私は原発推進の可否や自衛隊基地がどこにあるべきかの賛否自体を書いているのではありません。
原発の安全性基準や基地設置の可否は国政レベルで決めるべきことであって1地方自治体の意見あるいは1地方の裁判所の意見で最終的あるいは事実上数年単位の差し止めを認めるのは、統一体としての国家制度としておかしいと言う法律家的思考で意見を書いているだけです。
原発安全性基準が合理的かどうかに付いても私は門外漢であって、固有の見識がある訳がないし、基地の必要性についても軍事評論家的な意見の優劣についても全く分りません。
左右どちらの立場であっても、日本と言う共同体の一員として共同体運営のあり方を考えると国家枢要の政策については民意によって国家が決めたら国民や下部組織はこれに従うべきです。
民主主義政治とは、決めるまでに国民の意見を充分に汲み取るべきですが、みんなの意見で決めた以上は決まったことについては、反対派も従うルールであり、いつまでも抵抗する権利を認めることではありません。
しかるに現在の制度や運用が、末端組織が(拒否ないしサボタージュで)最終決定権を事実上持っているようなことになっているかのように振る舞っているが、国家制度としてそれで良いのか?・・どう言う勢力がこういう変な運用を推進して来たのか?と言う法律家としての疑問を書いているだけです。
中間組織の長が上位機関の指示命令に従わずに好き勝手なことをするようになると、その配下組織の長もこの真似をするでしょうし、順次進んで行くと世の中がまとまらなくなって行きます。
組織トップの腐敗が著しいとその組織全体が腐って来るのと同じ原理です。
これこそがCHQ・占領軍が狙った一体感の強いニッポン民族意識の分断政策であり(同質民族否定論・アイヌ民族を強調し、如何にも日本には虐げられた異民族を強調する運動もその一種で今や沖縄県民も異民族の仲間に入れようとしているように見えます)・・サンフランシスコ平和条約で日本独立後は中ソが期待して止まない究極の効果でしょう。
弁護士数年目頃に千葉市まで来ていた高速道路延伸反対運動に勧誘されたときに、違和感を感じて・・よく分らないので参加しませんでした。
自由主義国でもソ連でも高速道路や飛行機利用が趨勢になりつつあるときに、何故日本が計画すると反対するのか、意味不明だったからです。
いま考えるといろんな反対運動の共通性は、日本社会の発展になりそうな新技術や工場設置等には全て公害だとか、電子レンジやパソコンでさえ電磁波が身体に悪いとか言って反対し、最近では防犯カメラに反対していましたし、勿論日本の核保有も公害も反対ですが、中ソの軍拡や核実験や酷い公害には頰っ被りのママでした。
大分前に引用したのは、大会で研究発表した学者の論文だったように思われますが、今「防犯カメラ九州弁連」で再検索するとすぐに出たネット記事を引用しておきます。
http://www.meinohamalaw.com/activity01/5.htmからの抜粋引用です。
監視カメラ問題
2004年10月29日、九州弁護士会連合会の主催で、「監視カメラとプライバシー」と題するシンポジウムが開かれました。
1 監視カメラの有用性に対する批判的検討
・・・国民の意識、世論調査だけによって監視カメラの有用性を結論づけるのは絶対に認めるべきではありません。
(2) 防犯効果に関する検討
・・・犯罪が、「監視カメラがないから起こる」のではなく、貧困や差別等の別の原因によって起こるものであり、監視カメラの設置はこのような犯罪原因の根本的な対策ではなく、単にその場所から犯罪を押しのけるという対症療法にすぎないことを示しています。」
上記主張を見ると,「国民の意識、世論調査だけによって・・結論付けるのは危険」自分たち「エリートに任せろ論」の延長です。
庶民は無知蒙昧・・「庶民の意見を無視しろ」と言う印象ですが、革新系文化人が何かと言うと「民意を無視するな」と運動をしているコトが多いのと矛盾しています。
上記議論の中では勝手に写真を撮るのは人権侵害とも言うのですが、「ファクト」の動画を11月3日紹介したとおり基地反対運動家は無理矢理公務員のマスクを剥がして写真を撮りまくっています・・こんな暴力的撮影が人権侵害ではないのでしょうか?
彼らの言う人権論を見ると、左翼系・反権力系なら言論封じも何をやっても良いが、民族の発展維持方向には何でも反対し反対派に体する言論封じ・民族系デモには、デモ前に取り囲んだりして妨害して結果的にデモや講演を妨害するのは陰で応援してる?全然問題にしていません。
こう言う動きを見ると、彼らの言う人権論は特定政治目的に都合の良いところだけ主張している傾向が多いのではないでしょうか?
上記弁護や九州弁連の弁護士は上記動画に出て無理矢理写真を撮っている人と何の関係もないのかも知れませんが、関係なくとも喩えば、同じことでも日米関連には猛烈な反対運動するのにソ連や中国の核実験・軍拡や公害には一切発言しないのは、偏頗な運動ではないかと言う批判を受けるのと同様の評価を受けるべきでしょう。
人権団体ならば、シバキ隊らによる嫌韓団体の講演会や討論会妨害に対しても、言論の自由擁護の立場から、何故声を上げないのでしょうか?
しかもスーパー店内や公園や街路等の防犯カメラは元々プライバシー性が低いうえに、犯罪事件等が起きなければそのまま一定時間で自動的に消えて行く性質のものであるのに猛反対しているのに対して、・・沖縄での反対運動家の行動動画を見ると防衛局公務員を大勢で押さえ込んで暴力的にマスクを引きはがしたうえで拡散目的で写真を撮っているのですが、こうした行為に対する非難声明を一切出さないところが不思議です。
第2の論理もおかしなものです。
暗くて寂しい夜道の犯罪を防げないから明るい大どおりを遠回りして帰る・街灯を増やしても街灯のないところの犯罪を防げないから街灯設置は無意味・・日暮れ前に帰る必要がない・・夜遅くなった子供を家族が迎えに行く必要がない・・迎えに来てくれない子供が可哀相だから・・各個人の自宅や企業が戸締まりをしたり夜間警備するのは意味がない・・戸締まりをしない家や警備を頼んでいない企業に泥棒を誘導するだけだと言うのと同じで、倒錯した議論をしているように見えることを以前紹介したことがあります。
犯罪の原因をなくすことが重要だと言う子供みたいな議論は、非武装平和論と同じ論理です。
お題目だけで犯罪がゼロになり戦争がなくなるならば、社会は苦労しません・・犯罪をゼロに出来ない(少なくする努力は可能ですが・・交通事故死は激減していますが、これも道徳教育面だけではなく、信号機設置や道路改良の寄与が大きいでしょう)ので、警察や防犯カメラや戸締まり国家として軍備も必要なのです。
経済政策の失敗も犯罪を誘発しますが、だから政治が悪いと言うだけで、犯人検挙は筋違いだ・戸締まり不要とは言えません。
何かと「人権」を楯に主張する勢力は、非武装平和論同様に観念だけで満足して思考停止している傾向の人が多い印象です。
「犯罪のない社会にすることが先決だ」と言うことで防犯カメラ不要論で満足するインテリは、・・彼ら自身の自宅や事務所には戸締まり装置がないのでしょうか?・・自分の小さな子供に物騒な場所に近づかないように言わないのか?・・自宅や自分の事務所には鍵をかけているのに他人には防犯より犯罪のない社会にする方が先だと演説している・・日米にはモンクばかり言うが、中国の軍拡や領海侵犯には何も言わない偏頗な論理と大小の違いがありますが,行動矛盾の点では共通でしょう。
頭の良い人の議論はこうなり易い適例です。