貧困連鎖論 批判3(不適合者最小化)

男性社会への2流人材としての参入論・・保育園充実論は、子育て行為の否定的価値・・専業主婦否定論と共に、家庭内の女性の存在など意味がない・・そう言う時間が少ない方が良いという否定的価値が背景にあるので、余計少子化が進むと思われます。
ただし、私は、人口が減ることは良いことだと言う意見をこのコラムでは書いてきました。
国民のための政治=国民一人あたりの生活水準向上が目的であるべきですから、低賃金労働力を入れて生産総量を上げても一人当たり生活水準が結果的に下がってしまう(文化摩擦などが起きて2世以降大変なことになって、負債を子孫に残すことになる)のでは何にもなりません。
少子高齢化は大量生産汎用品生産に向けて人材が大量に必要な時代が終わったのだから、これに適した人材に絞り込んで行く必要がある。
この絞り込みに合致しない汎用品向け人材が落ちこぼれて今困っているのです。
少子化進行は、みかんを摘果するような女性の賢明な選択であるから、妨害しない方が良いと言うのが私の持論で何回も書いてきました。
一定の過渡期を経れば人口が均衡するのですから、高度成長・汎用品時代に稼いだ蓄積のある「資金が潤沢な今のうちに少子化を進めて数十年で均衡状態が来るのは良いこと」だと年来主張していますが、仮に政府が少子化を本気で何とか食い止めたいならば生まれたばかりの赤ちゃんの面倒を見るのを無駄なことのように宣伝するのをやめた方が良いでしょう。
根強い専業主婦非難や保育園充実論は、一見女性のためのようでありながら、大多数の女性を男性の下働き中心のパート勤務に追いやる・・女性の聖域である子育て軽視論が基礎にあります。
ホンの数%でもエリート女性が弁護士や政治家などになって来るでしょうが、それでもまだ女性の弁護士・政治家その他分野では男性に比べて立場が弱い・・補助的立場になっているのが普通です。
摘果論で言えば、最下層の女性はパートで働いて社会不適合を起こす次世代を出来るだけ生まない方が良いと言う長期展望に基づく政策かも知れませんが・・。
人間能力の総量が一定とした場合、男・競争社会で男性より優秀とした場合、女性的資質がその分劣っている人が多くなるので、不向きな子育てしない方が良いかも知れません。
子育てが女性の転職であり、男性が叶わない主役であり無限の包容力が生まれて来る基礎でもあります。
これを無駄なこととして外で男性の単純労働のまねごと・・下働きかパート勤務で・・働けと言うのが今のマスコミを覆う価値観ですが、これはフェミニストの主張としても本末転倒です。
フェミニストは女性の得意とする分野を男性が尊重すべきと価値観教育に力点を置くべきです。
女性の包容力を活かした懐の深い社会にすべきと言う意見に戻ります。
不器用なら不器用なりに、何か良い点があると言う点を素通りして、日本教育・経済学界では、唯物史観に染まっているせいか?・・経済状態に関係づける研究が大好きなように見えます。
曰く、貧困所帯から東大入学が少ない・・ひいては社長は貧困層から出ないと言う主張に発展するのかな?・・変な統計調査を基礎にして学者が長年議論しています。
日本の場合、親の経済比較より必要なのは親の学歴・能力(素質)と次世代の比較ではないでしょうか?
知育偏重・単一の価値基準で行く限り、偏差値その他のテストで表示される能力差による待遇格差は、憲法の認める平等の範囲内です。
憲法にあるからどうかと言う以前に、今のところ能力差による差別を否定出来る公正な論理が見つかりません。
これまで書いて来たように能力差を知育能力差の単線によらずに複々線化して能力差を見るべきだと言うくらいですが、それでもそれぞれの分野で最後は差が付きます。
どうしても残る格差ついては、摘果論に従って、少子化・出産を絞って行き、出来るだけ不適合人材の数を最小化して行くべきですし、それでも残る人に対しては、思いやりでカバーして行くしかないと言うのが今のところ私の結論です。
貧困層出身か富裕層出身かの基準で議論するのは、9x9の出来ない子には補助金では、どうにもならないことですから、出身階層別に社会の地位・待遇を決めて行く社会にすべきと言う意見の基礎に繋がり易くなります。
既に女性や身障者の地位向上等のためのクオーター制度の主張にその萌芽がみられます。
女性の場合、同じ日本人の母親が父親よりも基礎的能力・素質が劣っていると考えられないのに・・リーダーに女性が少ないのは、社会構造による格差が十分想定されます。
(男勝りの女性がもっといるようにも思えるのに、ジェンダー意識の結果能力が発揮し難い社会になっている)
社会構造や意識に問題がある場合には、是正のためには、過渡期政策としての優遇の合理性があり得るでしょう。
女性が社会経験を積む過程を早めるためには、クオーター制度に一定の合理性があるとしても、これの拡大として「貧困の連鎖」と言う観念論で一定期間優遇したら一定期間で何とかなるものではありません。
中卒段階で9x9が出来ない・・貧困の連鎖は、DNA連鎖の結果であって素質連鎖によるものですから、無理に一定数の権利・・合格枠などを認めてもどうにもならないでしょう。

格差社会・・貧困連鎖論批判2

「不器用でも(素質のある人は)たまには良いことがある」と言うのが昨日紹介した新聞記載の本来の意味でしょうが、大方の人は不器用は不器用のママで人生が終わるのでしょう。
競争社会が進むと不器用な人に構っている余裕がなくなったので、企業もどこも抱え込む余裕がない・・弱者排除論理が徹底して行くのでしょうが、どうして良いか分らずウロウロしていると放っておかないで誰かが声をかけてくれるゆとり・思いやり社会を別建てで作って欲しいものです。
ちなみに不器用な方が良い結果になる(こともある?)と言う有り難い意見を書いてくれる人は「どんな人かな?」と思って肩書きを見ると「詩人」とありました。
なるほど詩人なら、そう言うタイプでもやって行けるかな?と思いましたが、詩人(で新聞第1面のコラム連載をする人となれば、大変な成功者でしょうから)まで行かなくとも不器用なままで終わる凡人以下の人も生き易い世の中にして欲しいものです。
バカで不器用で放っておけないと思って声をかけてくれているにしても、親切にされると嬉しくて生きて行く気力が沸くものです。
男女をとわずに弱者に優しく思いやりのある人もいるでしょうが、生まれつき動物として始まって以来命をかけた競争社会で相手を蹴落とすことに精出して来た男性よりも生命を産み育てることに精出して来た女性の方が、思いやり・気配りなどフォローする能力が高いことは明らかです。
現在の厳しい企業間競争=相手との能力差の選別競争ですが、この結果内部で、「出来る人出来ない人」の厳しい選別が起きる社会です。
能力差を選別して格差を付けて行くのは男性に向いているのであって、今の厳しい能力選別社会に女性が参入するのは不向きな社会です。
これまで不器用で何となく困った状態の私に声をかけてくれたのは女性が多いので、女性が女性としての本来の価値観を発揮し易い社会にして欲しいと言う意見を書いてきました。
女性が男性価値観の仲間入りして競争して行く社会が貫徹すると、折角社会の半分を占めている思いやり・気配りの包容力ある社会を破壊してしまう結果になるのではないかと言う気がします。
女性は男性的価値観競争に参加して男勝りになる必要はありません。
(ジェンダーにこだわっている訳ではありません・・人によっては男性的能力の高い人もいるでしょうが・そう言う人は自己の能力を発揮して良いことは勿論です)
みんながみんな男性的行動能力で競争するのは、間違っています。
男性でもマッチョ系競争で劣っている人は柔弱な?詩人でも良いのと同じで、まして女性が男性と同一方向で能力競争する方が間違っています。
女性でも走るのが速い人もいるでしょう・・宅急便の配送員で男性の8割しか配達出来ないが女性ではトップだと言う競争をして意味があるのか?と言うことです。
男女をとわず自分の得意分野で競争社会に参加したら良いように思います。
女性は男性より優れた分野・・女性価値観トップが女性のトップとして男女平等に尊敬されるべきですし、日本では実際に家庭の中では女性が事実上の主として尊敬されてきました。
西洋から女性蔑視の思想が入って来た結果、おかしくなって来たのですが、我が国の場合天照大神の神話で知られるように万年単位の女性尊敬の歴史があるので、この130年程度の欧米価値観の全盛程度では根絶されることはありません・・幸いなお家庭内の女性の地位は盤石です。
男尊女卑の思想は西洋から入って来た借り物の思想であると言う点については、05/24/03「男の存在価値 1」〜05/28/03「男尊女卑の思想10(明治の思想と実際2)」前後までと、妻の無能力制度がフランス民法の導入で我が国に入って来たに過ぎないことを2年後の03/29/05「夫婦別姓14(上流の家と庶民の家2)妻の無能力と持参金の処分権」〜03/31/05「夫婦別姓18(夫の無能力と家事代理権)民法134」あたりまでに書いています。
女性的価値観を否定し、男性向け競争社会に参加させるために政府や文化人マスコミが必死ですが、みんなが女性的価値観に意味がないと言わんかのように、男性社会に参加させて、男性より劣ったもの・・2番煎じの性を演出しているように見えます。
日本のフェミニストは、女性の地位低下を目指して社会参加を主張しているように見えますが・・・?欧米では日本と違って女性は無能力としてバカにされて来た歴史があって、漸く女性も人の仲間だと気が付いたのは、せいぜい20世紀に入ったころからです。
アメリカでは黒人奴隷制度が知られていますが、女性も同様に何らの権利主体ですらなく、選挙権が与えられたのも日本よりも欧米の方が遅いのです。
欧米のような遅れた社会ではフェミニストは男性の真似をする権利から始めるしかなかったのですが、我が国は、昔から家の経営を女性が握って来た・男は外で殺し合いする程度しか仕事・権限がなかったのですから、今さら欧米の真似をしても仕方がないことです。

格差社会・・貧困連鎖論批判1

学校時代なんとかなっていた子供・・大卒・就職時までなんとか一定の枠内にいた人材でも落とし穴が待っています。
1流企業に運良く就職出来たものの、実力がついて行けないことが分った場合、4〜50台まで来てしまうと、簡単に職種変更出来ないのと、まだ将来展望(子育て中でローンも抱えているのが普通ですから)があるので、脱落したり脱落しそうになるとストレスが大きいので、達観し切れずに精神科医に通う人が増えてきます。
ここ数年格差拡大を問題視し、貧困連鎖をなくすための底上げ・子ども手当を増やせ・高校授業料無償化などの提言がマスコミを中心に相次いでいますが、日本の若者のしらけ・厭世気分は子ども手当をくれたり高校に行けたら解決するのではなく、自分の能力に応じた方向へ進めないことにあるのではないでしょうか?
能力差があってこの結果待遇に差が生じることは誰でも受入れることが可能ですが、この結果別の選択肢が用意されていないことに将来展望・生き甲斐を失っていることあると思います。
この本質的な問題点から目をそらして、欧米の格差問題や移民問題を勉強して来て、そのまま日本で高校無償化などを論じても意味がないように思います。
西洋では、まだお城を持っている人がいることを象徴的ですが、革命前の身分が固定されていますし、移民に至っては、からだ1つで来ている結果、経済格差が半端ではありません。
こう言う場合、教育を受ければ立ち上がれる素質があってもなお貧困に喘ぐ層が一定数いるのは確かですから経済援助に意味があります。
欧米の格差は移民問題を筆頭に日本と違って親の経済力の格差そのまま次世代能力格差に関係している実態があるのですから、遅れた・不公正な社会の問題点を勉強して来て、そのまま日本に当てはめようとするのは間違いです。
今でも昔でも、日本は公平な社会ですから、(幕末でも優秀な人材は養子制度など利用して抜擢されています・・)貧困所帯の子が優秀なら問題がないのです。
偏差値だけの単線価値社会化=能力差別化を進める以上は、単線が延び切る一方で、格差が広がるのは理の当然です。
新春箱根駅伝を見ていましたが、最初は団子状態ですが、時間経過で列が長く伸びる一方です。
能力差をより細かく見るのは当面合理的ですから、顕微鏡で見るように拡大して行くのを非難するのは時代錯誤の主張と言うべきです。
格差社会・差別化を非難するだけでは解決になる訳がない・偏差値基準の単線が太くなり過ぎているので、もっと多様な生き方で競争出来るような提案をすべきはないでしょうか?
12月30日から書いて来たように古代から公平な日本社会では、重要なのは能力相応の待遇を受けているかこそ調査すべきでしょう。
この数日書いているように教育界の画一基準によらず日本古来の基準・・「万物に神宿る」基準から言えば、教育界の画一基準・・抽象的に言えば知育偏重が幅を利かし過ぎている点を問題視べきです。
この路線で駄目な人も尊敬されるか、大事にされる社会です。
1月8日日経夕刊,1面の「明日への話題」では、愚直と言うか不器用な生き方を大切にする必要を書いています。
不器用に落ち葉掃除をする例を挙げていますが、正に私が毎日自宅周辺の落ち葉を不器用に掃除している様子を見られているような事例でした。
私の場合、愚直を絵に描いたような子供時代を過ごし、今もそのまま続けているので、不器用な人の仕事の方が結果が良いことがあると書かれると嬉しくなります。
ただ私の場合不器用なままで現在に至り、結果的に不器用な仕事の方が良い結果になったと言うようなメリットを感じた記憶がありません。
夕刊の記事に書いてるとおりに「下手な絵の方が良いのよ!と何回も周りに励まされたことがありますが、だからと言って最後まで下手なままで無茶苦茶です。
素質のない正真正銘の(絵に限らず筆跡も何もかも)下手と言うかめちゃくちゃですから、(大方は周辺がフォローしてくれています)文字どおり駄目なままの人生で今に至りました。
私の場合、この歳になるまで「不器用な方が良い成果を出せる」と言う結果を出せず、周りに助けられて頼りないままこの歳になってしまったことになります。

差異化社会6と多様な生き方5

親は「子供のため」と言うのでしょうが、悪く言えば奴隷労働にマンツーマンの監視がつくような悪循環です。
マンツーマン教育が効力を発揮するのは,浅田真央や羽生弓弦君のようなスケート選手あるいは音楽教育その他、全て一定レベル以上の飛び抜けて優秀な生徒の場合です。
平均授業について行けない子は、その分野に向いていないことが多いのですから、目一杯の訓練を受けるのは苦痛を倍加するだけです。
私自身の例で言うと、いろんな能力が生まれつき低いことは子供のころから十二分知っていましたので、不向きなことを人の2倍練習しても意味がない・・苦痛になるだけであると痛感しています。
たまたま日経朝刊には1月1日から小倉桂の「私の履歴書」が始まっています。
小倉桂の1月6〜7日の記載にも出て来ますが、個人教育・特訓は却って苦痛だけです・・彼の場合素質があったのに気が付かずに遊んでいただけですから、この特訓の成果が後に出て来たようですが、元々の素質のない子供の場合地獄の特訓で終わるのが普通です。
私の子供の頃には普通科中心ではなく、農業高や商業高校などが一定の評価を受けていたような記憶ですが、いつの間にか普通高校全盛時代になってしまいました。
この数十年各種専門学校が発達していますが、いずれも高卒を対象にしています・・社会全体のレベルアップの必要性も分りますが、高卒程度のレベルに専門性をつける程度が適当なレベルの子供もいるでしょうし、中卒程度が限界の子供を放置してぐれさせるよりは、そのレベルに応じた専門教育を施せばある程度何とかなるレベルの子供もいるでしょう・・。
どんなに勉強させても、知育方面での基礎能力がなくてついて行けない中学を出ても9x9が出来ない子供もいるのですから、高卒に限定せずにそれぞれのレベルに応じて少しでも現場作業レベルを上げるための訓練設備が必要です。
私が知っている事例では、授業だとサボってばかりいる子が、アルバイトやペンキ屋や鳶職・中古車修理見習いなどならば、よく働く子が一杯います。
私が弁護士業務上で見て来た少年事件や私自身の経験によると、人には向き不向きがあるのですから、能力方向に合わないことを強制しない方が良いのが第1の印象です。
これ以上勉強したくない子を夜遅くまで予備校へ行かせても、(親はこれだけあなたにお金をかけているのに・・と恩を着せても)子供が可愛いそうです。
子供は自分の向き不向きを子供自身が小さいころから一番良く知っています。
親は子供がちょっと音楽やスポーツが出来ると直ぐに一流プロになるかも!と夢を抱きますが、(これ自体親のありがたいところですが・・)子供自身は練習仲間との実力差を良く知っていて、自分の限界も良く知っています。
運動に限らず子供自身が同級生に比べて自分がどの程度よく出来ないか・・塾に行っても友人より出来るようにならないことも良く知っているのです。
親は、塾へ行きさえすれば友人より良く出来るようなると期待しているの(かな?出来るだけのことはしてやったと言うアリバイ証明意識もあるように見えます)ですが、結果は行かないときと変わりません。
子供自身は、クラスメイトより出来ない結果をそのまま受入れる能力があって、別の道に進めば能力が低ければ低いなりに生活の場が決まるのですが、親がありのまま受入れられないからややこしいことになっているように見える事件が結構あります。
私自身いろんな分野で人並みの能力を持ち合わせていないことを子供のころから良く知っているのですが、もしもこれを是正するために◯◯に行かせられて特訓を受けた場合を考えると、その時間は苦痛であっただけで何の役にも立たなかったに違いありません。
タマタマ戦後で、みんな食べるのに忙しい時代だったので周りにそんな余裕が無かったので放っといてくれたので助かりましたが・・。
自分に合わないスポーツの特訓でなく、勉強だっていやな子が強制されるのは、イヤなことに違いないし教育成果としては多分何の効果も生まないで、逆に子供のやりたいことをやらせない・・虐待効果を生み出しているように思えます。
これに対する不適合の限界・・反抗が、不良行為誘発の大きな原因になっているように見えました。
言わば、子供が自分の能力限界を悟っているのに親が覚っていない・悟りたくないミスマッチを放置するのは問題です。

差異化社会5と多様な生き方4

思うに,本来知育基準向きの才能ではなかった・・結果的に途中から縁を切って、その他の道で活躍して来た人でも、どこか学校教育的価値観が最高で自分はタマタマ野球・サッカーでで何とかなっているけど・・などと自分を本心では駄目な人間だと思い込まされて来たからではないでしょうか?
洗脳されてしまった内心の価値観が子供が生まれると子供に対する期待になって、何とか挽回して欲しいと言う欲求に駆り立てるのかも知れません。
子供がいやがると「お父さんの頃には中卒でも今は親方をやっているけれども、これからは「高校も出ないで将来どうするの!」と説得し続けるので、子供は仕方なしに、進学?に同意するのですが、向いていないことはどうにもなりません。
お父さんはトビの親方などやっていて自分なりに満足しているし、お父さんが自分の子供の頃にイヤな授業が終わると嬉々として遊んでいたことも経験しています。
「子供がいやがっているのに・・」うっかり口を挟むと「だからあんたみたいになっているのよ・・」「これからは高校くらい出ていないでどうするのよ!」と噛み付かれるのが落ちですから、黙ってみているしかないようです。
これからの社会では、現場系でも一定の機器操作が必須で高卒〜短大卒程度のレベルが必要なのと、子供の能力(素質)が高度化しているかは別問題ですから、これからの社会のあり方に関する母親の心配・見通しが正しいとしても、我が子の能力(素質)無視で要求している点に無理があります。
企業で言えば、高度機器導入によってその操作能力、あるいは海外展開によって英会話能力必須となって、社員教育をしてもついて行けない人材が出るのは仕方のないことです。 
企業の場合勧奨退職や子会社への転籍などで選別して企業の必要とする人材に純化して行けますが、国家や家庭の場合、国民を振り落とす訳に行きません。
そこで社会保障の充実策となるのですが、振り落としてしまった人を生活保護・経済支援だけと言うのでは・ストレス社会になってしまい、社会の安定が保てませんし、国民も不幸です。
世上中間層からの脱落の増加・・中間層縮小を問題視している意見が多いですが、問題視して格差拡大とか非正規雇用拡大批判・・社会不満を煽るだけで解決出来ません。
社会が高度化して来ると最下層職務の底上げがあるように中間層職務も徐々に高度化して行きます。
そうなると職務の高度化について行けない・・中間層内の最下層から順に就いて行けない層の脱落が始まるのは当然のことです。
従来中間層に厚みがあったのは、特にホワイトカラーでは勤務評定基準がはっきりせずに職務内容に農業社会同様の緩やかなハバがあったからです。
中間管理職でもボヤーッとしていると課長クラス間競争に負けてしまう時代が来たので、比喩的に言えば昔は課長クラスの能力差が1センチしかなかったとすれば、今は10センチも上下差が出て来る・・勢い能力差がはっきりして来た時代です。
最下層と言うか現場系に戻りますと,従来中卒程度で出来た仕事が高卒程度のレベルがないとやって行けない時代が来ています。
家電量販店に行けば商品知識の豊富さに驚きますし、コンビニ店員でも商品配置を聞かれれば直ぐ応答し、各種機器利用に戸惑っていると直ぐに手伝ってくれます。
ただボヤーッと店番していた昔とは格段の違いです。
・・今世間を騒がせているマンション杭打ち工事・・東京駅の建て替え工事で言えば、元の東京駅の基礎は「松の杭」を人力で打ち込んでいた程度だったのが、今は、住居用のマンションでさえ、コンピューター処理でグラフや地耐力計算をしながらやる仕事になっていることが分ります。
昔から「土方」と言う言葉があるように、体力仕事だった基礎工事でさえこれですから、多くの母親が子供の高学歴化に必死になるのは分りますが、知能指数◯◯程度の場合必死に尻を叩いて勉強させても勉強時間さえ増やせば能力が上がる訳ではないので、子供がいじけるだけです。
中学で9x9の掛け算が出来なかった子供が無理に底辺高校に入れられても高校に行くとなおさら授業について行けないので、早く現場労働見習いなどで自分の能力に応じたことをしたいのに、嫌々高校へ通っている・・そのうち不良になって行くパターンです。
こう言う場合,授業が分らないなら予備校へ・さらにはマンツーマン塾へ行かせてやれば良いと言うのでは、子供にとっては地獄です。
学校の授業だけでも苦痛で、早く放課後になるのを楽しみにしているのに、帰ると塾に行け・・集団授業ならまだ息を抜けますが、お金をかけてあげるからマンツーマンで頑張りなさいと言うのでは、息を抜けません・・.

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。