原発被害基準7(人災と事故被害2)

事故後5年も経過しているので、この辺でムード報道ばかりではなく、人災と事故被害との区別・・検証が必要です。
交通事故によって担ぎ込まれた被害者が1週間程度の怪我だったのに、被害者の大事故被害にしてくれと言う要望に応じて、医師が本来の事故と関係のない箇所の手術をした結果死亡した場合、これが判明すれば加害者が死亡の責任を負いません・・同様に人災分は原発事故とは関係がありません。
例えば数k~5km範囲の避難ならばその外側に商店や医療機関などが残れるので、避難解除後もスムースに生活出来ますが、民主党政権の決めた立ち入り禁止区域が広大過ぎたので、地元物流・医療系統・生活インフラ全てが壊滅してしまったので、避難解除されてもインフラがなくなってしまい戻るに戻れない状態が起きています。
しかも許容シーベルト基準が高過ぎるために避難解除がそれに比例して遅くなってしまい、(例えば年間1ミリシーベルトを2ミリシーベルトに基準を緩めていれば避難区域が何分の一に減り、2倍の早さで復帰可能地域が出る関係)取り返しのつかない地域疲弊進行があったのではないかと思われます。
そうなるとシーベルト基準が合理的だったのかも議論する必要があるでしょう。

以下はhttp://www.nikkei.com/article/DGXZZO50651160W3A110C1000000からの引用です。
forbes
(2013年1月11日 Forbes.com)
原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)が提出した。低線量の被曝の影響は非常に不確かなものであるため、UNSCEARとしては「低線量の被曝と大人数を掛け合わせて、自然放射線量と同等以下のレベルで漸増的な被曝によって健康被害を受ける人数を推定することは勧めない」と述べている。
 この手法はチェルノブイリ以来広く行われてきたことであり、福島では今も採用されている。
■福島事故で「健康への影響無し」
 報告書により、世界はようやく正気に戻り、人体に害を与えないことに無駄な時間を費やすのをやめ、実際に悪影響を及ぼす問題、そして本当に注意を必要とする人々に目を向けるようになるかもしれない。例えば津波によって引き起こされたインフラや経済への打撃、あるいは福島周辺の真のホットスポットの除染。さらには、人体に影響を与えない程度の放射線量しか浴びていないのに、被曝の恐怖に怯えて暮らし、まさにそうした不安に心身をさいなまれている何万人という日本人をケアするといったことだ。また、日本政府においては真剣に原発再稼働の準備を始めたり、国際原子力機関(IAEA)や米国政府からの改善案に耳を傾けることだ。
この報告書によって、低線量の被曝が個人と大規模な集団の健康に及ぼす影響について言えること、言えないことがはっきりするだろう。
 自然放射線量が2.5ミリSv(250 ミリrem)から3.5ミリSv(350 ミリrem)に上昇しても、発がん率は上昇せず、認識できるような公衆衛生上の影響は何も起きない。同じように、自然放射線量が2.5ミリSv(250 ミリrem)から1ミリSv( 100 ミリrem)に低下しても発がん率は低下せず、公衆衛生上の問題に一切影響を与えない。
 重要なのは、通常の議論は短期間(一度)に強烈な放射線に被曝することを想定しており、同じ量を1年といった長い期間をかけて被曝した場合、影響はさらに小さくなることだ。つまり毎月0.1Sv(10 rem)を被曝すれば影響はあるかもしれないが、年間で同じ0.1Svを受けた場合は、慢性にせよ、急性にせよ認識できるような影響は一切ない。
 さらにUNSCEARは、一昨年の福島の原発事故による識別可能な人体への影響はなかったとしている。「影響無し」としているのだ。」

上記意見は今この意見を書くために、どこかに国際基準を紹介していないかと思って検索して初めて見たものですが、私が事故直後のMarch 28, 2011「放射能の危険性2(管理区域)」でレントゲン技師が一度に被曝する基準を1年間に均した基準にするのがおかしいと書いた素人意見と同じことが早くから「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)で、言われていたことが分ります。
あまり馬鹿げた基準造りなのでその妥当性について世界の科学者のまじめな議論の対象にさえなれないレベルですが、日本ではあまりにも荒唐無稽な基準が幅を利かしているので、念のために国際機関で意見を発表したのではないでしょうか?
マスコミ界が恐怖を煽ってでっち上げた安全基準が間違っていると言う意見が出ているのに、これをマスコミが全く紹介していない・・黙殺しているどころか科学基準ではないと発言した環境大臣の吊るし上げに熱を上げているのが不思議・・報道の中立性に反していないでしょうか?

原発被害基準6(人災と事故被害1)

2011年の福島原発事故を過酷事故と強調するマスコミやネット報道では団体声明が溢れていますが、その割に事故や放射漏れ自体で直接どう言う具体的被害が出たのかとなると,たった一人の死者が出たか否かすら分りません。
グーグルで「原発事故直截被害者数」で検索すると被害救済等被害を騒ぐ団体声明などが溢れるように出て来ますが、どこにも具体的数字が出ていない(探す能力不足もありますが)のが不思議です・・知られると困るのでしょうか?
これまでのニュースを見た記憶だけ今になるとアイマイですが、作業員が基準以上の被曝をして「軽い火傷」と言う程度でしかなく、(マスコミが鵜の目鷹の目で被害者を探しているのに)何百人ではなく1〜2人の発表です・・その程度の労災事故は普通の工事現場で無限とも言えるほど発生している軽微事故でしかありません。
ちょっとした崖崩れや交通事故死に比べて少な過ぎませんか?
マスコミや人権派は如何にも被害者に寄り添い、手厚い救済を主張するようでいて、活躍の場を作るために被害の定義拡大が必要・・(マッチポンプ)実質被害拡大に励んでいる感じです。
韓国では未だに放射能汚染を理由にネガキャンペインを続けていて、日本食品の輸入禁止を続けていると3月19日の勝又氏の経済時評http://ameblo.jp/katsumatahisayoshi/page-3.htmlに書いています。
上記によると日本政府がWTOに提訴しているそうですが、日本マスコミがいくらネガキャンしても表現の自由を理由にやり放題です。
マスコミや日弁連は、無言の前提として「被害者救済は幅広い方が良い」と言うこれまで書いて来た基準によっていると思われます。
繰り返しになりますが、被害救済のためには被害認定は緩いほど良い→被害があるかどうか不明のことまで規制対象にする→必ずその対に規制対象業の発展阻害の損害・・ここで生活している関係者の利害を無視する偏った考えが、原発事故で白日の下に拡大されて曝されてしまったと言えます。
原発の場合対象企業だけではなく被害を過大に宣伝されると風評被害が起きるなど地元経済に甚大な影響がありますので、きれいごとで済まなくなったのです。
人権派は、被害者救済のために被害を多めに言う必要がある→原発事故の被害を実際以上に宣伝する方向に努力している・・ちょうど韓国の対日ネガキャンペインと連動しているように見えますが、どこがちがうのかよく分りません。
日本マスコミや日弁連は外国の手先ではない・・運動目的の善意と悪意の違いが大きいと言うのでしょうか?
被害救済の人道目的ならば、実害より膨らませて(環境保護目的ならば珊瑚礁のヤラセ被害報道しても良いと言うのと同じ発想です)過大報道する・・虚偽主張が許されると言う論理が許されるとしても、不安を煽って膨らませた被害想定基準を原発反対運動の資料として流用するようになると対象地域や産業被害が無視出来なくなります。
これまでマスコミの言うとおり大変な惨事だと思い込んでいた人が多いと思いますが、今回の仮処分の結果被害想定が妥当であったかの疑問をいだく人が増えたのではないでしょうか?
(韓国の自然放射能濃度の方が福島地方よりも大きいと言われていますが、こういうことはマスコミは絶対に報道しません)
報道を見ると直截被害が出ないのでマスコミや日弁連は、被害基準をむやみに広げて行く方向への努力中のイメージです・・最近は「自主避難者も被害弁償対象にしろ」と運動展開中です。
いわゆる風評被害も原発被害に含めるのがマスコミでは普通になっていますが、「こんなに大変だ」と風評を広める運動をしながら、「こんな風評被害を受けている」からこれも被害だと宣伝しています。
ここで原発の過大規制の具体論に入ります。
例えば、2ミリシーベルト以上の避難で十分なのに1ミリシ−ベルト基準にすると避難面積や被害者数は単純に10数倍前後以上に増えます。
元々原発直近には人家が少ない上に大気の拡散ですから濃度が2倍薄くても危険とすれば、半径が単純2倍以上になる上に、面積は半径の倍率に対して更に3、19倍に広がりしかも人口密集地も含まれるようになります。
福井県の原発に滋賀県の人が裁判出来るようにもなります。
放射能被害防止のシーベルト許容基準も当時のレントゲン技師などの限界値などを年間基準にしているようですが、そのときに書いたように一度に被曝する許容量を年間合計にしてしまうのは子供が考えておかしな基準です。
醤油でも食塩でも一度に大量摂取するときの危険量を年間少しずつ摂取する合計と同じにするのは非合理過ぎることは誰でも分るでしょう。
過大過ぎる許容基準設定のために避難しなくて良い筈の高齢者(高齢者は放射能蓄積死亡リスクより移動による環境悪化による死亡率の方が高い)や重病者等が避難によって従来どおりの治療を受けられなかったり、環境激変による死亡拡大が発生したことが明らかです。
勿論牛や豚鶏などの家畜がそのまま放置されるなど物理的損失も莫大です。
津波や原発事故による放射能汚染による死亡よりも、その後の環境激変による苦痛や死亡の方が多くなっていませんか?
ウイキペデイアによると13年時点でも既に環境悪化による死亡の方が上回っていると報じられています。
震災関連死[編集]
東日本大震災では避難所の不衛生や寒さなどが原因で、避難後に死亡する(震災関連死)例が高齢者を中心に相次いでいる
毎日新聞は2013年12月17日、福島県内の震災関連死による死者数が地震や津波による直接死者数を上回った、と報じた

それらを全て何らの検証なく、東電が事故の弱みで何も言えない・・言わせないことを良いことにして、マスコミが率先してバラまいている結果増えた被害拡大まで含めて原発事故の所為にしてこんなに被害が出ている・・何もかも賠償しろと言う運動が盛んです。

原発被害基準5(操業停止が許される場合)

建築基準・・クルマや食品基準等の過大規制があっても、(作れない訳ではないが、コストアップで国際競争に不利な基準)その業界が技術的適応可能な範囲の厳しい基準ですが、努力次第で何とかなります。
チャーチルかイーデン回想録かはっきりしませんが、英米がどんなに理不尽な要求を突きつけて日本人に意地悪しても、日本が反抗せずに努力して最後にはクリアーして来る不思議な国民性だと書いているそうですし、最近ではイタリア料理に修行に行った日本職人が散々にやがらせされても日本人が頑張り抜いたので、結局日本人がいないとイタリア料理が成り立たないとさえ言われるようになっているようです。
日本国内にも先議産業復興を妨害するのが目的かのような意地悪なマスコミが勢力を張っているのですが、(アメリカによる平和憲法強制・・武装解除を利用して日本は軍事費負担を免れて来たし、飛行機製造禁止されると新幹線を作るように)正面から反抗せずに黙って努力する国民ですから、結果的に世界一の低燃費・無公害システムが出来上がってしまいました。
(アメリカで日本車が席巻中なのは、日本車閉め出し目的で規制を厳しくした結果日本車だけがクリア−してしまったことによります)
産業発展の芽が出るたびに危険だと大騒ぎしては一々イチャモンつけて来たグループの功績と言えば言えますが、彼らはただ戦後日本の復興妨害・遅らせるために?アメリカが占領政策継続のために残しておいた反日運動を継承して来たのが思わぬ結果になったようです。
イジメッ子・嫌がらせをしていた結果苛められる方がグレないでまじめに対応して来たから、却って良い方へ(飛行機製造禁止が新幹線技術になったようにあらゆる分野で)日本人の智恵で変身してきました。
安全基準を厳しくする場合、企業に努力するチャンスを与えることにもなるので社会発展の原動力となることもありますが、特定業界に対して業務停止までを命じるようになると,適応努力を許さない・・その産業の存続を許さない国家意思になりますから、違反の連続性や国民一般に対する巨大な権利侵害の緊迫性が要請される・予兆の反復性などの要件が必須です。
原発は何回も安全基準に違反していてこれまで注意や勧告を受けたりしていたのでしょうか?
過去の基準で事故が起きたとしても今回は新たな基準が策定されたばかりでまだ違反していないでしょう。
何の違反もなくとも(世論のムード?を民意に敏感な?裁判所が嗅ぎ取って)今後違反しそうだと言うだけで、違反もないのに予め停止を命じることが許されるのでしょうか?
それとも過去の基準で事故が起きたから、今回の基準そのものが信用出来ないと言う連続性を言うのでしょうか?
これらの批判に耐えられるように、もしも事故が発生したら被害が大き過ぎるから1回も違反がなくとも(何となく怖いと言うムードだけで)停止を命じられると言う世論造り・・伏線が用意されていたように見えます。
違反ががなくとも危険だから許さないとなれば、「日本中の原発を許さない」と同義になってしまい、司法権の行使ではなく政治運動そのものであって、裁判官が司法の名をかりて政治運動をやっていると言う批判になりますがので、そんな乱暴な決定理由にはなっていないと思いますが、「新規制基準自体に対する国民不安を代弁したものだ」と言わんばかりのマスコミ応援もありますので、一応「回復不能な被害」とは何か」・もしかしたらマスコミが国民不安を煽るためにでっち上げたのではないかの関心でこの4〜5日書いています。
マスコミの袋だたきにあって何も言えない単一業界の泣き寝入りで成り立っていた過大規制の習慣が,原発事故を過大に言い立てる応援団となり、今回の仮処分命令正当化の伏線として、「ひとたび事故が起きると大変なことになる」と言う科学根拠のない大合唱の下地になっていた印象です。
具体論に入って行きますと、放射能もれ・汚染・被曝に対する被害想定基準は、大事故発生によって被告席に立ってしまい「そんな過大な基準はおかしい・・」と言う反論さえ許されない状態をマスコミアが作ってしまいました。
何も言えない電力業界の弱みに付け込んで、元々原発反対勢力であった民主党政権が原発産業の息の根を止めるため過大な放射能被害想定基準作成ではなかったかの疑問があります。
民主党政権の設定基準の合理性について・・基準設定が科学的合理性を越えて過大過ぎたのではないか・・と言う視点で、原発事故直後に広島等の原爆被害者に関する戦後70年近くも長年月掛けたデータ等を検討しながら、放射能被害って本当はどうなのか?の疑問で「放射能の危険性2(管理区域)March 28, 2011前後のシリーズで書きました。
当時も今も原発の安全性自体には私も疑問を抱いていて、そのような批判・疑問を繰り返し書いていましたが、それと東電が弱った弱みに付け込んで過大な被害や危険性を強調するのが正しいかは別問題です。
マスコミや人権派は如何にも被害者に寄り添い、手厚い救済を主張するようでいて、活躍の場を作るために?被害の定義拡大が必要・・(マッチポンプ?)→風評被害拡大で実質被害拡大に励んでいる感じです。
私は元々党派性が弱いので,客観的に正しいことを知りたいだけです。
その立場で原発事故当時に広島原爆被害が本当はどういうものだったのかが気になって、約70年に及ぶ追跡調査結果を紹介したのですが、要は被害感情を感情的に強調するばかりで客観的資料からは大した被害が出ていないと言うか、客観的被害資料が一切ないことが分りました。
「放射能、放射能と騒ぐけど大したことないじゃないか」と言うと非国民扱いされてマスコミに干されてしまうので、マスコミに出たい人は反論出来ない状態が続いている印象(私の偏った誤解かも知れませんが・・。)を受けてしまいました。

被害想定基準4

1000回に一回崖から落ちたり、エベレスト滑降スキーで命を失う人がいるとしても、その程度のリスクならばと、冒険を選ぶ人もいます。
個人プレーとはちがう地域安全は個人の勝手とは言えませんが、これを民意を吸収した政治で決めるべきか司法が決めるべきかのテーマです。
世上原発事故が起きると重大事故になるから司法が決めると言う印象が流布していますが、重大事故に対する規制も又巨大なマイナス効果を持ち、判断要素が複雑に絡まりあっているのですから、単線思考に優れた学校秀才・エリートよりは多様な民意吸収や複雑系判断に優れた政治家が決めるべきです。
何よりも国民主権・・民意重視の近代社会の価値観にもあっています。
その地域の人たちが自由意思で決めることであって、その地域外の人がとやかく言うのは本来間違っています。
地域内の少数派が地域外の中央から派遣される国の機関である(民意を受けた政治の支配下にない)裁判所に是非の決定を求めようとしているのが原発停止の仮処分です。
ところで被害想定→規制基準はいつも過大になる傾向があります。
ソモソモ各種規制・・被害想定自体が政治的(運動家の運動によって)決められて来た経緯があり、科学で決まったものではありません。
この辺はフッ素化合物の事件をやった経験でも、2月ころに環境大臣発言問題に関して書きました。
個別化学品等の危険騒動は、対象になる被害業界の声が小さい・・単体の製品業界はマスコミの袋だたき・合唱の対象になるととても太刀打ち出来ませんから・・非合理に厳しい基準になって行く傾向がありました。
自主規制でさえも行き過ぎと言うか、いわゆる賞味期限切れ食品等廃棄の行き過ぎ・・食品や自然そのものは抗議の声を挙げられませんが、万物に神宿る日本人の精神からすれば許されることではない・・あまりにも資源の無駄遣いをすれば環境のしっぺ返しを受けるでしょう・・賞味期限切れ商品を集めて後進国へ寄付する動きすら報道されています・・がこの弊害の現れです。
これまで安全基準は規制される方の声が小さいことを良いことにして「厳しければ厳しい程良い・・はっきりしない場合は多めの基準にする」と言うマスコミの主張がありました。
何事も一定の規制をすれば必ず反対側に規制される側がありますが、この思想は相手方・過剰規制によって発展阻害される方を敢えて見ない偏ったものだったのです。
人権?運動家の多くは、高速道路反対、飛行場反対・・各種操業(ゴミ処分場・工場・葬儀場・ビル建設、高層マンション反対・・環7や環8あるいは圏央道や外郭環状線反対その他大方(今や身の回りになくてはならないほど日常便利に利用していること全て反対でした)反対などに始まって、電子レンジ、防犯カメラ、パソコンの電磁波・・最近では電気自動車は低音だから歩行者には危険だと言う主張もあります・・新しいものが出るとすぐに◯◯が危険と言って反対するなどを見ると・・発展しそうな事柄には何でも反対する傾向で一貫しています。
そもそも新しいことが普及するのに反対するのを共通理念・・高度化便利化にすべて反対して来た流れを見ると、産業規制が強ければ強いほど良い・規制が強くて結果的にその産業がなくなれば最高の成果になるのでしょうか?
安全基準は厳しければ厳しい程よいというマスコミ・文化人の誘導が強く・おかしいなと思っても黙っていた国民が多かったのですが、マスコミもさすがに世論(産業を敵視運動は国民自身の職場でもありますので)の一定の支持を受ける(今の民主党支持率は10%以下でしょう)には、企業活動が存続出来る限度と言う縛りがありました。
露骨に国民の職場がなくなっても良いとまで言うのでは、文字どおり外国の回し者か?と疑われてもっと支持率がもっと下がりますので、日本産業壊滅目的を隠して名目上「環境保護」に頼り、その基準を非常識に挙げる努力に特化してきたように思えます。
反日運動家の拠り所はこうして(素人には分らないから専門家に任せろと言う)憲法違反とか、環境基準と言う(学会の通説からはなれた)偏った学者の総動員に振り向けられて来たように見えます。
民意よりは訳の分らない権威を振りかざして黙らせる手法の採用です。
革新系は議員その他支持者に東大卒とかなんとか高学歴者、医師弁護士や文化人?等を重宝する傾向が強いのは、こうした現れです。
朝鮮族ではヤンパン思想の名残で、今でも相手が先ずソウル大卒と自己紹介すると格の劣る学歴の人は人は反論出来なくなる図式が知られていますが、韓国流儀が日本でも通用すると信じ込んでいる様子です。
東大卒も憲法学者も元最高裁判事も作家も一杯いるのに,その中の少数の学者や元判事が一人でも数人でも革新系有利に発言するとその道のプロみんなが主張しているようなマスコミ報道が普通です。
1億以上の人口の中で僅か1000〜2000人が反対デモすると、市民の声を無視するなと言う主張も同じです。
サイレンとマジョリテイーについてこの後で書くつもりですが、マスコミは騒ぐ人の意見に対して何十万倍もの価値を認める傾向があります。

被害想定基準3

マスコミや日弁連「自由と正義」3月号の原発被害特集を見ると地元被害が如何に大きいかを強調して何十年経ってもまだ復興出来ていない・・こんなに被害が大きい・如何に原発被害が大きいかを(原発被害なのか過剰避難命令による被害なのかの検証姿勢がなく)自作自演して(それどころか自主避難者も救済すべきと損害を拡大させて)行く印象が見えます。
高台移転を言っていた古人の業績ばかり強調し、最近これを無視していた咎めが出たかのような報道が圧倒的です。
しかし高台が安全なことを知りながら危険な筈の海岸沿い居住を大多数現地人が何故選択していたかの合理的検証を全くしていません。
これは1000〜800年に1回くらいの被害ならば、そのとき逃げればいい・・ある程度の人が運悪く逃げ損なっても統計的に大した損害ではないと言う庶民多数の自発的に選んで来た智恵ではないでしょうか?
ちなみに「市」とは、5万人以上が基本要件です。
ウイキペデイアでは以下のとおりです。

市・町・村の条件[編集]
市は以下の要件を満たさなければならない(8条第1項)。
人口5万人以上。ただし1965年(昭和40年)以降は、市町村の合併の特例に関する法律(平成16年法律第59号の新法では第7条)の規定が適用されれば3万人以上。

昨日紹介したとおり、陸前高田市等特殊被害最大地域でも被害者は人口比11%あまりでしかなく、その次に被害の大きい22市町村では、100人前後の被害とすれば、人口5〜10万人平均として500〜1000分の1しか被害者がいません。
要するに殆どの人が助かっている・・逃げるのに成功していたと言うことです。
殆どの人が助かっていると言うことは、彼らが津波に逆らって勝ったのではなく逃げる判断・ルートさえ適切であれば助かったとおおよそ推定出来るでしょう。
そうとすれば、広報活動や水門を閉じる仕事などをしていて逃げ後れる人を減らす計画や病気等で逃げられなかった人を今後どうするか程度の議論でいいのです。
海抜5〜10メートル前後の大規模人口集中地は全国至る所にあって、工場や商店街も高台しか設置できないとなれば日本列島では生活が成り立ちません。
自然に逆らう巨大堤防を作っても限界がある・そんなことに頼るよりも早く逃げた人は皆助かっている現実を何故報道しないのでしょうか?
早く逃げる・逃げられる設備造り・・ここに防災活動の原点・眼目をおくべきです・・。
イザと言うときに逃げられない病人・高齢者・・病院・老人施設等は高台に作っても日常元々自分で買い物や仕事などしていないから、高台に設置しても実害が少ないし抵抗が少ないでしょうが、日々仕事する漁業施設・仕事場は海辺直近にないと不便です。
これを無視して「高台で魚介類の水揚げ作業しましょう」と言っても無理があり,仮にこれを法で強制すれば生産現場に近いからこそ成り立っている各種漁業系産業が(競争力を失って)壊滅します。
その他近代産業は物流を含めて大量の水を必要としているので,(世界中で内陸国が発展出来ないのはこのせいです)海岸から隔離するマスコミ宣伝によれば各種産業はほぼ壊滅です。
被害の大きい陸前高田市の景色を見れば、近くに小高い丘や山がない地域では徒歩で逃げるのに無理があったことが分ります。
日本中の大都会は全て海岸沿いの平坦地ですから、高台移転論は現実的でないことが分ります。
大都会では、何十万人も一斉に逃げるのは無理があるので、身近な高層の避難場所を中心に準備すべきでしょうし少人数地域では先ず逃げる準備中心であるべきでしょう。
小集落裏の岡へ逃げるのに便利なように至る所に石段を作るとか、ある程度の距離の場合、クルマ等移動手段が発展する一方ですから、(自動運転化技術の進化によって高齢者・弱者も簡単に使える時代がもうすぐ来るでしょう)から、海岸線に平行する道路が多い現状から普段使わなくても海岸から、内陸に向かう道の増設、地震発生と同時に水平移動よりは、上下移動方向優先に信号を切り替えるなどのソフトの工夫・・によって人口の少ない地方都市の場合大方助かるのではないでしょうか?
津波に逆らう巨大堤防を作っても維持コストが膨大で、しかもその間邪魔になるだけで有効利用する方法もありませんが、高台に移動する道路を多めに作っておいても堤防と違って邪魔になりません・・地域の人にとって日常生活が便利になるだけです。
ところで古代から津波被害を知っている地元民の多くが、この教訓を守らずに何故高台移転しなかったかを「バカにしないで」その身になって考えて見ましょう。
最大でも1000年×365日に1回でしかも人口の10分の1しか犠牲にならないとすれば、自分がある日、被害を受ける確率は言わば365万分の1の確率ですし、人口の500分の1の被害ならば、約1800万分の1の確率でしかないのですから、毎日遠くから海岸の漁港まで通っていられるか?と言うことではないでしょうか?
高齢になれば住み慣れた自宅が良いし、80〜90歳になって逃げられなくとも、どうせいつか死ぬし・・「そのときはそのとき・・」と言う達観した考えの人も一杯いるしょう。
私自身に置き換えれば「もう十分に生きたし焦ることはない、日々便利な方が良い」と言う判断に傾きそうです。
今後は高齢者やリタイヤーした人の中で、集団生活するようになった人中心に高台移転・・老人ホーム病院などを作れば良いと言うことではないでしょうか?
まだ命の惜しい人でも、海岸にしか病院や老人ホームがないと自分の意志で高台を選べないことになります。
何万日に1回のリスクよりは毎日海の近くで潮の香を嗅ぎたい人は、本人の意思に任せるべきです。
保育所や小学校などは毎日の通学送迎があるので利便性を考えて居住地付近・・便利な海沿いに作っても、その代わり、避難マニュアルや避難用バスなど充実させれば済むことです。
学校や保育園など被害は、避難判断次第であったことが分っています。
こうしたいろんな選択肢があるのにマスコミが全くこれに触れないで、「大変、大変だ」と騒ぐばかりで結果的に地域の人が元どおりに住む意欲をなくす方向ばかり煽り続けるのは、地域社会の破壊破壊効果があります。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。