日本と信教の自由2(津地鎮祭訴訟)

日本では信教の自由がなくて庶民が苦しんだ歴史がありません。
古代に天皇家自身が佛教を取り入れても神社を尊崇するなど自由自在でした。
「神も仏もないものか!」と言う嘆き節がありますが,日本人はどちらにすがっても良い関係でした。
まして佛教内宗派などは,どうでもいい状態でした。
一向一揆・あるいは信長が石山本願寺と戦ったのは,本願寺が足利義昭をバックに武田や毛利と信長包囲網を形成していたから戦っていたに過ぎず,本願寺勢が講和(天正8年閏3月7日(1580年4月20日誓紙提出)によって石山本願寺を退去した後は争っていません。
庶民が宗教の縛りに苦しめられた経験がありません。
閉鎖的な教会の建物に比べて日本のお寺は八方吹き抜けのお堂が中心で開放的です。
神社も同様です。
庶民にとってお寺や神社はいろいろなお祭りなど楽しむための場となり、京都の東寺の例で分るように市をたてる場ともなり、あるいは子供の遊び場になりひいては寺子屋と言う教育の場になり・集落の寄り合い場所にもなっていました。
私の子供の頃の経験では,朝のラジオ体操の場になり,夏休みには多様な年齢の子供がみんな集まって宿題をやったりもしました。
真夏の夜の楽しみ・・祇園祭などは神社でやっていました。
地域みんなのために奉仕する精神の発露が,戦後アチコチのお寺で始めた保育所・幼稚園でしょう。
女性が働きに出るようになると幼児の面倒を見る必要が出て来て預かり始めたのが始まりです。
庶民の多様な救済や楽しみを奪う排他的宗教が禁止されていた・信教の自由を積極的に守って来たのが歴代権力者の仕事でした。
新憲法によって欧米の経験による信教の自由が明記されるとオーム真理教のように無茶をしていても簡単に取り締まれなくなって聖域化しているマイナス効果の方こそ問題です。
宗教法人は簡単に出来るし何かと言うと憲法違反と言われるので,司直の手が入り難くなったので,ヤクザその他(節税にもなります)がこれを隠れ蓑にして宗教法人化するのがこの数十年來の大流行です。
オーム真理教事件は氷山の一角に過ぎません。
憲法
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
明治憲法には,以下の通り信教の自由に関する独立の条文がありません。
第2章 臣民権利義務
第19条 公務への志願の自由
第20条 兵役の義務
第22条 居住・移転の自由
第29条 言論・出版・集会・結社の自由
第31条 非常大権
日本では、排他的宗教が大嫌い・言論自由が原則社会でしたから、西洋で信教の自由が必要とする社会とはマ逆の社会でした。
食後の人にはお茶が良いのですが,空きっ腹の人にはお茶よりも栄養のあるものの方が良いのとの違いです。
日本では信教の自由=言論の自由がある代わりに言論のルール・・嘘つきや他人の悪口を言うのは御法度の道徳律が古代から確立している社会です。
言論の自由の歴史がない結果,表現の自由とセットになっている言論のルール・・嘘つき・告げ口等が許されないルールが分らない・・でっち上げで何でも言いたい放題の中韓政府とでは議論が噛み合ない原因です。 
民主主義社会では決めたことは(相手が誰であろうと)守る前提になりますが、専制支配下では恣意的命令が基本ですから約束を守るよりも,強そうな人の様子をうかがって,その意向に従う方が重要です。
昨年ドイツのメルケル首相来日時日韓慰安婦紛争や南京虐殺騒動などに関して「日本が周辺国と戦後和解出来ていない・・」(のは日本の責任だ)「ドイツに見習え」と言うキャンペインをしていたマスコミ質問に対して「良い周辺国に恵まれているので・・・」とメルケル首相がうまく交わしたように・(良いクニでない)こういう国が周辺にいることが日本の苦労です。
日本は先進国基準で言えば,周辺国と十分な和解が出来ています・・中国を代表する国民政府と和解し,本来必要のないその後を継いだ中共政権とも念のため改めてに和解しています・・韓国とも父親の朴大統領時代に日韓交渉で充分過ぎる保障をして和解しています。
和解に基づく日本の巨額経済援助の結果高成長出来たことに味を占めて,彼らはまた金になると思って蒸し返して来たと多くの日本人が思っているでしょう。
アメリカの要請もあって,仕方なし2回目の日韓合意をしましたが,日本からの金の振込が終わると再び韓国では昨年の日韓合意は大統領罷免と連動して,また無効だと言う動きが始まっています。
こういう国とは,(民意水準が簡単に上がらないでしょうから)朴クネ大統領の言うとおり「千年付き合わない」方が良いでしょう。
欧米にとって死活的重要性のある信教の自由が(日本では元々普通である)我が国で改めて明記されたことによって,何か意味を持たせるために歴史本質を離れてケチ付け訴訟のタネになっている例として・・津地鎮祭訴訟に関するウイキペデイアからの引用でみておきましょう。
「津市体育館建設起工式が1965年1月14日に同市船頭町の建設現場において行われた際に、市の職員が式典の進行係となり、大市神社の宮司ら4名の神職主宰のもとに神式に則って地鎮祭を行った[1]。市長は大市神社に対して公金から挙式費用金7,663円(神職に対する報償費金4,000円、供物料金3,663円)の支出を行った。
これに対し、津市議会議員が地方自治法第242条の2(住民訴訟)に基づき、損害補填を求めて出訴した。」
「最高裁判所は(1977年7月13日大法廷判決)
「わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。 (中略) (憲法二〇条三項の禁止する宗教的行為とは)およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。
本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。」
判決ではフランス革命の歴史まで説き起こす必要がありませんが,妥当な結果です。
信教の自由は魔女狩りや自由な言論弾圧,悲惨な宗教戦争を阻止するべく生まれたものであって,百円〜数千円の寄付を禁止するためにワザワザ憲法で規定したものではありません。
憲法学者は「蟻の一穴」と言うのでしょうが、物事は程度問題ですからこれを越えると揚げ足取りの評価になります。
野党の国会対応を見ていると揚げ足取りに終始していて自分の主張が見えない傾向があるのはこのような戦術に長年堕している結果です
人の表情やモノ腰態度も全て人格表現の一部と言えば言えますので,これを理由に四六時中部下や子供を叱ってバカリではイジメの一種で部下はイヤになるし子供はぐれてしまいます。

Civilian1とCitizen3(信教の自由1)

昨日紹介した記事にあるように教会財産を国有化して経済基盤を奪い,「聖職者に対する統制を強めた」とありますが,聖職者が第1部会で市民が第三部会だったのですから上下逆転して統制される側に回ったことになります。
地位の逆転はナポレオンの戴冠式によっても、ヴィジュアルに見ることが出来ます。
従来国王就任の正式儀式・・法皇(代理の聖職者)から戴冠されて叙任される千年単位続いた形式から見れば天地がひっくり返るような大逆転です。
ウイキペデイアによれば以下のとおりです。
「戴冠式(たいかんしき、coronation)は、君主制の国家で、国王・皇帝が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位・帝位への就任を宣明する儀式。」
朝廷から叙位されていた徳川家が,逆に禁中並公家諸度(慶長20年7月17日[2](1615年9月9日)を定めたのに似ています。
ただ日本ではその後も,将軍宣下があり,上下の格式は変わりませんでした。
西欧では実力差がそのママ出て来る点では、習近平氏が,国力が上がるとそのままイギリス訪問時に威張ったのと似ています。
ナポレオンの有名な戴冠式では,ナポレオンが王冠を自分で自分のアタマに乗せるデッサンが残されているようです。
屈辱的な戴冠式に招かれた法皇が政治妥協の結果(苦渋の決断で)出席したものの何の役割もなく,椅子に座っているだけの有名なナポレオンの戴冠式の絵が残っているのはそのせいです。
ナポレオンが自分で自分のアタマに王冠を乗せたのですが,そのままの絵では法皇に対して露骨過ぎるのでナポレンがジョセフィーヌに戴冠する形式の絵に修正したらしいです・・いずれにせよ法皇のメンツ丸潰れです。
ナポレオンの戴冠式に関する以下の記事からの引用です。
https://ja.wikipedia.
ナポレオン1世(1769–1821)は、ローマ皇帝の即位式に似たローブを身に着けて立っている。他の人物は、受け身的な見物人に過ぎない。絵をよく見ると、絵が修正されていることが分かる。最初の構図は、ナポレオンが頭上に冠を掲げて、自身に戴冠しようとするものであった。
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763–1814)は、フランス民法に則りひざまずいて恭順を示している。彼女は、教皇の手からではなくナポレオンの手から戴冠されるところである。」
関心のある方は上記記事を見て下さい・・ナポレオンが自分の手で図上に持ち上げて戴冠するデッサン(これもルーブル美術館所蔵らしいです)が紹介されています。
信長の肖像画の改ざんがここ何年か騒がれていますが,政治意図による修正はよくあることがわかります。
油絵の場合デッサンが残っていることもあって、早くから知られていたことです。
一方で1789年8月26日に憲法制定国民議会によって採択された「人間と市民の権利の宣言」(Déclaration des Droits de l’Homme et du Citoyen)において,「言論と出版の自由、「[宗教上の意見の]表明は法によって設立された公的秩序を乱さないことを規定された」コトによって(異端審問による刑事処罰が禁止されて)間接的に信教の自由が宣言されています。
以上見て来たとおり,people対置概念としてのCitizenが上位権力に対する抵抗勢力として自己表現するときにはシビリアンと称し,市民革命で漸く制度的に,キリスト教支配・・異端審問・魔女狩りを怖がらなくて良い社会になりました。
我々学校で習った知識では,ルネッサンスで人間解放が出来たと誤解し勝ちですが,1300年(ダンテの神曲)から始まった筈のルネッサンスでも1650年代になってもガリレオが「それでも地球は動いている」と言わざるを得なかった例で分るようにまだ言論の自由に及んでいなかったのです。
せいぜい絵画や彫刻表現の自由化が進んでいたに過ぎないことが分ります。
ルネッサンスとは,まだまだ解放して欲しいと言う気分が出始めただけで、うっかり自由に発言すると破門されて処刑される恐怖下で市民が生きて来たコトが分ります。
フランス革命で「信教の自由」と「思想心情の自由」がセットで宣言されたことは、日本人には気が付かない重要な制度変更・・社会のあり方の根本変更を意味しています。
革命による人権宣言以降,「何を言っても良い」ことの制度的裏付け・・それまでは破門されると地獄に堕ちるだけではなく現世で・・火あぶりにされても仕方がない制度でしたが,信教の自由=破門されても処刑されないしキリスト教徒でなくとも良くなったのです。
ローマ消滅〜西洋始まって以来の一神教社会を廃止して異教徒の生存を認めて,多神教社会に遅ればせながら参加することになったことを意味しています。
何回も書いていますが,フランス革命は日本に比較して進んだ誇れる社会ではなく,遅れていた社会を日本のようにさしあたり制度だけも自由化したと言う程度のことです。
信教の自由化の結果、何か変わったことを言って破門されても・社会から抹殺されなくなった制度変更ですから,フランス革命での信教の自由宣言は制度的に大きな意味を持っています。
(制度が逆転しても民心が変わって行くのは千年単位の時間がかかります・・ナポレンの戴冠式を紹介しましたが,法皇にとって王冠を授ける役割のない出席は屈辱だったかも知れませんが、逆に言えば政治的にはなおキリスト教式の戴冠式を必要としていた現実・・法皇の影響力を無視出来なかったのが実態・・今でも欧米では法皇の政治発言には大きな影響力があります。)
思想表現の自由と信教の自由は表裏一体の関係があり,フランス革命での信教の自由宣言は一神教世界の否定ですから文字どおりキリスト教支配を覆す革命的大転換を意味していたのです。
日本では元々八百万の神・多神教社会ですからこの辺の意味に気が付き難い・・政治に市民が参加出来るようになった身分差別がなくなったと言う外形歴史を習う傾向があります。
戦後アメリカ占領下で制定された日本国憲法では,(欧米系にとっては信教の自由は人権保障の基本ですから入れる必要を感じたのでしょうが・・)信教の自由が憲法に明記されたのでこれを有り難がっている人が文化人や法律家に多いのが現状です。
ところが、我が国では自分と宗派が違うからと言って,実際に弾圧や喧嘩など昔からありません・・葬式に行って初めて宗派を知る程度です。
(他宗派排斥論の強い日蓮系が嫌がられて来た歴史・・これがキリスト教が普及に失敗した原因でもあります・・信教の自由を侵害する危険のある排他的宗教を禁止して来たのですから真逆社会です。)
憲法学者や左翼文化人が占領軍の遺産(今で言うレガシイ?)である憲法の有り難みを宣伝したいのに,新憲法による変化を強調する材料に困ってしまい?「神社に自治体が数百円〜数千円の◯◯料を払ったのが違憲でないか」などとあちこちで争うようになりました。
西洋で信教の自由が宣言されたのと歴史経緯・・本質的意味が違うのですから、国民の多くは「専門的なことは分らないがケチな言いがかりが幅を利かす?変な社会になったな」と思う訳です。
ちょうど現在・前衛?絵画展覧会などに行くと素人には分らなくていいと言うような雰囲気と同じ印象です。
絵画には「日本画」と言うジャンルがあるので助かりますが,憲法学者も欧米価値観の受け売りではなく日本人の気持ちにあった・・欧米と日本双方の歴史を理解した国民のために役立つ憲法論を修得してほしいものです。

フランス革命1(ルネッサンスの完成)→キリスト教支配からの解放

キリスト教自体西欧では,市民にとっては異民族による征服軍と同列の支配道具と見られていた(こんなことを西欧人は怖くて言えないでしょうから,誰も書けない本音を何のしがらみもない私が思いつきで書いているだけです)ことは,私の根拠の内の上記想像でだけではなく,市民のもう1つの語源であるラテン語civitas・シビリアンに関する以下の定義からも窺われます。
14日に引用したhttp://daruyanagi.jp/entry/2012/12/15/142304「市民概念の歴史的解剖」からの引用した箇所の続きです。
「とくに civil の用法に注目して分類すると、少し面白いことが分かる。
(外政に対して)内政の; 国内の,国家の
(聖職者に対して)俗(人)の.
(軍人・国家に対して)一般(市民)の、民間の
古代(ほかの都市≒国家)中世(聖職界)近代(官僚機構・常備軍)といった、各時代における「個人的自由を抑圧するもの(≒権力)」との対比として使われているのが分かる。」
上記を見ると原住民全体では市民とそれ以外(People)との大きな区別が古代から元々あって,他方でより多く政治参加したくなって来た市民にとっては,支配の道具である・・軍や聖職者と対立関係が生じますので・・権力抗争場面ではシビリアンと称するようになっていた印象を受けます。
(学説を見た訳ではなく,私の個人感想に過ぎませんのでそのつもりで・・。)
戦後軍国主義否定の関係でシビリアンコントロールの必要性を頻りに教えられましたが、上記解説(勿論正しいかどうかまでは知りませんが,見つかったので便宜上参考に引用しているだけです)によると,シチズンはピープルとの対比で使い、シビリアンは権力対抗・・異民族支配を受けて来た抵抗関係で使われるようになって来たのではないかと分類すると納得し易い観念であることが分ります。
最近「ガバメント論」から「ガバナンス論」に政治経済の議論の重心が変わって来たのと同様で時代によって概念の利用が変わって来る事例です。
ローマ滅亡後の西洋中世が暗黒の中世と言われる理由ですが,基本的に現地現住民を圧倒的あ格差のあるローマ文化が支配していたことによるのではないかと思われます。
滅亡したローマ文化を伝道する中核はキリスト教文化だったでしょうから,中世ヨーロッパを支配した思想はキリスト教であり,それを支配道具としてローマ教皇が権力をふるい,地元権力もその権威を支配道具に利用していたことになります。
「キリスト教に裏付けられたガバメント・軍」はゲルマンやケルト、フランク族等諸族支配そのものの象徴であったと見られます。
支配されて来た原住民の支配層が力をつけてきた結果、西洋を覆っていたキリスト思想・・暗黒の幕を破った・・ルネッサンスが始まった・・・その頃から対抗関係でシチズンの外にシビリアンが使われるようになったと見れば素直です。
続けて引用します。
「古代では兵士=市民だった。ローマ市民権には「正規軍として参戦する権利」が付与されていた。なので、civil に「非軍事的な・民間の」という用法はなかっただろう。また、キリスト教が広まる以前の civil に「俗の」という用法はなかっただろう。つまり、これらの用法は後代になって付け加えられたものだと考えられる。歴史的にザックリまとめるとこのようになるだろう。
古代:(外敵)⇔ソトの人間とは違う人たち、自国の構成員
中世:(キリスト教)⇔俗世の人たち、少し飛躍して解釈すれば自治都市や皇帝派(ギベリン)
近代:(国家)⇔暴力機構としての国家に属さない人たち」
自分たちの言葉・・トスカナ語で書かれたダンテの「神曲」がラテン語以外の言語を使用するようになったのがルネッサンスの始まりですが,力をつけた新興市民にとって,その頃から市民に対する支配の道具である軍やキリスト教・聖職者を対立すべきものと言う意識が生まれ「市民」+シビリアン意識の重要性が出て来たと解釈出来ます。
言わばフランス革命以降漸く・・異民族の思想である?キリスト・ローマ教皇支配を払いのけた・シビリアンが折角政権を奪取したのであるから,軍の必要を認めるとしても折角獲得した異民族?支配からの独立・シビリアンの権利を守るためにシビリアンが軍をコントロールすべきと言う流れになります。
正にフランス革命が別名「市民革命」と言われる所以で、千年間異民族の宗教であるキリスト教に支配されていた現住民代表の「市民」が漸く復権したことになります。
シビリアンが対抗すべき対象として「聖職者」が書かれているのを冒頭に紹介しましたが,フランス革命では漸く聖職者・キリスト教の圧迫をはねとばしたことが重要です。
市民革命では貴族の領地は没収されなかったので、未だに特権層を維持していることについてココ・シャネルの映画を観たときのコラムに書きましたが、フランス革命では真っ先に教会財産没収が行われていることに注目する必要があるでしょう。
学校の歴史で一般に西欧の三部会制度をフランス革命で打破された古い制度・アンシャンレジームと教えられ,マイナス評価しか受けませんが、キリスト教支配からの脱却の歴史としてみれば,三部会制度は正に異民族の宗教支配に対する世俗権力者の抵抗の第一歩として始まった・・重要な制度手がかりが始まったであったことが分ります。
http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-027.htmlからの引用です。
 「1302年、フランス王国・カペー朝のフィリップ4世はローマ教皇ボニファティウス8世と対立した際、聖職者・貴族・都市の商人代表を召集し、新税の課税を承認させたのが三部会の始まりである。聖職者である第一身分、貴族である第二身分が特権階級であり、第三身分は都市の商人、農民など特権を持たない人びとで構成された。」
以上のとおりローマ教皇に対する抵抗の結果勝ち取った制度ですから,当時としては言わばかなり革新的制度だったのです。
フランス革命の流れについては以下のとおりです。http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.html
フランス革命の初期に、三部会から分離し第三身分を中心に発足した、憲法制定のための議会。Assemblée Nationale 1789年6月17日に成立し、封建的特権の廃止や人権宣言など重要な決定を行い、立憲君主政を柱とした1791年憲法を制定した上で解散した。
議会の成果
 7月14日のバスティーユ牢獄襲撃、続いて起こった農民暴動(大恐怖)を受けて、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を決定し、8月26日に人権宣言を採択した。
 当初はヴェルサイユ宮殿に議会が置かれたが、10月のパリ市民によるヴェルサイユ行進の結果、パリに移った。11月に教会財産の国有化を決議して、それをもとにアッシニアを発行した。1790年には聖職者基本法を制定して教会の統制を強めた。1791年3月のギルド廃止に続いて、6月にはル=シャプリエ法を制定して労働組合を禁止し、ブルジョワ階級の立場を明確にした。」
上記のとおり貴族の領地没収はしませんでしたが、教会財産国有化を真っ先に決議しています。
革命で支配権奪取したのは城壁に守られた市内に住む「市民の政治参加の権利」であって城外に住む庶民は対象になっていません。
ちなみに西欧でイギリスの近代化が最も早かったのは、実はヘンリイ8世のイギリス国教会設立→ローマ教皇支配からの独立・民族の思考自由化が始まったからではないでしょうか・・。
今になるとどう言う根拠か知りませんが(私のような視点によるとは限りません)名君だったと言う評価があるようです。

PeopleとCitizen2

支配層のピープルに対する差別意識は古代ギリシャ・ローマ〜現欧米がオリエントの異民族から最先端文化受け入れによって成り立っていたこと・・先端文化を吸収したものだけがエリート・支配層と言う意識が基礎にあったからだと思われます。
その上,イギリスのノルマンコンクエラーが有名ですが,イギリスでは支配層は原住民・ケルト族の上に君臨する異民族でした。
イギリスでは支配層と庶民とでは体格からして違うし使っている英語自体が違うと一般に言われていますが,これは元々異民族支配によるものだからです。
この辺はフランスその他のクニでも支配層と庶民はまるで違っている原因です。
フランスに行っても格好いいパリジャンばかりではなく庶民の多くは貧相な体格です。
重層的に支配者が入って来て上にかぶさって来た歴史のあるインドでも、立派な風貌の支配層と庶民とはまるで「人種」が違います。
西欧諸国では長年ラテン語しか公式言語・文書がなかったことからも分るように,あるいは教会に入れるのは地元の有力者だけであったこと・・宗教戦争と言っても領主がどちらかに決めれば,その領内全員がその宗派に変わる程度の信仰でした。
もともと領民は支配対象であって人間の仲間・・意思主体と認めていない社会であったこと・・領民の自己決定権尊重など思いもよらなかったからでしょう。
これが戦国末期に日本に来た宣教師らが日本における庶民の重要性に気付かず、領主中心に布教して失敗した原因です。
キリスト教はローマで国教化に成功した以降、庶民から遊離して儀式を荘厳化するなど庶民の苦しみ救済と関係なく権力に結びついて広げていたコトが,この一事をもっても分ります。
庶民が宗教を支えていた日本の浄土宗系や念仏系、一向宗とは違い,キリスト教徒の言う宗教は、権力をカサに来たものであって,庶民の心・・衆生救済に本当に関係していたか不明です。
救済能力が形骸化の反動で異教徒かどうかに異様に関心がある・・あるいは他の宗教に対する敵意が重要になっているのではないしょうか?
中韓の内政がうまく行かないと矛先を日本に向けるのが常態化しているのと同じです。
西欧や中国の領土論では、行った先に旗を立てて来たら自分の領土だという不思議な主張も領主さえ取り込めば宗教地図上の勝負アリの思想とどこかに共通性があるのかも知れません。
西洋では文化が上からの浸透を基準にしているので、庶民にキリスト教がどこまで浸透していたか不明な状況であったことからも分るように,西欧の庶民はずっとローマ文化の被支配者・アウトサイダーのままだったと思われす。
とりわけ,ローマ滅亡後の中世キリスト教精神は修道院中心になって行ったことから分るように,言わば牢獄的思考停止を強制する(修道院で生まれた食品もありますが原則を書いています)精神世界ですから,新しい発想が生まれ難い社会を強制していました。
ガリレオガリレイの「それでも地球は動いている」と言う言葉が有名ですが,ルネッサンス最盛期でさえ自由な考えや発言が許されない状態だったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 – グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
ルネッサンスの曙とされるダンテの「神曲」は1300年丁度ころから順次発表されたものでしたが,それから約250年後でも,この有様です。
如何にキリスト教神学?が思想の自由を奪い中世西洋社会で圧政の裏付けとなって来たかが分るでしょう。
新しいことを言えば異端審問や魔女狩りの恐怖が待っている・・言わばキリスト教が沈黙を強いられる社会を強制していたのです。
旧ソレンがこの焼き直しで「共産主義」と言う新たなドグマ(「教義」と訳されていますが正に「教義」です)を定立し、政敵が出ると反党的言動(異端審問の焼き直し)として容赦ない粛清対象にされていました。
ソ連政府は,西洋諸国では,フランス革命で信教の自由・・すなわちキリスト教神学に縛られない自由を宣言していて、これを否定出来なかったので,共産主義を宗教ではない・合理主義と称して,非合理な印象の旧宗教を一律禁止しましたが,本質は共産主義と言う新興宗教以外認めない一神教の論理を近代風に言い換えただけのことでした。
ロシア社会は西欧よりも数世紀単位以上遅れた・・一種の古代社会でした(今も安倍総理がロシアと交渉するのに先進国基準で話し合ってもむりです)から,その社会に合わせた一種の反動・・思想信条の不自由を維持する必要に迫られていたものの・・社会主義革命は資本主義の矛盾を解決する新時代をになうもの・・先進性を主張するためのレトリックとしての表現だったことになります。
ルネッサンスを「人間復興」翻訳されているように,1000年に及ぶ中世の暗黒時代・・何も言えない・・黙って牛馬のように農作業等の従事するしかなかった人民が人間が人間らしい生き方を表現したいと主張し始めたのがルネッサンスだったのです。
この圧迫・隷従の時代には,庶民から生まれる文化など想像すら出来なかったし,大衆社会と言われる現在でも欧米では現場力より特別なエリートが集う研究所などで研究すれば足りるという意識が今でも強固に残っている原因です。
芸術(音楽や絵画)も原則として修道院〜大聖堂建築からしか生まれない・・庶民の支持を問題にしない・・前衛と称して庶民のずっと先を行くものと言うエリート思想が定着している源流です。
今でも欧米系展覧会に言っても何が何だか分らない前提で,客の評価は問題にしない「お前はレベルが低くて分らないのだ」と言うのが欧米系芸術展示方法・・専門評論家の批評だけが頼りと言う変なシステムです。
日本の都々逸、端唄小唄,歌舞伎や浮世絵あるいは,古くは源氏物語〜今様や(難しそうな能狂言でさえ神社等で各地民衆に開放されて演じられて来ました)〜各種絵双紙もその時代,時代に普通の読者・観客に受入れられて来たものであって,「時代の先を行くものだから素人が見ても分らない」と言う受け止め方はありません。
どんなにニッポン民族が貶められている時代でも洋画は専門家がそろっている?美術館等が買い上げるものであって,市場では日本画の方が実際に高額で売れていた・・洋画に何千万も自己資金を出す客がいるでしょうか?
宗教に戻しますと,日本では八百万の神が仲良くする社会ですから、他宗教と争い相手を排撃するものと言う前提で宗教観を聞かれると、多くの人は(占領下でうっかり言うと危ないと言う自己保身もあって)無宗教と答える習慣が根付いていますが、神道やお寺は庶民の心底からの支持で成り立っているので神社仏閣に行けば自然に手を合わせる状況は今も変わりません。
西欧庶民にとっては地方に残っている教会に対して日本のように何かありがたく感じるものがない印象ですが、これは上記のとおり千年単位で文化征服・圧政の象徴・出先機関・道具としての歴史があるからではないでしょうか?
日本では各地でお城の復興に熱心ですが,西洋では遺跡扱いになっているのは中世〜近世にかけての領主と人民の関係を表しているのと同じです。

社内人材育成と雇用流動化

組織内で能力開発して行く社会と組織に入る前に資格を取得しておく社会との違いは、国民が役に立つように民度向上に努力して行く社会と,国や社会にとって利用出来る技術・資格をピープルが持っていなければ企業から追い出して自分で職業訓練を自費で受けて身につけない限り企業は相手にしない・・国単位で言えば,人民を入れ替えて行く社会・・人を利用するべきコマとしか見ていない社会に対応しています。
関ヶ原後に領地が大幅に減っても家臣を抱え続けた毛利家や上杉家同様に,社内失業を抱える社会では、新規事業に転換しても従来職種の人材を何とか役立てようと社内訓練に必死になります。
人民を商品同様に扱かって来た社会では人民の既存能力を分り易くする・画一商品・・トヨタ車と言うブランドで一定の評価が出来る・・これを商品としての人間に応用したのが資格制です。
日本では底辺労働に一般化しているクルマ修理の一級整備士2級整備士、溶接工、玉掛け,各種◯◯工,運転手などであり,これらの古典的?最高クラスが医師、弁護士と言うところでしょうか?
これら資格制の特徴は,各分野でピラミッド型になっていて近代以前の身分同様の固定化が事実上図られていることが特徴です。
医療関連で言えば白い巨塔で知られるように教授~医師を頂点に各種検査技師や薬剤師、理学療法士、看護師(これも細かい階級があります)歯科の場合,衛生士などピラミッド型で,資格さえ取れば看護師から医師になれるとは言え,資格変更実例が皆無に近いでしょう。
現場系の資格は単純画一的職務が多いので転職しても直ぐ使い物になる・・転職が簡単ですが,その代わり雇用主にとっても簡単に代替可能=社内訓練期間が短くて済むので長期雇用のメリットが少なく非正規化になりやすい・・・バス運転士の過労が問題になっているように、元々医師弁護士などの高給労務を除いては人件費が安いのが特徴・・裁量性の高い中高所得向けの職業ではありません。
弁護士でさえこの約20年前からの大量合格制度開始の結果、もしかしたら,私が知らないだけでパート的雇用の弁護士になっている人が生まれている可能性があります。
医師の世界では早くからアチコチの病院を時間で掛け持ちのアルバイト・非正規医師がいくらでもいます。
昨年事務所で経験した例では,一級建築士でも非正規・・特定現場終了まで数ヶ月間の期間限定雇用に応募して働いていました。
資格のない総合職・中間管理職の場合,企業文化の違いや裁量の範囲の広さに比例して企業別個性が強いので、同業種間の転職さえ難しいのが普通です。
ピープルの既存能力・有資格利用対象とする欧米型社会の真似をした雇用流動化論は、新卒採用→社内訓練で一人前にして行く日本社会では,企業個性に応じたスキルになっているので,中間層のままでの転職は非常に困難・・結果的に中間層の底辺層への転落誘導政策になり兼ねません。
1〜2週間ほど前に書きましたが,新たな機械装置の導入があっても社内講習の場合,従来機種との変更箇所だけ学べば良いので修得するのは容易ですし実務をやりながら実践的に身に付き易いものです。
いま社会的に必要とされているのは,最先端技術について行けないで振り落とされた人に対する再教育の必要性ですが,一番慣れた職場でちょっとした部分変更について行けない人が職場に関係ない職業訓練校「学校」で習った程度で身につけられる筈がありません。
ダメなものはダメだと言うのではなく,社外に簡単に弾き出さずに先ずは企業内で部分変更の講習会・練習会を開いて・・実際にやっているでしょうが・・新システムや方式について行けるような暖かみのあるやり方が重要です。
我々弁護士会で言えば,しょっ中法令の改廃や運用が変わりますので,この種の講習会がしょっ中ありますが,変化する「講習会について行けない」からと,他の分野・・税理士その他の職業に挑戦すれば良いと言うのは無茶です。
社内講習・変化について行けないで社外にはじき出された人は,同業他社への就職を狙っても少しずつ使っている機械も違って,なお慣れるのが大変ですから,余程ランクを落とすしかないでしょうから、(クルマ組立工でもトヨタ系から日産系に行けば勝手が違います)転職社会・人材流動化を目指すのはアメリカ型・・企業努力をあまりしないで,弾き飛ばし易い社会を作ろうと言うに等しいことになります。
欧米では身分制度がなくなっても、その代わりに企業別ではなく職能別組合が発達するなど,今でも職能・階層別・資格社会ですから転職が簡単な代わりに、階層固定・レベルアップの困難な社会構造です。
資格・与えられた職分・分業にこだわる傾向から職場から資格外に広がる新たな工夫が生まれ難い社会構造になっています。
November 16, 2016「民主主義の基礎4・信頼関係3(governmentとは?1)」以来,ガバメントとピープルとの関係・・支配、被支配の対抗関係を書いて来ましたが,両者が対抗的関係で相互に隔絶して来た・・ひいてはピープルの方は自己防衛のために・・「自分の職分はここまで、それ以上の仕事をする義務はない」という権利強調に走るようになります。
同僚が残業していても,自分の仕事が終わっていれば気にしないでさっさと変えると言う「ドライな」関係がマスコミでもてはやされますが,別に立派なことではなく黙って働けばいくらでも働かされて来た被害の歴史に対する自己防衛意識が強いからでしょう。
日本人が仲間を置いて帰れないのは、「同胞意識・みんなで頑張ろう」と言う意識がある・・日本の場合,集団・組織は元々「家の子郎党」の(血族)集団で成り立っているのでトップと末端とは運命共同体であって,支配と被支配の対抗意識ではないからです。
欧米では,governmentを構成する支配階層とピープルの間には対抗・・緊張関係であって、同胞意識・一体感がありません。
中国や朝鮮で言えば、士大夫・ヤンパン層と庶民との文化・意識の隔絶が普通であったのと同じです。
ピープルのレベルを引き上げて自分たちに近づける工夫をすれば,自分らの支配的地位を危うくするので避けたい意識があります。
これがアジア、アフリカに対する接し方・・日本の場合には現地人が自分でやれるように懇切丁寧に教え込むので喜ばれますが、欧米や中国は「お前らに出来る訳がない」と差を強調する目的で現地インフラ整備してやる?方式との違いです。
日本企業がプラザ合意その他で何やかやとイチャモンをつけられては,欧米市場から閉め出され始めた結果、生産基地として東南アジア展開(迂回輸出)するようになると、パンドラの箱があいたように世界中の新興国の産業勃興が始まりました。
日本が行くまで欧米は何百年も支配していながら現地人には格差の大きさを強調して絶望感を与える努力ばかりで、(この辺はシンガポール元首相が日経新聞連載の「私の履歴書に書いてるとおりです)何らの技術移転もしていなかった・・日本の台湾や朝鮮半島統治との根本的違いです。
欧米では古代から選良とその他(ピープル)とを差別する長年の潜在意識があって)ピープル・中間層のレベルアップさせる努力をするよりはレベルの低い労働者のままでより効率よく働ける方式を考案した・・これがベルトコンベアー方式で始まるアメリカの改革です。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。