しく考えるよりは過去の事例を学ぶのが得意な学者が指導性を発揮します。
先進国の場合、他所からの完成品の輸入ではなく必要に迫られて実行してみた結果、生じた不都合に合わせて修正して行くことになる・・徐々に社会意識や実態が変化していくのにあわせて憲法解釈を変えて行くのが合理的です。
この辺の違いは、先進社会であったイギリスの経験論と大陸の観念論と言うテーマで12月17日に書きました。
左翼・文化人は未だに自分たちだけが知っている自慢をするためか?国連情報などを振りかざして「前衛」と言う立場で、国民を指導しようとしているから、おかしなことになっているのです。
この辺はNGOが頻りに「国連報告」と言う箔付けを得て、国内政治に利用している動きの批判を書いているところで、「国連報告のいかがわしさ2(御神託)」2015/11/18以来話題が横にそれていますが、共通の問題ですから、近い内にそのテーマに戻ります。
先進国では、イキナリ他所から有り難い考えを学んで来て改正運動するのではなく、社会実態の変遷に応じて憲法が徐々に変わって行くべきです。
タマタマ今朝の日経新聞朝刊の「私の履歴書」を読んでいると、米国で最先端流通を学んで来て国内で張り切って実践しようとして現場と合わないで失敗した元大丸社長の経験談がのっています。
流通現場に限らず社会と言うものを相手にする場合、相手にする社会意識を無視出来ない点はみな同じです。
例えば非嫡出子の相続分差別が合理的か否か、夫婦別姓を認めないのが憲法違反かに関する意見は、夫婦のあり方に関する憲法意識・・社会実態の変化・・女性の社会進出の流れその他を経て議論が熟して行くものですし、(数学の計算のように頭さえ良ければすぐに答えが出るものではないばかりか、他国の意識を基準にするべきものでもありません。)社会の基本に関する意識の変化は10年や20年で決着がつかないのが普通です。
タマタマ12月16日夫婦別姓に関する最高裁判決が出ましたが、この判決文はまだ入手出来ないもののマスコミ報道によると、観念論によって決めるのではなく、社会実態の変遷を詳細に認定したうえで、夫婦別姓を認める方向へ意識が変わりつつあることを認めながらも、姓の選択権を認めないのが違憲といえるほど社会意識が今なお熟していないと言うもののようです。
裁判所が神様のように御神託を述べるのではなく、社会がどう思うようになっているかの事実認定をする機関と言う立場の宣言です。
選択制を望む国民が多いのに憲法が邪魔しているから改正出来ないのではなく、法律改正すれば足りる・・立法府の自由裁量であるのに反対論が多くて立法に至っていない状況それ自体が、国民意思がなお充分に一致していない状況を表していると判断した大きな理由であると推定出来ます。
国民主権が事実上無視されている状況があれば別ですが、今のところ選挙の公正が保たれているし、政党の勢力分布は、国民意思を大方反映していると見ることに国民が違和感を持っていないでしょう。
別姓支持者も内心意思を分析すれば、別姓がいいかどうか少しは迷っている人がいるでしょうし、自民党支持者もみんなが反対とは思われません・・一人の人間の中で見てもいろんな意向が入り組んでいる状態で法案を通そうとする強い力になり切れていない曖昧な状態が正に国民総意であると思われます。
このような判断過程を経た結果、夫婦別姓を認めるかどうかは、政治・国民意思で決めるべき分野であって国民が決めかねている状態を(上から目線で?)違憲とまで決め付ける・・即ち選択権を認めよと国会に強制するのは、越権?時期尚早と言う判断のようです。
文化人は国民が迷っていることについて(自分が進んでいると思う方向へ)一方的に裁判所が神様のように(一歩先に)決めてくれるのを期待して、訴え提起することが多く、今回の合憲判決に落胆している・・裁判所の後進性?に不満があるようですが、司法機関は過去の事実を公平に認定するための証拠法則などに精通していて訓練をうけていますが、先見性の能力が保障されている訳ではありませんから、社会が進むべき指導力発揮を期待すること自体が誤りです。
近代に確立した法体系・近代法の原理がテロの挑戦を受けていると言うテーマに関して、司法権・・刑事手続が、過去の事実認定手続に特化している・・テロ予防に対応出来ない点がある・・・近代社会で確立した憲法自体部分的に変容して行くべき時期が来ていないか?と言う観点でこの後で書く予定です。
司法権が権限・能力外の、社会が今後どうなるべきかの意見表明をしない・・減殺の社会意識の事実認定に限定する謙抑性があって当然です。
違憲か合憲かの憲法判断は、抽象論ではなく具体的社会実態に即して行なうべき・・憲法学者の空理空論によるべきはなく、日本社会意識・・実態(別姓による実際の不都合の程度を含めて)に即して行なうべきと言う立場でこのコラムを書いています。
国民意識の大半が決まっているのに立法府が怠慢している場合、違憲とすべきでしょうが、まだ曖昧な状態の場合、裁判所が率先して方向性を決めるべきではありません。

憲法学の有用性3

観念論の非妥当性・・たとえば、金利動向で・あるいは消費税率変更で誰が損をし得をするか・・法人税軽減や特定分野の補助金や税の減免は、法の下の平等に反するかなど全て憲法問題ですが、その実態把握と必要性判断には人がどのように行動するか・・経済全体に及ぼす影響の大きさを実務を知らない哲学者や憲法学者の意見を参考にしようと言う(バカな)人は今では皆無に近いでしょう。
経済その他分野ごとの実務家・業界団体や専門家の意見・・加工食品・外食を軽減率から除外すると、外食産業→サービス業の盛衰にも係わり、ひいてはサービス業従事者のの多い低所得層の職場がどうなるか・・消費経済で成り立っている先進国経済がどうなるかなど、モノゴトには具体的な意見が必要ですから、抽象論しか知らない憲法学者の出番がないと考えるのが常識です。
「弱者にしわ寄せするな」と言う単純スローガンだけで解決出来るものではありません。
観念論の意義に戻りますと、「殺生するな」と言う理念しか知らずに具体的政治をしようとすれば、実務との整合がとれなくて、その結果綱吉の「生類憐みの令」になってしまいました。
赤穂浪士の裁定で荻生徂徠が意見を述べたことが有名ですが、儒学者=哲学者が具体的事件の裁定にどう言う効能を発揮出来たのかと言うところです。
次に論客となった新井白石は、中国古典の原理論を展開し、「貨幣改鋳は悪」(今で言えば異次元金融緩和政策の効果を無視した「悪」と発想に繋がるでしょうう・・。)言う政策を展開し国民は困りました。
観念論は単純なので分りよい・・「駄目なものは駄目」と言う元社会党党首の土井たか子氏のスローガンが有名になりました・新井白石の政治に国民が困りましたし、国民は原理論者に懲り懲りした経験を経て、享保の改革・・吉宗の実務家重視政治に移行して現在に至っています。
最近では、沖縄の基地移転先を「少なくとも県外に!と言う実務無視の民主党の公約が有名です。
実現可能性のない公約に乗る県民のレベルもレベルです。
夫婦別姓問題や非嫡出子の相続権なども憲法学者が議論するよりは、非嫡出子の比率その他の統計的情報、家事問題の専門家や実務をやっている弁護士等の意見の方が合理的です。
尊厳死や臓器移植の問題もその道のプロの意見が合理的ですし、憲法学者だからと言って現場の実情を知らないで何を言えるのか理解不能です。
表現の自由で言えば、猥褻性が争われたチャタレー事件でも、憲法の勉強さえしていれば、文学作品の価値やどの程度の性描写を猥褻と言うべきかの基準が分るものではありません。
通信傍受も通信の秘密・・憲法学者よりは、通信の秘密を何故必要とするようになったかの歴史の造詣が重要ですし、現在の通信技術の専門家・・権力の暴走をどうやって防止出来るかなど・・やテロ対策の専門家の意見が有用でしょう。
秘密保護法も先進諸外国で制定されているのですから、諸外国でどう言う人権侵害が起きているのか、起きていないとした場合、どう言う歯止めがあるのかなどその道の専門家の報告等に基づく地道な議論が必須です。
観念的に近代法の原理違反と言うだけでは、意味不明であることを書いてきました。
共謀罪も刑事訴訟の専門家やテロ対策専門家の意見が必須です。
いろんな分野の議論の蓄積結果・分野ごとの法律が出来上がっているし、その集大成の社会総意の思想的宣言が憲法になっているのであって、各論を知らない総花的憲法学者ってどう言う存在意義があるのか不明です。
せいぜい過去のスローガンを知っていると言う歴史学者的意味しかない・・今後の日本はどうあるべきかの意見を述べる場合、(欧米ではこうだと言う留学経験を述べるだけで自慢になる時代なら意味があったでしょうが・・)世界最先端社会になっている我が国で実務をやっている人よりも(欧米に詳しい?と言うだけで)優れた意見があるとは思えません。
学生の頃にすごく気に入っていた言葉に「無用の用」言う熟語がありますが、今や我が国の憲法学は役に立たないだけではなく、社会に害を及ぼす傾向があることから、今や老害並みの学問分野ではないかと思われます。
ところで憲法内容が不都合ならば、「憲法改正をすれば良いじゃないか」と言う意見が最もらしく提唱されています。
憲法改正はそんなに簡単に出来るでしょうか?
憲法改正論が戦後レジームに対する挑戦として、メリカが反対していなくとも、・・例えば普通の国内問題・・夫婦別姓問題でも、誰かえらい人がこれが良いと言って、イキナリ変更するようなものではありません。
何十年もの議論の経過で社会意識=憲法意識が変化して行く・・これこそが、先進社会における憲法改正のありようです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。